第十四講 人類の罪(一)
− 第三章一節 〜 二〇節の研究 −

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 第一章十八節より本論に入りしパウロは、まず異邦人の罪を擧げ、次ぎにユダヤ人の罪を責めた。その論述の順序の正當なるは勿論、その筆法すこぶる巧妙にして、ユダヤ人を責めし場合のごときは、まず間接射撃をもつて威嚇し、次ぎに決河のごとき勢いをもつて肉迫する。まことに巧みさとするどさとを兼ね合せた攻撃であつて、これに對してはいかに執拗なるユダヤ人といえども一言の遁辭(とんじ)なしと思われる。ゆえにパウロはこれよりただちに全人類の有罪を斷定し得るのである。あたかも今日、まず不信者の罪を定め、次ぎに信者の罪を定めし上は、ただちに全人類の罪を定め得るがごとくである。しかしながら、パウロの周密性はここにもまたあらわれた。彼はユダヤ人の中よりなお二、三の抗議あるべきを豫想して、みずから彼らに代つて二、三の反問を出し、そしてこれに對してそれぞれ簡潔なる答えを與えてゐる。この部分が、第三章の一節より八節までである。ユダヤ人問題については、パウロは第九章、第一〇章、第十一章において、自己の見るところを燕ラに發表してゐる。ゆえに今はすこぶる簡單にこの問題に觸れるのみである。そのさま、あたかも大道を歩めるときに、道に横たわる二、三の石を一蹴し去るがごとくである。

 第二章の處論に對してユダヤ人はまず質問を發して言うであろう、「然らばユダヤ人のまさるところは何ぞや、また割禮の益するところは何ぞや」(一節)と。そしてパウロはこれに對して、ユダヤ人に何らの長處なしと言わなかつた。彼らには種々の長處がある。しかもこの長處あり、~より多く惠まれおるにもかかわらず、惡にその身をまかすところに彼らの罪の特色が存するのである。さればパウロはこの問に對して答えて言うた、「そはすべてのことにおいて益おおし、まず第一は、~の諭(さとし)をもて彼らに託(ゆだ)ねたまえることなり」(二節)と。「諭(さとし)」の原語 λογιον(ロギオン)は、英語の oracle(託宣)に當る、すなわち~より人への黙示の内容を言うのである。使徒行傳第七章三八節にては、この語をもつてモーセ律を意味し(「道」なる譯字を用いてゐる)、ヘブル書第五章十二節においては、この語をもつてiケを意味してゐる(「ヘえ」と譯してゐる)。語の性質上、場合によつて内容を異にし得る語である。ロマ書第三章二節の場合においては、舊約のヘえ全部を指すとも見られ、また三節に照して判斷するときは、メシヤ豫言のみを指すとも見られる。この狭義の方の見方を採る學者もすくなくない。いずれにせよ、これをゆだねられたること、これユダヤ人優秀の第一點である。彼らの長處の「まず第一は」これである。然らば第二、第三は如何。パウロはこれを擧ぐるを忘れしごとくに、三節においてただちに第二の質問をかかげた。けだし彼は早くこの箇處を終えて本問題に入らんために、その歩みを早めたのであろう。彼はこの際丁寧なる解答を答うるの煩に堪えなかつたのである。すなわち三節に言う、「ここに信ぜざる者あれど、そを如何、その不信は~の信を捨つべきか」と。これユダヤ人の第二の反問である。ここに「信ぜざる者」とあるは、キリストを信ぜざる者の意であるに相違ない。何となれば、~を信ぜずまたは~の約束を信ぜざる者は、ユダヤ人の中には當然一人もなかつたと推定さるるからである。彼らはメシヤ降臨の約束にあずかれる民であるに、その約束に應じてキリスト來れば、これをキリストとして信ぜず、かえつて彼を十字架に釘(つ)けた。しかも彼復活してそのキリストたることを實證し、使徒たちがその證人として立ちても、彼らの中にはなお彼を信じない者が多い。かく彼らの大多數が不信である上は、~もまたユダヤ人にかかわる将來の救いの約束を破りたもうであろうか。これ三節の意味である。そしてパウロはこれに對して「あらず、すべての人を僞りとするも、~を眞とすべし」(四節)と、すこぶる簡明なる解答を與えてゐる。これを原語のままに譯せば「斷じて然らず、~を眞實とし、萬人を虚僞者とせよ」となる。人はことごとく虚僞者である。そして~は絶對に眞實である。不信とか虚僞とかいう思想は、~という觀念と兩立しない。~がその約束に對して不忠實であるというごときは、~の本質上、到底あり得ないことであると、かくパウロは答える。簡單にして雄勁、白日の光のごとく強き語である。

 パウロはまたユダヤ人にかわりて第三の質疑を起して言うた、「われらが不義、もし~の義を彰すとせば、われ何を言うべきか、怒りを加うる~は不義なるや」(五節)と。ユダヤ人は不義不信にして~にそむいてゐる。然るに~は義にしてとこしえに變らない。然らばユダヤ人の不信はたまたま以て~の眞實をあらわす機縁となつたのである。然りとせば、~はむしろユダヤ人に感謝すべきではないか。もし彼らに對して怒りを加うるならば、かえつて恩人に向つて鞭を加うるごとき不義となりはしまいかと。これ五節の意味である。あたかも放蕩息子あるがために親の愛心が發現されたとせば、その親はむしろその子に感謝すべきであつて罰すべきではないという論法である。この詭辨のごとき抗議を假りに設けて、パウロはこれに對して答えて言う、「然ることあらじ、もし然ることあらば、~いかにして世を審かんや」と。不義者を罰せざるごとき~ならば、いかにして世を審くことができようか。~が審判の~である以上は、到底不義者を罰せざるを得ないのである。

 第四の反問は七節にある。「もし~の眞わが僞りによりてあらわれ、その榮光いや増さば、われ何ぞなお罪人とせられんや」とある。その意は五節とほぼ同樣である。そしてパウロはこれに答えて「かくあらば、われらが誣(そし)らるるごとく、善を來らせんとて惡をなすはよからずや、これを我らが言と言える者あり」(八節前半)と言うてゐる。當時パウロの徹底せるiケ主義を誤解して、彼は「善を來らせんとて惡をなすはよし」と宣傳してゐるとなす輩があつた。けだしいかなる罪人といえども信仰によつて義とせらるというヘ義は、淺薄者流の誤解を招きやすきほど革命的なものであつたのである。そしてパウロは今己れの受けしこの攻撃の語を、そのままユダヤ人に向けて反撃したのである。七節のごとき抗議は、實は「善を來らせんため惡をなすはよし」と言うと同じであつて、眞に無意義の極、背理の至りであると彼は言うのである。そして彼は最後に「かかる人の罪せらるべきは宜なり」(八節後半)と言いて、愚言をなす者に、短き、しかし強き叱責を加えたのである。

 以上、パウロはユダヤ人の立場より四個の抗議を出して、一々これに答うるところあつた。彼はこの四抗議を輕く拂いのけたのである。多分彼はこれに對して詳細なる辨明をなすはあまりに愚かなることと思つたのであろう。彼は顔に微笑をたたえつつ、これらの語をしるしたのであろう。實に彼は輕く愚言をしりぞけたのである。しかし銘刀はその輕き一閃をもつても敵を斃すに足る。これらのパウロの答えは、輕く、しかし敵の急處を見事に刺したものと言うべきである。

 第九節よりパウロはまた本論に歸つた。すでに異邦人はことごとく罪人と定まり、ユダヤ人もまたことごとく罪人と定まり、後者より出ずべき二、三の抗議をしりぞけて、ここにいよいよ人類全體を罪人と定むべきときとなつたのである。まず言う、「然らばいかにぞや、われらまされるか、きわめてなし、そはわれらすでにユダヤ人もギリシア人もみな罪の下にあることを證せり」(九節)と。「われら」はユダヤ人を指す。然らばユダヤ人は罪人なる點において異邦人にまさるところあるか、すなわち異邦人以上の罪人であるか。否な否な、罪人たる一點においては、彼らと異邦人の間に何らの区別がない。すでに第一章後半と第二章とをもつて證せられしごとく「ユダヤ人もギリシア人もみな罪の下にある」のである。そしてこの兩人種は、當時の人類の二大別(その文化の性質より見て)であるがゆえに、すべての人類がことごとく罪人なりと證せられたことになるのである。さればパウロは次ぎの一〇節〜十八節において、聖句の引用をもつて自己の九節の斷案に裏書きせしめたのである。これパウロのしばしば用うるところの慣用法にして、當時においてきわめて有力なる辨證法であつたのである(今も然るがごとく)。今これをすこしく改めて左のごとくしるして見よう。

   義人あるなし、一人もあるなし
   悟れる者なし、~を求むる者なし
   みな曲りて、誰も彼も邪(よこしま)となれり
   善を行う者あるなし、一人だにあるなし
   その喉は開けし墓なり
   その舌は詭辨を語り
   その唇の下にはまむしの毒あり
   その口は詛いと苦きとにて滿つ
   その足は血を流さんとして疾し
   破壊と災難とはその道にのこれり
   彼らは平和の道を知らざるなり
   ~を畏るるのおそれ、その目の前にあるなし(と、しるされたるごとし)

これは詩篇、イザヤ書等の各處より聖句を引き來つたものである。そして注意すべきは、これが聖句をただ羅列したものではなくて、ある順序を追うて擧げたるものであることである。最後の句は、第一の句とはるかに照應するものにて、「義人あるなし」の理由として「~を畏るるのおそれ、その目の前になければなり」と言うのである。そしてそのあいだにはさまれし十句は「義人あるなし」の説明というべきものである。すなわちこれは聖句を集めて一のまとまつた思想を開設したのであつて、筆者パウロのあざやかな手腕は驚歎のほかないのである。「義人あるなし、一人もあるなし」は、萬人有罪の事實の總括的斷定である。そして次ぎに萬人の罪の状態を仔細に描くに當つて、第一に「悟れる者なし、~を求むる者なし」と言いて、罪の根源のあるところを摘示す(悟れる者とは、眞に聡明なる者、すなわち眞に~を知れる者を意味する)。次ぎには「みな曲りて、誰も彼も邪となれり、善を行う者あるなし、一人だにあるなし」と、人の全體の行いの惡しきを述べ、それよりさらに細説に入りて、喉、舌、唇、口の惡しきを描く。これ言語をもつてする人の罪を述べたものである。そして次ぎには「その足は血を流さんとして疾し」と言いて、實行の上にあらわるる罪を述べ、次ぎの二句をもつてその結果たる状態を示し、そして最後に全體を總括するとともに、第一語の理由提示として「~を畏るるのおそれ、その目の前にあるなし」としるす。整然たる思想の順序を追うてこの有力なる聖句引用をなし、以て自己の處説を強めたるパウロの手腕を我らはみとめる。眞に有力なるかつ模範的なる聖句引用と言うべきである。

 右のうち「その喉は開けし墓なり」とあるは、パレスチナ地方の、自然の岩穴をもつて墓とせし物は、それを蔽うところの石のふたが除かれて、中の醜さをあらわすことのあるにたとえたのである。

 ここに當然一の疑問が起る。人類はかくも腐敗せるものであるか、義しき人は一人だにないのであるか、これあるいはパウロの過言ではあるまいかと。しかしこれは議論の問題にあらずして事實如何の問題である。比較的の善人は、比較的の惡人とひとしく、人間世界に多い。しかし絶對的に善なる者、義なる人が、一人でもあるであろうか。よしきわめて稀れにこの種の人があるとするも、それは除外例であつて、いわゆる除外例は總則を證明するものである。いかなる人にも不善不義の分子が混入してゐる。外にこれがあらわれなくとも、心にはかならずこれがひそんでゐる。人生を長く經驗せる老年者は、その經驗の上に立脚して、一樣にパウロの斷定を是認するであろう。

 義人、あるいはすこしはこの世にあるかも知れぬ。しかしそれは人より見ての義人である。~より見ての義人とは言い得ない。「エホバ、天より人の子を望み見て、悟る者、~を探ぬる者ありやと見たまいしに、みな逆(そむ)き出でて、ことごとく腐れたり、善をなす者一人だになし」と詩篇第十四篇にある。然り、エホバ、天より人の子を望み見るときに、いかで一人として義人があろうや。人の心腸を探る彼において、頭髪の一つ一つを數えたもう彼において、我らのすべてが裸にてその前にあらわるる彼において、いかで一人たりとも義人があろうか。クロムウェルのごとき偉大者も、己れの罪を充分にみとめていた。他は推して知るべし。ああすべての人は罪人である。義人は一人もない。かつて一人もなかつた。今も一人もない −− 至聖なりし、彼ナザレの人を除いては。
 

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