20181124付の吉岡利夫さんからの手紙

恐れ尊んで主の御名を賛美致します。


 今日の徳島の朝は冷たくて、季節は小雪から一気に冬の寒さに加速したかのようですが、仙台はいかがですか。

 読書の秋、食欲の秋などとよく言いますが、23日の勤労感謝の日の祝日には「スナック菓子シュガーラスク」が給食され、美味しくいただきました。この中では、閉居罰中であっても、また休養で入病していても、さらに保護房に入房していても、かならず三度の食事と旗日のお菓子は給食されます。働かざる者食うべからずと言いますが、私たち囚人はマジに過保護に育てられていますよねェ(笑)。いや、マジです。飢餓で命を落とすことはまずありません...。それでも私たち囚人は、あれが食べたい、これが食べたいと際限もなく文句を並べて、その欲望はイタリヤ料理、フランス料理にまで発展して行くのです(笑)。

 経済大国日本は飽食の時代から「放食」に今はなっているのではないでしょうか。スーパーやコンビニに行けば、深夜でも加工食品や弁当などが手に入り、食べて飲んで挙げ句にメタボに成人病、果てはダイエットに金をかけるのですよねェ。この現代の究極に身体に良い食生活は、この塀の中ぐらいのように私は思うのですが(笑)。ただ、私的には。先生のご内儀の手料理は減塩食ですか?当所は、というか全国の矯正施設は中央の指示で減塩食ですが、何か物足りなくショウユがほしい時があります...。

 これは笑い話ですが、私が婚姻した嫁さんとは、私が出獄したすぐの頃に、浦島太郎では何かと不便だろうという話から、古い友人の紹介で出会ったのですが、当然、長期の服役から出所してきたばかりである事は明かしましたが、無期懲役の仮出獄中ということは伏せて、友人やその周りの者たちには箝口令(カンコウレイ)を敷きました。 その彼女が、出会った頃に一度、私が住んでいたワンルーム・マンションの部屋に遊びに来たのですが、真新しい衣類の多さにビックリしていました。極め付けは、冷蔵庫の中に食料がぎっしりとパンパンに詰め込まれているのに、「なんなが、これは」とその前に呆然と立ちすくんでいました。今、振り返って思うに、私のその衝動買いは、長い歳月をこの中で自己の欲望を抑え込んで過ごしてきたその反動でした。また私には賞味期限という概念は無く、スーパー等の店内でラップされて売っている食料(食材)は、買って帰って冷蔵庫に入れておけばいつでも食べられるという価値観でした。で、彼女の検査結果、ほとんどハイキ処分されましたが、何故かプリンが多量に出てきたのは、自分で買っていながらマジにビックリでした(笑)。

 笑い話をもう一つ。ある日、嫁さんが「お昼はピザでええかネ。」というので私は「オオッ」と返事をしたものの、「ピザって何よ」と疑問符のままベッドを出て食卓にゆくと、目の前にドカンと置かれているものに「何んや、お好み焼きか」と嫁さんの真似をして手でつかんでたべると、これがマジに美味しくて感動し(笑)、「おおッ、お前は料理の天才や」と絶賛したのですが、彼女はただポカーンとしていました(笑)。スーパーで買ってきたものを、ただレンジでチンしただけというのは後で知りました!!


 話は変わりますが、金看板という言葉があります。強大な暴力組織の金看板を背負った私にとって、それは絶大でした。激しく短気で心荒ぶる性格に拍車をかけて、私は怖いもの知らずというか、何ものにも恐れを感じませんでした。町中に出て行くと、服の襟に付けたバッジ(代紋)に誰もが恐れ尻込みして、大の大人が十代の少年ヤクザの私に頭を下げるのです。また難儀な交渉にも「○○組の者ヤッ」と言うだけで、自分の有利な方向に事は進められました。自分の通って行く道には何の障害もなく、少年ヤクザの私は、それを己の力のように驕り傲慢でした。
 が、唯一、私が恐れていたのは漁師たちでした。「板子一枚下は地獄」という彼らは命知らずで、私が言うのもなんですが、性格は短気で、その上に気性は荒くて無鉄砲でした。一度、夜の歓楽街で漁師の集団(4〜5人)と鉢合わせになり、肩が触れた触れんのささいな事で双方入り乱れて乱闘になったことがありましたが、私はボコボコにされ半殺しの目に合わされました。で、組の武器庫から武器を持ち出して報復を決行しようとしたのですが、先に記しましたように、命知らずな漁師を相手にするのは厄介で得策ではないという判断で中止しました。兄貴分も堅気の漁師が相手になると厄介で、報復には難色を示していました。
 以来、漁師の集団を前方に確認すると、すぐに路地に入って身をかわしていました。先に発信した祥子姉宛の書簡の中に、渥美清の「フーテンの寅さん」のスタイル、ダボシャツに腹巻きは昭和のヤクザの古典的ファッションと記しましたが、漁師も同じく、腹巻きに長靴で頭か首にはかならずタオルを巻いていました(笑)。

 聖書の中に登場する十二使徒はガリラヤの漁師ですよねェ。年齢はみんな20代くらいの若者で、気性も激しく、私のような短気で向こう見ずだったのではないでしょうか。そしてその彼らにイエスは穢れた霊どもを制する権威をお授けになったのですねェ。
 悪霊を追い出し、病気を治す力と権威を授かった彼らにとって、それは何にも増して大きな金看板を背負ったと私は思うのですが。それを背負ったことによって、彼らの荒くれた性格は一変したのでしょうか。
 雷の子(ボアネルゲ)と名をつけられたヤコブとその兄弟ヨハネの性格は単純というか、イエスに付き従って旅をしていても過激で「主よ、私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」(ルカ9:54)という場面によく表されていますが...。
 荒々しく激しやすい己の性格を彼らはどのようにして捉え戦い聖絶していったのでしょうか。それとも殉教のその時まで、または晩年までその性格はありのまま己の胸に抱えていたのだろうか...。


 この度の調査から閉居罰では、正直に申しまして、自分の激しい性格を棚に上げて言うのですが、マジに職員(官)の理不尽な対応に悩み苦しみ、落ち込みました。己の本意ではないけれども、裁判に訴えて戦う事も視野に入れましたが、私には弁護士を立てる資力も知恵もなく、支援者もありません。がしかし、キリスト者としての祈りが私にはあります。何をどうするべきか、その是非の判断が容易に定まらず、祈り祈って祈りました。が、主からの御声(みことば)は私の耳朶に触れず、ピリピ1:29「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている」が私の脳裏にずっと浮かんで離れませんでした。ならば、サタンの悪意に自分がどこまで耐えて行けるか、試してみようと覚悟しましたが、結論としてサタンの攻撃はあっさりと、実にあっけなく収束したのです。私の願いが天に届き聞かれたのかもしれません。
  そしてこの際ですので、私は自分の内に深く潜むサタン(悪)の正体を徹底的に暴き捉えて対峙しようと、今もその途上にあります。自分の事だから言えるのですが、これは難題です。

 ご多忙な日々と思いますが、ご夫婦ともにお風邪など召されず、ご自愛ください。皆様の健康が守られますように祈っています。

  主に在りて 2018年11月24日 吉岡拝