三重CMCCは、
 現代における日本の社会はますます複雑と混乱の中で悩み、キリスト教会(集会)には様々な悩みを訴え、その解決を求めて訪れてくる人々が少なくありません。
その中で精神的ケアーを必要とする方もおられます。
教会において、どのように対応すべきか苦慮することも多くあります。
 この活動は、三重県内諸教会の人々と超教派的活動として、少しでも皆様のお役に立てればと2001年11月からスタートいたしました。
 電話相談には、カウンセリングの研修を受けたCMF(クリスチャン・メンタル・フレンド)が、ボランティアで奉仕下さっております。
 尚、この活動にはクリスチャンの聖職者、精神科医、臨床心理士、弁護士、カウンセラーなどの協力をいただきながら、皆様の相談などをお待ちいたしております。

相談電話 059−213−6707

月曜日
    午前10時〜午後4時 

   心傷ついたとき、一人悩むとき、どうしたら
   よいか考えこむとき、お電話下さい。


  この電話は、宗教を問わず相談に応じます。
  クリスチャン以外の方も自由にご利用下さい。

   三重CMCCのホームページ

<参考になるホームパージ>

   心の泉会
   心の病を体験されたクリスチャンが中心となり、信仰の交わ り、体験や意見の交換をする会です。

   三重県内の精神障害者の生活訓練・支援施設等について
   三重県のHPにある情報です。

   三重県の精神科医療機関
   三重県内にある精神科医療機関のHP集です。

   いのちの電話
   東京いのちの電話のHPです。全国の「いのちの電話」の情報もあります。

 


キリストの福音に生かされて

日本基督教団阿漕教会牧師 加藤幹夫

(三重CMCC機関誌No.6 2001年9月発行 より)

「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」(イザヤ書六・五)

 

 この聖書の言葉には、生きた魂を失っている隣人たちに、神の言葉を預かり、それを伝えるために立ち上がったイザヤという一人の預言者の声が記されています。ところが、そこに記されている声は、その任務にふさわしいとは思えないような弱さがあります。しかし、そこにこそ、神の選びがあると同時に信仰者として隣人と関わる上で、神が伝えようとされている重要なメッセージがあるのです。

 三重CMCC準備会は、数年に渡り、その発足に向け、講演会や懇談会、そしてキリスト教カウンセリング講座を行って参りました。そして、今、CMF(クリスチャン・メンタル・フレンド)養成を行い、具体的な一つの活動として電話相談への準備を進めております。

 その発足を控えて、あらためて心に留めることは、三重CMCCがどのような使命を持って歩み出すのかということです。東京と横浜では、すでに発足から十年を迎えていますが、その機関誌第一号の中で、当時の会長である赤星進先生が、「CMCCの使命は心病む人々へのキリストの福音の伝道である」と述べておられます。三重CMCCも、この使命に立つものです。

 キリストの福音を伝えるということにおいて、最も大切なことは、伝える者自身が、キリストの福音に生かされているということです。なぜなら、そうでなければ、福音を伝えることはできないからです。このことが、一般のカウンセリングとはまったく違うところといえます。一般のカウンセリングでは、相手の問題を解決する事が目的にありますが、CMCCにおいては、カウンセリングマインドを身につけることも大切ですが、それ以上に聴く側の者がしっかりとした福音に立っているのかということが最も問われるのです。

 では、福音に立つとはどういうことなのでしょうか? それを、教えてくれるのが、先ほどの聖書の言葉です。

 預言者イザヤは、「災いだ」と叫びました。この声は、大きな喪失体験や悲しみに出会った時に大声で「あー」と叫ぶ声を意味しています。

 神の福音に生かされるということは、この叫びから始まります。「滅ぼされてしまう」というぐらいに自分という存在が打ち砕かれて行くことに出発点があるのです。なぜなら、自分が無力であることを心から知って行く時、自分に頼るのではなく、キリストの救いを必要とし、キリストに頼るからです。ここにキリストの福音に生きる者の姿があるのです。

 CMCCの活動は、隣人を助けてあげようという思いが中心にあるのではなく、自己の無力さの中で相手の声を聴き、友となることがその中心にあります。逆に、相手を救おうと自信を持って接するならば、とんでもない間違いをすることになるのです。究極的に、人を救えるのは人ではなく、神のみだからです。

 心病む人々と歩む中で、自分は相手の気持ちがよくわかるから、自分の言葉で相手を救えると思う時、そこには自分の輝きがあるだけで、キリストはいません。しかし、自分の言葉の無力さをどこまでも味わう中で、キリストが支えてくださるという確信を持って、相手と接する時、そこにキリストの福音が輝くのです。

 この活動を通して、キリストの栄光が輝くことを祈り願いたいと思います。


     説教  必要なことはただ一つ

         ルカ10:38〜42 阿漕教会牧師 加藤幹夫 

(三重CMCC機関誌No.10 2004年6月発行 より)

 

 聖書には、主イエスの訪問を受け、その接待に忙しく立ち働くマルタと、何もせずじっと主の話に聞き入るマリアの姿が描かれています。マルタは何もしないマリアを見ていらだち、主に文句を言います。

「この姉妹は、わたしだけに仕事をさせている。何ともお思いになりませんか!」 このマルタの不満に対して、主は、「そうだね。マルタは一生懸命にもてなしをしていて大変だね。」と同情の言葉やねぎらいの言葉を語られなかったのです。主は、ここで「あなたは多くのことに思い煩い、心を乱している。必要なことはただ一つである」と言われたのです。

 私たちは生きて行く中で自分の道を選択しなければならないことがあります。そこでは、一方を選び、一方を捨てる決断をしなくてはならないのです。そこには、大きな痛みを伴うこともあるのです。マリアは、主への接待を捨てたのです。これは、彼女にとって大きな決断であったといえます。おそらく、そこには主だけではなく弟子たちもいたでありましょう。ここで、接待することは、当然のことであり、もししなければ弟子たちからの冷たい視線を浴びることは間違いないのです。しかし、マリアはそれでも良いと思ったのです。彼女は、主の御言葉を聴くことを選び、接待を捨てたのです。

 ここで、大切なことは、主がマリアをほめたということもありますが、もっと強調されていることは、マルタを叱責されたということです。主がここで言われている「思い煩う」とは、「心が二つに割れている」という意味ですから、マルタは、主の御言葉を聴くことも大切だと思いつつも、また、もてなすことも必要だと心が二つに割れたのです。

 私たちは、さまざまな相談を受ける時に、すぐ考えることは、この人にどのような解決策を提供できるだろうかなのです。そして、自分は、この相手にどう返答しようかを考えるのです。

 三重CMCCの相談電話を受けるためには、ユーザーの方々にどのような応答をするべきか、二年間にわって初歩のカウンセリング理論を学んでいます。確かにここでの学びは不可欠であり、相談を受け始めた後にも学ぶことは、継続的に必要なことでありましょう。しかし、それは一つの道具を持つに過ぎないことも知っておく必要があります。相手をどう支えるか、どうもてなすかばかりに気を取られて、最も必要な主の御言葉を聴くことが消えてしまったらこの活動の意味がなくなってしまうのです。

 三重CMCCの相談電話は、キリストの福音に立って行われています。福音に立つということは、ユーザーの声を聴きつつも、実は相談を聴く側がしっかりとキリストの福音に生かされているかがいつも問われているのです。そのような意味で、カウンセリングのプロでもなく、また素人でもないという中間的な立場にある者が、キリスト者として関わって行くことになります。しかしながら、この中間的な立場だからこそ大切な業を担うことができるのです。医師やカウンセラーでは担い切れない業、そこにCMCCの働きがあるからです。

 主は、この重く大切な働きを土の器である者にあえて託されます。それは、主の御業を示すためです。主の御業は自分の能力からは産み出されません。自分を無にして、主を信頼し、主のものとなって生きることに現れるのです。そのために、私たちは、常に主の御言葉に触れ、祈りを深め、福音に生かされている自分を見失わないことこそが、まず必要なのです。

 


三重CMCCの働きを通して

三重CMCC副理事長・阿漕教会牧師 加藤幹夫

(CMCC機関誌No.26より)

  三重CMCCの相談電話が開始されて2年が過ぎました。一つの地方都市においてこのような活動が開始され、続けられていることは、自分自身も驚きを持っています。そこには各教会の協力、多くの専門家やクリスチャン・メンタル・フレンド(以下CMFと略)をはじめとするボランティアの方々、賛助会員の方々の協力があるからこそと感じております。

 しかしながら、まだ、2年とはいえ、いろいろな問題が出始めていることも確かなことであります。その中でも、一番気をつけていることは、「この活動がキリストの福音に立っている」という原点を見失わないようにするということです。

 近年、精神医学やカウンセリング理論の成果は大きく、その技術の向上も著しいものがあるように思います。そのような時代の中で、キリスト者として心病む方々と接する者にとっては、一つの誘惑に陥りやすいのです。それは「この苦しんでいる人を助けてあげたい」という気持ちから生まれてきます。「助けてあげたい」、「この私が助けなければ」となって行く時、必死になって理論を学び、これならと自信を持って行きます。また、これが一つの成果を残すとなるとますます自信を持つことになり、さらに、それが「私はキリスト教の愛の精神でやっている」と思ってしまうから話がややこしくなってしまうのです。

 三重CMCCの相談電話活動においては、月に−一度、ミーティングの時を持っています。そこで、よく話が出るのが、「自分の電話の応対がこれで良いのか不安だ」ということです。これは、何度も同じ人から相談を受けているが、少しも改善の兆しが見えないとか、途中で相談が打ち切られてしまうという時に不安を覚えるのです。「本当にこれでいいのか?」そのような疑問が大きくなってくるのです。確かに技術の向上を求めていくことは大切なことであります。しかし、どんなに技術を習得したとしても、完全な応答をすることはできないということも同時に知っておかなくてはならないことでありましょう。ここに誘惑があると思うのです。

 キリストの弟子たちに悪霊を追い出して欲しいと願ったが、それができなかったという出来事が聖書に記されています。キリストは悪霊を追い出した後に、お前たちは信仰がないから追い出せなかった(マタイ17:20、ルカ9:41)とお話になりました。マルコでは祈りがたりないから…(マルコ9:29)とあります。
「信仰がない」「祈りが足りない」と言われると私たちは思うかもしれません。

 「私は、必死にこの苦しんでいる人のために祈っているし、信仰だって持っている‥。」ここには、まず始めに「私が望んでいること」があります。「私の望みが実現するために祈り、信じていることが信仰だ」と思い、「キリスト教の愛の業だ」と思っているのです。しかし、問題は、「何を祈っているのか、何を信じているのか」なのです。治してあげたいという熱意や方法論だけでは真実の解決にはならないのです。私たちは永遠の命と関わっています。人生の終わりまでの快適さを追求し、関わっでいるのではないのです。

 キリストが弟子たちにここでお伝えになりたかったこととは、「あなたは、永遠の命を持つている主を信じているか。あなたは、主を心から信頼し、主を絶対者として祈りあがめているか」ということなのです。この言葉を違う視点から受け取って見るならば、「私は何もできない。一人の人を救うこともできない。人にはできないが、主よ!あなたならおできになります」と告白することなのです。この告白にこそ、主の御業が働くのです。

 CMFとしての働きをする上で、最も知っておかなくはならないことは、この業が自分自身の業として行われているのではないということです。キリストの愛の業だと思ってしているうちに、自分がキリストによって赦され、支えられていることを忘れ、技術を身につけるごとに、自分の外にキリストを追い出していることに気がつかないのです。しかもそれが、「この奉仕はキリストのためにやっている」と思ってしまうから困るのです。
 キリストと共に生きるとは、キリストが大きくなることであり、自分は小さくなることです。「心病む方々の友となる」という奉仕の業をする度ごとに、私たちが感じることは、ただ自分の無力さ、人を救うことができない自分を発見することなのかもしれません。だからこそ主の赦しの中で生きることをいつも覚えて行くのであります。

 CMCCの活動において、携わる一人一人が、主の前に自分の罪と弱さを知りつつ、なお主の赦しによって歩むことであるとするなら、この活動は一つの教会(信仰共同体)としての働きがあることになります。しかし、この教会的な業はすぐ誘惑に襲われて、キリ、スト抜きの業になってしまい、キリストが示してくださった福音よりも自分の思いが絶対であるかのように思ってしまうのです。本来、「聴く」ということを一番大切にしているはずの奉仕者が、それを見失ってしまうのです。電話の向こうにある声は聴くが、主の御言葉や仲間の意見を聴かないというのはおかしなことでありましょう。「自分は…」という思いから、「主は、この場合どうされるのか?相手はどのような思いを持ってこのような意見を言うのか?」と思いを切り替え、じっくりと話し合ってみることが必要なのであります。

 三重CMCCの相談電話開始の日のことを今でも思い出します。私が担当牧師として相談電話室に入った時、新しくCMFとなり、この日、当番となられたお二人の姿がありました。何もかもが初めての経験です。「今まで受けてきた講座のこともすっかり忘れてしまつた、どうしよう」と不安がいっぱいになっておられました。私が入ると、「祈って頂けますか?」と言われ、開始十分前に三人で祈りました。「主よ!何もできない私たちを支えてください。あなたの憐れみによって私たちの奉仕の業を支えてください。」

 はじめての相談電話、それは本当に、しどろもどろの対応でありました。しかし、電話の向こうから「聴いてくださってありがとう」という声をいただき、三人がほっとしたことを思い出します。その気持ちをいつまでも忘れないでこれからも活動を続けて行きたいと願っています。