2022年6月19日付の吉岡利夫さんからの手紙

旭ヶ丘キリストの教会
千田俊昭様

主の御名を賛美致します。

「吉岡さんにとって忠義、仁義とはどのような意味なのでしょうか?」との質問ですが、正直、牧師の千田さんに私がキリストにある者として、己の忠義、仁義について講釈をたれることはおこがましいですが、これを語り説明するには七枚の便箋ではとても足りず、簡略に記すことをおゆるし下さい。

 千田さんからのこの書簡には「義」は教会用語で、「正義」とか「意義」とかにも使われ、その漢字の成り立ちとしては、「我」の上に「羊」がいる形。信仰的にも興味深い字で、神と人間との関係を表し、小羊の故に罪が問われないといった文言がありますが、まさしく義なる神は絶対で、神は義です。
 私たち人間が神と同じ義を持つことはできません。仮に私たちに神の義があるとすれば、それは神が認めて下さる正しさですよねェ(ローマ10:1-14)
 
 幼い頃、私にとってヒーローな憧れはヤクザでした。弱きを助け、強気をくじくという義のためなら、命をも惜しまない任侠道を正義の御旗にしているそのヤクザの実像は千田さんたち社会人が知る所ですが、私の内には今もそのやくざな血が流れています。勿論そのやくざな血はキリストが十字架の上で流して下さった血潮によって洗いきよめられていますが、現実として私の思考はヤクザ的で義理人情に流されるのです。だからというのではありませんが、「義」から連想する言葉は千田さんとは違って、義理、信義、忠義に仁義、恩義、男義等々となるのです。
 「義理と人情を秤にかけりゃ〜、義理が重たい男の世界〜」というのは高倉健の「唐獅子牡丹」の歌詞の一節ですが、私たちにとってその義理と仁義は同義語。人から受けた義理(恩義)はどのような方法や形に関係なく、必ず返すことは男としての仁義です。
 無論、令和という時代に義理や忠義、仁義などという言葉は古臭く、死語といっても過言ではありません。また私の古い時代、私は多くの人に義理を欠き、仁義に反して来ました。要するに、私にとって「義」の付く文字は偶像でした。それ故に私はキリスト者としてその文字を自分の信仰に復活させたのです。

 「年老いた少年無期囚の存在は福音ではない」といった千田さんからの言葉は、主からの強烈な一撃となって私に覚醒を与えて下さりました。年老いた少年無期囚の私は無学で教養もなく、何事においても粗野粗暴でとても人に受け入れられて愛される者ではないと自己卑下に陥っていましたが、キリストにある者がそんな臆病者であって良いはずがなく、悔い改めました。悔い改めることによって私は人に何と思われ、どのようなイメージを懐かれようが、自分は唯々主に従い自分の信仰の成長に前進して行くだけです。そしてそれは人の評価を得るためではありません。
 この地上で、悪に汚れた過去と殺人という罪は厳然たる事実です。この事実を包み隠してキリストの十字架の福音を語り宣べ伝えることは、主に対して不忠であり、仁義に反すると私は思うのです。
 
 さて、私の近況のご報告ですが、私は今、同囚(60代)とのトラブルで、その事故(遵守事項違反)調査中(独居隔離)です。が、ご心配はご無用です。私の信仰生活の現実として、未だに己の激しい気性(感情)に悩み苦しめられ、不毛な争いに失敗して転んでいるのです.........。
 この中の男集団生活には必ず工場内や共同室内を独特な価値観で仕切りたがる者がいますが、自分のことは棚に上げて言うのですが、同室者(後期高齢者)に配慮はなく、無神経で自分本位に居室を仕切る者に私は堪忍の尾が切れるのです。
 「長いものには巻かれろ」という言葉がありますが、私は要領が悪くて、不器用というか見て見ぬ振りがどうしてもできませんでした。「わたしはあながたにいいます。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬もむけなさい」(マタイ5:38-39)。主にありながら、私はこの境地に立てない愚か者です。主よ、愚かな私の罪をおゆるしください。
 失敗して転び、このように情け無い醜態を晒す私に「吉岡!そんなにも愚かなお前が、それでも神に愛されていると言えるのか」と詰問されたなら、「ハイ、言えます」とは胸を張って言うことは出来ませんが、ただ私の断言は、自分の前から主への信頼と希望の光は消え去ることはありません。
 年齢的にもこの地上での私の生涯は残り少ないです。そしてその残り少ない人生の中で私は、今もこれからも己の気性の激しさを嘆き悲しみもがき苦しみながら、自分の信仰の戦い(Tペテロ5:8-9)を続けて行かなくてはなりません。
 
 地上での私の信仰の戦いに勝利はなくとも、敗れることはありません。失敗の多い私ですが、私たちの信仰、これこそ世に打ち勝った勝利です。心砕き、悔い改めて前に進んで行くしかありません。戦いを放棄、離脱するようなことになれば、キリストの十字架に対する裏切りとなります。主の軍門と、自分の信仰を断固サタンに明け渡すことはありません。
 
 旭ヶ丘キリストの教会のHさんから届く書簡はいつも私には福音です。彼女はマジに信仰の人で、私はHさんの信仰、生き方に感化されたのです。「友よ、今を嘆くな。すべてのことは主の御手の中にあってのことだ。」この言葉は、昨年の8月に天に召された明石キリストの教会の松下牧師からいただいたものです。キリストにある吉岡利夫が何を見て、何を聞き、何と戦い続けたか。いや戦い続けているのか、すべて主がご存じです。
 
 最後になりましたが、「バイブル・ワールド」の図書を差し入れしていただき感謝です。その代金というのではありませんが、84円切手を30枚同封しました。献金として納めて下さい。教会の皆様の上に、恵みと祝福がありますように。また教会に出入りする小さな勇者たちの日々の生活に幸多くありますように、心より祈っています。
 主に在りて
 2022年6月19日
 吉岡拝
 
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2022年8月10日の千田返信

吉岡利夫様

 例年になく早い梅雨明けとなった今年ですが、戻り梅雨の後にようやく本格的な夏到来ですね。お元気ですか?七月下旬に閉居罰が終わるとの事で、もう新しい仕事が決まった頃ではないでしょうか。恵みの配属となりますようお祈りしています。

 実は教会の聖書研究会でイエス様の喩え話を皆で学んでいた時、吉岡さんの手紙に「仁義」という言葉があったので、その意味についてお尋ねしたのでした。というのは、イエス様が語ったパリサイ人と取税人の喩え話(ルカ18:9-14)が、副読本で「義とされた人」という題名だったのです。
 当時の「取税人」は、占領国ローマの為に同胞ユダヤ人から何倍もの税金を取り立てて私腹を肥やしていた言わば“裏切者”であって“罪人”の代名詞的存在でした。それに対して「パリサイ人」は現代で言えば“牧師”ようなものでしょうか。そして主イエスのこの喩え話の結論は「あなたがたに言っておく。神に“義”とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」でした。

 二人の祈りが対照的です。パリサイ人はこう祈りました、「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」
 それに対して取税人についてはこう語られています、「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。」

 この喩え話はいろいろな見方ができ、パリサイ人は取税人と自分を比較しなければ申し分なかったのに…とか、取税人は「お赦し下さい」と言っただけで、悔い改めに相応しい実を何も結んでいない…等々、様々な解釈を生む喩え話です。しかし、まるでこの話が伏線になっているかのように、次のルカ伝第19章には取税人ザアカイの回心が記されています。
 
 私はザアカイ物語が大好きです。ザアカイが何故よりにもよって取税人などという皆の嫌われ者となる職業を選んだのか、金持ちになった彼がどんな虚しい日々を過ごしていたのかなど、ルカはまったく伝えていません。わずかに、ザアカイは「背が低かった」(ルカ19:3)と記されているだけです。それだけに想像力をかき立てられるのです。

 ところで、「仁義」の「仁」は“いつくしみ”と読みますね。孔子が最高のコとしたものだといいます。孔子の弟子が「仁とは?」と質問したとき、孔子は「人を愛することだ」「自分が望まないことは、人にしてはならない」と答えたと論語に書かれているのは興味深いことです。イエス様はそれをさらに推し進め「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」と言われました(マタイ7:12) 。慈しみの心は神の愛から溢れ流れるもの。「罪人の私をお赦し下さい」と嘆願したザアカイにイエス様はそのいつくしみの心から、義と救いを伝える為にザアカイの家に泊まったのではないかとさえ思うのです。

 ルカはその時の事を次のように記しています:「人々はみな、これを見てつぶやき、『彼は罪人の家にはいって客となった』と言った。」
 
 エリコの人々は喜んでイエス様を迎えたのですが、ザアカイの家に泊まるのを見て「もしかしたらイエスはメシヤではないかと期待したのに、結局、金持ち好きのガリラヤ人でしかなかった。ガッカリだ。」と思い、好意と期待が失望と憎しみに変わったのではないでしょうか。しかし、その家の中では、主の投宿を喜んだザアカイの悔い改めと救いの出来事が起きていました。

 ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。
 イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。(ルカ19:8-10)
 
 義とは正義であって、主なる神の御性質の一つであり、その御心は旧約聖書の律法に表わされています。そして神様は言われました、「もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。」(出エジプト19:5)。主なる神は律法を守らせることによって民を聖めてご自分の民としたかったのです。ところが、その後の人間の現実についてパウロは詩篇14篇を引用して、こう述べています:
 
 「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。(ローマ3:10-18)

 そこで父なる神は御子イエスを私たちの世界に送って下さって、その十字架と復活による救いの道を開いて下さったというのが新約聖書が告げる福音です。このことをパウロは次のように言っています:
 
「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、 現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」(ローマ3:21-24)
 
 「義とされる」というのは、“神によって無罪宣告される”ということです。確かに全ての人は罪を犯した罪人ですが、その受けるべき罰を御子イエスが身代わりになって引き受けて下さったゆえに神様が無罪宣言して下さることです。

 義とされても、罪を犯したという事実は残ります。また無罪宣告は罪人の内部を変化させるものではありません。しかし、神様との関係が決定的に変化します。もはや「罪人よ」ではなく、「我が子よ」と呼んで下さるのだからです。そのために御子が払って下さった犠牲の大きさを知れば知るほど、神様の愛が迫ってきて、罪人の心を喜びと感謝・讃美で満たすからです。
 
吉岡さんは前々便で次のように書いておられましたね:

 「悪に汚れた私の過去と、人を殺めた罪は絶対に消すことの出来ない厳然たる事実です。この事実を包み隠してキリストの十字架の福音を語り宣べ伝えることはできません。そしてそれは私の罪のために自ら十字架に命を捨てて下さった主イエス・キリストに対する忠義であり、私の仁義なのです。」

 かつては人のみに向けられていた「恩義・忠義・仁義」が、自分を救って下さったイエス様に向けられるようになったということを語っておられたのですね。吉岡さんの信仰の歩みに大いなる祝福がありますようにと祈っています。
 
主に在りて
2022年8月10日

千田俊昭