過去のメッセージ

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近づいた天の御国 2015年6月7日

聖書:マタイの福音書 4章12-17節

主イエスの公生涯の第一声は、「天の御国が近づいた」という夜明けの宣言でした。福音はただ私たちの心の中でだけ起こっていることではありません。この世界は福音によって、もう変えられています。光の中で私たちは互いに愛し合います。神のかたちを回復されつつ。

もっとくわしいメッセージは こちら

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」 マタイの福音書 4章17節

人生の誘惑 2015年5月31日

聖書:マタイの福音書 4章1-11節

主イエスの公生涯のはじめの荒野の誘惑。主イエスは自分の手で必要を満たすのではなく、父なる神さまの愛に身をゆだねる決断をなさいました。神さまとともに歩む私たちにも覚悟が必要です。それは悲壮な覚悟ではなく、神さまからどこまでも恵みをいただく覚悟です。

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「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」 マタイの福音書 4章10節

聖霊の満たし 2015年5月24日

聖書:使徒の働き 1章3-8節

ペンテコステを前に、主イエスが約束してくださった聖霊。それは私たちのうちに住んで、愛する力を与えて下さるほんとうの助け主でした。

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「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして・・・わたしの証人となります。」 使徒の働き 1章8節

聴くサムエル 2015年5月17日

聖書:サムエル記 第一 3章1-14節

神さまに呼ばれた少年サムエル。「お話しください。しもべは聞いております。」と答えました。神さまに従うことを決心したのです。神さまは、私たちよりも私たちにとってよいことをご存じなお方だと知ったからでした。

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「お話しください。しもべは聞いております。」 サムエル記第一 3章10節

母の祈り 2015年5月10日

聖書:サムエル記 第一 1章1-20節

神さまに心を注ぎだしたハンナ。祈りの中で神さまは彼女を変えてくださいました。変えられた彼女を通してさらにすばらしい祝福が世界にもたらされていきます。サムエルの誕生です。

もっとくわしいメッセージは こちら 今回、録音はありません。

「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」 サムエル記第一 1章17節

怪力サムソン 2015年5月3日

聖書:士師記 16章4-22節

イスラエルの士師・怪力サムソン。けれども彼は、神さまといっしょに旅をする三つの原則をすべて破ってしまいました。そのサムソンに、神さまは・・・・

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「私は母の胎内にいるときから、神へのナジル人だからだ。」 士師記 16章17節

人数が多すぎる! 2015年4月26日

聖書:士師記 7章1-8節

神さまは、ギデオンに300人で戦うように命じられました。それは、勝利が神さまからもたらされたことが明らかになるためでした。私たちがピンチに陥るときも心配はありません。耳を澄ませて神さまのみわざの始まりを聴き取りましょう。

もっとくわしいメッセージは こちら 今回、録音はありません。

「そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。」 士師記 7章6節

神さまがいっしょ 2015年4月19日

聖書:士師記 6章7-16節

メッセージの要約はありません。

くわしいメッセージは こちら 今回、録音はありません。

「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」 士師記 6章12節

世の終わりまで 2015年4月12日

聖書:マタイの福音書 28章16-20節

メッセージの要約はありません。

くわしいメッセージは こちら

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 マタイの福音書 28章20節

夜明けの光 2015年4月5日

聖書:マタイの福音書 28章1-10節

   主イエスは復活の朝、まるで待ち切れないかのように女性たちに現れました。愛の言葉をかけ、喜びの不意打ちをするためでした。今朝、復活の主イエスを喜ぼうではありませんか。

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「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。」 マタイの福音書 28章6節

キリストの十字架 2015年3月29日

聖書:マタイの福音書 27章45-56節

メッセージの要約はありません。

くわしいメッセージは こちら

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」 マタイの福音書 26章46節

十字架への道 2015年3月22日

聖書:マタイの福音書 26章47-56節

   主イエスに裏切りの口づけをしたユダに、「友よ」と呼びかける主イエス。こわくて剣を振り回すペテロを止める主イエス。主イエスの愛は、上からの愛であるばかりではなく、下から、後ろから支えてくださる愛です。この愛の中にあるとき、私たちは一瞬一瞬が奇蹟の人生を生きます。こわがり悩みながらも愛するのです。

もっとくわしいメッセージは こちら

「しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」 マタイの福音書 26章56節

最後の晩餐 2015年3月15日

聖書:マタイの福音書 26章26-29節

   最後の晩餐で、主イエスは聖餐を制定されました。以来、教会はこの聖餐を守って、主イエスにつながってきました。晩餐の後、弟子たちは主イエスを捨てて逃げます。けれども、主イエスはそのことをご存じの上で、ガリラヤでの再会を約束してくださいました。復活の光で弟子たちを照らすため、私たちを照らすためです。

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「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」 マタイの福音書 26章28節

目をさまして 2015年3月8日

聖書:マタイの福音書 25章1-13節

   再臨に備え目を覚ましていなさい、との主イエスの譬え。けれども、賢い娘たちもまた居眠りをしていました。けれども、主イエスはそのことではなく、油を準備していなかった娘たちの愚かさを誡められたのです。油は主イエスご自身とその恵み。主イエスにつながっているなら、私たちの油はなくなることはありません。

もっとくわしいメッセージは こちら

「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」 マタイの福音書 25章13節

いちばん大切なこと 2015年3月1日

聖書:マタイの福音書 22章34-40節

   私たちは神さまの宝物。主イエスの教えてくださった宝物としての生き方は、愛の世界に生きること。神さまを愛し、たがいを愛する生き方です。傷つくことを恐れて愛することにたじろぐ私たちです。けれども、主イエスが触れてくださるときに、不思議なことが始まります。この世界を神さまの愛の世界が包むのです。

もっとくわしいメッセージは こちら 今回、録音はありません。

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」 マタイの福音書 22章37節

新しい生き方 2015年2月22日

聖書:マタイの福音書 20章20-28節

メッセージの要約、もっとくわしいメッセージ、録音はありません。

「また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」 マタイの福音書 20章28節

赦しの神さま 2015年2月15日

聖書:マタイの福音書 18章21-35節

   罪を心から赦して相手を受け入れることはとても難しいこと。それなのに主イエスは「七度を七十倍するまで」すなわち、どこまでも赦すようにとおっしゃいました。それが、神さまに赦された私たちが、その喜びにとどまり続ける生き方だからです。赦さないことは、神さまの赦しの祝福を遮ること。私たちは、赦し合って、赦しの喜びのますます豊かに流れる通路となるのです。

もっとくわしいメッセージは こちら

「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」 マタイの福音書 18章22節

その一匹のために 2015年2月8日

聖書:マタイの福音書 18章12-14節

   九十九匹を残して、迷った一匹を?!とても不思議な箇所です。けれども主イエスは、罪のワナにつまずいたひとりがいるときに、教会は平気でいることができないはずだ、とおっしゃるのです。教会は、罪に対しては断固として対決します。けれども、罪人に対しては、あきらめきれずに、もう一回、あと一回と捜しに行くのです。それは、私たちを赦してくださった主イエスを思うから。そして、仲間を与えて、その仲間を通して、ご自分の愛を知らせてくださる主を思うからです。

もっとくわしいメッセージは こちら

「もし、いたとなれば…その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。」 マタイの福音書 18章13節

子どもたちのように 2015年2月1日

聖書:マタイの福音書 18章1-5節

   あいかわらず一番偉いのはだれか、と競い合う弟子たちに、主イエスは「子どもたちのようにならなければ」と語られました。ただ神さまのあわれみによって受け入れられたことを知る人、そしてたがいをそのように受け入れ合う生き方が天の御国の生活だからです。ねたみ、怒り、たがいをつまずかせてしまう私たちに、主はくり返し語りかけてくださいます。何度でも、何度でも悔い改めて、立ち帰ったらよい、と。

もっとくわしいメッセージは こちら

「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」 マタイの福音書 18章3節

ヨシュア物語C 神さまに仕える決心 2015年1月25日

聖書:ヨシュア記 24章14-15節

   110才になったヨシュアは、死が近いことを知って、イスラエルの人々に「主に仕える」ように迫ります。心と言葉と行いとをもって神さまを愛するように言ったのです。民は誓ったのですが、ヨシュアは、彼らが神さまからそれていくことを予感していました。それでもヨシュアには、神さまのお覚悟がわかっていたようです。それは、背くイスラエルを愛し抜くお覚悟、そして、そのイスラエルの罪を全部ご自分でお引き受けになるお覚悟です。

もっとくわしいメッセージは こちら

「私と私の家とは、主に仕える。」 ヨシュア記 24章15節

ヨシュア物語B エリコの城壁 2015年1月18日

聖書:ヨシュア記 6章1-20節

   愛なる神さまの命令とはとても思えない聖絶。けれども、それは神さまがイスラエルとの愛の関係を守るためになさったことでした。愛なる神さまは、他には彼らを守る手段がないためにそうせざるを得ませんでした。激しい痛みをお感じになりながら。それは、イスラエルが神との交わりの中を生き、やがてそこから、御子イエスがお生まれになって、すべての人の救いになってくださるためでした。

もっとくわしいメッセージは こちら

「町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。」 ヨシュア記 6章5節

ヨシュア物語A 約束の地 2015年1月11日

聖書:ヨシュア記 3章1-17節

   ヨルダン川を渡って約束の地へ。雪解けで増水した川を前にイスラエルが思い起こしたのは出エジプトのできごとでした。あのとき海を分けたのと同じ神さまが、今もあわれんでくださる! 祭司たちが川に足を踏み入れたときに水がせき止められました。信仰は結果を見る前に踏み出します。神さまを信頼するのです。そんな私たちは、神さまを神さまとする者たち。神さまに導かれ、その導きに従う者たちです。大胆に愛することへと踏み出して生きるのです。

もっとくわしいメッセージは こちら

「ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。」 ヨシュア記 3章17節

ヨシュア物語@ 雄々しくあれ 2015年1月4日

聖書:ヨシュア記 1章1-9節

   モーセの後継者ヨシュア。恐れ、おののきふるえるヨシュアに神さまは、ご自分を信頼するように、「あなたの行く所どこにでも、あなたとともにある」からとおっしゃいました。ヨシュアの名のとおり、「主は救い」。ヨシュアがいかに非力であっても主が救いなのです。主に信頼する者たちは、律法という神さまと共の歩く歩き方に従います。その中心は愛ですから、私たちもじっくりと、愛し合い、赦し合い、教え合いながら、神の家族の立ち居振る舞いを身につけていくのです。

もっとくわしいメッセージは こちら

「強くあれ。雄々しくあれ。」 ヨシュア記 1章6節

 大吉ばかりのおみくじ?! 2015年1月1日

聖書:イザヤ書 53章1-12節

   私たちはおみくじに一喜一憂する必要がありません。なぜなら喜ぶことができないようなできごとを最悪のものにしてしまうのが罪。この罪という大凶は、主イエスが全部、十字架の上で引き受けてくださったからです。今年も大吉の毎日を! 

もっとくわしいメッセージはありません。

恵みの神さま 2014年12月28日

聖書:詩篇 118篇1-6節

   ユダヤ人は新年に118篇を歌います。出エジプトを想起しながら。そのとき感謝は「主」に献げられます。祝福にではなくその与え主に。それは神さまがご誠実で、どんなことがあっても神さまの愛は変わらないからです。そして神さまは、私たちの味方です。悲しみの中にいるときも、罪を犯したときでも、生き・老い・病み・死ぬどんなときも神さまは私たちの味方なのです。

もっとくわしいメッセージは こちら 今回、録音はありません。

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」 詩篇 118篇1節

ほんとうの王 2014年12月21日

聖書:マタイの福音書 2章1-12節

   東方(バビロン)の博士たち(星占い)は、星によって主イエスへ導かれ、「大きな喜びを、ひどく喜び」ました。ヘロデとちがって、主はほんとうの王。死に勝ち、恐れに勝つばかりか、私たちをも解き放ってくださったのです。

もっとくわしいメッセージは こちら

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。」 マタイの福音書 2章2節

救い主の誕生 2014年12月14日

聖書:マタイの福音書 1章18-25節

   マタイの福音書は、ヨセフに焦点を当てます。婚約者マリヤの妊娠に悩むヨセフに、神さまは一方的に恵みを注がれました。聖霊による救い主の誕生にヨセフの目を開いてくださったのです。神さまは、私たちの人生の最も暗い谷間に入りこんでくださるお方。そしてそこを喜びに輝くところに変えてくださいます。私たちが悩みの谷を通らなければならないときも恐れることはないのです。

もっとくわしいメッセージは こちら

「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」 マタイの福音書 1章21節

光の到来 2014年12月7日

聖書:イザヤ書 9章1-7節

   イザヤは神さまの熱心がイスラエルを、そして私たちを救うと預言しました。そんな神さまの思いが凝(こご)って、固まって、クリスマスに御子がお生まれくださいました。十字架を覚悟してくださった「平和の君」、主イエスです。主は神さまとの間に、他の人との間に、心の平安も含む平和をもたらすお方。私たちを生かし、人の世に生きる喜びを輝かしてくださるお方なのです。

もっとくわしいメッセージは こちら

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。」 イザヤ書 9章6節

神は私たちとともに 2014年11月30日

聖書:イザヤ書 7章1-17節

   紀元前734年、南王国ユダの危機に、イザヤは「処女が男の子を産む」とインマヌエル(神は私たちとともにおられる)の預言をしました。とても不思議なことですが、イザヤは神さまがあわれみあふれるお方であることを知っていましたから、信じて語りました。やがて来られた主イエスこそ、インマヌエル。私たちと同じ人となり、私たちの弱さを知った上で、支えてくださっているのです。

もっとくわしいメッセージは こちら

「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」 イザヤ書 7章14節

モーセ物語E 仰ぎ見れば、生きる 2014年11月23日

聖書:民数記 21章4-9節

   青銅の蛇を仰ぎ見れば、猛毒の蛇の毒から救われるとは、何という不思議!神さまは罪あるイスラエルの民をあわれんで、そのような救いの手段を備えてくださったのでした。やがて時を経て主イエスは、「モーセが荒野で蛇を上げたように」(ヨハネ3:14)ご自分も上げられなければならないとおっしゃいました。青銅の蛇を仰ぎ見ることは、実は御子の十字架を見上げることだったのです。

もっとくわしいメッセージは こちら

「モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。」 民数記 21章9節

モーセ物語D 十誡 2014年11月16日

聖書:出エジプト記 20章1-17節

   まず出エジプト、そしてシナイ山。イスラエルはよい民であったから救われたのではありません。神さまがあわれに思って救い出し、それからご自分と共に歩く歩き方を教えてくださいました。ですから律法は、おきてではなく神さまの愛のことばであり、私たちの旅の歌です。私たちは、この歌を口ずさみつつ、神と人への愛を生きるのです。

もっとくわしいメッセージは こちら

「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」 出エジプト記 20章3節

モーセ物語C 祈りの手 2014年11月9日

聖書:出エジプト記 17章8-16節

   戦いに長けたアマレクが、戦いを経験したことがないイスラエルを襲いました。そのときモーセは、両手を上げて祈り、また神さまを指し示す旗印となりました。神さまを信頼することに賭けたのでした。そのとき、疲れたモーセを支えたふたりの友がいたこともたいせつです。そして、これらのすべてをなしとげられたのは神さま。今も私たちのために戦ってくださっています。

もっとくわしいメッセージは こちら

「主は代々にわたってアマレクと戦われる。」 出エジプト記 17章16節

モーセ物語B 荒野のマナ 2014年11月2日

聖書:出エジプト記 16章31-36節

   神さまが毎日イスラエルに与えてくださったマナは「これは何だろう」という意味でした。神さまの恵みは不思議に満ちています。毎日その恵みに目を留めるなら、私たちは「いま」を活き活きと生きることができます。喜びをもって神さまと人に仕えることができます。

もっとくわしいメッセージは こちら

「イスラエル人は人の住んでいる地に来るまで、四十年間、マナを食べた。彼らはカナンの地の境に来るまで、マナを食べた。」 出エジプト記 16章35節

過越の夜 2014年10月26日

聖書:出エジプト記 12章1-14節

   永遠に記憶されるべき過越の夜。それは、神さまの大きなあわれみが現れた夜でした。苦しむイスラエルをあわれんだ神さまは、エジプトをさばき、イスラエルを過ぎ越されました。イスラエルがよい国民だからではなく、神さまのあわれみを拒まなかったからです。イスラエル人もエジプト人も罪人。その罪は羊の血で過ぎ越されたのですが、ついに主イエスの十字架の血で清算されたのでした。

もっとくわしいメッセージは こちら

「わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。」 出エジプト記 12章13節

モーセ誕生 2014年10月19日

聖書:出エジプト記 2章1-10節

   エジプトで苦しむイスラエルのために神さまはモーセのいのちを救って、エジプト中でただ一箇所の安全な場所で育てられました。王女のもとです。神さまは、イスラエルによって全世界に祝福を与えます。いかに権力を誇るパロであっても、神さまの世界に対するあわれみをとどめることはできません。私たちもまた、モーセのようにそれぞれの場所に引き出され、神さまと共に働いています。

もっとくわしいメッセージは こちら

「その子が大きくなったとき、女はその子をパロの娘のもとに連れて行った。その子は王女の息子になった。」 出エジプト記 2章10節

あわれんでください 2014年10月12日

聖書:マタイの福音書 15章21-28節

   娘を救って欲しいと懇願する異邦人の女性。主イエスは三度拒まれましたが、ついに女性を「あなたの信仰は大きい」とほめて、願いを聞いてくださいました。主が何と言われようが、女性は主を信頼することをやめなかったからです。この女性の信仰を大きくしたのは実は主。主は今も私たちの信仰を大きくしてくださいます。

もっとくわしいメッセージは こちら

「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」 マタイの福音書 15章28節

嵐の湖で 2014年10月5日

聖書:マタイの福音書 14章22-33節

   弟子たちをしいて湖に送り出した主イエス。それは弟子たちを成長させるためでした。湖は「主イエスを信頼すること」を覚える学校でした。「わたしである」は、いつまでも弟子たちに残る言葉となりました。大喜びで水の上を歩かせていただいたペテロ。主イエスから目を離しておぼれかけた彼を、主イエスはつかまえました。私たちも傷のある御手でつかまえてくださいます。

もっとくわしいメッセージは こちら

「『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。』と言われた。」 マタイの福音書 14章27節

あふれる祝福 2014年9月28日

聖書:マタイの福音書 14章13-21節

   有名なパンの奇蹟です。バプテスマのヨハネが殺されたことを聞かれた主イエスは弟子たちに、不安と恐れに立ち向かう教育をされました。それは、主イエスを信頼し、み手の中に自分自身を置くこと。そのとき、主イエスはこのときのパンのように私たちをお用いくださいます。豊かな祝福の基としてくださるのです。

もっとくわしいメッセージは こちら

「パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。」 マタイの福音書 14章20節

行って宣べ伝えなさい 2014年9月21日

聖書:マタイの福音書 10章1-15節

   それぞれが異なる12弟子。主イエスは彼らに権威を授けて送り出しました。私たちも主イエスに遣わされています。そして、「平安を祈るあいさつ」をします。私たちのうちにある祝福を注ぐのです。そして「天の御国が近づいた」と福音を語ります。使徒たちが二人ずつ遣わされたように、私たちも仲間どうし覆い合いながら、行って宣べ伝えることができます。キリストの権威によって。

もっとくわしいメッセージは こちら

「その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。」 マタイの福音書 10章12節

最も大きな祝福 2014年9月14日

聖書:マタイの福音書 9章1-8節

   運ばれて来た重い中風の病人。主イエスは、まず「罪の赦し」を宣言なさいました。罪の赦しが、最も大きな祝福だからです。複数形の行いとしての罪ではなく、単数形のその人の在り方としての罪です。こうして、主イエスは神さまから断ちきられていた私たちの在り方を赦し、受け入れてくださいました。「いのち」と「いのちにともなう祝福」の中においてくださったのです。

もっとくわしいメッセージは こちら

「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」 マタイの福音書 9章2節

ヨセフの物語C 神さまのすばらしい計画 2014年9月7日

聖書:創世記 45章1-15節

   兄たちと再会したヨセフは、すぐには自分を明かさず、ほんとうの和解を追い求めます。そこに神さまのすばらしい計画がありました。神の民イスラエルを創り出すとともに、ヤコブの一家を和解させようとしたのです。私たちもまた、たがいに本気で和解し、覆い合う民です。ヨセフのように、神さまが共にいてくださることを知り、み言葉を聴くことがその秘訣です。

もっとくわしいメッセージは こちら

「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。」 創世記 45章8節

ヨセフの物語B 運命を支える神さま 2014年8月31日

聖書:創世記 41章37-49節

   ヨセフは自分が望んだのではない場所に置かれました。私たちもしばしばそうです。ヨセフがそこで忠実に仕えることができたのは、神さまからの語りかけを聴いたから。「あなたをここに置いているのは私だ」と。「私たちの運命を支える方」は神さま。神さまは、ここを私たちのすばらしい働き場所としてくださっています。そしてやがて、さらに大きなみわざがなっていくのです。

もっとくわしいメッセージは こちら

「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか」 創世記 41章38節

和解のことば、和解の務め (予定が変更されました。) 2014年8月24日

聖書:コリント人への手紙第二 5章11-21節

   パウロはコリント教会の人々に、「神の和解」を受け入れるようにと懇願する。和解が必要なのは、敵であるから。私たちは神さまの敵、神さまといっしょに生きることを拒む者たちでした。けれども、神さまは十字架で一方的に私たちを和解してしまわれました。強引に。理屈を越えて。犠牲を払って。ほんとうの悲劇は、悲劇が終わっていることを知らないことにあります。だから、私たちも神さまとともに、パウロとともに和解の使者として懇願するのです。

もっとくわしいメッセージは こちら

「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」 コリント人への手紙第二 5章18節

ヨセフの物語@ 神さまの計画 2014年8月17日

聖書:創世記 37章5-11節

   ヨセフの夢。それは、アブラハムの子孫を通して全地を祝福するという神さまの計画の中心を、ヨセフが受け持つことを知らせるもの。ヨセフを支えるべき兄たちは、逆にねたんで悪を計りますが、神さまは大きなうでですべてを抱え、人の悪からさえも、良いことを生み出します。人と共に働きながら、人を作り変えつつ、ご計画を達成する神さまが、私たちの神さまなのです。

もっとくわしいメッセージは こちら

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」 創世記 50章20節

天からのはしご 2014年8月10日

聖書:創世記 28章10-22節

   兄エサウをだましたヤコブは野宿の夜、天からのはしごの夢を見ます。それは罪人のヤコブとの断絶を埋めるために、神さまがおろしてくださったはしごでした。そして神さまはヤコブのかたわらに立って、どこまでも祝福することを誓われました。私たちにも同じインマヌエル(神は私たちとともにおられる)の神がいてくださいます。十字架の主イエスが祝福してくださっているのです。

もっとくわしいメッセージは こちら

「まことに【主】がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」。 創世記 28章16節

神の友、アブラハム 2014年8月3日

聖書:創世記 18章16-33節

   「神の友」(ヤコブ書)と呼ばれたアブラハム。神さまは、ソドムとゴモラにしようとしていることをアブラハムに打ち明けられました。アブラハムは、われを忘れてとりなし続けます。それは、神さまのみこころにかなう祭司の役割。やがてアブラハムの家系から、大祭司イエス・キリストがお生まれになりました。私たちもまた、主によって祭司として、立てられています。

もっとくわしいメッセージは こちら

「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」 創世記 18章17節

わたしにとどまっていなさい 2014年7月27日

聖書:ヨハネの福音書 15章1-8節

もっとくわしいメッセージ、録音はありません。

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」 ヨハネの福音書 15章4節

ノアの箱船 2014年7月20日

聖書:創世記 6章5-22節

   世界に悪があふれ、心を痛めた神さまは、ノアに賭けることにしました。神さまを愛するノアとともに新しい世界を造ることを決心されたのです。そして、二度と「地をのろうことはすまい」と約束なさった以上、自然災害は神さまのせいではありません。神さまは私たちに寄り添い、ともに自然災害に立ち向かうことを励ましてくださっているのです。

もっとくわしいメッセージは こちら

「あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい。」 創世記 7章1節

【主の祈り】を知っていますか 2014年7月13日

聖書:マタイの福音書 6章7-13節

   主の祈りは、「福音の要約」と呼ばれます。神さまを「父よ」と呼ぶことをゆるされているのは、主イエスの十字架ゆえだからです。私たちにとって、みこころのままに、と祈り、生きることこそが幸い。もはや神のため、人のため、自分のため、の三つの「ため」に矛盾がない人生が始まっているのです。

もっとくわしいメッセージは こちら

「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」 マタイの福音書 6章10節

怒りにつける薬 2014年7月6日

聖書:マタイの福音書 5章17-32節

   主イエスは二つの道のうちのどちらかを選ぶようにと語っておられます。怒りを支配して、和解する「いのち」の道。怒りに支配され赦しを拒む滅びの道。どんな怒りにも含まれている正しさ。その正しさを握りしめるのではなく、そこからはみ出して覆い合う道。幸いなことに私たちはそんな道をすでに歩いています。そこから迷い出ることがありませんように。

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「まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」 マタイの福音書 5章24節

地の塩、世の光 2014年6月29日

聖書:マタイの福音書 5章13-16節

   福音は、「ですの福音」。主イエスは、あなたがたは、すでに今、「地の塩です。世界の光です」とおっしゃいます。腐敗を防ぐ塩、神さまを指し示す光。私たちはそのような存在です。ひとりひとりではなく、キリストのからだである教会として、塩であり、光。そのように、愛をもって覆い合う私たちの美しい在り方こそが、「良い行い」なのです。

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「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。」 マタイの福音書 5章14節

さいわいな人 2014年6月22日

聖書:マタイの福音書 5章1-12節

   「心の貧しい者」とは、何も持っていない者、物乞いです。神さまのあわれみをいただくしかないことを知る者は幸いです。神さまは豊かに与えてくださるからです。いのちを、愛を、何よりも主イエスを。主イエスとともにいることがほんとうの幸い。主イエスとともにいる私たちは、豊かで、しかもそれがみな神さまから与えられたことを知っている物乞いです。

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「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」 マタイの福音書 5章3節

主のすばらしさを味わい、これを見つめよ 2014年6月15日

聖書:詩篇 34篇1-22節

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「私はあらゆる時に【主】をほめたたえる。私の口には、いつも、【主】への賛美がある。」 詩篇 34篇1節

聖霊来る! 2014年6月8日

聖書:ガラテヤ人への手紙 5章16-26節

  キリストは 私たちを、内なる歪みから解放し、御霊の実に生きる自由を与えます。そのために信じる者に聖霊を送って住まわせてくださいます。そればかりではありません。私たちに仲間が与えられているのも、私たちが歪みに後もどりすることがないように、赦し合い、覆い合い、とりなし、祈って、支え合うためなのです。

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「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」 ガラテヤ人への手紙 5章22、23節

神さまの約束 2014年6月1日

聖書:創世記 3章14-24節

  15節は原福音(福音の原型)。やがて実現した主イエスの十字架の宣言です。神さまは、私たちを苦しめるへび、サタンを決しておゆるしになりません。そして、いのちの木の実への道は閉ざされましたが、「いのち」である主イエスが私たちのところに来てくださいました。礼拝で、聖餐で私たちは、この聖なるお方にお会いすることができるのです。

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「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」 創世記 3章15節

失楽園 2014年5月25日

聖書:創世記 3章6-19節

  「神さまと共に生きる生き方」には、喜びと愛があります。「そうでない生き方」には、恐れと恥との束縛があります。神さまはご自分から私たちを訪ね、主イエスの十字架によって、ご自分の腕の中に戻らせてくださいました。ここには自由があります。神さまと兄弟姉妹を愛する自由です。

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「神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』」 創世記 3章9節

禁断の果実 2014年5月18日

聖書:創世記 3章1-9節

  神さまと共にいること、その幸いから人は顔をそむけてしまいました。人の弱さや醜さにつけこみ、それを引きずり出して、人を悪い方向に突き動かす蛇の「悪魔のささやき」に屈したからです。けれども、私たちには兄弟姉妹がいます。たがいにみ言葉を思い出させ合い、祈り合い、戒め合うことが、このささやきに立ち向かうためのもっとも大きな力なのです。

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「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」 創世記 2章17節

幸いな親子関係のために 2014年5月11日

聖書:エペソ人への手紙 6章1-4節

  「父母を敬う」とは? 私たちと同じ不完全さを持ち、悩みながら、私たちを育てる責任を担い続けた親への感謝と尊敬と共感です。親子の関係はしばしば痛みに満ちたもの。けれども、私たちと親とを愛して、罪と弱さと未熟さごと抱き取ってくださった主イエスの腕の中で癒され、赦し合い、受け入れ合い、主イエスを指さし合う毎日は、もう始まっています。

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「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。」 エペソ人への手紙 6章1節

愛による創造 2014年5月4日

聖書:創世記 1章26-31節

  私たちは、神の本質である愛において、神に似せて造られました。「われわれのかたち」という三位一体の神は愛によって成り立っている存在。その愛が溢れ出して、私たちを満たし、神を愛し、たがいを愛し、すべての被造物に愛のケアを行う者に変えました。神に心をゆさぶられ、十字架がわかっただけではなく、人生と生活までもが変わったのです。

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「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」 創世記 1章27節

天地創造 2014年4月27日

聖書:創世記 1章26-31節

  天地創造は愛からの創造。神さまは、愛するために私たちを創造され、「非常に良かった」とされました。私たちは存在するだけで、神さまの喜びです。罪によって損なわれてしまった世界と私たちですが、復活の主イエスが注いでくださる聖霊によって、私たちはもう一度、新しく創造されました。この愛の神さまをほめたたえましょう。

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「初めに、神が天と地を創造した。」 創世記 1章1節

涙の消える朝 2014年4月20日

聖書:ヨハネの福音書 20章11-18節

  最初のイースターの朝、マグダラのマリヤは涙にくれていました。自分を恐ろしい苦しみから救ってくださった、主イエスのおからだが見当たらないのです。けれどもその涙は、主に名前を呼ばれたときに止まりました。主は、マリヤに、私たちに、そしてすでに召されたすべての人々と共にいることを望んで、復活してくださったのでした。

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「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」 ヨハネの福音書 20章15節

新しい人間関係 2014年4月13日

聖書:ヨハネの福音書 19章23-30節

  主イエスの十字架の第三言は新しい人間関係である神の家族、教会という家族を作り出しました。神さまが十字架に架かってくださって、みこころを行う人々の集まりが生み出されたのです。そのみこころとは、たがいの関係をたいせつにすることです。問題の解決よりも、和解に焦点を合わせるときに、神の家族はその輝きをこの世に現すのです。

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「それからその弟子に『そこに、あなたの母がいます』と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」 ヨハネの福音書 19章27節

勇敢な人生 2014年4月6日

聖書:ヨハネの福音書 16章29-33節

  主イエスが「世に勝つ」とおっしゃるのは愛の勝利。愛し抜く勝利。十字架の上で、ご自分を憎む者たちを愛し抜かれた主こそ勝利の主です。私たちも主イエスにとどまるなら、勝利の人生を生きることができます。主イエスの訓練によって、主がご自分を注ぎ出されたように、愛することができるのです。

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「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」 ヨハネの福音書 16章33節

実を結ぶ人生 2014年3月30日

聖書:ヨハネの福音書 15章1-10節

  主イエスは最後の説教の中で、ご自分にとどまる者は豊かな実を結ぶ、と約束してくださいました。主イエスが実を結ばせてくださるのです。それは、主が実を結ばないことを惜しんでくださるからです。惜しんで、ご自分を与えて豊かな愛の実を結ばせてくださるのです。この結実は、安心して愛することに練達することができる教会で起こります。

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「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」 ヨハネの福音書 15章5節

私たちの場所 2014年3月23日

聖書:ヨハネの福音書 14章1-6節

  「わたしのいる所に、あなたがたをもおらせる」(3)と主イエス。主のうでの中が私たちの場所です。そこで私たちは「道であり、真理であり、いのち」(6)である主イエスによって、大胆に生きるのです。大胆に、シンプルに。

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「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」 ヨハネの福音書 14章2節

足を洗うキリスト 2014年3月16日

聖書:ヨハネの福音書 13章1-15節

  過越を前に、あわれみに胸を熱くして、弟子たちの足を洗った主イエス。(1)奴隷のように仕える愛(2)ユダさえ洗う愛(3)十字架で私たちを解き放つ愛がそこに。救われた私たちも毎瞬間ごと主イエスに洗っていただいて、いのちを新しくしていただき、力を与えられて、たがいを愛し合い・洗い合う生涯を歩むのです。

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「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」 ヨハネの福音書 13章8節

一粒の麦 2014年3月9日

聖書:ヨハネの福音書 12章20-28節

  イエス・キリストと共にいる人生は豊かに実を結ぶ人生。キリストが十字架の上ですでに死んでくださったからです。主イエスといっしょにいるために一つだけ大切なことがあります。「自分のいのちを・・・憎む」(25)、すなわち主イエスといっしょでいることをさまたげるような生き方を、憎んで離れることです。

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「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」 ヨハネの福音書 12章24節

愛されて生きる 2014年3月2日

聖書:マタイの福音書 17章1-8節

  山の上で輝く「天の白さ」に変容された主イエス。その輝きの中で十字架が語り合われていました。神さまの狂おしい愛の現れ、十字架。神さまのみ声にひれ伏すペテロたちに、主イエスはご自分から近づいてさわってくださいました。私たちも主イエスの輝きへと変えられていきます。主イエスの狂おしいほどの愛に愛されて生きているからです。

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「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」 マタイの福音書 17章5節

わたしの十字架 2014年2月23日

聖書:マタイの福音書 16章21-26節

  イエス・キリストは私たちへの愛ゆえに、苦しみを受け、十字架で死んでくださいました。そして、十字架を負い、ついて来るようにと招かれています。それは、それぞれの人生の中で、キリストの心で生きること。キリストのように自分を与えて生きること。キリストがそれを可能にしてくださいます。ついて行く私たちを絶えずふり返り、また仲間を与えてくださることによって。

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「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」 マタイの福音書 16章24節

たいせつな質問 2014年2月16日

聖書:マタイの福音書 16章13-20節

  一番たいせつな質問に対するペテロの答は、「あなたを神と信じ、従います」でした。主イエスに接ぎ木され、いのちが流れ込んでこの信仰告白をする力が与えられたのでした。同じ告白をした仲間は一致して生きていきます。覆い合い、抱きしめ合い、癒し合いながら。キリストを土台として教会に生きるキリスト者の生き方がそこにあるのです。

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「シモン・ペテロが答えて言った。『あなたは、生ける神の御子キリストです。』」 マタイの福音書 16章16節

みことばの光 2014年2月9日

聖書:詩篇 119篇105-112節

  トーラー(神さまの教え)の恵みをじっくりと教える119篇。神さまは恵み深くも、忍耐強く私たちの足もとを照らし続けてくださいます。私たちが失敗するときも、みことばは神さまと歩き続けるようにと教えます。失敗よりも大きな神さまをより頼むのです。神さまはピンチのときにも大逆転をしてくださり、私たちをしなやかななめし革のような愛の人に変えてくださるお方なのです。

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「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」 詩篇 119篇105節

神さまが避難所 2014年2月2日

聖書:詩篇 46篇1-11節

  紀元前701年のアッシリアによるエルサレム包囲を背景に持つ詩篇46篇は、紀元1521年のヴォルムス議会でもルターを励ましたことでしょう。神さまはどんな混乱の中でも最終的な守り手です。信頼することができるお方です。そしてこのお方が私たちに使命を与え、達成させてくださるのです。赦し、受け入れ、癒し合う使命です。

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「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」 詩篇 46篇1節

神さまは羊飼い 2014年1月26日

聖書:詩篇 23篇1-6節

  神さまは羊を愛する羊飼い。私たちを愛し、造り変え、神さまとの正対する関係に導いてくださいます。この関係は、そのうちを歩み続けるなら、ますます輝きを増します。そして、地上の生涯の終わりに私たちは踏み切り板を跳んで、神さまのふところに跳び込むのです。どこまでも追ってくる神さまの恵みによって。

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「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」 詩篇 23篇1節

幸福の秘訣 2014年1月19日

聖書:詩篇 1篇1-6節

  聖書の「知る」(6)は人格と人格の深い交わりを意味することば。夫が妻を「知る」と子どもが生まれます。そのように知り合うことが本当の幸福。神を知り、神に知られ、周りの人ともたがいに知り、知られる人生。私たちがそこから漏れることに耐えることができずに神は人となって、十字架に架かってしまいました。

もっとくわしいメッセージは こちら

「まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。」 詩篇 1篇6節

試練の中の賛美 2014年1月12日

聖書:ヨブ記 1章1-22節

  「主の御名はほむべきかな」(21)。ヨブは自分を愛して、どこまでも抱きしめ続けてくださる神さまを知り、その愛を信じていました。そんな神さまが好きだったのです。ですからどんなことがあっても、神さまを賛美することができました。私たちも賛美することができます。そしてその賛美が伝道の実をもたらすのです。

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「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」 ヨブ記 1章21節

新しい創造 2014年1月5日

聖書:コリント人への手紙 第二 5章13-19節

  「新しく造られた者」たちは、キリストのうちに抱きしめられている者たち。キリストの愛に取り囲まれて、キリストと一つ思いで、キリストに仕える者たちです。キリストという「いのちの火」を、ろうそくリレーのように、手渡していくことができるのです。それを可能にしてくださるのは、キリスト。だれよりも私たちの友の救いを望んでくださるお方です。

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「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」 コリント人への手紙 第二 5章17節

主をほめたたえよ 2013年12月29日

聖書:詩篇 103篇

 ダビデの感謝と賛美の詩篇103篇に、私たちも心をあわせましょう。神さまのしてくださったみわざ(7)は、私たちを神さまの手からだけ受け取って生きる者にし、神さまのあわれみ(13)は私たちを喜びに満たして周りの人々の祝福の源としているからです。悩みの中にあるときも、「あなたは神に愛されている神の子だ」と自分にいい聞かせるのです(2)。

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「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。」 詩篇 103篇1節

光の到来 2013年12月22日

聖書:ヨハネの福音書 1章1-5、9-14節

 「信じる」ことは、夜明けに似ています。神さまの恵みによって、自分の問題が明らかになっていき、気がつけば主イエスの光の中にいるのです。クリスマスはそのために支払われた神さまの側の大きな犠牲を思うときでもあります。すべての人は「まことの光」を必要としています。今日福音をきいた方々が完全防水加工の心を持つことがありませんように。

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「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」 ヨハネの福音書 1章9節

そのひとり子を 2013年12月15日

聖書:ヨハネの福音書 3章16-21節

「与える」という言葉には「捨てる」という意味合いがあります。主イエスというクリスマスのプレゼントには大きな犠牲がありました。それは私たちの罪が赦されるだけでなく、罪の原因である傷や歪みがいやされるためでした。主イエスを受け入れる人々にはこの恵みがますます豊かに与えられていきます。

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「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 ヨハネの福音書 3章16節

再臨の主を待ち望む 2013年12月8日

聖書:ヨハネの黙示録 22章12-21節

【この世の渇き】
くずはモールにもクリスマス・ツリーがたてられているでしょうか。アウグスティヌスは「神よ、あなたは私たちをあなたに向けて造られました。私たちはあなたの内に安らうまでは安らぎをえません」と書き、パスカルは「人間の心には神の形をした空洞がある。神のもとに帰るまでは何をもってしても空白は埋まらずむなしさは満たせない」という意味のことを述べています。行き交う人々の中にもほんとうのクリスマスへのあこがれがあります。

【ヨハネの黙示録】
ヨハネの黙示録は、紀元90年頃、ローマ皇帝ドミティアヌスの時代に書かれました。ドミティアヌスは、初めて公に自分は「神であり主である」と宣言した皇帝。キリスト教会の「イエスは主」という信仰とは相いれません。使徒ヨハネも、パトモス島に流刑にされました。その島でヨハネは、教会とクリスチャンを励まし、また警告を与えるために黙示録を書きました。黙示録には将来おこるできごとも含まれているのですが、もっとも大切なことは、キリストを主として今を生きることです。主イエスの再臨までの間、光を待ち続けることが励まされているのです。

【A to Z】
「A to Z(AからZまで)」といえば、「すべて」という意味です。「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである」(13)とおっしゃった主イエスはすべての主です。世の終わりの再臨はまだ来ていないけれども、主イエスがおられないと思ってはならない。今も主イエスは私たちを照らしてくださっている。主イエスの愛は私たちに注がれている。かつて十字架の上で、死んでくださった主イエスの愛。私たちを放っておくことができないで、十字架に自分を投げ出してしまわれた主イエスの愛が、今も私たちに注がれています。

「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」(17)のみことばもいつも真理です。いつでも主イエスはこの水を飲ませてくださる。そして飲むものはいやされ、新しいいのちに満たされていきることができるのです。その水とは主イエスご自身です。

【マンデラ】
金曜日、南アフリカ共和国のマンデラ元大統領が死去しました。反アパルトヘイト(人種隔離)闘争の指導者で、密告されて逮捕され、27年半牢獄で過ごした人物です。

圧政や密告の恐怖が支配していた時代に南アフリカのある聖書学者が黙示録の注解書を書きました。その中で「(このような)抑圧された社会でこそ、黙示録の御言葉は真に励ましとなる」と言っています。黙示録のみことばは、そのように人びとを励ましてきました。人びとに主イエスといういのちの水を飲ませてきたのです。

私たちも主イエスといういのちの水を毎日、そして毎瞬毎瞬飲み続けるならば、困難のなかでも希望に生き続けることができます。そして私たちがこの世界でキリストに希望を持っているということは決して小さなことではないのです。私たちは小さな存在です。けれども、キリストは小さくない。大きなキリストが、小さな私の存在を通して、この世界を変えていくのです。

マンデラ元大統領はクリスチャン。牢獄から釈放され、大統領に選ばれてまっさきに、「アパルトヘイト時代に犯した差別の過ちは、自主的に告白し悔い改めれば刑事訴追しない」ことにしました。そして復讐ではなく、赦し合うことによって、南アフリカの社会は民族の対立から癒されていきました。

主イエスの再臨を待つ私たちは幸いです。主イエスの愛のうちに、主イエスの光を輝かせながら、「アーメン。主イエスよ、来てください」と声を合わせましょう。

「アーメン。主イエスよ、来てください。」  ヨハネの黙示録 22章20節

神を待ち望む 2013年12月1日

聖書:イザヤ書 40章27-31節

【ヤコブよ。なぜ?】
イザヤ書の40章にはバビロン捕囚からの解放が預言されています。苦難の捕囚の中でも、人々には神さまのみことばがありました。バビロン捕囚の100年以上前に神さまは、イザヤを通して、苦しい捕囚の時代を耐え抜くために必要なみことばを与えてくださっていたのです。イスラエルを神さまは、優しく叱ります。「ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。『私の道は【主】に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている』」(27)と。イスラエルであるにもかかわらずまるで昔のヤコブのように、神さまを信頼しないで失望しているイスラエルに、神さまは「あなたはイスラエルではないか。なぜヤコブのように振る舞うのか。なぜ私を信頼しないのか」とおっしゃいます。同じ呼びかけは私たちにも聞こえてきます。「あなたはなぜ私を信頼しないのか。なぜ失望しているのか。もうだめだ、と言い張り続けてはいけないよ」と、やさしく叱ってくださるのです。

【永遠の神】
神さまの声はただ、やさしいだけではありません。そこには力強い響きがあります。「あなたは知らないのか。聞いていないのか。【主】は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない」(28)と。「永遠の始まりからいつもいるわたし、決していなくなることがない私。世界のすべてを創造した私が、あなたを愛しているのだよ」。そうおっしゃいます。私たちもまた、失望の中でも、私たちがどのようなお方に愛されているのかを、思い出したいと思います。そして、この神さまは私たちの上に身をかがめるようにしてくださった神さま。実にそのひとり子を私たちにくださった神さま。クリスマスの神さまです。

【鷲のように】
私たちの生涯は、神さまの力に満ちた生涯です。「鷲のように翼をかって上ることができる」(31)とあります。鷲の飛び方は帆翔(はんしょう)飛行というのだそうです。つまり、翼を帆のようにはって、上昇気流にのって飛ぶのです。自分の力でばたばたと飛ぶならすぐに疲れてしまいます。けれども、神さまに信頼して神さまの力で生きるなら、私たちも高く昇ることが出来ます。自分の力では決して届くことができない高みへと昇ることができるのです。

【炎のランナー】
エリック・リデルは、たいへんすぐれた短距離選手でしたが、日曜日には必ず礼拝を守りました。1924年、イギリス代表としてパリ・オリンピックに出場することになったリデルは、自分が出場する予定の100mが日曜日に行われることを知り、400mに転向しました。そして100mの決勝が行われた日曜日、パリの教会の礼拝で今日の箇所から説教をしました。「しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(31)というみ言葉の通りに、数日後みなの予想を覆して金メダリストになったリデルは、やがて中国宣教に遣わされます。ところが戦争が始まって、リデルは日本軍に捕らえられ収容所の中で病死します。しかし、リデルは、「【主】を待ち望」んで「力を得」、日本人を愛しました。「たゆまず」、「疲れない」で日本人のために祈り続けたのです。

収容所でのリデルの聖書クラスに、スティーブン・メティカフという少年がいました。彼は日本人を愛することなどできないと思っていましたが、リデルの「日本人のために祈ってごらん。人を憎むとき、きみたちは自分中心の人間になる。でも祈るとき、きみたちは神中心の人間になる」という言葉によって変えられていき、やがて日本宣教師となりました。

神さまは私たちを今まで見たこともないような景色を見ることができる高みへと連れていってくださいます。クリスマスに来られた主イエス。主イエスを信じる者の中にはそんなすばらしい神さまのみわざがもう始まっているのです。

「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。」 イザヤ書 40章31節

あなたは神さまの喜びです 2013年11月24日

聖書:マルコの福音書 12章38-44節

【献金とは何でしょうか】
神さまは、献金の金額を喜ばれるのではありません。献金の心を喜ばれます。献金そのものではなく献金をする私たちを喜んでくださるのです。献金とは自分自身を献げること。花嫁が花婿とひとつになるように、神さまに自分を献げて神さまのものになること。これは本当に大きな喜びだと思います。神さまにとっても、私たちにとっても。

【律法主義につける薬】
今日の箇所で、主イエスは律法学者たちについてずいぶん厳しいことをおっしゃっています。「こういう人たちは人一倍きびしい罰を受ける」(40)。律法学者たちの問題は、「自分たちを神さまがそのままで受け入れてくださっている」ということをいつのまにか忘れてしまうことです。そして、見栄を飾ることによって自分が神のみこころにかなった者であると、自分でも納得したような気になっている。まるで、神さまにさえも、「神さま、私があなたのみこころにかなう者であること、あなたも認めるべきです」といわんばかりのところがあります。神さまが私たちをあわれんで、身をかがめるようにして、私たちを抱きあげるようにして救ってくださったことを忘れてしまっている。そして、自分という人物を誇っている。他の人よりも自分はましだと思っている。だからほかの人から酬いをうけるのも当然だと思っている。「また、やもめの家を食いつぶし」(40)とあるとおりです。これが律法主義です。律法を守ることによって評価されようとするのです。

律法主義の害は二つの方向に働きます。「自分はよくできた」と思うときには「他の人より自分は神さまに受け入れられている」。そう考えて自分を誇り、他の人を見くだします。また「自分があまりできなかった」と思うと「自分はだめだ」と落ち込んだり、他の人をうらやんでひがんだりするようになります。何よりの問題は、「自分は神さまに受け入れられている。よくできたときも、そうでないときも、このままで神さまに喜ばれている」という一番たいせつなことを忘れさせてしまうことにあります。

ですから主イエスはこの律法主義に対して、厳しく対決されました。私たちが自分に目を注いで神さまから目をそらし、その結果、喜びを失っていくことを惜しまれるからです。このしつこい律法主義に付ける薬はあるのでしょうか。それは十字架。ただ十字架だけによって救われたことを心に刻むことが唯一の薬です。

【レプタ2つ】
レプタ2つを献げたやもめを主イエスはとても喜ばれました。「どの人よりもたくさん投げ入れました」(43)と。このやもめは、律法学者よりも献げることにおいて優れていたから、喜ばれたのではありません。やもめは、毎日生活費を全部献げていたわけではありません。主が喜ばれたのは、やもめそのもの。神さまを愛して、思わず財布を空にしてしまったこの女性を喜んでくださった。今夜、飢えなければならないとしても、そこからも解き放たれて、神さまの御手の中に自分をゆだねてしまったこの女性を主イエスは喜んでくださったのでした。

【主イエスのまなざし】
「それから、イエスは・・・人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた」(41)。この宮でのやもめの献金のできごとは主イエスのまなざしの中で起こりました。それはあわれみのまなざし。人々の中に神さまへの愛があるならば、それがどのような愛であっても、決してみのがすまい、と待ち構えてくださっている主イエスのまなざしです。同じまなざしは、すべての人に注がれています。律法学者たちにも。

私たちの中にも律法主義があります。自分ができた、できないと一喜一憂する心。神さまのあわれみを忘れてしまう罪深さ。それは厳しい罰に値するのだけれども、その罰を主イエスは代わって受けてくださいました。私たちが罰せられないために。私たちが救いから漏れてしまうことがないため。私たちも、やもめのように心を解き放っていただき、喜びをもって、自分自身を神さまに差し出したいと思います。

「この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。」 マルコの福音書 12章43節

メサイア! 王の王、主の主 2013年11月17日

聖書:マルコの福音書 12章35-37節

【この世の王ではない王】
「キリスト」(35)とあるのはユダヤ人たちのことばで言えば「メシア」、すなわち救い主のことです。預言者たちは、ずっとダビデの子孫から「救い主」がお生まれになるということを預言してきました。「ダビデの子」というのはユダヤの言葉づかいで、ダビデの子孫という意味です。ところが、ここで主イエスは、「 ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう」(37)とおっしゃったのです。でも、これは預言の否定ではありません。主イエスがおっしゃったのは、ご自分が本当の救い主であるということです。「私は単なる人間の王をはるかに超えた救い主である」と、宣言されたのでした。主イエスが与えてくださるすばらしいことは、たくさんあります。今日はそのうちから二つのことをお話しします。

【ほんとうの平和】
「ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています。『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい」』」(36)とあります。敵を従わせるときには平和が訪れます。ダビデの時代というのは、おおむね平和な時代でした。強い軍事力を持っていたからです。でもそれは、本当の平和ではありませんでした。救い主、主イエスは、ほんとうの平和を与えてくださいます。ほんとうの平和は、力によっては実現されません。たいせつなのは、心からの和解です。そして人の心を変えることができるのは神さまだけです。ほんとうの平和は、愛し合うところから生まれます。今までさばき合っていた人たちが、心から赦し合うところに、平和が生まれます。今まで拒絶していた相手を、心から受け入れるときにほんとうの平和があります。主イエスは、ダビデの子どころではありません。主イエスは神です。その主イエスがご自分を投げ出してくださったのは、私たちがほんとうの平和を生きるためです。

エペソ人への手紙の2章13-16節。ここはもともとはユダヤ人と異邦人が一つにされるということを言っているところです。水と油ほどもちがうユダヤ人と異邦人がキリストの血によってひとつとされました。私たちもそれぞれに、異なる考え方、異なる経験をもっています。人間的に考えるなら、一致することはとても難しいことです。けれどもキリストの血は、今も私たちをひとつにすることができます。ほんとうの平和をもたらしてくださるのです。

【ほんとうの幸せ】
主イエスはあわれみ深い王。私たちと交わることをこよなく喜ばれる王です。神の国はイザヤ書25章6-9節に祝宴によって表現されています。主イエスが地上でもたれた祝宴は、やがて再臨のときに実現する大宴会のイメージを先取りするもの。すべての人、とりわけ取税人や罪人が招かれました。そして主イエスは彼らに仕えてくださいました。

礼拝をはじめクリスチャン生活には祝宴の要素があります。神と人が、そして人がたがいにたがいを喜び合う。私たちは神さまの喜び。神さまは私たちを喜んでくださっていて、私たちと時を過ごすことを楽しまれる。だから、私たちは、たがいをそのような存在として見る必要があります。たがいに「あなたは幸いな人です。神さまの喜びです」と祝福し合い、仕え合うのです。本当の幸せとは何であるのか。それはたがいに仕え合うことにあります。神さまのみ前で、たがいに仕え合うことこそが、本当の幸せなのです。

かつては人に仕えることも、そして人に仕えていいただくこともほんとうにはできない私たちでした。けれどもキリストが私たちを新しくしてくださいました。Uコリントに「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(5:17)とある通りです。主イエスの十字架が与えた新しさの中にますます自由に解き放っていただきましょう。

「ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう。」 マルコの福音書 12章37節

それは、愛 2013年11月10日

聖書:マルコの福音書 12章28-34節

【あっぱれな!】
今日の箇所の議論は、先週までの議論とは少し違います。この律法学者は、主イエスを陥れようとして議論をしかけたのではありません。「この方なら、私がずっと心に抱いている疑問に答えてくれるにちがいない」、そう思って主イエスに「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか」(28)と尋ねました。主イエスの答はなんだったでしょうか。それは、愛。神と人を愛することだ、とおっしゃった。主イエスのお答えに、この律法学者は心から満足しました。その律法学者の受け止め方を見た主イエスは「あなたは神の国から遠くない」(34)とおっしゃいました。「あなたは見事だ。あっぱれだ」と。私たちも主イエスのお言葉をあっぱれに受けとめさせていただきたいと思います。

【それは、愛】
主イエスの見事な答ですが、そもそもは、一番たいせつな戒め、命令を尋ねられたわけですから、一つだけを答えればよいようなものですけれども、主イエスはあえて「神を愛すること」(申命記)と「隣人を愛すること」(レビ記)のふたつの聖書を引用されました。それは、神さまを愛することと隣人を愛することはひとつだとお考えになったからです。そして、「あなたは神の国から遠くない」、つまり神の国に入る者は、神さまを愛し、隣人を愛する者だとそうおっしゃった。

そう言われると私たちは考え込まざるを得ません。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と命令されても、やっぱりそうはできないと、悲しみながら告白しなければならないからです。そしてさらに、私たちは自分さえも愛することができません。自分を愛し、自分を完全に受け入れている人などいないのです。

【湧き上がる愛】
神さまも、隣人も、自分自身も愛することができない私たちに「愛せよ」と主イエスは命令されます。そもそも、愛とは命令されて愛することができるようになるものだろうか、とも思います。

ここで見過ごしてはならないのは主イエスが、二つの戒めの最初に言われていること。「イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である」(29)です。「ここでいう我らの神である主」とはどういう神さまであるのか。この聖句のもともとの出所である申命記では、これはエジプトの奴隷であったイスラエルを救い出してくださった神さまです。イスラエルをあわれんで、かわいそうに思ってくださった神さま。イスラエルを愛して助け出さずにはおれなかった神さま。その神を思うとき、イスラエルのうちには愛が湧き上がったのです。私たちには、さらに大きな神の愛が迫ってきます。それは主イエスの十字架にあらわれた神の愛。私たちのために人となって十字架にかかってくださった主イエスの愛。この愛を思うとき、私たちは神さまを愛さずにはおられなくなります。そして、自分を愛さずにもおられなくなる。なぜなら、この自分は神さまに愛され、神に受け入れられているからです。自分の隣人も、神さまにそのような愛で愛されている、神さまにとってたいせつな存在です。そう思うとき、隣人に対する愛が湧き上がります。

私たちが愛のない自分に気がつくときに、「私はだめです、愛することができません」と言って終わってはなりません。そのとき私たちは「愛しなさい」という命令を出したお方がどれほどの愛をもって私たちを愛してくださったかを思い出すのです。そうするなら、私たちは自分を愛して、受け入れることができます。愛に生きる生き方はすでに私たちの中に始まっています。神の国はすでに私たちの中で始まっているからです。ますます愛に生きるために、神さまの愛を思うことがたましいの習慣になるまで思い続け、私たちのまわりの人々にもこの愛を知らせましょう。

「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」 マルコの福音書 12章28節

希望に生きる 2013年11月3日

聖書:マルコの福音書 12章18-27節

【私たちの悲しみ】
私たちはみな愛する人々との別れを経験してきました。そして彼らに会いたいと心から願います。聖書によるなら、死は終わりではありません。死を超えて私たちは愛する人々に会うことができます。でもひとつたいせつなことがあります。それは私たちが愛する者を恋い慕うよりも、はるかに私たちを恋い慕う神さまの愛。私たちの愛よりももっと強い神の愛が死を超える、ということです。

【復活論争】
サドカイ人たちは復活を信じません。それに対してパリサイ人たちは、復活を信じていました。主イエスはパリサイ人のようにローマからの独立を考えておられたわけではありませんが、復活を信じるという点ではパリサイ人に近いということができます。サドカイ人の質問は復活を信じる者の矛盾を突くためのものでした。もし復活があるなら、7人の兄弟と一人の妻がみな復活する。そのときこの女性はだれの妻なのか。正式な結婚を7回しているのだから、7人の兄弟は全員、この女性を妻と呼ぶ権利をもっているはずです。けれども、ひとりの女性はひとりの男性の妻にしかなることができない。確かにこれはパリサイ人を袋小路に追い込む質問でした。

ところが主イエスのお答えはサドカイ人たちの予想とはまったく違うものでした。主は彼らを、「聖書も神の力も知らない」とお叱りになり、「人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのよう」(25)だと教えました。私たちは「神さまの手の中に抱かれている天使のような存在」になる。私たちを愛して、私たちが死んだままでいることに耐えられない神さま。私たちが死んで、跡形もなくなってしまうことを惜しんでくださる神さまが、私たちを死の中から取りだしてくださる。復活させてくださる。それは何のためか。私たちを手の中に抱いてくださるため。ご自分のみそばに私たちをおいて愛し続けるためです。

【聖書も神の力も】
サドカイ人たちは大きな間違いをしました。聖書に現れた神の力を知らなかったからです。死の中から自分たちを復活させることができる神の力を知らなかったからです。私たちを死の中から取り出して、ご自分の手の中におかずにおれない神さまの愛をしらなかったからです。

神の力を知らないという意味では、パリサイ人もまた間違いをしでかしました。パリサイ人はこのような質問に、「復活の際には、女性は最初の夫の妻になる」と答えるのが常でした。復活して生きる世界がこの世界と同じ程度の世界だとしか思っていませんでした。聖書が教える神の力を知るならば、そんな地上の夫婦の関係以上のすばらしい再会があることを期待するはずなのに。

主イエスは、私たちが死んですぐに天国へ移るとはおっしゃっておられません。私たちはみな死んで、やがて復活のときに一斉によみがえります。そのとき私たちはどのように顔を見合わせるのでしょうか。ある人は言っています。「天の御使いたちのようになるということは、地上での人間関係の絆はすべて解かれてしまう、というのではない。復活のときには、親と子が会ってもわからないというのではない。神の手の中では、私たちの関係も新しい輝きを持つことになる。神の手の中でますます輝きを増すだろう」と。夫婦もまた、地上の夫婦の愛以上の愛に生きることになると考えることが許されると思います。創世記には、「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」(2:24)とあります。神さまが結び合わされた親子以上に深い絆が、復活のときには解消されるはずがないからです。それがどのような輝きであるのかを空想する必要はありません。私たちの空想以上のことをしてくださる神の力を信じればよいのです。決して、「復活などない。神さまの力など信じない」などと心をかたくなにすることがありませんように。

「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」 マルコの福音書 12章27節

幸いへの道 2013年10月27日

聖書:マルコの福音書 12章13-17節

【すべてのものは神さまのもの】
「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」(17)という主イエスの言葉は、「この世界は二つに分かれて、カイザル(皇帝)と神さまのふたりで治められている」かのように受け取られることがあります。そうなると「神さまの領域には皇帝は手を出せない。そのかわり、皇帝の領域には神さまが手を出せない」、そんなふうに思ってしまうことになりかねません。これはあきらかに誤りです。すべては神さまのものだからです。

でも、私たちは毎日の生活の中で、すべてを神さまに返すことができない立場に思い詰められていくことがあります。そして、「これは信仰では、どうしようもないのだ」と自分で自分に言い聞かせて、神さまのものを神さまにお返ししないでいてしまうことがあります。けれども、@すべてのものは神さまのものです。神さまの領域の外にあるものなどありません。神さまに支配できないことなど何もないのです。だから、A神さまのものを神さまにお返しするなら、後は神さまが引き受けて、めんどうをみてくださるのです。

【ではカイザルは?】
それでは、「カイザルのものはカイザルに返しなさい」(17)は、どういうことでしょうか。神さまがすべてを支配なさる世界で、カイザルはどういう役割を果たすのでしょうか。

パウロはこのことについて、ローマ人への手紙で「存在している権威はすべて、神によって立てられたものです・・・彼(支配者)は神のしもべ・・・」(13:1,4)と書いています。皇帝であれ、その他の権威にせよ、それは神さまがお用いになる道具です。カイザルもまた神さまのものです。神さまの手のうちにあるのです。カイザルに税金を渡すことは、「神さまの手のうちにある」カイザルに税金を渡すことです。結局、クリスチャンたちは、それがカイザルを通すにしても、すべてを神さまにお返しするのです。もちろん、カイザルの言うことであれば、よいことでも悪いことでも何でも従うというのではありません。パウロも相手がたとえ王であっても、堂々と福音を伝えました。また、権威ある相手であっても、間違っているときには、おそれずにただしました。

【主イエスの十字架】
この箇所には主イエスを、おとし入れようとする人々の悪だくみ、逃げ場のないような巧みな罠があります。主イエスが「カイザルに税金をおさめなさい」と言えば、ユダヤの群衆は怒って主イエスから離れていきます。だからといって、主イエスが「カイザルに税金を収めるな」と言うなら、反逆者としてローマに処刑されてしまう。主イエスは絶体絶命です。けれども主イエスは「とんち」を働かせて、「神のもの」と「カイザルのもの」を使い分けることでうまくピンチを逃れたのではありません。そもそも主イエスは結局、この数日後には群衆の怒りをかいます。ユダヤをローマから独立させる救世主だという群衆の期待にそむいたからです。同時に主イエスは、自分を王としたということで、ローマへの反逆罪にも問われて処刑されてしまいます。ですから主イエスはピンチを切り抜けるどころか、自ら十字架への道を選び取られたのです。だから、ここには主イエスの生命をかけたメッセージがあります。

それは、神を信じて生きることです。地上のすべては神のものであって、私たちの生活の中で、神さまの力が及ばない場所などないことを信じて生きるように、主イエスは教えておられます。

【すべてのものを神さまに】
そして、神さまのものを神さまにお返しすることは、私たちにとっていやなことではなく、喜びです。私たちの心のほんとうに深いところにある願いは、私たち自身を神さまにお返しすることです。今、B私たちが喜んでそうすることができるのは、主イエスの十字架によってあがなわれ、主イエスの復活のいのちを豊かに注がれているからです。「神のものは神に返しなさい」。すべてのものを神に返すこと。これが幸いへの道なのです。

「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」 マルコの福音書 12章17節

喜びの泉 2013年10月20日

聖書:マルコの福音書 12章1-12節

【豊かな実りのぶどう園】
今日の主イエスのたとえの意味は難しくありません。ぶどう園の主人、持ち主は神さまです。悪い農夫たちはユダヤ人たち、つまりイスラエルの人々。中でも特に祭司長、律法学者、長老たちです。主人から遣わされたけれども、殺されてしまった多くのしもべ、これは預言者たち。そして最後に遣わされた息子は主イエスのこと。

「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた」(12:1)とあります。ぶどう園のために、この人はたいへん苦労をします。自分で汗を流して、ぶどうを植え、垣根や見張りのためのやぐら、そして収穫したぶどうをしぼるための酒ぶねも掘りました。このぶどう園は、神さまが苦労して作ったぶどう園です。そして豊かな実りを結ぶぶどう園です。

神さまがイスラエルに与える祝福がどれほど、豊かなものであるか、旧約聖書をよく読むとよく分かります。ただ単に物質的な祝福を与えられるというだけではありません。イスラエルは神さまのパートナーとされました。相棒です。これこそ祝福です。イスラエルは神さまのよい相棒ではありませんでしたが、神さまはイスラエルを捨てることはなさいませんでした。むしろ神さまの愛は、イスラエルが悪いときほど、ますます注がれました。

【神さまの悲しみ】
ところが悪い農夫たちは、豊かなぶどうの収穫を楽しむだけで、ぶどう園の持ち主に渡すべき分け前を納めようとしませんでした。ぶどうを全部自分のものにしようとしたのです。

もともと主イエスがこの譬えをお話しになったのは、祭司長たちの「あなたはなんの権威によってこれらのこと(宮清め)をしておられるのですか」(11:28)という問いに答えるためでした。神が豊かに実らせた収穫を神に返そうとしない。世界中のすべての民族すべての人のためにある神の祝福を、自分たちにはそうする権威があるのだと言って独り占めにしている。これは、神さまをあがめているようでいて、実は神さまがいないかのごとくに振る舞っていることです。神さまの民イスラエルが、神さまの望むようにぶどう園を管理していないのです。

ですからここには神さまの悲しみ、主イエスの悲しみがあります。神さまはこれまでも多くの預言者を送ってきました。ところが、今までも、預言者たちは斥けられてきました。次々と送られたしもべたちは辱められたり、殺されたりします。そして、最後には、ぶどう園の主人の愛する息子を殺してしまいます。そのとおりに今、祭司長たちは、主イエスを殺そうと心に決めるのです。ひどい話です。誰が聞いても、9節の結末が当然だと思うはずです。「ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます」(12:9)。

【私たちの目には、不思議なこと】
農夫たちの悪い行いは確かに、神さまの悲しみです。でも、神さまにはもっと大きな悲しみがあります。それは悪い農夫たちが滅んでしまうこと。農夫たちの反抗には耐えることができるけれど、農夫たちの滅びには耐えることができない。そんな神さまは「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった」(12:10)という不思議をなさる。主イエスの十字架という人間のしわざを、神さまの救いのわざとして用いてくださる。そして、信じる者たちを新しい神のパートナー、相棒にしてくださるのです。

【喜びの泉】
こうして神の子とされた私たちですが、ときどき、神さまがいないかのように生きてしまうことがあります。仕事や家庭の中で思わずそうなることがあって、自分にがっかりします。そんなときには、不名誉で悪いときほどイスラエルを愛してくださった神さまに帰ることです。神さまはあわれみに満ちた喜びの泉。この泉からいつも飲ませていただきましょう。

「彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう』と言って、最後にその息子を遣わした。」 マルコの福音書 12章6節

知っておくべきこと 2013年10月13日

聖書:マルコの福音書 11章27-33節

【権威の問題】
今日から聖会。恵みを受ける秘訣は神さまの権威を認めてその愛を受け入れることです。けれども、今日の聖書の祭司長たちはそうしなかった人たちでした。彼らの生きるよりどころは、自分たちの権威を保つことでした。とても不自由な生き方です。いつも、自分の権威が保たれているか目を配り、自分の権威が軽んじられていると思うと、権威を取り戻すために戦わなければばらない生き方なのです。そこには罪がまつわりついています。

【信仰の困惑】
主イエスに出あうときに、すべての人に起こることがあります。それは、主イエスの権威を受け入れるか、それとも自分の権威を押し通そうとするか、どちらかを選ばなければならなくなる、ということです。主イエスの権威を受け入れるなら、私たちは今までの生き方を変えなければならなくなります。今までの自分のやり方、自分のプライド、自分の意地、そういったものを手放さなければなりません。このことはほんとうは、自分が自由になり、新しい生き方ができるようになるということなのですけれど、私たちにはそれがわかりません。主イエスの権威を受け入れたら、自由がなくなると思ってしまう。主イエスに踏み込まれては困る、そう思ってしまう。そして自分の権威を、守ろうとする。ある人は、「信仰には困惑がともなう」そう言いました。「信仰に入るということは、困ったことになることだ」というのです。自分の願いをだまって聞いてくれて、権威を主張しない神さまが相手なら、困ることはありません。でも、主イエスは、ご自分の権威を主張される。そして、こうおっしゃるのです。「あなたの心の中に私を迎え入れなさい。そして、私があなたを変えることを、受け入れなさい。そうしたら、あなたは自由になることができる。自分のプライドからの自由。自分の罪からの自由。ほんとうの自由をあげよう。」

ところが、祭司長たちには、主イエスの権威を受け入れようという気持ちがまったくありませんでした。それは、自分の権威を守るためでした。自分の権威にしがみついて、主イエスの権威を拒み通そうとしたのです。

主イエスは神。神が私たちを愛するあまり、とうとう自分からこの世界に来てしまわれました。この驚くべきできごとを受け入れるとき、私たちは自由になることができるのです。

【ヨハネのバプテスマ】
主イエスは祭司長たちのかたくなさを惜しんで、「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか」と問われました。ヨハネのバプテスマは悔い改めのバプテスマ。祭司長たちは、ヨハネのバプテスマが天から来たと認めて、悔い改めればよかったのです。自分たちの権威を振りかざす罪から離れて、神さまのあわれみ深さの中に帰っていけばよかったのでしたが、そうしなかったのでした。

【詩人島崎光正】
脊椎に障害を持っていた詩人、島崎光正は「神が愛であるならば、どうしてこうも、自分の上に次々と暗い運命のつばさが覆いかぶさってくるのか」と問う中で、「神は、ご自分こそがほんとうに頼るべきお方であることを、あらわすために、私を荒野に導かれてきたのだ」と気づいて信仰を持ちました。そのとき「永遠にいたる自由」を手に入れたと言っています。その後の島崎さんは、その自由の中を生きました。不幸の中でしゃがみこんでいるのではなく、不幸の中に光を見いだし、その光を他の人々にも分かち合う存在に変えられていきました。

私たちの権威は人をしばり、自分もしばりつけます。けれども、主イエスの権威は私たちを自由にする権威のです。

私たちには知っておくべきことがあります。それは神さまがご自分の方から、私たちに会って自由にしてくださろうとしていること。そして、私たちにとって神さまにお会いして自由にしていただくことは、どうしても必要なことだということです。

「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」 マルコの福音書 11章30節

信じて生きる 2013年10月6日

聖書:マルコの福音書 11章20-25節

【山を動かす信仰とは?】
本当に山を動かして海に入らせることができるのでしょうか。私は洗礼を受けたころ、この聖書の個所を読んで、とても、自分には「山よ。動いて海に入れ」と祈ることはできないと思いました。そして自分の信仰は弱いなあ、とも思いました。けれども「山が動いて海に入ったとしても、それに何の意味があるのだろうか」という気もしていました。山が海に入る、それが何の役に立つのかと。そんなことをして、自分の信仰の強さを証明しようとすることは、神さまを自分のために使い立てするということなのです。

主イエスは、私たちに山を動かすことを望んでおられない。ここで、主イエスが教えておられるのは、私たちが疑いから解き放たれた生き方をすること。 困難の中でも、疑いから自由にされ、信じて生きること、これこそが主イエスが命じておられることです。疑う人は「信じる心」と「信じ切れない心」(ヤコブ1:8)の二つの心を持っているというのです。

【神を信じなさい】
ではどうすれば、二つの心が一つの心になるのか。22節に「イエスは答えて言われた。『神を信じなさい。』」とあります。神を信じる。信じるのは、罪人の私たちを愛する神さま。私たちをほうっておくことができない神さま。ついには、人となって十字架にかかってしまわれた神さま。この神さまを信じることです。この神さまを信じるとき、私たちは、目の前の山を動かして海の中に入れてくださる神さまを、疑わないで信じることができるのです。

【いちじく】
いちじくはイスラエルの象徴。葉はしげっているのに実がなっていないのは、多くの祈りが献げられているけれども、「すべての人をあわれむ神さま」に対する信仰がないことを指します。自分たちはユダヤ人で、異邦人ではないから、祈りを聞いてもらえると思っている。罪人をあわれむあわれみの神さまへの祈りがないのです。イスラエルだけではありません。私たちの問題でもあります。しばしば神さまのあわれみを疑っては、動揺してしまうのです。

ある人が、「呪われたいちじく けれどもそののろいを引き受けたのは 主イエス」だと言っています。主は私たちの二つの心が一つとなるように、何度でも私たちを赦し、受け入れてくださいます。そして「神を信じなさい」、「神である私を信じなさい」と言ってくださるのです。

【すでに受けたと信じなさい】
「すでに受けたと信じなさい」(24)とあります。すでに今、この状況の中で神さまは働いておられます。その働きがまだ目に見えていなくても、すでに働いておられる神さまを信じましょう。今、この瞬間にも明野キリスト教会に働いてくださっている神さまを信じましょう。

【立って祈っているとき】
「立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます」(25)は、教会の歴史の中で、礼拝のためにどうしても必要なことを教えるみことばだと受け止められてきました。今、「あの人が赦せない」という心を握りしめているならば、神さまの恵みを受け取ることができません。「あの人が赦せない」という罪を悔い改めて、赦していただく。そうするときに、心からの礼拝をお献げすることができる。私たちが和解するために、十字架で死んでくださった神さまを礼拝することができる。そのような礼拝が、神さまを信じる疑いのない心を作ります。二心でない、一つの心を作るのです。

今も、神さまの恵みは差し出されています。祈りとは差し出された恵みを受け取るために手を開くことです。今日は世界聖餐主日。世界中のクリスチャンたちとともに、今、聖餐に与りましょう。私たちのために裂かれたみからだ、流された血潮を思い起こし、このお方を疑わずに信じる心を作っていただきましょう。

「イエスは答えて言われた。『神を信じなさい。』」 マルコの福音書 11章22節

模範的教会を目ざして 2013年9月29日

聖書:テサロニケ人への手紙 第一 1章1-10節

「こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。」 テサロニケ人への手紙 第一 1章7節

実を結ぶ人生 2013年9月22日

聖書:マルコの福音書 11章12-19節

【主イエスの怒り】
今日のところには、2つのできごとが記されています。「いちじくの呪い」といわれるできごとと、「宮清め」といわれるできごと。2つのできごとに共通しているのは主イエスの怒り。実のならない季節のいちじくに実がならないことを怒り、巡礼者の利便を図る商売人に怒る。いずれも一見すると不条理な怒りのように見えます。

けれども、主イエスのなさることには不条理はありません。私たちが考える以上に深いところで筋道が通っている。深いあわれみという筋道が通っている。「いちじく」からは再来週に聴くことにして、今日は「宮清め」から神さまのあわれみを聴きましょう。

【祈りの家】
主イエスの怒りの理由は、「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。」(17)です。このすべての民には外国人も含まれています。神のあわれみはすべての人の上に豊かに注がれているからです。ところが主イエスが神殿にお入りになったときにご覧になったのは、「異邦人の庭」を埋め尽くす商売人たちでした。異邦人たちは、この庭までしか入ることができません。だから「異邦人の庭」は彼らが礼拝する場所。祈りを献げる場所。その場所を、神の民であるユダヤ人が占領している。商売の売り買いの声や、動物の鳴き声が、異邦人たちの祈りの声を消してしまう。場所を奪ってしまう。だから主イエスはお怒りになった。「・・・それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」(17)と言って怒った。強盗というのは、むりやり力ずくで人のものを取りあげる者です。ユダヤ人たちがしたことは、まさに強盗でした。異邦人たちの中にも、神を信じる人たちがいました。神さまはあわれみ深くも、その異邦人たちのために、「異邦人の庭」という場所を備えてくださった。礼拝の場所を与えてくださったのです。そこをユダヤ人たちは、無理矢理とりあげました。礼拝を奪ったのです。神の恵みを力ずくで強盗したのです。だから主イエスは怒った。これで怒らなかったら、主イエスではないでしょう。主イエスの怒りは、あわれみの怒りです。「私が招いたこの人びとから、礼拝を奪うとはどういうことであるのか。神のあわれみを一番知っているはずのあなたがたが、どうしたというのか。私とともに、すべての人をあわれむはずのあなたがたではないか。」そのようにお怒りになったのでした。

【イエスを殺そうと】
けれども、ユダヤ人たちには、主イエスのあわれみの心がわかりませんでした。そして「祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」(18)のです。神さまのあわれみをすべての人に伝えるために立てられたはずの人びとが、主イエスへの憎しみに身を委ねているのです。だれが彼らの心を「宮清め」することができるのでしょうか。もちろん、主イエスだけです。主イエスの十字架のあわれみだけが、この人びとをあわれみの器に変えることができるのです。

【私たちの宮清め】
今はもう、神殿はありません。私たちがキリストのからだであり、生ける神の宮です。私たちのこの宮をどのように清く保つことができるのでしょうか。私たちにも入りこんでくる、自分中心な思い。他の人々の必要に心を閉ざす思い、そのような汚れを主イエスはどのように、宮清めをしてくださるのでしょうか。

それは、私たちが主イエスのあわれみの腕に抱きしめられていることを体で覚えることによってです。主イエスの愛に抱かれている間だけ私たちは罪から守られます。不意打ちの誘惑のときにも、主の腕の中にいることを覚えているために、いつも主の恵みを聴き続け、繰り返し主のあわれみを味わうこと。主との間だけではなく、兄弟姉妹との交わりの中で、主から与えられたあわれみを注ぎ合い続けることです。豊かに実を結ぶ人生がそこにあります。

「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」 マルコの福音書11章17節

平和の王 2013年9月15日

聖書:マルコの福音書 11章1-11節

【王の入城】
マルコ11章。いよいよ、主イエスはエルサレムに入られます。ロバにお乗りになります。そのロバを不思議ななさり方で、連れてこさせる。ここですべての主導権を取っておられるのは主イエスです。このとき主は、ご自分のことを、「主」と呼んでおられる。「・・『主がお入用なのです。』・・・と言いなさい」(3)と。実は主イエスが、ご自分を「主」と呼んでおられるのはここだけ。主イエスはここで、ご自分がすべてを支配なさる主であることを、宣言なさる。だからこののち起こることは、みな、父なる神とご自分のみこころであること、だれに強いられてするのでもないことを明らかにされている。十字架もまた、ご自分から選び取られたことだったのです。

【王を迎える私たち】
この日人々は、ほとんどの人にとっては、ただ一枚だけ持っている上着を地面に敷いて、ロバに踏ませました。いつも、しもべとなって仕えることをお求めになる主イエス。その主が、今はみんなの大切な上着を踏んで行く。そのわけは、今、主イエスが王であることがだれの目にも明らかになるためです。主イエスを王として、迎えるかどうかが問われているのです。

治外法権という言葉があります。ひとつの国の国内にありながら、その国の主権が及ばない場所のことです。私たちの心に治外法権がないだろうか、と探られます。主イエスを名前だけの王さまにしてしまっていることがないだろうか。心の中に治外法権があることは、決して幸いなことではありません。そこには、主イエスが与えてくださる祝福が及びません。祝福が入りこまないのです。主イエスのくださった新しいいのちが、入りこまない部分が私たちの中に残ってしまう。古い習慣、古い思い、古い生き方が、私たちの中に残ってしまうのです。そして、私たちの新しいいのちを、引きずりおろそうとする。後戻りさせようとする。

主イエスは私たちに王としてご自分を迎え入れるようにとお求めになります。むしろ、主イエスが私たちにお求めになるのは、ご自分を王とすることだけだと言ってよいと思います。誤りのないことを求められても私たちにはできません。罪のない毎日を送ることも不可能です。だから、主イエスはおっしゃいます。「私を王とせよ。私を王として、私があなたを支配することを受け入れるなら、あとは私がやってあげよう。だから、私を王としなさい。あなたが私を王としなさい。」

私たちも上着を脱ぐことです。それひとつしかない大切なものを、主イエスの足もとに置くことです。そうするときに、主イエスのいのちが私たちに行き渡ります。私たちがいただいた、新しいいのちの新しさが私たちに浸みわたります。そして私たちは新しく歩むことができる。教会も同じです。主イエスが王でない教会は、○○先生の教会になってしまう。○○役員の教会になってしまう。そして、キリストのいのちの輝きを失ってしまう。けれども主イエスを王とするときに、教会の歩みは新しくなります。新しいいのちに満ちた、神さまのみこころをおこなう教会になるのです。

【ロバに乗った王】
主イエスがエルサレム入城のときに乗られた乗り物は、ろばの子。主イエスは平和をもたらす王。イエス以外の王は軍馬に乗っていました。けれども主は暴力で人を支配することをなさらず、ついには暴力によって、十字架につけられてしまった王。ご自分を投げ出すことによって、私たちにいのちを与える王です。

他の王は奪ったものは返さない。けれども、主は返してくださる。ロバだけはありません。人々が道に敷いた上着も。私たちが主イエスに献げるときに、献げたものは主イエスのしるしを帯びて、私たちの手元に戻ってくる。献げたものだけが永遠に価値を持つ。献げないで手元に残しておくものは、価値を失ってしまう。そればかりか、主イエスと私たちをへだてるくさびになってしまいます。もう一度、新たな思いで主イエスを王としてお迎えしましょう。

「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」 マルコの福音書11章9節

あわれみの神 2013年9月8日

聖書:マルコの福音書 10章46-52節

【主イエスのみ声に】
今日の箇所は、悩みの中にある多くの人々を立ち上がらせて来た箇所。クリスチャンたちは、自分がバルテマイだと思って読んできました。世にあって悩みは尽きず、悩みの中に成長があるとわかっていても弱い私たちです。けれども主イエスは私たちの弱さをよくご存じです。ご自分も人として経験してくださったのですから。その主イエスがバルテマイに声をおかけくださったように、私たちにもお声をかけてくださる。今朝、そのお声を聞き、悩みの中から立ち上がらせていただきましょう。

【呼んで来なさい−エリコの町で】
主イエスに激しく叫び立てるバルテマイ。主は「あの人を呼んで来なさい」(49)と目の見えないバルテマイを来させます。それはバルテマイが自分から主イエスを求めることを望まれたからでした。ただ祝福を受けるだけではなく、祝福の主ご自身に出会うことを、主は期待なさるのです。

バルテマイは主イエスのところに行きます。「上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって」(50)。あぶなっかしく見えたでしょう。それでもバルテマイは一心に主イエスを求めたのでした。

【行きなさい−エルサレムへ】
主イエスはバルテマイに「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」(52)とおっしゃいました。「もうあなたは自由なのだ。あなたの前にあった闇はもう消えた。もうそこにうずくまっていなくてもよい。行きなさい。与えられた自由を使って、歩き始めなさい」とおっしゃったのです。悩みの中にうずくまっている私たちが主に会うときに、主は私たちを立ち上がらせてくださいます。主は私たちの信仰を呼び覚ましてくださり、そして、「そうだ。その信仰だ。その信仰を持ち続けなさい。そしてずっと、自由でいなさい」とおっしゃってくださるのです。

【ついて行ったバルテマイ】
歩き始めたバルテマイ。けれどもバルテマイは、どこか自分の好きなところに行ったのではありません。「イエスの行かれる所について行った」(52)とあります。目が開き、自由に歩けるようになったバルテマイは、その自由を用いて、主イエスについて行きました。次の11章からは、主のエルサレム入城、そして十字架。バルテマイはエルサレムへ、十字架へとついて行き、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という主の十字架での叫びを聞きました。そのときバルテマイは、自分のためにどれほどの犠牲が払われたかを知りました。神の子が見捨てられたことを知ったのでした。その後も、バルテマイには悩みはあったでしょう。けれどもバルテマイはその悩みの中でうずくまってはいなかったでしょう。なぜなら、彼は自分が神の子とされたことを忘れたはずがないからです。私たちもまた信じたときに、神の子とされています。父なる神は、ご自分の子である私たちを、悩みの中にうずくまったままにしておかれないのです。

【その後のバルテマイ】
マルコの福音書は、紀元70年ごろローマで書かれました。ネロの迫害をくぐり抜けたクリスチャンたちに、まだ続いて迫害が加えられている時代です。クリスチャンたちは、地下のお墓で、殉教者の柩の上で聖餐を分け合い礼拝しました。バルテマイの物語はマタイやルカも書いていますが、バルテマイという名前が出てくるのはマルコだけ。それは、迫害下のローマの教会が、実際にバルテマイを知っていたからだと言われます。目が見えないで、悩みの中にうずくまっていたバルテマイが、主イエスに従って、ローマにまで行ったと言うのです。彼は迫害の中のクリスチャンたちに、自分が自由にされた日のことを何度も語ったでしょう。私たちも主の十字架によってすでに自由です。この自由をもって主イエスに従っていくことができることができるのです。悩みの中にあるときも、主のお声によって何度でも立ち上がることができるのです。

「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」 マルコの福音書10章52節

願いはかなえられる 2013年9月1日

聖書:マルコの福音書 10章35-45節

【主イエスの左右に】
ヤコブとヨハネは主イエスに「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください」と願いました。この願いは、「自分たちがナンバー2とナンバー3になりたい」という思いから出たことでしたが、ただそれだけではありませんでした。それは主イエスの再臨のときの祝宴。彼らはその祝宴で主のかたわらにいたいと思いました。ちょうど最後の晩餐でヨハネが主の胸によりかかったように。そういう意味で、彼らの願いには好ましいところもあったのです。

【杯とバプテスマ】
だから、主イエスはこの願いを、頭から斥けることをなさいませんでした。ただ、彼らにはわかっていないことがありました。それは、主の杯とバプテスマを経験することでした。

杯というのは、ゲッセマネの園で主が「取りのけてください」と祈った杯。主にとっては、父との断絶のこと。弟子たちにとっては、たとえそれが殉教を意味するとしても、神さまとの断絶ではありません。主の杯とは比べることができないような、小さな杯。でも主は私たちの弱さを知っておられ、その小さな杯をご自分の杯と同じようにみなしてくださったのです。

主の受けたバプテスマとは、この会話の時点ですでに始まっていた主の苦しみ。浸礼を受ける者が水に覆われ、息を止めて沈んでいるように、十字架の日を待つ、忍耐を必要とする、長く続く苦しみのことです。

【神さまのあわれみによって】
主の「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします」(39)という言葉は、「確信」の言葉だと言われます。「あなたがたは私のかたわらにい続けることができる。そこで私に従いぬくことができる。そのために必要な恵みを、私があなたがたに与えよう。必ずそうしてあげよう」とおっしゃったのです。

やがて、ヤコブは殉教します。一方のヨハネは高齢まで主と教会に仕えました。ヤコブは主の杯を飲み、ヨハネは主のバプテスマを経験したと言えるでしょう。けれども彼ら二人は、主イエスにお従いした点で同じです。彼らが強かったからではありません。主イエスのあわれみ、主イエスの恵みがそうさせてくださったのでした。

日本にもキリスト教迫害の時代がありました。戦争中に殉教した人もおり、生き延びて戦後のキリスト教ブームを支えた人もいます。どちらが正しかったのか。いえ、みな過ちをおかし、みな足りなかった。けれども、神さまはあわれに思って、それぞれの信仰をささえてくださいました。おかしたその過ちさえも良きことに変えてくださりながら、信仰を保たせてくださった。私たちも、神さまのあわれみに覆われています。だから殉教できそうにない自分をかばうために、「殉教するような信仰は極端すぎる」と言う必要はありません。また、逆に「殉教しない人の信仰は生ぬるい」と言う必要もない。ただ神さまの大きなあわれみから目を離さないでいればよい。御子を十字架に架けてくださった神さまのあわれみです。

【みなのしもべに】
主はヤコブとヨハネの願いをはるかに超えてかなえてくださいました。「偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」(43)とあります。主のように人に仕え、主のように愛し、主のように自分を与える。それが神さまのあわれみの中にいる者たちの生き方です。そのように生きるときに私たちみなが偉くなる。そこに実に大きな幸いがあります。そして、私たちの主のあわれみは、私たちをすでに、新しいいのちにふさわしい、新しい生き方に導き入れているのです。

「あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」 マルコの福音書10章38節

主イエスのまなざし 2013年8月25日

聖書:マルコの福音書 10章17-34節

【主イエスのまなざし】
「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで」(21)は、「イエスは彼をじっとご覧になって、彼に対する愛を抱かれ」という意味。主イエスはこの青年を愛されました。よく「金持ちの青年の物語」と呼ばれるこの箇所は、むしろ「主イエスのまなざしの物語」と呼ぶ方がよいでしょう。主のまなざしは、23節と27節にも出て来ます。この日、弟子たちには主イエスのまなざしがとても印象に残りました。その愛のまなざしが忘れられなかったから、彼らはその記憶を語り継ぎ、書き記しました。

その愛のまなざしの中で、ひとりの人が、主に走り寄って来ます。そしてひざまずきました。この人は「永遠のいのち」を受けたいと願ったのです。不老不死ではなく、いつも神さまのそばにいること。死んでも、死を超えて神さまとともにいることを望んでいたのでした。

【何もかも捨てて】
主イエスはこの人をじっとみつめました。そして「永遠に神さまといっしょにいたい」と願うこの人をいとおしく思って、「わたしについて来なさい」(21)、つまり「さあ、わたしのふところに飛び込みなさい。永遠のいのちをあげよう」とおっしゃいました。けれどもこの人が飛び込むためには、さまたげになるものがありました。

「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い・・・」(21)は、すべてを捨てて無一文にならなければならない、ということではありません。また無一文になればそれでよい、ということでもありません。私たちが自分の貯金通帳をながめて、まだこれだけあるから自分はだめだ、と言う話ではない。神さまに献げて生きる中で、神さまが豊かに祝福してくださっているなら、それを自由な心で喜べばよいのです。ただひとつだけ、その財産にとらわれることなく、握りしめることがないようにすればよい。必要であれば自分でも使い、また必要であれば神さまに献げながら、生きていけばよいのです。

逆に、貯金通帳がゼロだから、私は神に受け入れられている、と思うならば、それもまた、まったく誤った思いです。いくら多くのお金を神さまに献げたとしても、私はこれだけ献げたのに、どうも自分はそれに価する評価を受けているように思えない。教会の自分に対する待遇はおかしいのでないか、と思うなら、これも欠けがある生き方です。献げたお金へのこだわりが、私たちを主イエスの胸に飛び込むことからさまたげているのです。

問題は、財産ではない。財産があることでもなければ、ないことでもない。私たちが自由であるかどうか。主イエスから私たちを遠ざける一切のものを断ち切ることができるかどうか、にかかっているのです。

【私たちを解き放つもの】
多くの財産を持っていたこの人は、このとき、主イエスの胸に飛び込むことができませんでした。主はこの人に同情し、「それは人にはできないことですが・・・どんなことでも、神にはできるのです」(27)、つまり「あなたがたにはできない。だから私が来たのだ」とそうおっしゃった。主イエスは神。神が人となって、私たちのところへ来てくださった。私たちを解き放って、ご自分の胸に飛び込ませるため。そのために十字架にまで架かってくださいました。主はほんとうの自由を持っておられました。その自由に、私たちも与らせるための主イエスの十字架と復活だったのです。

ある人は、「この青年は、十字架と復活の後、弟子たちの群れに加わったのではないだろうか」と言います。青年には自分をじっと見つめていた主の愛のまなざしを忘れられたはずがないからです。主に求めて与えられない者はいないからです。

「どんなことでも、神にはできるのです。」 マルコの福音書10章27節

子どものように 2013年8月18日

聖書:マルコの福音書 10章13-16節

【イエスにさわっていただこうとして】
「さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。」(13)とこの部分は始まります。主イエスはさわらなくても祝福を与えることはおできになります。けれども、主に「抱いて」(16)祝福していただいた子どもたちは、一生、主イエスの名を聞くたびに、主がどれほど自分を愛してくださったかを、体で覚えて忘れることがなかったでしょう。

【子どものように】
「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」(15)とあります。「子どものように純真でなければ・・・」とは書かれていません。子どもだから純真とは限りませんし、なによりここで問われているのは「神の国を受け入れる」ということです。この子どもたちは、大人に連れてこられて、主イエスにさわっていただくままになっている。主イエスに抱かれるままになっている。すっかり自分を主イエスにおまかせして、祝福を拒んでいないのです。

子どものように神の国を受け入れる者というのは、主イエスの祝福の手の下に自分を置く者のことです。私たちも主イエスにみ手にさわっていただくしか、神の国に入る方法がない。主イエスに抱かれるほかに救われる道がないのです。ただ、心を開いて、主イエスに抱かれてしまう。それが、子どものように神の国を受け入れることです。

こどもを抱くことは案外難しいものだと思うことがあります。抱かれる気持ちのない子どもは、思いがけない力で身をくねらせる、そして、一生懸命がんばって、私たちの手の中から抜け出そうとします。「ガンバル」という言葉は、もともとは我を張る、自己主張する、という言葉。私たちはがんばって、身をくねらせて、主イエスに抱かれまいとしている子どものようでしょうか。それとも主の腕の中におさまって微笑んでいる子どものようでしょうか。

私たちに主に触られては困るかたくなさがあるなら、主の思うようには抱かれまいとするでしょう。私たちのかたくなさを差しだして、さわっていただきたいと思います。

「主われを愛す」の英語の原詞3節は・・・
イエスさまは私を愛してくださる。
私がよい子で、
しなければならないことをするときに。
イエスさまは私を愛してくださる。
私が悪い子のときも。
私のことをとても悲しまれながら。

主は私たちがかたくななときも、私たちを愛してくださっています。とても悲しみながら、でも愛することをおやめにならない。ますますあわれに思ってますます愛して、そのあげく十字架にかかってしまわれた主。そのように主を知る者は、主に喜んで抱かれることができます。自分のかたくなさを隠さずに主イエスに触れていただくことができるのです。

【主イエスの憤り】
子どもたちへの主の祝福をさまたげようとした弟子たちに主は「憤っ」た、とあります。激しい怒りです。十字架を前にした主をおもんばかる弟子たちには気の毒なようですが、主は弟子たちだからこそ、お怒りになったのでした。寝食をともにして、合宿のように一日24時間祝福の中に置かれていた弟子たちが、子どもたちの祝福を妨げようとしました。自分たちが与えられている祝福を分けようとはしませんでした。考えてみれば、主イエスが拒まなかったのは、子どもだけではありません。子どもであれ、大人であれ、主イエスはご自分の祝福をすべての人に与えてくださったのです。

主の憤りは、私たちに自分たちの使命を思い出させます。それは、主イエスから祝福をいただき、その祝福を分けることです。そのようにして、私たちが存在していることが私たちとともにいる人々の祝福となることです。

「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」 マルコの福音書10章15節

結婚の祝福 2013年8月11日

聖書:マルコの福音書 10章1-12節

【ファイアー・ストーム】
以前お話しした映画「ファイアー・ストーム」。離婚の危機にある夫婦を、夫の父が助けようとします。40日間に渡り、「愛すること」を教えるノートを手渡したのです。私たちは愛することを忍耐強く学ぶ必要があります。ところが、今日でてくるパリサイ人は、愛することを学ぼうという思いをまったく持っていません。

【愛なき かたくなさ】
そもそもの発端は、パリサイ人の「夫が妻を離別することは許されるかどうか」(2)という質問でした。妻を離婚したい。だから「律法はどういう場合に離婚を許しているのか」を知ろうとする。そして愛することを学ぶことなく離婚してしまう。

当時離婚の条件については様々な解釈がありました。ある人々は「妻が夫以外の他の男性と通じた場合」だと考えました。他の人々は「妻がいつも料理を焦げつかせている場合」でも離婚は許されると考えていました。主イエスの答はまったく次元の異なるものでした。主は創世記から「あなたがたはどうしたら合法的に妻を捨てることができるかと考えている。一番大切なことを忘れてしまっている。結婚は神さまからの大きな祝福であることがそれ。まず、その祝福を思い出すように。」(8-9)とおっしゃいました。

結婚は祝福です。男と女が一体になる。こころでもからだでも、たがいを受け入れあう。赦しあう。自分を与えあう。そこにいやしがあります。成長があります。実際、まず結婚の祝福が最初にあって、そして後から離婚に関するモーセの律法ができたのです。それは私たちのかたくなさのためであったと主イエスはおっしゃいます(5)。これは律法を自分の都合のよいように用いて、愛がないことを正当化しようとするかたくなさ。結婚の祝福を、喜ぼうとしないかたくなさです。主イエスは悲しまれ、神さまが与えて下さる結婚の祝福を手に入れるために、愛することを学ぶようにと、教えてくださっているのです。

【あわれみなき かたくなさ】
「だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すのです。妻も、夫を離別して別の男にとつぐなら、姦淫を犯しているのです。」(11-12)は、主イエスが離婚を絶対に禁じられたと受け取られることがあります。けれども主イエスは、一貫して離婚にではなく結婚の祝福について語っておられます。神がひとつに結び合わされた夫と妻がひとつでいることができなくなることは、神さまにとっても大きな痛みです。ですから私たちは、もうひとつのかたくなさにも警戒しなければなりません。それは離婚した人をあわれみなく裁くこと。主イエスのおことばを盾に「どんな場合でも決して離婚してはならない」と言って苦しみを増すようなことがあってはなりません。私たちは、弱い。DVが続く中では人間としての尊厳が砕かれ、不忠実な配偶者への憎しみとねたみには疲れ果ててしまいます。主イエスは私たちの弱さをよくご存じで、寄り添ってくださるのです。離婚という痛みの中にある人々にも。再婚して新しい出発をした人々にも。

【なぜ、結婚?】
ひたすらに十字架を目指して進んで行かれる主イエスが、なぜ結婚という日常的な営みについて語られたのか。十字架の主に従い自分の十字架を負って歩む者が、主の弟子にふさわしい思いを持って生きていくためにはどうしたらよいかを教えるためでした。主イエスの十字架の愛は、主の弟子である夫と妻にも、注がれています。だからキリストにある新しいいのちを与えられた夫婦は、新しい結婚生活の祝福を生きることができます。創造のときに生み出された結婚の祝福の回復があるのです。

私たちの家庭が、心から受け入れ合い、赦し合い、愛し合う祝福に生きることができますよう。青年たちもよき伴侶を与えられて、結婚の祝福のうちに愛することを学ぶことができますように。

「こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」 マルコの福音書10章9節

塩のききめ 2013年8月4日

聖書:マルコの福音書 9章42-50節

【連想ゲーム】
主イエスはここで、連想を用いてお語りになっています。「人につまずきを与える者」→「自分の内にあるつまずき」→「つまずくとゲヘナに」→「ゲヘナには火」→「火によって塩け」→「自分自身のうちに塩けを保て」。この連想は記憶にとどめるため。もっとも大切なことを弟子たちが覚えていることができるためです。

【神の国に入るために】
もっとも大切なことは「神の国に入ること」です。だから「わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は・・・海に投げ込まれたほうがまし」(42)なのです。「わたしを信じるこの小さい者たち」というのは弟子たち、そして私たち。主イエスは「あなたがたが神の国に入るのをじゃまするような者を、わたしは決してゆるさないで、あなたがたを守る」と言っておられるのです。

【つまずきを捨てなさい】
私たちの内の「つまずき」。それは私たちの中にある「主イエスの十字架の愛をわからなくし、救いの喜びをくもらせ、私たちの中に始まった新しいいのちが脈打つのをさまたげる思いや心」です。「傷つきやすいプライドが傷つくことへの恐れ」「兄弟姉妹を愛そうと思うが、その愛を受け入れてもらえないのではないかという恐れ」「自分の思いが通らないと不機嫌になる子どものようなわがまま」など。主イエスは私たちを惜しんで、何としてでも新しいいのちにとどまるようにと、おっしゃいます。

【ゲヘナの火】
ゲヘナというのは地獄とは異なる言葉。主イエスは、「自分の中にあるつまずきを捨てなさい、そうしないと地獄行きだよ」とおっしゃっているのではありません。ゲヘナは地名。エルサレムの門の外にあるベン・ヒノムの谷。「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることが」ない(48)とあります。エルサレムの町のゴミ捨て場であったから「うじ」。同時に死体を焼く場所でもあったので「火」。ヘブル書に「イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受け」(13:12)とあります。主イエスはゲヘナをご自分の十字架と考えました。ゲヘナとは父なる神からの断絶という審きです。ゲヘナを味わってくださったのは主イエス。それは私たちがゲヘナの断絶を味わうことがないないため。「都の外で十字架というゲヘナの審きの火にさらされた私を思い続けなさい。その十字架の愛に生き続けなさい。そのためにつまずきとなるものは何であれそれを捨てなさい」とおっしゃっているのです。

【塩のききめ】
「すべては、火によって、塩けをつけられる」(49)。塩は生きていく上でどうしても必要で高価なもの。神の恵みを表します。主は待ち受けている十字架を思いながら、「あなたがた信じる者たちは、十字架によって『塩け』がつけられる。神の恵みが沁みて、恵みの味がする人になり、その恵みの味がまわりの人にも沁みていくような人になる」とおっしゃいます。

「塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」(50)は、「あなたのうちに恵みの塩けを保ちなさい。十字架の恵みを。そして、たがいにその恵みを語り合い、分かち合って暮らしなさい」という意味。パウロもコロサイ4:6で「あなたがたの言葉が、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。」と書いています。「親切で」と訳されていることばは、元々は「恵み」という言葉。「あなたがたの言葉が恵みの塩味のきいた言葉であるようにしなさい。神の恵みの言葉、神の恵みが宿っている言葉、聞く人に神の恵みが移っていくような言葉を語ろう」とパウロも主イエスの思いを繰り返しています。

「あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」 マルコの福音書9章50節

キリストの味方 2013年7月28日

聖書:マルコの福音書 9章38-41節

【ヨハネの狭さ】
「先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」(38)と言ったヨハネとヤコブの兄弟は、主イエスから「雷の子」というあだ名をつけられた熱血漢。ヨハネはまた12弟子の中で一番若かった人。若くて熱血漢のヨハネは、仲間でない者が主イエスの名で悪霊を追い出しているのを見て、雷のような声でやめさせました。主を生ける神の子キリストと信じているわけでもないのに、迷信のように主イエスの名を利用しているのは、けしからんと思ったのでした。ヨハネはほめてもらえると思って得意そうに報告したのではなかったかと思います。

【主イエスの広さ】
ところが、主イエスは意外にも「やめさせることはありません。」(39)とおっしゃいました。「やめさせなくてもよい。まだ信仰が無いものが主イエスの名を使ってもかまわない。」と言われたのです。その理由は「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方」(40)だから。ヨハネは味方でない人を敵のように考えましたが、主イエスはその敵の中に味方をみつけようとなさっていました。先週の個所では、「だれが一番偉いか」と争う弟子たちどうしの狭さがありました。ここでは弟子たちの内と外を隔てる狭さがあります。

けれども主イエスは「あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。」(41)と言われます。弟子たちに親切にしてくれる人の中に、主イエスへの信仰に続くかも知れない、小さな「芽生え」のようなものを見つけだそうとしておられるのです。そして弟子たちにもその「芽生え」に目を向けるようにと教えてくださったのでした。

【狭さから広さへ】
弟子たちの狭さの原因は、ねたみだと言う人もいます。先々週の個所で、弟子たちは悪霊を追い出すことができませんでした。ところが、今日の所では、悪霊を追い出している者がいる。仲間ではない人です。イエスさまと寝起きをともにして、いっしょに苦労している人ではない。それなのに自分たちにできなかったことをやっている。ねたましい。そこでやめさせました。問題は弟子たちの心にありました。けれども本人はねたみたくなどないのです。自分でもどうしてそうなるのか、わからない心の深いところにある心の動き。どうしたら、その心が変えられていくことができるのでしょうか。

【主イエスの微笑み】
クリスチャンのカウンセラーは、人が「愛し愛されるというすばらしい人間関係から離れるとき」いじめやDVの加害者になることがあることを明らかにしています。そしてその解決は自分を赦し、受け入れてくださる神さまにあることも。ねたみの解決も神さまにあります。

「ヨハネに話しているとき、主は微笑んでおられたのではないか」と言った人がいます。ねたみに心を狭くされているヨハネを受け入れてくださっています。弟子たちを見て微笑んでおられる。みな主イエスを見捨てることになる人々です。主はそのこともご存じの上で、微笑んでおられる。弟子たちを赦しておられる。主の微笑みは、ヨハネから仲間でないと言われた者の上にもひろがっています。彼らのためにもやがて十字架につかれるほどに、彼らを受け入れてしまっておられる。彼らの中にある、信仰の「芽生え」のようなものを見つけ、そのことを喜んで微笑んでいてくださるのです。

そして私たちの上にも主の微笑みはひろがっています。その微笑みが私たちをいやします。ねたみや怒りを扱いかねるような私たちも主に受け入れられています。主に受け入れられていることが、私たちの狭さを広くするのです。主イエスの微笑みの中で、私たちはさらに変わり続けることができるのです。

あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。 マルコの福音書9章41節

だれが一番偉いか 2013年7月21日

聖書:マルコの福音書 9章30-37節

【主イエスの集中】
ここまで多くの癒しが行われてきましたが、ここから先、主イエスは一度しか癒しを行いません。10章の目の不自由なバルテマイだけです。主イエスはその代わり、弟子たちを教えることに集中されました。「人の子は・・・殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる」(31)と十字架と復活を教えることに集中なさいました。

弟子たちは、これを理解できませんでしたが、イエスに尋ねることを恐れました。「さらに質問して明確な答があったときのことを恐れた。十字架が動かしがたいものになるから」だという人もいます。弟子たちは、十字架を理解したくなかったのでした。彼らの関心は主イエスの関心からずれていたのでした。

【みなに仕える者と】
「だれが一番偉いか」という議論は、とても子どもっぽい。でも、私たちにも「あの人と比べて、私の方がすぐれている」「私の方がよく奉仕している」「私の方が熱心だ」というような思いが起こってきます。逆に「あの人より私の方が劣っている」という思いもあります。

あるカトリックの神父が、今日の聖書の箇所について、「人が一番でありたいと思うのは、自分は値打ちのない人間だと思い込んでいるからだ」と書いています。私たちは自分が一番偉いということを証明することで、自分の値打ちを認めさせようとするのです。それは、本当の生き方ではありません。主イエスは本当の生き方を教えました。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい」(35)と。しんがりというのは一番最後。「どうぞ、お先に」といって順番をちょっと譲るというのではありません。一番最後になって一番仕えるようにというのが主イエスの教えでした。

【みなに仕えるということ】
「みなのしんがりとなり、みなに仕える」と聞いただけでは、弟子たちはよくわからなかったでしょう。そこで主イエスは目に見せて教えました。「ひとりの子どもを連れて来て・・・腕に抱き寄せ」(36)たのです。そして、「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる」(37)ようにと言いました、子どもはいつも素直なわけではありません。ときに手に負えなくなる子ども(そして子どものように手に負えないところがある人々、つまりすべての人)を受け入れ、仕え、自分を与えること。それが十字架の上で、私たちのためにご自分を与えてくださった主イエスの生き方です。具体的な言葉や行動を通して、愛すること。自分を受け入れようとしない相手を、愛し続けること。自分に向かって「あなたよりも私の方が偉い」と言い張る仲間に仕え、受け入れる愛。

人の価値を決めるのは神。「神よりいくらか劣る」(詩篇8)だけの神に似た者。これが私たちへの神の評価です。私たちは自分の値打ちを証明する必要がありません。そのような素晴らしい値打ちを与えられている私たちの生き方は、自分と異なる人々と向き合い続けること。誤解されても怒らず、交わりの回復に努め続けること。赦して、とりなして、祈り続けること。どれも続けることが大切です。そして私たちは、そのような生き方をもう始めています。

「幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば・・・」(37)。仲間を受け入れるときに、私たちは主イエスを受け入れ、神を受け入れています。仲間を受け入れることができないときは、私たちは主イエスを斥けているのです。私たちは主イエスを斥けるわけにはいきません。だから私たちはたがいを受け入れます。信仰の仲間だけではなく、まだ主イエスを知らない家族や友人、地域の人々を受け入れ、仕えます。十字架でご自分をお与えくださった主イエスのように自分を与えて生きるのです。

「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」 マルコの福音書9章35節

どんなことでも 2013年7月14日

聖書:マルコの福音書 9章14-29節

【山上の栄光と地上の悲しみ】
山の上で栄光のお姿を現された主イエスが、山から降りて来て見たのは弟子たちの無力。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません」(29)は「弟子たちの祈りは祈りではない」という厳しい言葉でした。三つのことを聞きましょう。第一に本当の祈りとは何か、第二に本当の祈りを生む信仰、第三に本当の信仰を与える主イエス。

【(1)本当の祈り】
「ああ、不信仰な世だ」(19)と主イエスは嘆きます。弟子たちだけではありません。父親も「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください」(22)と言います。主イエスが助けることができるかどうか信じることができないでいるのです。主イエスは、「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」(23)とおっしゃいます。主イエスにはどんなことでもおできになる。そのことを信じる者は「できるものなら」などと言う必要はない。そう言って、主イエスは父親を信仰に立たせました。主イエスにはどんなことでもおできになるのです。だから単純に信仰に立てばよいのです。

【どんなことでも?】
子どもたちから「お祈りしたら、神さまは今すぐ雨をやませてくれるか」と訊かれるとき、どうお答えになるでしょうか。「祈ろう。それがみこころであれば、神さま私たちの祈りをきいてくださる。みこころであれば、雨をやませてください。そう祈ろう」と答えるのが正しいでしょう。パウロもその肉体にはとげがありました。とげは三度祈っても去らなかったといいます。けれどもパウロはそれをみこころだと受け止めました。主イエスにできないことなどありません。祈りが聞かれなかったように見えるときにも、神さまのみこころはなされていくのです。

【(2)本当の祈りを生む信仰】
「信じます。不信仰な私をお助けください」(24)は、人間の歴史の中で、もっとも素晴らしい信仰の言葉だと言われ、信仰とは何であるのかをもっともよく表している言葉だと言われ、愛されてきた言葉です。「私たちを・・・お助けください」と言っていたときには、息子の病が問題でした。その病を主イエスが治すことができるかどうか、が問題でした。けれども、今は「私をお助けください」と父親自身の信仰が問題になっています。「信じます。不信仰な私をお助けください」はちぐはぐな折りです。「信じます」と言っていながら「不信仰」だと言っているからです。けれども「主イエスには、どんなことでもできる。この不信仰を乗り越えさせることもできる」と父親はそう信じました。ここに信仰があります。自分の中の不信仰にもかかわらず、主イエスを信じてしまうのです。それが信仰です。

【(3)信仰を与える主イエス】
「・・・いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう・・・」(19)は弟子たちを切り捨てる言葉ではありませんでした。愛から出た言葉。信仰へと招く言葉でした。どこまでも私たちを持ち運ぶ覚悟の上での言葉だったのです。

主イエスは、今私たちにも「信じる者には、どんなことでもできるのです」とおっしゃってくださっています。時々刻々の信仰という言葉があります。信仰というのは、貯金のようなものではありません。不信仰な私たちが、時々刻々神の力を受け入れるのです。時々刻々信仰を与えていただくのです。持っていないから願うのです。願うなら主イエスは与えてくださるのです。

するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」 マルコの福音書9章24節

いのちの重さ 2013年7月7日

聖書:マルコの福音書 9章2-13節

【変貌山(へんぼうざん)】
山の上でのまばゆい姿こそが主イエスの本当のお姿です。人となってこの世に来られる前に主イエスが父のみもとでもっておられた輝きのお姿、再臨のときにあらわれる主イエスの輝きがここにありました。つかの間の間ではありましたが、三人の人間が、主イエスのほんとうの光を見ることができたのでした。

【森の中のふたり】
ある人がこの個所を、森の中で道をたどるふたりの人になぞらえています。ひとりはその道が家へ向かっているしるしに気づいている。もうひとりは気づいていない。あなたは自分が、主イエスのもとへと歩いていることを知っているでしょうか。やがてまばゆい光の中に再臨なさる主イエスといつまでも、共にいるようになることを知っているでしょうか。知っているなら、私たちの人生の景色がちがってきます。私たちが経験しなければならない、さまざまな苦しみやつらさも、ちがって見えてきます。一歩ずつ家に近づいている途中の景色であることがわかるのです。

【光からの光】
主イエスが弟子たちに、十字架と復活について教え始められてから六日たちました(2節)。弟子たちは復活のことは耳に入らず十字架で思いがいっぱいになっていたでしょう。そこで主イエスは三人にまばゆい復活の姿を見せてくださいました。そうして6日間続いた教えの仕上げをしてくださったのでした。

【主イエスとモーセとエリヤ】
山の上では、モーセとエリヤが主イエスと語り合っていました。モーセは十戒やその他の律法を神から授けられて、ユダヤ人たちに手渡した人、エリヤは最大の預言者。モーセとエリヤ、律法と預言というとき、それは神さまの救いの歴史のことです。神さまがすべての人の救いのために忍耐強く愛を積み重ねて来られた愛の歴史がそこにあります。今、この愛の歴史がまばゆい輝きの中で実を結んで、神さまの愛が、まばゆい主イエスの姿に見えるかたちとなり、しるしとなって現れているのです。

【共におられる主イエス】
ペテロはこの光景に興奮して、三つの幕屋を立てると口走ります。ペテロの気持ちは、とてもよくわかります。まばゆい輝きの主イエスといつまでもいたいと思ったのです。けれどももちろんこの輝きは、いつまでも続くはずのものではありませんでした。やがて輝きは去り、モーセとエリヤも見えなくなって「自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった」(8節)のです。しかし、主イエスだけは、ペテロたちといっしょにいてくださるのです。山を降りてからもずっと共にいてくださったのです。

【共に苦しむ主イエス】
弟子たちは復活を「心に堅く留め」(10節)て、進んで行きます。そしてついには次々と殉教の死をとげるのです。それは主イエスが共に苦しんでくださっていることを知っているからでした。それは今も同じです。私たちのどんな大きな苦しみも主イエスは共に苦しんで下さっています。私たちのどんな小さな苦しみも、主イエスは共に苦しんでくださっています。

イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。 マルコの福音書9章2節

いのちの重さ 2013年6月30日

聖書:マルコの福音書 8章31-9章1節

【たいせつないのち】
「全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう」(36節)と主は言われました。このいのちは「永遠のいのち」です。けれどもローマ書には「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(6:4)とあります。「永遠のいのち」は、私たちの毎日の歩みを新しくします。キリストのくださるいのちは、バプテスマによって、もう始まっているのです。

私たちは罪人です。神を押しのけて自分が神になろうとする罪。自己中心の罪。けれどもキリストは、私たちをそこから歩み出させてくださいます。このいのちを得るように。得たら失わないように。主イエスは、弟子たちだけではなく、群衆にも、そして私たちも含めたすべての人々をそのように招いてくださっているのです。

【祝福へ向かう行列】
いのちを失わないためには、どうしたらよいのか。主は「わたしについて来なさい。」(34)とおっしゃいます。主イエスを先頭にして、永遠のいのちへと向かう行列に加わるのです。

【下がれ、サタン】
ふしぎなことがひとつ。弟子たちに「自分のことをだれにも言わないように」(30)と戒めた主イエスが、「群衆を・・・呼び寄せて」(34)自分のことを教えておられるのです。弟子たちは、主イエスの行列が主を先頭にした行列だということがわかっていなかったからです。主イエスが十字架と復活のことを話されたとき、ペテロは「イエスを・・・いさめ始め」(32)ました。「いさめる」は「しかる」という言葉。ペテロはイエスをしかったのです。十字架を経由して祝福へと向かう行列を、十字架抜きですませようと願ったのです。主イエスに「私についてきなさい」と言ったのです。これは、主イエスが公の働きに立ち上がる前に荒野で受けたサタンの誘惑と同じです。サタンも主イエスに「十字架抜きで救い主になったらよい」と言いました。だから、主イエスはペテロに「下がれ。サタン」とおっしゃった。それは、「いなくなれ」と言ったのではなく、「私の前に立つのはやめなさい。私の後からついて来なさい。」という意味。ペテロが先頭に立つなら、この行列は決して祝福にいたることができないからでした。

【自分の十字架を負って】
「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(34)と主はおっしゃいます。主イエスより前に立とうとすることをやめること。主イエスを叱って、言うことを聞かせようとすることをやめることです。かたくなな私たちはしばしばこのことに失敗します。けれども主イエスは「たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう」(36)、つまり「かたくなさを捨てて歩む先にあるいのちこそ、あなたにとって最もたいせつだ」とおっしゃいます。

【主イエスに癒され続けること】
自分を捨てて歩むために必要なのは、主イエスの赦しを体験し続けることです。かたくなさの理由のひとつは自分が変わることへの不安と恐れ。私たちを何度でも赦してくださる主イエスのあわれみをますます深く知るなら、そのあわれみは私たちをいやします。かたくなさを捨てて、今までの生き方を変えることに踏み出させるのです。こうしていやされながら、私たちは主イエスの行列の中で歩み続けます。ますます軽やかな足取りとされていくのです。

人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。 マルコの福音書8章36節

主イエスをだれだと言いますか 2013年6月23日

聖書:マルコの福音書 8章27-30節

【ピリポ・カイザリヤ】
ピリポ・カイザリヤはゴラン高原の町。ヨルダン川の水源の豊かな泉が湧く緑の中の町です。ローマ皇帝からこの町をもらったヘロデ大王(主イエス誕生のときの王)は、ここに皇帝崇拝の神殿を建てました。この神殿と壮大な自然を前に主イエスは「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(29節)とお尋ねになりました。

【尋ねる主イエス】
聖書の翻訳者たちは、主イエスの言葉を直接話法で訳すように心がけます。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」は直接話法。『主イエスは彼らに主イエスをだれだというのかと尋ねられた』が間接話法。直接話法だと生き生きした主イエスの言葉が伝わりますが、間接話法だと説明になってしまいます。

礼拝もまた主イエスはだれかという解説を聞くところではありません。今私たちはこの礼拝の中で、主イエスから直接に「あなたは、わたしをだれだと言いますか」と尋ねられています。主イエスは私たちに信仰を告白させるために尋ねてくださるのです。

【人々の答】
人々の答は「バプテスマのヨハネ」や「エリヤ」(28節)でした。権力者たちを恐れさせた預言者たちです。人々は、主イエスを自分の経験の範囲で理解しようとしました。そして力ある預言者に主イエスを重ね合わせたのでした。けれども主イエスは預言者以上のお方。私たちのおかれている状況だけではなく、私たち自身をまったく新しくするお方でした。

【弟子たちの答】
弟子たちを代表したペテロの答は「あなたは、キリストです」(29節)。新共同訳聖書では「あなたは、メシアです」。「メシア」はヘブル語。油を注がれた人という意味。ところが主イエスの時代には「メシア」には独特の意味が込められるようになっていました。イスラエルで油を注がれて任命される王・預言者・祭司の3つの務めを全部あわせもった、バプテスマのヨハネやエリヤのような預言者よりもはるかに強い力でイスラエルを解放する神からの救い主をメシアと呼んで待ち望んでいたのです。弟子たちは主イエスを真の救い主、新しい時代をもたらす神から来たお方と感じていたのでした。

【教え続ける主イエス】
けれども、弟子たちには主イエスが十字架の主であることはまだわかっていませんでした。マルコの福音書は今日のところがちょうど半分くらいの折り返し点。残りの半分を費やして、主イエスはご自分が十字架に架けられるメシアであることを教え続けるのです。

【流れ降る恵み】
主イエスをメシアと告白することは神の子と告白すること。十字架を知らなかったけれどもこの告白をした弟子たち。彼らのうちに始まった永遠のいのちのはじまりを主イエスは大切にしてくださいます。「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。」(Tヨハネ4:15)。驚くべきこの恵みは弟子たちに始まりました。十字架を知る私たちにはもちろんのことです。

ピリポ・カイザリヤの泉に始まる流れはヨルダン川となって、ガリラヤ湖に注ぎ、最後にはあの大きな死海に流れ込みます。ヨルダン川という名前は「下へ流れ降る川」という意味。主イエスの恵みは天からの恵み。天から下へ流れ降る恵みはいよいよ豊かに私たちをうるおします。礼拝をささげるほどに神はますます私たちのうちに豊かに住んでくださいます。

ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」 マルコの福音書8章29節

はっきり見えるように 2013年6月16日

聖書:マルコの福音書 8章22-26節

【峠のできごと】
今日の聖書の箇所は短い地味な箇所だと言えるかも知れません。主イエスが目の見えない人をいやされた、ただそれだけのことです。けれどもこの箇所に続いているのは、ペテロの信仰告白と主イエスの変貌。主イエスの神としての栄光が現れる二つの大きな山のようなできごとです。そこへ向かう峠のような今日の箇所はやはりたいせつです。この人のように目が開かれるなら、私たちもこの後の大きなできごとをはっきり見ることができるのです。

【ニカイア信条】
初期の教会は礼拝で使徒信条ではなくニカイア信条を告白していました。そのころアリウス派という「主イエスは神ではない。限りなく神に近い人間だ」と教える人々がいました。そこで325年に開かれたニカイア会議で決定されたのがこの信条。教会が礼拝する主イエスが神であることをはっきりと宣言したのでした。

【何度でもふれてくださる神】
主イエスは神。主イエスが私たちの目を開いてくださるときに、見えるのはこのことです。主イエスはそのために、たいへんに手をおかけになりました。つばをつけ両手をこの人の目に何度もあててくださいました(23-25節)。それははっきり見えるため、主イエスがはっきり見えるようになるために、何度も手を当ててくださったのでした。

【まことの神、主イエス】
ニカイア信条にはこのような言葉があります。「・・・我らは、唯一の主イエス・キリストを信ず。主は、御父より生れたまいし神の独り子にして、御父の本質より生れ、神からの神、光からの光、まことの神からのまことの神・・・」。こうして信条は主イエスが神であることを、これ以上なくはっきり宣言しました。主イエスはまことの神です。そのことが私たちに、はっきり見えるようになるために、主イエスは何度でも何度でも、触れてくださるのです。

【十字架に架けられた神】
主イエスは神です。十字架に架けられた神。他の誰かではなく、神ご自身が十字架に架けられ、私たちの罪を引き受けてくださいました。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:14)は、三位一体の神が引き裂かれる叫び、これ以上ない愛で結ばれた父なる神と子なる神の断絶の叫びでした。全宇宙もそのような犠牲には値しません。けれどもそんな犠牲が私たちのために払われてしまったのでした。

【村の外に】
このできごとは村の外(23節)で行われました。人には主イエスを利用するが、十字架の主に従うことにはたじろぐ思いがあるからです。私たちのうちにも、主イエスが十字架に架けられた神であることにたじろぐ思いがあります。ペテロもそうでした。主イエスがご自分の十字架の死について語られたときに、思わずノーと言ってしまうのです。十字架の主に従って行くことに、本能的といってよいほどにノーと反応してしまうのです。けれども主イエスは私たちの手を取って(23節)連れ出してくださいます。私たち自身の思惑の外へと。そして両手を私たちに当ててくださいます。はっきりと見えるようになるまで。

【今も、主イエスは】
主イエスを神からの神と告白した私たち。その開かれた目が自らの思惑によって曇って、主イエスをはっきりと見ることができなくなることがあります。でも主イエスはそこからも私たちを連れ出して、また鮮やかに主イエスを見ることができるようしてくださいます。何度でも何度でも両手を当ててくださるのです。

それから、イエスはもう一度彼の両目に両手を当てられた。 マルコの福音書8章25節

感謝のもたらすもの 2013年6月9日

聖書:マルコの福音書 8章1-21節

【キリエ】
カトリック教会やギリシャ正教会でよく祈られる祈りに「キリエ」と呼ばれる祈りがあります。教会の歴史のかなり早い時期から祈られてきた祈り。正しくは「キリエ・エレイソン(主よ、あわれみたまえ)」。もともとは、もう少し長い「イエスの祈り」とよばれる祈りを短縮したものです。それは「主イエス・キリスト、神の子よ、私たち、罪人をあわれみたまえ」という祈り。ですから、「主よ、あわれみたまえ」というときの主は、主イエスのこと。「主イエスよ、あわれんでください」と祈ることができるのは、主イエスがあわれみ深い方であることを知っているからです。教会とは主イエスがあわれみ深いお方であることを知っている者たちの集まりということができます。

【くり返す主イエスのあわれみ】
今日の七つのパンで4千人を満腹させるパンの奇蹟は、6章で5つのパンと二匹の魚で5千人を満腹させたパンの奇蹟のくり返し。主イエスがくり返して恵みを与えてくださるお方だからです。くり返される私たちの不信仰を見ても、主イエスは引き下がるということをなさらない。あきらめないで、さらに恵みを差し出してくださるのです。

「かわいそうに」(2節)と言う言葉も6章の「深くあわれ」む(6:34)と同じ言葉。はらわたが痛むほどにあわれむという意味。主イエスはくり返し、はらわたがねじれて痛むほどあわれんでくださいました。神である主イエスが!

【与えられないしるし】
そこへ来たパリサイ人たちはイエスをためそうとして「天からのしるし」(11節)を求めました。主イエスがメシア(救い主)だという証拠を見たがったのです。主イエスはため息をついて彼らのかたくなな心を悲しみ、「今の時代には、しるしは絶対に与えられません」と拒みました。主イエスがくり返して見せておられた神であるしるし、「あわれみ」を彼らが見逃していたからです。その点はローマにおもねり富と権力を求めたヘロデ(15節)も同じでした。

【まだ悟らないのですか】
主イエスのあわれみに気づいているか。これが弟子たちにとっても一番大切なことでした。「まだわからないのですか、悟らないのですか」(17節)は厳しいようですが、ここにあるのも深いあわれみです。「わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき・・・」(19節)、「四千人に七つのパンを裂いて上げたとき・・・」(20節)と主イエスは、ご自分のあわれみに気づかせようとなさっているのです。

【目に見えるあわれみのしるし−聖餐】
「イエスは・・・七つのパンを取り、感謝をささげてからそれを裂き」(6節)は、「主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き」(Tコリント11:23-24)と重なるところ。教会はいつもパンの奇蹟を聖餐と重ね、聖餐のたびに主イエスのあわれみを思ってきました。あわれみをくり返した末、最後には十字架の上で、ご自分を裂かれてしまわれた主イエスです。

【抱きしめる主イエス】
最後の晩餐のまさにその夜、弟子たちはみな主イエスを捨てました。主イエスはその裏切りの罪をも見通した上で、パンを裂いてくださいました。心のうちに罪を秘めた弟子たちを、その罪ごと抱きしめてくださったのです。このことを悟るとき感謝が、そして感謝は賛美と自分を注ぎ出す愛を、とりわけ世界の救いのための祈りをもたらします。

そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」 マルコの福音書8章15節

開いてくださる主イエス 2013年6月2日

【グランド・フィナーレ】
マルコの福音書はまだ続きます。けれども今日の箇所はマルコの第一のグランド・フィナーレと呼ばれます。グランド・フィナーレとは、オペラなどの最も盛り上がる部分でたくさんの歌い手たちが合唱する場面。そのように、「この方のなさったことは、みなすばらしい」(37節)と人々が言います。「みな」というのは、ここまで主イエスがなさったみわざ。この人々の中には、これまで主イエスに救われた人々がいたかもしれません。そう考えると、ここまでに登場した人々が勢揃いしている情景が目に浮かぶようではありませんか。この後8章からは、第二のグランド・フィナーレに向かってマルコは筆を進めます。主イエスの十字架と復活がその第二のグランド・フィナーレです。

【もつれる舌、聞こえない耳】
「口のきけない人」(32節)は新共同訳聖書では「舌の回らない人」。音は出せるのだけれども伝えたいことを伝えられない歯がゆさに苦しむ人です。この人は私たちに似ています。私たちも舌のもつれを感じます。神さまに祈るべき時に祈れず、互いに愛の言葉をかけ合うべき時にそうできないからです。舌がもつれるのは、耳が開いていないからです。主イエスのことばをはっきり聴き取ることができないからです。

【開いてくださる主イエス】
主イエスはこの人の耳を開き、舌のもつれを解いてくださいました。ただ「治れ」と言ったのではなく、この人の痛みに寄り添い「その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられ」(33節)たのです。そうせずにはいられない深い深いあわれみがそうさせたのでした。

ルカの福音書に「九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩」く主イエスのたとえがあります。実際にこんなことをする人はいません。ある人はここに「神の異常さ」があると語りました。神の愛は常識を越えてしまう愛です。十字架の愛がまさにそのような愛です。同じ愛に動かされて主イエスは私たちの耳を開いて、ご自分の愛の言葉を聞かせてくださいます。私たちの舌のもつれを解いて、神への賛美と人への愛を語らせてくださいます。

【奇蹟を売り物にしない】
主イエスは「このことをだれにも言ってはならない」(36節)とお命じになりました。それは奇蹟を売り物になさらないためでした。奇蹟を売り物にするなら、ほんとうに大切なことが忘れられてしまいます。それは神の愛への驚きです。奇蹟の不思議さに目を奪われてはなりません。不思議さではなく、神の愛から目を離さないことです。

【連れて来た人々】
この人が主イエスのみもとに来ることができたのは、彼を「連れて来て」(32節)くれた人々がいたからでした。どこに連れて行かれるのか、よくわかっていなかったこの人を主イエスのもとに連れて来た人々。私たちもそのようでありたいと思います。主イエスは「彼の上に手を置いてくださるよう」(32節)という人々の願い以上のことをしてくださいました。主イエスは、家族や友人のために祈る私たちの祈りにも、そのように応えてくださいます。

すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。 マルコの福音書7章35節

『でも』の信仰 2013年5月26日

【主イエスの失望】
「隠れて」(24節)いようとなさった主イエスには疲れや失望がありました。私たちと同じように私たちの悩みを知ってくださっている主イエス。それも全知全能の神としてだけではなく、人として内側から私たちを知ってくださっている主イエス。このお方のあわれみと励ましは本物です。

【論争に負けた主イエス】
ところがひとりの異邦人の女性が主イエスを探し出します。後々の教会が「ユスタ」と呼ぶようになった女性です。はじめ主イエスは「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくない」(27節)と言うのですが、ついには「ユスタ」の娘から悪霊を追い出しました。主イエスは言い負かされたのです。でも喜んでそうしてくださったのです。ユダヤ人たちは異邦人を「犬」と呼んで軽蔑していました。けれども主イエスの使った「小犬」はそれとはまったくちがう言葉です。「小犬ちゃん」というような親しみがこもっているのです。負かされた主イエスは、実ははじめから負かされるつもりだったのです。

【主よ】
マルコの福音書でイエスを「主よ」と呼んだ人は「ユスタ」だけです。「主」とは「神である救い主」を意味します。「ユスタ」は、イエスがあわれみ深い神だと知っていたのです。だから「でも」(28節)と願い続け、「食卓の下にいることを許されるほど可愛いがられている小犬なら、追い払ったりしないでしょう」と迫りました。

【ゲッセマネの主イエス】
主イエスはもう一度負かされたことがあります。ゲッセマネです。「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください」(14:36)という祈りは父なる神の説得に負かされて、「あなたのみこころのままを」に変えられました。私たちへの愛ゆえに、主イエスは十字架へと負かされてくださったのでした。

【「ノー」の中の「イエス」】
ルターはこの聖書箇所が大好きでした。そして、「この女に対する主イエスの言葉は、見たところ完全なノーにしか思えない。けれども、この完全なノーは、実は完全なイエスでもある」と説教しました。つまり主イエスは「まだ、あなた方異邦人のときではない」とおっしゃったのですが、その「ノー」の中には、もう「イエス」という言葉が響いていました。そして「ユスタ」はその響きを聴き取ることができたのでした。私たちも試練の中にあって、主イエスが突き放しておられるように見えるときにも、その「ノー」の中に「イエス」を聴き取りたいと思います。

【心を失うな】
日本語の「あわてる」という言葉は、英語では「ルーズ プレゼンス オブ マインド」と言います。「心を失う」という意味です。「ユスタ」は、主イエスに突き放されたときにもあわてず、「心を失い」ませんでした。

私たちもあわてて、心を失うことがないようにと思います。だれも自分で自分の心を握りしめて、これでじゅうぶんと言うことはできません。自分で握りしめたつもりでも、すぐに心を失ってしまいます。主イエスが私たちの心を握っていてくださる。主イエスが私たちの心が失われないように守っていてくださる。これ以上に確かなことはありません。私たちの望みはいつも、主イエスに、主イエスだけにあることを覚えていたいと思います。

「でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」 マルコの福音書7章28節

神の悲しまれること 2013年5月19日

【汚れはどこから】
主イエスは、手を洗わずに食事をした弟子たちを責めたパリサイ人たちから、今度は群衆に向き直られました。すべての人が聴くべきことがあったからでした。それは異邦人だけが汚(けが)れているのではなく、ユダヤ人も含むすべての人は汚れているということでした。なぜなら、汚れは異邦人やユダヤ人という外側の違いによるものではなく、人の内側から出て来るものだからでした。

【弟子たちのにぶさ】
けれども、弟子たちにはこのことがわからず、主イエスにお訊ねしました。福音書がしばしば描く弟子たちの「にぶさ」。それは、実は弟子たちのことだけではなく、私たちのにぶさ、いえ私のにぶさを明らかにしているのです。それは罪に対するにぶさです。

【人から出るもの】
「内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさ」(21-22節)だと主イエスは言われました。これらの悪は私たちの内側から出て、私たちを汚します。もちろん原因はあるでしょう。だれかの言葉や行動が私たちの反応を引き起こします。

「旅人の木」は、葉を切り落とされると、樹液をしたたらせて、渇いた旅人を潤します。悪をもって悪に酬いず、かえって自分を傷つける者に愛を注ぎ出す姿です。なによりも主イエスは十字架の上で、ご自分を苦しめる者たちのために、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ととりなしました。私たちもそのように生きたいと思うのですが、ほど遠いことを悲しく思います。

主イエスは内から出てくる汚れのひとつに、「ねたみ」をあげておられます。これは「悪い目」という言葉。他人をうらやましく思うときに、心の目つきが悪くなります。どうしたらそのような「悪い目」から解放されることができるのでしょうか。

【アウグスティヌス】
教会史上最も有名な司教であるアウグスティヌスは、ヨハネの手紙第一4章9節の解説の中で「愛しなさい。そしてあなたが望むことを行いなさい」という有名な一句を残しました。続いて「愛に根ざしなさい。愛という根からは、善のほかは何も生まれないからです」とも。私たちの内から出るものが愛であったらと、あこがれずにはいられません。

ペンテコステに降った聖霊とは神ご自身。何よりも神の愛を知らせるお方です。十字架の愛を深く知って、私たちの内側にも愛が生まれること。このことは神さまの願いでもあるのです。

【10時15分の礼拝】
準備祈祷から礼拝が始まるまでの間にするべきことがあります。礼拝の中で、神さまが与えようとしているものを受け入れる心をつくることです。礼拝の中で、神は私たちを内側から出てくる汚れから解き放とうとされておられます。そのことを思い、神に働いていただくために、自分を手放すための15分間なのです。

神の悲しまれること、それは私たちの中に汚れがあることではありません。神が悲しまれるのは、私たちが希望のないもののように、汚れの中にとどまりつづけることです。流された十字架の血潮に期待しようとしないことなのです。

「人から出るもの、これが、人を汚すのです。」 マルコの福音書7章20節

神の望まれること 2013年5月12日

洗わない手でパンを食べた弟子たちに端を発した事件。ここから聴くべき2つのことがあります。(1)神の愛はユダヤ人から異邦人へと垣根を越えてはみ出していく愛。これに逆行するなら、宗教的に見えても神から遠いのです。(2)神が望まれるのは自由な心。コルバンを言い訳にする貪欲と偽善に縛られた罪人を赦し、解き放つことが主イエスの望みでした。 私たちもはみ出す愛に生きる自由を失うことがありませんように。

「こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。」 マルコの福音書7章13節

湖の主イエス 2013年5月5日

奇跡は不思議なことを意味しますが、奇蹟には神の意志が込められています。水上を歩く奇蹟に込められた主イエスの意思は、(1)どんな嵐の湖にも弟子たちを(私たちも)救うことを妨げさせないこと、(2)そうすることによってご自分が神であることを弟子たちに明らかにすること、(3)弟子たちがこのことを思い出しては「主イエスは不信仰な者たちを何度でも引き戻してくださるのだ」と語り継ぐこと、だったのです。

「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」 マルコの福音書6章50節

パンを裂く主イエス 2013年4月28日

有名なパンの奇跡。けれども、主イエスの願いは人々のお腹ではなく、たましいを満足させることでした。それは(1)罪の中にいる人々に、十字架でご自分を裂いて与え、罪を引き受けることによって(2)弟子たちもまた迫害の中で自分を与え、主イエスを伝えて(3)与えれば与えるほど増えていく主イエスのいのちを満ちさせるためでした。すでにこのいのちのうちにある私たちはたがいを喜ぶことができるのです。

「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」 マルコの福音書6章37節

心を痛めたが 2013年4月21日

ヘロデ王はバプテスマのヨハネを殺しましたが、神の言葉を殺すことはだれにもできません。(1)神の言葉は悔い改めを求めます。私たちも心を柔らかにしていただいて、自分のかたくなさを悔い改めましょう。(2)神の言葉は、愛から出る愛の言葉です。ヨハネも命がけで語りました。主イエスは十字架の上で私たちを惜しまれました。毎日、神の言葉を読んで、神の愛の力をいただきましょう。愛する力。伝道の力です。

王は非常に心を痛めたが、自分の誓いもあり、列席の人々の手前もあって、少女の願いを退けることを好まなかった。 マルコの福音書6章26節

12人が出て行き 2013年4月14日

主イエスは、郷里の村を包むようにご自分も伝道を続け、また十二弟子を遣わしました。そのとき(1)悔い改めを説き広め(2)ふたりずついっしょに(3)杖1本のほかは何も持たず(4)一箇所では一軒の家にとどまって(5)聞こうとしないなら足の裏のちりを払い落すようにとお命じになりました。弟子たちが、神への信頼と愛と祈りをもってそうしたとき、多くの人々が喜んで主イエスを受け入れたのでした。

こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。 マルコの福音書6章12-13節

主イエスの知恵 2013年4月7日

郷里に帰った主イエス。ところが村人たちはその教えに驚きつつも信じることができませんでした。けれども、すべての人は信仰へと招かれています。十字架の主イエスを「神の子」と告白したあの百人隊長の信仰へ。また、「私の主。私の神。」と告白したトマスの信仰へ。主イエスの兄弟たちもやがて、教会の指導者に変えられました。私たちも自分の知恵から主イエスの知恵に飛び込みましょう。ますます深く恵みの中へ。

この人に与えられた知恵や、この人の手で行われるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。 マルコの福音書6章2節

私の主、私の神 2013年3月31日

十字架の上で死なれたイエス・キリストは、三日目に復活されました。復活は死に対する勝利です。イエスは疑い深いトマスをわざわざ訪ねてくださり、信じたトマスの「私の主。私の神。」という告白は教会の土台となりました。神の大きなあわれみでした。イエスを信じる者は、自分も復活に与ることができます。そして、復活のいのちは今ここで始まっています。愛し合う兄弟姉妹の交わりのうちに、いのちは脈打っているのです。

トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」 ヨハネの福音書20章28節

タリタ、クミ 2013年3月24日

主イエスがこの二人のいやしをとおして2つのことを示されました。(1)主はいやしを超える救いを与える。いやされた女性を探されたのはそのためでした。(2)主は私たちの信仰を超える信仰を与える。女性とヤイロの小さな信仰を主は励まし、呼び起こし、良しとしてくださいました。

イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」 マルコの福音書5章36節

神のあわれみ 2013年3月17日

汚れた霊につかれた人に注がれた神の三つの大きなあわれみ。(1)主イエスはこの人を救うためだけに嵐の湖を渡ってお訪ねになりました。(2)主イエスはレギオンという名を持つ汚れた霊からこの人を解き放ちました。悪霊は人が、神と他の人と自分を愛することを妨げます。けれども主イエスは十字架でその支配を打ち砕かれました。(3)主イエスはこの人を家族のもとに遣わされました。彼らにも主イエスを知らせるために。

「主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」 マルコの福音書5章19節

風はやんで 2013年3月10日

嵐の中で眠る主イエスとあわてる弟子たち。その弟子たちも復活の主イエスにお会いした後、迫害を恐れず伝道に出て行きました。神であるお方が私たちと同じ船に乗っておられることを信じるなら、私たちは嵐の中をこぎ続けることができます。また、私たちには、仲間がいます。助け合い、励まし合い、力を合わせて、主からの使命を果たすことができるのです。

イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。 マルコの福音書4章39節

神の国は 2013年3月3日

神の国は蒔かれた種のように人手によらず実をならせます。主イエスはこの譬えで私たちの心配をいやされます。心配から出る焦りやあきらめからのいやしです。神の国は私たちが夜も眠れないほど心配していなければならないようなひ弱なものではないからです。主イエスが一粒の種となって死んでくださった福音には力があります。そしてそれはからし種のように大きく成長するのです。

イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。 マルコの福音書4章33節

豊かな祝福 2013年2月24日

主イエスは2つの譬えで豊かな祝福をお語りになりました。(1)主イエスは世に来た「あかり」。おおい隠すことができない光に照らされた弟子たち、そして、私たちは恐れず主イエスを語ることができること、(2)主イエスを証しする量りを用いるならますます豊かな祝福が増し加えられること。レントの季節、主イエスのあふれる愛の祝福を味わい喜びましょう。

あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。 マルコの福音書4章21節

種播く人 2013年2月17日

種はみことば。播かれた種の多くが実を結ばないことは、伝道が困難であることを示しています。けれども、少数の種は実を結びます。私たちです。神を愛し、人を愛し、空しさからも解き放たれて、100倍の実を結んでいるのです。種はまた、みことばであると同時に主イエスをも指しています。十字架の上で死んでよみがえってくださった主イエスという種がこの豊かな実りを与えてくださったのです。

また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。 マルコの福音書4章8節

主イエスの兄弟 2013年2月10日

家の中にいた主イエスを、家族は外へ呼び出そうとしました。それは、イエスを主と信じることができなかったからでした。一方、家の中でイエスを囲んでいた人々は他人。けれども、主は彼らを家族として扱われました。主は私たちも、家族と呼んでくださっています。主イエスによって一つに結ばれた私たち。ますます互いを喜び、愛の絆を深くしよう。

神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。 マルコの福音書3章35節

どんな罪も 2013年2月3日

ご自分を非難する律法学者たちに対して、主イエスはユーモアをもって応対されました。悪霊の内輪もめなどあり得ないこと、そしてご自分は悪霊から私たちを略奪するために来られたことが、忍耐強く招きとして語られます。そして、十字架によってすべての罪が赦されることが宣言されるのです。赦されない罪はただ一つ、主イエスの救いを拒み、拒み続け、拒み通す罪だけです。それこそが、「聖霊をけがす罪」。すなわち、主イエスの聖霊によるみわざを神からのものではないと言い張り続ける罪なのです。

人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。 マルコの福音書3章28節

イエスのみもとに 2013年1月27日

主イエスの12弟子はみな普通の人々。彼らを「これでよい」と任命した主イエスの目的は(1)身近に置いて愛し(2)遣わしてその愛を宣べさせ(3)悪霊を追い出させて、人々を主イエスのみそばに招くためでした。私たちもみなそのように主イエスのみそばに置かれています。心を開いてみそばにいることを楽しむことが人生の目的、主イエスに愛されることが私たちのいちばん大切な仕事です。他のだれにも本心を見せず主イエスに対する裏切りの思いを隠し通したユダの強さを持つことがあってはなりません。

それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。 マルコの福音書 3章14節・15節

イエスにさわろうとして 2013年1月20日

主イエスの行っておられたいやしのために、国の東西南北から大ぜいの人々がやって来ました。けれども主イエスは、ご自分を「神の子」と呼ぶ悪霊を戒められました。それはいやしによって神の国を建設することはできないから。神の国は、主イエスの与える復活のいのち、永遠のいのちによって建てられます。そして、そのいのちはすでに私たちのうちにあるのです。

それは、多くの人をいやされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来たからである。 マルコの福音書 3章10節

立って真ん中に 2013年1月13日

またも安息日。主イエスを訴えようと待ち構えるパリサイ人たちの前で、主イエスは片手のなえた人を、みなの真ん中に立たせていやされました。それは、律法の真の意味を忘れた人々のかたくなな心、死んだ心と対決し、その心におおいかぶさって生きた心を与えるためでした。十字架はそのためにあったのです。

イエスは手のなえたその人に「立って真ん中に出なさい」と言われた。 マルコの福音書 3章3節

安息日の主 2013年1月6日

安息日の麦の穂を摘み始めた弟子たちをパリサイ人たちが責めます。律法を破った者をさばく思いからです。けれども、主イエスは彼らに告げます。それは、(1)ダビデの家系からの救い主に仕える弟子たちが空腹を満たすのを神は決しておとがめにならないこと、(2)安息日は人が神のふところで安らぐために神によって設けられたこと、(3)パリサイ人も真の安息を与える主イエスに来て掟から解き放たれるべきこと、でした。

人の子は安息日の主です。 マルコの福音書 2章28節

新しいぶどう酒 2013年1月1日

新しいぶどう酒は新しい皮袋に。主イエスは断食を迫る人々に、いまは喜びのとき、だから喜びなさいと語られました。その喜びとは主イエスご自身。今年がますます主イエスを喜ぶ年でありますように。

新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。 マルコの福音書 2章22節

使徒信条(13・完)聖徒の交わり 2012年12月30日

「聖徒の交わりを信ず」とは、(1)私たちが「主イエスにあって」聖徒だと大胆に告白することです。また(2)その「交わり」が主と教会に仕える交わりであることを確認することです。神は、主イエスにおいて私たちにかがみ込むようにして、その愛を注いでくださいました。神の子とされた私たちも、そのように自分を与え合いながら、仕えます。たがいの足りなさを、取りなし、悔い改め、赦し合いながらそうするのです。

あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。 ローマ人への手紙 12章1節

この上もない喜び 2012年12月23日

「この上もなく喜んだ」は、「この上もない喜びを激しく喜んだ」という意味のことば。「博士」、実は星占いの魔術師たちは、救い主にあった喜びに、魔術の道具であった没薬などの宝を献げてしまったのでした。神が人となってくださったことを知る喜びは、それほどの喜びです。それが、私たちの日常生活の影を貫いてしまう喜びであることを知りましょう。

その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。 マタイの福音書 2章10節

クリスマスの涙 2012年12月16日

ヘロデ王による虐殺によってクリスマスに流された多くの涙がありました。世界には今も多くの涙があります。けれども、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した」とあるとおり、主イエスはイスラエルに帰って来られ、やがて十字架で使命をまっとうされました。悲しみの世界をいやし、悲しむ人々を神に連れもどすことがその使命だったのです。

ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。 マタイの福音書 2章18節

その名はインマヌエル 2012年12月9日

正しい人ヨセフは、マリヤの懐胎を聞いて、思い悩みました。その中で、自分にも「罪から救ってくださる方」が必要であることを知って、処女降誕の預言を信じることができ、幼子を守り養う、神の同労者とされました。クリスマスの備え、それは何よりもひとり神の前に立つことです。

「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」  マタイの福音書 1章23節

系図の福音 2012年12月2日

マタイが主イエスの系図を記す2つの目的:(1)アブラハムの子孫。アブラハムへの神の約束は、主イエスに実現し諸国民が祝福を受けています(2)ダビデの子孫。「十四」はダビデを表す数字。この数字が繰り返される系図は、ダビデの王座で永遠に支配する王を待ち望む系図。今や永遠の王主イエスが来て下さって、私たちはその支配の下にいます。

アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図  マタイの福音書 1章1節

使徒信条(12)公同の教会 2012年11月25日

「公同の教会を信ず」とは「教会が一つだと信ず」ること。(1)私たちはすでに一つ。主イエスを信じる信仰において一つです。(2)パウロはその一致を「熱心に保つ」ように教えます。たがいに対してすぐに閉じてしまう心を何度でも開き、悔い改めて、あきらめない愛を生きるのです。(3)私たちはさらにキリストの愛によって成長することができます。その愛は私たちをすっぽりと包んでいる愛です。

主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。 エペソ人への手紙 4章5節

罪人を招くために 2012年11月18日

取税人レビを、あわれみのまなざしでご覧になって招かれた主イエス。そのレビが主イエスを自宅に招き入れたとき、すばらしい祝福が始まりました。主イエスはパリサイ派もまたお招きになりました。彼らの持つ罪の病をあわれみのまなざしでご覧になって、いやしを差し出されたのでした。今も、同じ主イエスのまなざしは私たちに注がれています。

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」  マルコの福音書 2章17節

あなたの罪は赦された 2012年11月11日

病のいやしを求める人に「子よ、あなたの罪は赦されました」と言われた主イエス。そして、体のいやしばかりか永遠のいのちを与えてくださいました。主イエスに賭けた四人の友人たち。神に賭けたヨシュアとイスラエルの人々。信仰の決断は、私たちを神の力と愛に結びつけます。だから困難を前にしても、私たちの人生は明るいのです。

イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。  マルコの福音書 2章5節

主よ、聞いてください 2012年11月4日

詩篇130篇は都上りの歌、礼拝に向かう群れの歌です。罪の深い淵から呼ぶとき、そこから贖い出してくださった神を畏れる感謝の歌。キリストの十字架によって贖い出された私たちも毎週集って礼拝をささげます。そして神に赦され、罪の淵から守られ、たがいに励まし合いながら御国への旅を続けるのです。

主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。 詩篇 130篇2節

使徒信条(11)聖なる教会 2012年10月28日

「聖なる教会を信ず」と告白する私たち。現実には聖人の集まりには見えない教会は、神がご自身の血によって買い取られたゆえに聖なる教会です。死を覚悟したパウロはエペソの教会を「神とその恵みのみことばとにゆだね」ました。それが教会を、悔い改めと主イエスに対する信仰に立ち続けさせるからでした。私たちは、私たちが聖なる集まりであることを信じます。キリストがそうしてくださったから、そうし続けてくださるから。

聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。  使徒の働き 20章28節

いつくしみ深き 2012年10月21日

ツァラアトに冒された人をいやした主イエスは、その場所から立ち去るように厳しく命じました。そこには、家族や社会から彼を引き離す力に対する激しい怒りがありました。主イエスの心は深くあわれみ、内蔵が痛むほどのいつくしみ深い心。その心ゆえに、罪の力から私たちを解き放つために十字架にかかってくださいました。

「わたしの心だ。きよくなれ。」  マルコの福音書 1章41節

使徒信条(10)聖霊を信ず 2012年10月14日

主イエスは渡される夜、愛を残るところなく示されて、聖霊を約束されました。聖霊なる神は、私たちを主イエスに結びつけるきずなとなってくださるお方です。このお方が、私たちのうちの深いところに、主イエスを信じる信仰を与え、うちひしがれた弟子たち、そして、私たちを立ち上がらせ生かしてくださるのです。

わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。 ヨハネの福音書 14章16節

使徒信条(9)かしこより来たりて 2012年10月7日

「かしこより来たりて・・・審きたまわん」と告白する私たちには、審きに対する恐れはないでしょうか。パウロは審きの日を心待ちにしていました。それは審き主であるキリストが私たちの弁護者であり、そればかりか、5つの傷を示して、私たちの身代わりになってくださったことを自ら主張してくださるお方だと知っていたからでした。だから私たちも主の再臨を心待ちに、審きを恐れることなく、主を喜ばせることに専念できるのです。

なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。コリント人への手紙 第二 5章10節

荒野の恵み 2012年9月30日

イスラエルが荒野で過ごした40年、それは単なる裁きの年月ではありませんでした。試練と訓練の中で神を知り、さらなる約束の地をめざす養いのときでした。

(当教会創立16周年を記念して、舞鶴福音教会 高橋頼男先生をお招きし、説教をしていただきました。)

この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。 申命記 8章4節

使徒信条(8)神の右に座したまえり 2012年9月23日

主イエスは天に昇られ、地上でお会いすることはできなくなりました。その一方でみ言葉は、主イエスが今も私たちと共におられると教えます。この世界である地は、主イエスの昇天によって、神の世界である天とひとつにされました。だから主イエスは天におられながら、私たちとも共にいてくださいます。そして、まだ残っている天と地がひとつでないことごとのために、父の全能の力をとりなしてくださっています。

死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 ローマ人への手紙 8章38節39節

驚くべき主イエス 2012年9月16日

主イエス一行は会堂に入り、主は福音を宣言されました。人々はその権威に驚きましたが、汚れた霊は(1)主の権威を認めながらも(2)その権威を受け入れず(3)主に追い出されてしまいました。悪霊とは、私たちの自由を奪い、ほんとうは告白したい主への信仰や愛の言葉と行いを妨げる力です。けれども、主は権威をもって、いつも私たちを自由にしてくださいます。

イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け」と言われた。マルコの福音書 1章25節

使徒信条(7)死人のうちよりよみがえり 2012年9月9日

主イエスの復活は「全体の見通しを変えてしまった」と言われます。すべてが変わりました。(1)主イエスの復活によって私たちは義と認められました(ロマ4:25)。(2)そればかりか、私たちは患難さえも喜んでいます(5:3)。復活の主イエスがそうしてくださっています。(3)主イエスの復活は、死のとげを奪ってしまいました(Tコリント15:55)。私たちは裁きや孤独を恐れることなく主イエスと共なる死を死ぬことができます。

主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。   ローマ人への手紙 4章25節

使徒信条(6)ポンテオ・ピラトのもとに 2012年9月2日

「ポンテオ・ピラトのもとに」は、キリストの苦しみがピラトの治世のときに起こったというだけでなく、ピラトの罪による苦しみであったことを告白します。けれども、ピラトの保身や不正は、私たちのうちにも潜んで、ときに他の誰かを苦しめます。受難を意味するパッションには情熱の意味もあって、十字架は神の情熱による みわざであることを教えます。私たちを赦し、私たちを癒すことへの情熱です。

「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」ペテロの手紙 第一 2章24節

使徒信条(5)聖霊によりて、処女マリヤより 2012年8月26日

使徒信条が聖書にもとづいて告白する処女降誕。けれども処女が身ごもることよりも、神が人となってこの世界に入って来られたことの不思議に目を見はりましょう。マリヤはとまどいましたが、それが「聖霊」による神のみわざであると聞かされて信じました。キリストは私たちの小さな経験や知識の枠を突き破るようにしてこの世界に来てくださいました。今も私たちの枠を突き破り続けてみわざを行ってくださっています。

「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」ルカの福音書1章35節

主イエスの招き 2012年8月19日

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言して世界に夜明けをもたらしてくださった主イエスは、「わたしについて来なさい」と最初の弟子たちを招かれました。弟子たちは喜んで、その背中を追いました。主イエスは(1)私たちだけを派遣なさるのではなく、ご自身が先頭にたってくださり(2)ついて行く私たちのいっさいに責任をもって(3)すぐについていけなくなる私たちのために何度でも立ち止まり、振り返って、「わたしについて来なさい」とおっしゃってくださいます。

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」マルコの福音書1章17節

使徒信条(4)主イエス・キリストを信ず 2012年8月12日

神の独り子につけられた名はありふれた「イエス」。ただの人となり、私たちと同じ弱さを生き、同情してくださることができるお方であることを語る名です。けれども「イエス」の意味は「神は救い」。主の使いはさらに「民を罪から救うお方」と呼びます。油注がれた祭司を意味するキリストという名を加え、イエス・キリストと御名を呼ぶなら、罪人の私たちは神に近づくことができるのです。

「その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」マタイの福音書1章21節

使徒信条(3)神の独り子を信ず 2012年8月5日

「ことばは神であった」のみ言葉に基づいて、教会は主イエスが神であることを告白してきました。神の「独(ひと)り子」と。使徒信条とならぶニカイア信条は、さらに、主イエスを「まことの神より生まれしまことの神」と告白します。まことの神が十字架に架かってくださいました。子なる神が主イエスにおいて。そして私たちは神がいかなるお方であることを知り、私たちのうちにも実現した恵みとまことによって御前に近づくのです。

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。ヨハネの福音書1章18節

使徒信条(2)全能の父なる神を信ず 2012年7月29日

「全能の神」と「父なる神」は切り離すことができません。神の全能は父としての愛に反する形で用いられることはないからです。私たちは「アバ(おど)、父」と呼ぶことができる御霊を受けました。試みの中で「アバ」と呼ぶことができなくなるときには、主イエスの十字架を思いましょう。主イエスとひとつにされた私たちは、どんなときでも神の子であることを、変わることのない事実である十字架によって、思い出すのです。

私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。ローマ人への手紙8章15節

使徒信条(1)天地の造り主を信ず 2012年7月22日

教会の三要文(さんようもん)と呼ばれる使徒信条・主の祈り・十戒。なかでも使徒信条は、信仰の真髄として受洗前後の学びに用いられてきました。「造り主」である神を告白する喜び三つ:(1)私たちという存在には意味と目的があり(2)それは愛され愛することであって(3)人の罪にもかかわらず神は造ったゆえに責任をもってくださるお方。神は今日も私たちを助け、さらに、私たちの毎日の労苦を、ご自分のビジョンであるすべての造られたものの贖いのためにお用いくださっています。

初めに、神が天と地を創造した。 創世記1章1節

カナの婚礼 2012年7月15日

主イエスの最初のしるしは婚礼でのぶどう酒の奇蹟。三つの栄光をここに見ます。(1)酔いと騒ぎの宴会に出席された主イエスは、私たちの日常生活に踏み込んでくださるお方(2)母の願いに冷たく見える答は、人間の自由にならないお方の答。このお方は人間的な喜びを真実な喜びに変えます(3)主イエスの与える祝福は私たちの思いをはるかに超えています。☆弟子たちは、このように現れた栄光を見て主イエスを信じたのでした。

イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。 ヨハネの福音書2章11節

主よ、来てください 2012年7月8日

手紙の最後の言葉は別れの言葉ではなく、祝福の言葉。教会の絆は死を超える絆だからです。その絆の中で教会は信仰と愛に生きます。アクラとプリスカもそうでした。キリストの祝福もまた死を超える祝福。私たちの心よりはるかに大きな神の祝福の中にある私たちであることを、繰り返し思い起こしましょう。

主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。 コリント人への手紙 第一 16章22節

主がお許しになるなら 2012年7月1日

手紙の本文が終わり、パウロは今後の旅行計画を記します。神の栄光のためにすべてを行ったパウロですが、いつも「主がお許しになるなら」を忘れることがありませんでした。私たちもまた「主がお許しになるなら」との思いで、主の栄光のために生きることができます。なぜなら私たちは、神の愛によって造られ、ゲッセマネで叫び十字架に架かられた主イエスの愛によって神の子とされているからです。

主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。 コリント人への手紙 第一 16章7節

死は勝利にのまれた 2012年6月24日

罪というとげはすでにキリストの十字架によって抜き取られ、私たちは死に対する勝利を与えられています。再臨のとき、私たちが死んでいるならよみがえり、生きているならその場で変えられ、いいずれにしても不死を着せられます。この勝利はすでに始まっており、私たちの中にはキリストのいのちが注がれています。だから私たちは、毎日の愛の労苦に励むことができるのです。

「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」 コリント人への手紙 第一 15章55節

光が上がった日 2012年6月17日

主イエスのお働きは、異邦人のガリラヤで始まりました。ご自分から暗やみの中に入りこんでくださったのでした。そして、神の支配が始まっていることを宣言し、悔い改めてその支配の中に入るようにとお招きくださいました。悔い改めとは自分が暗やみを向いていたことを認め、光に向きを変えることです。そのとき、救いは私たちに実現します。

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」マタイの福音書 四章17節

価値観の刷新 2012年6月10日


また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。コリント人への手紙第二 五章15節

栄光の復活 2012年6月3日

復活を疑うコリントの人々に対して、パウロは叱るように語ります。神は、ご自分と私たちの愛の絆を死によって断ち切られたままにしておかれません。復活を疑うことは、その神の愛を疑うことだからです。復活のからだは神の栄光に輝くからだ。私たちは土の器ですが、この器の中にすでにキリストを知る幸いが輝いています。この幸いが、やがて復活のからだをキリストに似た神の栄光に輝くからだにするのです。

私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。 コリント人への第一の手紙 十五章49節

秩序ある言葉 2012年5月27日

パウロは礼拝を「適切に、秩序をもって」行うように語ります。神の秩序による礼拝が、@聖なる父なる神を神としA御子イエスの十字架の犠牲を通して献げられるときにB聖霊による奇跡が起こります。神は私たちのいのちを新たにし、私たちを駆り立てていた罪責感や怒り、恐れから解き放ってくださるのです。

ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい。コリント人への第一の手紙 十四章40節

生きておられる神 2012年5月20日

最後の試誘は「自己実現」。「何も成し遂げなかった人生は空しい」と思う私たちの弱点への攻撃です。この弱点ゆえ人は神に対して心を閉ざし、神をしもべにする罪を犯します。けれども主イエスは、この罪への抵抗を十字架の死まで貫かれました。主によって私たちは神に心を開き続け、永遠の栄光という最もすばらしいことを成し遂げることができます。

イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」  マタイの福音書 四章10節

いのちの言葉 2012年5月13日

パウロは忍耐強い愛による預言(説教)がすばらしい宣教の実をもたらすことを語ります。まだ信仰を持っていない人々が礼拝に加わるとき、そこで語られる言葉が働いて心の深みにある隠れた罪を示し、悔い改めと十字架の主イエスを信じる信仰が与えられるというのです。私たちの礼拝にも神は同じ恵みを与えてくださいます。

そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。   コリント人への手紙 第一 14章25節

心に届く言葉 2012年5月6日

教会は神に呼び集められた者たちの集まり。その集まりを建て上げるのは、異言ではなく知性に訴えるわかりやすい預言の言葉。真実の言葉が、神から賜物として与えられ、忍耐深い愛に根ざした語り手によって語られ、全存在で聞く聞き手に受けとめられるとき、心に届く言葉となって、教会が建て上げあげられます。

教会では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。  コリント人への手紙 第一 14章19節

新しい皮袋 2012年4月29日

ローマの支配を嘆いて断食する人々は、主イエスと弟子たちの会食を不思議に思いました。けれども主イエスはご自分を受け入れるものは古い生き方を捨てて、新しい入れ物になるはずであることを教えられました。教えるだけではなく、主イエスはかたくなな私たちを新しくしてくださるお方です。

新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。  マルコの福音書 2章22節

一番すぐれた賜物 2012年4月22日

愛の賛歌と呼ばれる13章。ほんとうの愛は相手を自分の所有とするのではなく、愛し抜く、忍耐強い愛。キリストにこそ、その愛をみることができます。けれども、この愛は賜物。神が私たちにこの愛を与えてくださいます。このことを知っていたパウロは、愛を猟犬のように追い求めなさいと命じています。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。  コリント人への手紙 第一 13章2節

神を知るために 2012年4月15日

ドストエフスキーは「大審問官」に「人は神よりも奇跡が好きだ」と言わせました。荒野での第二の試みも、主イエスが神の子であることを、奇跡によって人々に認めさせよというものでした。けれども主イエスは神を試みることを拒否されました。試みる者は、神の愛を忘れているからです。主イエスの与える奇跡は十字架と復活です。この愛を知る者は他の奇跡を見ることがなくても神を信頼します。

イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」  マタイの福音書 4章7節

喜びの朝 2012年4月8日

最もたいせつなこととしてパウロが強調するキリストの十字架・復活・顕現。その背景には、死者の復活はないというコリントの教会員たちの誤解がありました。死者の復活がなければキリストの復活もなく、すべてはむなしいことになります。けれどもキリストは復活されました。死もキリストとその愛から私たちを隔てることはできません。私たちの信仰も愛の労苦も人生も、決してむなしくはないのです。

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。  コリント人への手紙 第一 15章20節

キリストの十字架 2012年4月1日

パウロにとって最もたいせつなことは、キリストの十字架・復活・顕現。みな事実であり、神の意志によるできごとです。私たちの中にも救いのできごとが起こりました。十字架は、罪の赦しとすべての悪からのきよめのため。柔和でろばに乗った救い主は、恵みを受け入れる私たちをいやし、私たちの中にさらなるできごとを起こしてくださいます。

キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれた  コリント人への手紙 第一 15章3節

豊かな賜物 2012年3月25日

賜物はカリスマという言葉の翻訳、語源はカリス(神の恵み)です。賜物は神からすべてのキリスト者に与えられているすばらしいプレゼントなのです。キリストのからだである教会のために与えられているこの賜物は、それぞれ異なっています。ですから、私たちは兄弟姉妹に欠けを補ってもらう喜びと、兄弟姉妹の欠けを補う二重の喜びを生きているのです。

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。  コリント人への手紙 第一 12章27節

主イエスの生涯3 人を生かすもの 2012年3月18日

私たちと一つとなるバプテスマを受けた主イエスは、荒野で悪魔の試誘に。四十日四十夜の断食で飢えた主イエスに、悪魔は石をパンに変えるように誘います。それは、十字架ぬきの救いへの誘いでした。けれども、主イエスはご自分で十字架を選びました。人はパンだけで生きるのではなく、神によって生きることを宣言し、私たちが神によって生きる道を切り開いてくださったのです。

イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」  マタイの福音書 4章4節

霊のからだ 2012年3月11日

聖霊の賜物豊かなコリント教会では、その賜物を誇りになり、不一致が起こりました。そこでパウロは、教会は同じ主によって結び合わされた一つのからだであり、たがいが欠くことのできない器官であると語ります。それは私たちが、一つのキリストのからだとして、ともに神に仕えるためです。

しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。  コリント人への手紙 第一 12章20節

聖霊の賜物 2012年3月4日

コリントの教会員たちには、さまざまな聖霊の賜物が与えられていました。ところがそこから生じる高ぶりが、たがいの交わりを損なっていたのです。パウロはすべての聖霊の賜物のうち、第一の賜物、すべての賜物の源である賜物は、「イエスは主です」と告白する信仰だと言います。この賜物は、日々、私たちに注がれています。自分の救いに確信が持てないときも、聖霊が十字架を仰がせてくださるのです。

また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。  コリント人への手紙 第一 12章3節

主の晩餐 2012年2月26日

コリントの次の問題は、愛餐が損なわれたことでした。教会の交わりが、身勝手なものになっていったのです。パウロはこのことを大きな問題だと考えました。なぜなら教会は、主が十字架によって創り出された新しい契約の民、主の喜びの民だから。私たちの交わりもまた、主の喜びです。この交わりがますます健やかなものであるように祈りましょう。

「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」  コリント人への手紙 第一 11章25節

主イエスの生涯2 受洗 2012年2月19日

バプテスマのヨハネは驚きました。裁き主であるはずの主イエスが、罪人に混じって受洗することを願い出たからでした。それは、主イエスが罪人の間に入り、罪人の一人となって、神と私たちの遠い距離を埋めるためでした。私たちが神をあきらめても、神は私たちをあきらめることはありません。私たちは、しばしば失望し、力を落とします。けれども「我らの唯一の望みなるキリスト」を忘れることがないようにしよう。

また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」  マタイの福音書 3章17節

かしらはキリスト 2012年2月12日

コリント教会の礼拝に混乱が起こりました。不自然な自己主張から、かぶり物を着けないで祈りや預言をする女性が現れたのです。パウロは男であれ、女であれ、すべてのキリスト者のかしら(源の意味をもつ語)はキリストであることを思い出させます。礼拝とはキリストという源に帰ることであり、そのときキリストによってひとリひとりが建つからです。

すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。  コリント人への手紙 第一 11章11節

キリストに見ならって 2012年2月5日

ルターの紋章には「バラの上に置かれたキリスト教徒の心臓は、十字架の下にあるとき脈打つ」と記されています。キリストの十字架によって救われた私たち。それはただ恵みによります。パウロに見ならうことは、恵みの下に自分を置くこと。そのときパウロがみならったキリストのように、自分を注ぎ出す愛が私たちのうちに脈打ちます。

私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。  コリント人への手紙 第一 11章1節

神の栄光を 2012年1月29日

祝福が与えられるのは他の人のために用いるため。コリント教会員に与えられた自由という祝福も、他の人びとを愛し、教会(建物ではなく私たち)を建て上げるために用いるためでした。パウロはさらにそれが、神の栄光を現すことだと教えました。これらいっさいが、キリストの十字架によって始まったのです。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。  コリント人への手紙 第一 10章31節

偶像礼拝を避けなさい 2012年1月22日

「偶像礼拝を避けなさい」は、偶像礼拝から   という意味です。そうする先は、キリストの   。そのために二つの助けが与えられています。第一は、私たちが、主の選びの中で救いに与っている事実を思い出すこと。   がその証明です。第二は、たがいに、キリストの十字架を指し示しあうことです。   に与ることは

ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。  コリント人への手紙 第一 10章14節

まことの王 2012年1月15日

ヘロデ王と主イエス。まことの王はどちらだったでしょうか。猜疑心が強く、ベツレヘムの男の子ばかりか身内をも多く殺害したヘロデは、まことの王ではなく、恐れの奴隷でした。私たちも自分が王となろうとするときには、自分の   の奴隷になります。AA(アルコホーリクス・アノニマス=無名のアルコール依存者たち)の最初のステップは、自分が無力であることを認めることです。そして、まことの王である   を王とするとき、主は私たちにはできないことをしてくださいます。

そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる。」と言われた事が成就するためであった。  マタイの福音書 2章23節

若い人たちよ 2012年1月8日

新成人おめでとうございます。ペテロは若人にも長老にも   を勧めます。ペテロ自身もかつては謙遜ではありませんでしたが、キリストの   が彼を謙遜にしました。毎日はストレスに満ちています。しかし、謙遜なクリスチャンにはストレスの中で生きる秘訣があります。


 (1)自分が   であるかを見失わないこと。
 (2)ストレスを   にゆだねること。
 (3)毎朝7分間、(1)と(2)を   すること。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。  ぺテロの手紙 第一 5章7節

脱出の道 2012年1月1日

1月6日までは降誕節。クリスチャンはクリスマスの喜びの中で新年を迎えます。キリストとともに新年を迎える私たち。試練の中でも私たちは恐れません。なぜなら、神は        な方だからです。キリストの十字架と復活によって、私の過去は赦され、現在は罪の闇の力から守られ、未来は試練とともに        の道を備えられています。

神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。  コリント人への手紙 第一 10章13節

恵みとまことのクリスマス 2011年12月25日

神が人となってこの世界へ。どんな光よりも輝く光が世界を照らしています。この光に照らされるなら、人は造り変えられることができます。どんな依存も痛みもいやされて、神の通りに、愛し合って生きる者となることができるのです。

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。  ヨハネの福音書 1章5節

礼拝の本質 2011年12月18日

最初のクリスマス、御使いたちの天の礼拝と羊飼いたちの地での礼拝が行われました。それでは礼拝の本質とは何でしょうか?
(1)神の愛を     こと。その愛は十字架にあらわれています。
(2)神を       こと。私たちの毎日は喜びになります。
(3)      をささげること。豊かな祝福の生涯が実現します。

いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。  ルカの福音書 2章14節

おめでとう、マリヤ 2011年12月11日

御使いから救い主である神の子キリストの母となるという神のご計画を告げられたマリヤ。その思いは乱れました。けれども、彼女は自分の願いではなく神のみこころが実現することを選びました。そのために十字架の我が子を見、胸を剣で刺し貫かれるような痛みを味わうことになりましたが、永遠の価値を持つ使命に与ることができました。私たちも「おことばどおりこの身に」と申し上げ、使命のために遣わされましょう。主はともに働いて、必ず救霊の実を結ばせてくださるのですから。

マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」  ルカの福音書 1章38節

わたしは、すぐに来る 2011年12月4日

フィラデルフィアは「兄を愛する王が造った町」。その町の教会もその名にふさわしく、たがいに愛し合う群れでした。彼らの愛の交わりの少しばかりの力は、主イエスの大きな力を引き出し、ローマの弾圧からも守られました。私たちも愛の交わりのうちに「わたしは、すぐに来る」とおっしゃる主イエスを待ちましょう。そのために、私たちの交わりが、(1)恵みに満ち(2)率直で(3)苦さを入りこませない(4)主イエスを中心としたものでありますように。

わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。  黙示録 3章11節

その子をイエスと 2011年11月27日

主イエスは「聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ」ました。そして、その名イエス(主は救い)のとおり私たちの救いとなってくださいました。神だけがなしうる方法で、神だけがなしうるすばらしいみわざが成ったのです。主イエスをみごもらせた聖霊によって使徒たちは、作りかえられて、驚くべき働きに用いられました。今も聖霊によって私たちは神のみわざに加わることができます。信じて期待しましょう。

「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」  マタイの福音書 1章23節

主イエスの系図 2011年11月20日

(1)人はときに孤独と満たされない思いを感じます。イエス・キリストの系図に登場する人々もそうでした。 (2)神はそのことをご存じです。人となったイエス・キリストが経験してくださったからです。 (3)神はそれを癒し、イエス・キリストによって私たちを神の子としてくださいます。アブラハムから始まった系図が尽きたところに、神の家族の系図が始まるのです。「アバ、父よ」と呼ぶ神の子にしていただきましょう。

アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。  マタイの福音書 1章1節

子どもたち集合! 2011年11月13日

主イエスの憤りは聖書中ここだけにある激しい表現。主こそが私たちを祝福することに熱心であることがわかります。を表しています。弟子たちの問題は、主イエスが子どもたちに与えようとされた祝福を軽んじたことにあります。祝福のうちでも最も大きな祝福は、主ご自身。なくてはならぬこの祝福を、子どもたちとともに主ご自身からいただきましょう。

「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」  マルコの福音書 10章15節

死に勝つ力 2011年11月6日

「死は勝利にのまれた」という聖書のみことばが実現するのは、この世の終わりの復活の日。その日私たちは、先に召された方々とまたいっしょになり、いつまでもいっしょにいることになります。罪という「とげ」が主イエスの十字架によって抜かれているからです、けれども、それまでの間もイエス・キリストのよる勝利は、私たちに働いています。労苦する私たちにキリストの愛が日々豊かに注がれているのです。

神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。  コリント人への手紙 第一 15章57節

ゆるぐことがない人生 2011年10月30日

流浪の教会となった福島第一バプテスト教会。佐藤彰牧師は「彼らはいつからこんなに信仰が強くなったのでしょう」と言います。信仰は神の賜物。神に顔を向ける者たちは信仰を受け取り、「私の心が私に教える」ようになる。神ご自身を幸いとし、神ご自身を喜び、兄弟姉妹とともにとこしえの喜びと楽しみを目指して、いのちの道を歩く、ゆるぐことがない生涯は私たちのうちに、もう始まっています。

私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。  詩篇16篇8節

福音の恵み 2011年10月23日

「福音のためにどんな事でもする」と断言するパウロ。それは福音によって、キリストがそうする自由をくださったからでした。パウロはその自由を用いて、すべての人の奴隷となりました。私たちもすでに与っているこの自由を用いて人々に仕えることができます。そのとき伝える私たち自身が、ますます福音の恵みに与ることができるのです。

福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。  コリント人への手紙 第一 9章23節(口語訳)

安心して行きなさい 2011年10月16日

パリサイ人シモンの家で主イエスに香油を塗った罪深い女性。彼女には罪赦された人の愛と喜びがありました。けれどもシモンは心ひそかに彼女を軽蔑しています。主は彼を慈しんで、ていねいに譬えで教えてくださいました。500デナリと50デナリのちがいは犯した罪ではなく、赦された罪。シモンは自分の罪を深く知らなかったために、罪赦された人の愛に欠けていました。そして、主と女性が味わっていた喜びがわかりませんでした。宗教改革者ルターが愛したこの物語は、時としてシモンのようになる私たちを、信仰の出発点に引きもどします。

「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」  ルカの福音書 7章50節

どうしても福音を 2011年10月9日

コリントの教会には、伝道者パウロに報酬を与えるかどうかという議論がありました。パウロは報酬については、きっぱりと断ります。つまずく者がないためです。けれども、パウロは本来伝道者に報酬を与えるのは当然であることを教えます。それはコリント教会を愛するゆえ。パウロ自身は内なる喜びに衝き動かされて、福音を告げ知らさずにはいられません。そうでなければ、自分が自分でなくなってしまうとさえ感じています。私たちもその同じ喜びによって、献げ、伝道する者とされているのです。

というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。  コリント人への手紙 第一 9章16節

兄弟のために 2011年10月2日

救われ喜びにおどる私たち。それは生まれたてのキリスト者も同じです。ところが、コリントにはごうまんゆえに、これ見よがしに偶像の食卓に着く者たちがいました。そのふるまいによって、今まで偶像になじんで来て、まだキリストとの関係が不確かな人々の信仰を危険にさらしたのでした。パウロはそれを罪だと言います。その兄弟のために死んだキリストに対する罪だと。神が私たちを、そのような罪から守ってくださるように祈りましょう。

キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。  コリント人への手紙 第1 8章11節

あなたを変える出来事 2011年9月25日  鎌野善三牧師


「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」  イザヤ書 6章8節

羊飼いイエス 2011年9月18日

聖書はすべての老人を敬うように教えます。それは彼らの長い生涯に注がれた神の恵みゆえです。神の恵みの最大のものは神ご自身です。このお方が羊飼いですから、私たちは今日に満ち足り、明日を思いわずらいません。危険も、死さえも恐れることはありません。神が私たちを追いかけるようにして、いつくしみと恵みを注いで下さるからです。その極みを、人となって私たち羊のためにいのちを捨ててくださった主イエスに見る私たちは幸いです。

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。  詩篇23篇 1節

ほんとうの知識 2011年9月11日

コリント教会のある人々は、「自分には神秘的な知識があって神をよく知っている」と考えていました。その結果はごうまん、また愛が失われることでした。パウロは、ほんとうの知識は「神に知られている」という知識だと言います。愛の神に知られていることを知るとき、私たちに神と人への愛が生まれます。そして愛は兄弟姉妹を建て、教会を建てるのです。

しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。  コリント人への手紙第一 8章3節

信仰の決断 2011年9月4日

世界で最も美しい結婚物語はリベカの信仰の決断によって生まれました。自分を顧みる神のまなざしを知り、その中にとどまる決断でした。私たちも日々キリストのまなざしの中にとどまる決断をします。そしてキリストのまなざしは決して私たちから離れることはありません。

それで彼らはリベカを呼び寄せて、「この人といっしょに行くか」と尋ねた。すると彼女は、「はい。まいります」と答えた。  創世記 24章58節

レプタ2つ 2011年8月28日

だれの目にもとまらないようなやもめの献金。けれども主イエスはご覧になって「どの人よりもたくさん」献げたとおっしゃいました。それは、彼女が献金とともに、自分自身を献げたからでした。十字架を目前にした主イエスをお喜ばせしたやもめとともに、私たちも精一杯の献げものとともに自分自身をお献げいたしましょう。

この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。  マルコの福音書 12章43節

あわれみの神 2011年8月21日

不品行と暴虐の町ソドム。その悪をとどめるために神は滅ぼすことを決心されました。それは(1)神の怒りのゆえです。けれども怒りは嘆きと一体で愛ゆえです。滅ぼさないですむものなら、と神の心は痛みます。同時に(2)神のあわれみの手は、ロトとその家族をつかんで連れ出します。神の手を振り切らないなら、すべての人にこのあわれみは及びます。やがてさらなる神の手があらわれました。主イエスです。私たちもまた神の手になるべく招かれています。

しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。── 主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。  創世記19章17節

神の約束 2011年8月14日

老夫婦に子どもが?神の約束を信じられないアブラムに神は身を屈めて満天の星を見せました。宇宙を造った力ある神に寄り添われたとき、アブラムは神を信じました。信仰を与えるのは神、私たちにできることは恵みに抵抗することをやめることです。十字架にまで身を屈めた神の恵みに。

彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。  創世記15章6節

神がおのおのを 2011年8月7日

コリント教会には不品行とは正反対に性を軽蔑し、夫婦間の性さえ否定する人々がいました。パウロは結婚と性の問題について、細やかに教えます。それは、(1)おのおのが今遣わされている場所で(2)軽く握って(3)主に喜ばれるためでした。神は私たち、ひとりひとりの状況をすべて知って、それぞれがその中でお仕えする道を開いてくださいます。

ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。  コリント人への手紙第一 7章17節

主と一つ霊と 2011年7月31日

コリント教会員の中には、周囲に調子を合わせて遊女と交わる人々がいました。パウロは結婚の例を用いて、クリスチャンは主と一心同体であることを教えています。結婚式の誓約に「わたしはあなたを妻とします。今からのち・・・」とあるように、主はへりくだって私たちに誓いを立て、それをお守りくださいます。私たちも主と一つ霊とされていることを忘れることがありませんように。

しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。  コリント人への手紙第一 6章17節

世界をさばく者 2011年7月24日

コリント教会の第三の問題は教会員同士の訴訟。それは彼らが(1)「世界をさばくようになる」という「目には見えない霊的な現実」を忘れたからでした。「目に見えるものの存在の大きさ」と「霊的な鈍さ」がその原因でした。けれども(2)パウロはキリストに目を注ぎ続けました。私たちもそうしましょう。聖書と祈りと兄弟姉妹との交わりにおける聖霊の助けによって。

あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。  コリント人への手紙第一 6章2節

イエスは身をかがめて 2011年7月17日

罪の女性と彼女を訴えるパリサイ人たちは、実はみな罪人。パリサイ人たちも正義とあわれみと誠実を欠いている罪人でした。けれども主イエスは罪人を招くために来られたお方。さばくのではなく、沈黙のうちに彼らを招かれました。罪を認めながらも、主イエスの前を去ったパリサイ人のようにではなく、主イエスに自分をゆだねた女性のように、私たちも招きに応じましょう。

イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」  ヨハネの福音書 8章11節

純粋で真実なパン 2011年7月10日

コリント教会には不一致だけではなく、不品行の問題がありました。パウロは不品行の本人と彼のために痛みを覚え得ないコリント教会の両方に二重に悲しみました。(1)神は「傷ついた教会」を惜しんでおられ(2)ほふられた御子の血の力を御霊によって鮮やかにして「癒される教会」としてくださいます。私たちも心を開いて御子の血によってパン種を除かれ、喜びの礼拝を捧げましょう。

ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。  コリント人への手紙第一 5章8節

私にならう者と 2011年7月3日

パウロはコリント教会に父として語りかけます。この(1)あらゆる手段を用いるパウロの熱心は神の熱心であり、(2)怒りとも思える激しさは、パウロを通しての神の愛の表れ、(3)「私にならう者となってください」というパウロの大胆な言葉は「私のようにキリストを信じ、私のようにキリストを離れないで、キリストに仕えてください」という招きです。

ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。  コリント人への手紙第一 4章16節

教会の栄光 2011年6月26日

地上で満ち足りて王のようにふるまうコリント教会にパウロは愛の戒めを与えます。教会の栄光は地上ではなく天上にあります。それは神とともに永遠に王として支配する栄光です。その栄光を目指して、地上においては、しもべとして歩まれた主イエスとともに仕える生涯を過ごさせていただきましょう。

もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。  ヨハネの黙示録 22章5節

天の父の愛 2011年6月19日

神は私たちの天の父。神を認めず敵対する者にも愛してくださいます。そして、御子イエスの十字架を信じる私たちにも敵を愛する愛を分け与えてくださいます。

しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。  マタイの福音書 5章44節

キリストのもの 2011年6月12日

主イエスの十字架から50日後のペンテコステに聖霊は(1)教会に降り(2)また待ち望むひとりひとりを満たしました。聖霊は主イエスの御霊であり、数え切れない多くの恵みを与えます。そのうちの2つを挙げれば、@人間の思いをはるかに超えた一致とA主イエスの御思いと力による宣教の実を与えてくださるのです。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」  使徒の働き 1章8節

キリストのもの 2011年6月5日

教会とは建物ではなく(1)キリストに土台を置く私たちの集まり・交わりで(2)教会は神の住まいであるゆえにすばらしいけれども(3)誇りによって壊れます。キリストのものである私たちは、高ぶることなくへりくだって神の住まいとされている特権を感謝しつつ、喜びをもって神と互いに仕え合いましょう。

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。  コリント人への手紙第一 3章16節

成長させてくださる神 2011年5月29日

パウロはコリントの教会員たちが幼子のようであるのを悲しんで成長を願いました。(1)成長とは一致して神に仕えることであり(2)成長させてくださるのは神です。そして(3)成長するためには神から目を離さないことです。十字架の神を思いつつ、へりくだってますます一致して神に仕える教会へと成長させていただきましょう。

それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。  コリント人への手紙第一 3章7節

キリストの心 2011年5月22日

使徒パウロは競い合って一致を失ったコリント教会に手紙を送って訴えます。私たちが人間の知恵を超えた十字架を知ることができるのは、聖霊なる神が教えるからだと。救いは神の一方的なあわれみです。だから私たちは十字架に示された神の愛に安らいでよいのです。そして救いは私たちの知恵によるのではないのですから、自分を誇ることも卑下することも的外れなのです。

御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。  コリント人への手紙第一 2章10節

神の御顔 2011年5月15日

人は神の御顔を仰ぎながら生きるために造られました。けれども自分を神として生きることを選び神の御顔を避けるようになりました。神はその私たちのために御子イエス・キリストをお送りくださり十字架に架けて、人が再び御顔を仰ぎ見ることができるようにしてくださいました。神の御顔を愛と信頼のまなざしで仰ぎ見ましょう。今から仰ぎ見始め、そして永遠まで。

それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。  創世記 3章8節

両親に仕えた主イエス 2011年5月8日

12才の神の子イエスは律法のこころをよくご存じでした。律法は父なる神の心だからです。私たちも聖書を通して神の心を知りましょう。それは自分を注ぎ出す真実な愛です。また、主イエスは地上の両親にお仕えになりました。神の子がしもべのように。十字架にまでいたる身を低くする愛の実践です。信仰によって神の子とされた私たちも主のように両親に仕え、またたがいにたがいを与え合いましょう。

それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。  ルカの福音書 2章51節

十字架、そんな馬鹿な! 2011年5月1日

コリント教会の不一致の原因は、十字架の主イエスから目をそらしてパウロやアポロ、またその弟子である自分たちを誇ったことにありました。十字架の主だけを誇りましょう。そこに謙遜な一致が生まれ、神の力によって教会は前進することができます。

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。  コリント人への手紙第一 1章18節

すべてが始まる日 2011年4月24日

イースターはすべてが始まった日。この日、(1)罪の赦しは永遠のものとなり(2)私たちが死に勝利することが確かにされ(3)涙が喜びに変えられ、私たちに自分を注ぎ出して愛する生き方が開かれました。このすばらしい恵みを信じて受け取りましょう。

イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」  ヨハネの福音書 20章15節

すべてが終わった日 2011年4月17日

今日から受難週。金曜日は主イエスが十字架に架けられた受難日です。十字架上の第六言が「完了した」。使命の完了です。その使命とは、私たちのむなしさ、自己嫌悪、自分の罪を責める思いを主が負って終わりにしてくださることでした。「もう苦しまなくていい。終わりにしよう」とおっしゃる十字架からの主のみ声を受け入れ感謝しましょう。

イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。  ヨハネの福音書 19章30節

みなが一致して 2011年4月10日

コリント教会で起こった分裂の原因は、十字架のキリスト以外のものを誇ったことでした。けれども十字架のキリストを見上げるときに一致の回復があります。神が回復させてくださるのです。

さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。  コリント人への手紙 第1 1章10節

キリストのもの 2011年4月3日

教会とは何でしょうか。パウロは十字架の主イエスをキリストと信じて召された人々だと書きます。召されて主イエスとの交わりに入れられた人々が教会なのです。そのような人々が感謝ゆえに献げるのが礼拝です。明野にある神の教会である私たちも、何か得をするためではなく、主への感謝と主との交わりの礼拝を献げることを第一の使命とさせていただきましょう。

神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。  コリント人への手紙 第一 1章9節

パラダイスに 2011年3月27日

ユダヤ人がこの世の終わりに開かれると待ち望んでいたパラダイス。けれども主イエスは、きょう、つまり今、あなたはパラダイスにいるとおっしゃいました。私たちが死という眠りについていても、生きていても、主イエスのおられるところはパラダイスであり、信じる者にはパラダイスの恵みである平安と喜び、愛が注がれています。十字架の主イエスが十字架の犯罪人に語られたように、苦しみの中に主イエスはおられ、そこをパラダイスにしてくださいます。

あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。  ルカの福音書 23章43節

お赦しください 2011年3月20日

イエス・キリストの十字架は罪の赦しの十字架です。それは(1)罪の裁きの身代わりの十字架です(2)また罪のとがめを取り去る十字架です。罪人の私たちは自分の罪を思うとき心が責められます。けれども主イエスを仰ぐとき心の責めも主が負ってくださいます。大地震の被害との戦いが行われています。罪を赦された私たちも神とともにこの戦いに加わりましょう。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」  ルカの福音書 23章34節

みこころのように 2011年3月13日

十字架の直前、主イエスはゲッセマネの園で祈られました。「父よ、あなたのみこころのように、なさってください」と。そして祈りの中で勝利され、ふがいのない弟子たちを「立ちなさい。さあ、行くのです」とお招きくださいました。私たちも祈りの中で勝利しましょう。そして招きの主とともに遣わされていきましょう。

わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。  マタイの福音書 26章39節

ぶどうの木 2011年3月6日

十字架前夜、主イエスは弟子たちに教えて(1)「わたしにとどまりなさい」とおっしゃいました。すでに神の子とされている私たちへとどまり続けることを望みなさいとの命令です。(2)父が「刈り込み」をなさると言われたのは、痛みをともなう訓練も実を結ぶためだからです。(3)「多くの実を結ぶ」と言われたのは聖い実、またそこから生じる伝道の実です。主イエスにとどまりましょう。聖餐もまたそのために主がお定めくださった恵みの手段です。

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。  ヨハネの福音書 15章5節

あなたのいる場所 2011年2月27日

十字架前夜、主イエスは弟子たちに父の家のすまいを示されました。 (1)それは父のおられるところであり、逆に滅びとは父との交わりを失うことです (2)そこへは主イエスという道でのみ行くことができます (3)主イエスとともに主イエスのように歩むならばこの世界もまた父とともにすごす天のすまいに似たものに変えられていきます。

「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」  ヨハネの福音書 14章2節

花むこが来る! 2011年2月20日

10人の娘のたとえは、主イエスの再臨を待つ私たちにたいせつなことを教えます(1)ともしびを消してはなりません。ともしびは信仰、それを燃やす油は聖霊。聖霊に満たされてともしびを燃やし続けましょう(2)油を絶やしてはなりません。御霊を消しそうになったらすぐに悔い改めること、また祈り合う仲間を持つことです(3)10人の娘のたとえは花むこのたとえ。再臨のときに私たちのただ一人も欠けることがないようにと熱望なさる 花むこ主イエスの愛ゆえのたとえであることを知りましょう。

だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。  マタイの福音書 25章3節

主の用なり 2011年2月13日

救い主イエスは身を低くして子ろばに乗って来られました。
(1)主イエスが来られたのは事実です。私たちの信仰が揺さぶられるときもこの事実に変わりはありません。
(2)主イエスのへりくだりは神のかたちを捨てて人となり、さらに人の命を捨てる十字架にいたりました。
主イエスに会った者の世界観と生き方は完全に逆転します。そして「あなたが必要なのだ」という主イエスのみ声に自分を差しだすのです。

『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。  マタイの福音書 21章3節

十字架を負って 2011年2月6日

主イエスは十字架をいさめるペテロをお叱りになりました。それはペテロに神がいかなるお方であるかを教えるためでした。神の力を讃える栄光の神理解は結局自分の栄光のために神を利用しますが、神の愛に胸を痛める十字架の神理解は神ご自身を求めます。そして主イエスは十字架の神理解に生きる私たちを十字架へと招かれます。私たちを「小さなキリスト」(ルター)に作りかえることによって。

「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」  マタイの福音書 16章24節

あなたはキリスト 2011年1月30日

主イエスとはだれか?人々が主イエスを人間の預言者と考える中でペテロは唯一人「主イエスは神」と答え、この信仰告白の上に教会は建てられました。主イエスは神ですから
(1)神が実際にこの世界に来て下さいました。私たちを惜しんで。
(2)神が十字架に架かってくださいました。私たちをあわれんで。
(3)神が復活してくださった。私たちが仕えるために。
私たちもペテロと共にこの信仰を告白しましょう。

「あなたは、生ける神の御子キリストです。」  マタイの福音書 16章16節

もしあなたが信じるなら 2011年1月23日

ラザロ死す!の知らせ。けれども主イエスが到着されたときにはすでに死後4日たっていました。主イエスは死の前に立ちすくむ人たちに同情して涙を流され、最後の敵である死に憤りをもって立ち向かい勝利されます。まずはラザロのよみがえりによって、次にご自身の復活によって、そしてついには私たち全員の復活によって。主イエスを信じましょう。私たちをご自身から、また互いから引き離す何ものをもお許しにならない主を。そうするなら私たちは復活の日に復活の主イエスの栄光を見るのです。

「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」  ヨハネの福音書 11章40節

恐れることはない 2011年1月16日

慈しみ深きイエスと歌う私たち。マタイ14章に主イエスの3重の慈しみを見ましょう。
(1)バプテスマのヨハネの死の知らせに父に祈る主イエスに罪の世界を嘆く慈しみがあります
(2)病める者、飢えた者、行き悩む弟子たちの必要を満たす主イエスに私たちを捨て置かない慈しみがあります
(3)主イエスのように水上を歩こうとしたペテロに注がれる主イエスの目には慈しみが宿っています。
私たちも聖書や集会、祈りを通して主イエスの慈しみをさらに知る者にしていただきましょう。

「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」  マタイの福音書 14章27節

いっぱいのかご 2011年1月9日

5,000人の給食の奇蹟。ここに神に祝福される人と教会の2つの秘訣があります。秘訣の第一は、父なる神への信頼。主イエスはパンが増えてからではなく、5つのパンを感謝なさいました。アブラハムやヨシュアも見ないで信じた人々です。私たちは御子を十字架に賜った父を知っているのですからなおさらです。秘訣の第二は、神と一つの財布。5つのパンと2匹の魚を差しだした少年と共に働かれた神は、神と一つの財布を持つ者に みこころを行うためのいっさいの必要を満たしてくださいます。

なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。  ヨハネの福音書 6章13節

キリストのうちに 2011年1月2日

今年、神は新しい事をなさいます。それは私たちの古い人が押し迫るキリストの愛に溺れ死ぬことから始まります。パウロは新しい人とされたコリントの信徒たちに、自分ではなくキリストのために生きることを教えました。それがキリストにある新しい人だからです。私たちもキリストにある新しさの「新しさ」を知り、その新しさをひとりひとりのものとしていただきましょう。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。  コリント人への手紙 第2 5章17節

主をほめたたえよ 2010年12月26日

最も美しい詩篇103篇。詩人は自分に与えられた神の恵みを数えるうちに(3-5)、すべての神の民を恵みあわれむ神ご自身に目を向けます(6-19)。繰り返される「わがたましいよ、主をほめたたえよ」は全人格をもって神に寄り添う詩人の真情です。私たちも十字架に苦しむ神に、感謝と讃美をもって寄り添いましょう。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。  詩篇 103篇2節

神のひとり子 2010年12月19日

神はそのひとり子をクリスマスとイースターに2度お与えになりました。クリスマスには私たちにお遣わしになることによって、イースターには私たちのための犠牲にすることによって。昔アブラハムがイサクを献げようとしたときに制止なさった神は、今度はためらうことをなさいませんでした。イサクのために山に備えを用意された神は、今度は何の備えもなくひとり子をほふられました。それは私たちに永遠のいのちをくださるためでした。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。  ヨハネの福音書 3章16節

まことの光が 2010年12月12日

主イエスは神のことば。神は主イエスの言葉と行動によってお語りになります。それは十字架に極まる神の全存在をかけた語りかけです。この語りかけを、(1)聴き取る覚悟で聖書を読み(2)神への痛みと愛の祈りを通して(3)主イエスに自分を投げ込む応答をもって、聞くべきです。そうするなら神は私たちをご自身の子としてくださり、子とされた者たちをさらに光の中に置いてくださいます。

すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。  ヨハネの福音書 1章9節

きょうダビデの町に 2010年12月5日

飼葉おけに寝ておられるみどりご。この方こそ神である主キリスト、その無防備なお姿は十字架を使命としてご降誕になったことのしるしでした。十字架は信じるすべての人に神との平和を与えます。罪を赦され、いつでも主イエスのみ顔が見えるところにいることができる平和です。そのために来てくださった主を、私たちも御使いたちとともに讃美しましょう。

きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。  ルカの福音書 2章11節

その名はイエス 2010年11月28日

今日からアドベント(待降節)。それは、十字架という結末にいたる神のアドベンチャー(冒険)の始まりでした。私たちを罪から救うために人となり、インマヌエルという名を自ら選ばれた神は、私たちをも神の冒険に招いておられます。それは、神に背を向けた自分中心の生き方から、神と隣人に自分を注ぎ出す生き方への招きです。

マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。  マタイの福音書 1章21節

ダビデの心 2010年11月21日

神はサウル王をあきらめ、次の王に小さなダビデをお選びになりました。ダビデの心をご覧になったからです。その心とは、神を知る心。神が罪を激しく憎むお方、けれども、さらに激しく罪人を愛するお方であることを知る心です。ダビデもサウルも罪を犯しました。2人のちがいは、ダビデは罪に気がつくと、すぐに自分を神のあわれみの中に投げ込み続けたことでした。私たちもダビデの心をいただきましょう。私たちの罪のために主イエスがお生まれくださったクリスマスはもうそこまで来ています。

人はうわべを見るが、主は心を見る。  サムエル記 第1 16章7節

ダビデとゴリアテ 2010年11月14日

紅顔の美少年ダビデは巨人ゴリアテに立ち向かいました。サウル王以下だれにもできなかったことができたのは、生ける神が生きておられるかのように振る舞ったからでした。そして主が戦ってくださいました。私たちにも巨人のように思える多くの敵があります。けれども、生ける神が生きておられるかのように振る舞うなら、主が戦いに勝利してくださいます。最後の敵である死にさえも。

この戦いは主の戦いだ。  サムエル記 第1 17章47節

迷子の羊 2010年11月7日

迷子の羊は私たち、捜す羊飼いは主イエス・キリスト。神と愛し合い、たがいに愛し合うはずの私たちは、迷い出てしまいました。その私たちを惜しんで捜すために、主イエスは地上に来てくださいました。十字架で恥にまみれることも、血を流すことも厭われなかった、その愛を知り、御手の中に帰りましょう。先に召された聖徒たちとともに。

その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。  ルカの福音書 15章4節

主よ、お話しください 2010年10月31日

神のことばがまれにしかなかった暗黒の時代、神はわらべサムエルにお話しになりました (1)それは神がお望みになったから。神は私たちにもお話しくださいます (2)サムエルが聞いた神のことばはエリの家への厳しいさばき。神は今も罪について手加減せずに話される。それは私たちを赦し、解き放つためです (3)子どもたちもサムエルのように、神のみ声を聞くことができます。CSのために祈りましょう。

『主よ。お話しください。しもべは聞いております。』  サムエル記 第一 3章9節

雄々しくあれ 2010年10月24日

出エジプトから40年。荒野から約束の地に入ろうとするイスラエルの前には強敵、頼みのモーセも召されました。けれども代わりに立てられたヨシュアに神は、「恐れるな、わたしがともにあるから」とお語りくださいました。イスラエルの前に敵がいなくなったのではなく、戦いの中で勝利が与えられたのです。私たちもまた痛みと苦しみの中で勝利します。キリストがともにいてくださることが、勝利の理由です。そして、実はそれは勝利の目的なのです。

「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」  ヨシュア記 1章9節

救いを見よ 2010年10月17日

ヨセフの時代から400年。イスラエルの民はエジプトで奴隷になって苦しんでいました。そこで神はモーセを送り、また海を二つに分けて彼らを救い出してくださいました。苦しみに目をとめてくださる神を知りましょう。また歴史の中に入りこまれる神を知りましょう。神は歴史を始め、歴史に働き、歴史を完成させるお方。そして、歴史の中に人となって来てくださったお方です。

「しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。」  出エジプト記 14章13節

救いの喜び 2010年10月10日

木の上から見ていたザアカイに声をおかけになったのは、主イエスの方でした。神とは、人を捜し求める神。人を捜して救うために、人となられた神こそ 私たちの信じる神です。この神の捜索は十字架の上でも止むことがなく、となりの十字架の強盗にもおよびました。今日も主イエスは 私たちを招いてくださっています。招きに応じて 主のふところに素直に抱かれましょう。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」  ルカの福音書 19章10節

かわくことがない水 2010年10月03日

主イエスは、サマリヤの罪ある女をお訪ねになりました。それは永遠のいのちを差しだすため。主イエスは 神のあり方を捨てることができないとはお考えにならなかった 人となられた神であり、十字架につけられようとしている神でした。今日も主イエスは私たちに 永遠のいのちを差しだしてくださっています。ためらうことなく「その水を私にください」と申し上げましょう。

「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」  ヨハネの福音書 4章15節

宰相ヨセフ 2010年09月26日

エジプトの宰相となり食料を求めてやってきた兄たちと再会したヨセフ。彼は復讐を恐れる兄たちを赦し、神の恵みを教えます。そうすることができたのは、ヨセフが神をよく知っていたからです。私たちの人生にも悔いがあります。けれども神はそれを悔いに終わらせないで、驚くべき祝福の土台になさることができるのです。

今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。  創世記 45章5節

監獄のヨセフ 2010年09月19日

兄たちによってエジプトに奴隷に売られたヨセフ。今度は無実の罪で監獄に入れられてしまいます。けれどもヨセフは静かに神と人とに仕え続けます。それは自分の人生の主人公は、自分ではなく神であることを知っていたからでした。ヨセフは心の痛みも、悲しみも、憤りもみな神のみ手にゆだねました。そのヨセフを通して、神はご自分の壮大な計画を実現なさいました。あなたの人生の主人公はだれですか。

監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。  創世記 39章23節

ヨセフの夢 2010年09月12日

ヨセフの夢、それは神のビジョン。神の民であるイスラエルを通して人類を贖う大計画です。けれども選ばれたヨセフは分別なく兄たちはねたみから殺意を抱きます。それでも神には行き詰まるということはありません。神は絶体絶命のヨセフをご計画の次の段階へと進ませました。神のビジョンは(1)壮大で(2)ご自身の熱心によって実現し(3)私たちをその中でお取り扱いになります。私たちも 神とともに 神のビジョンを 夢見る者とさせていただきましょう。

彼らは互いに言った。「見ろ。あの夢見る者がやって来る。」  創世記 37章19節

キリストにあるならば 2010年09月05日

神を熱心に信じ、気が狂っていると言われたパウロ。けれども彼はキリストの愛に取り囲まれた人でした。それは十字架の愛。バプテスマ(洗礼)の原型は浸礼です。水に浸されて罪に対して死に、水から浮かび上がって新しく生まれるのです。だれでも「キリストにあるならば」とあります。キリストにいなさい。キリストにあり続けなさい。キリストが、罪に死に続けさせ、愛に生き続けさせてくださいます。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。  コリント人への手紙第二 5章17節

ハヤ・ソロモンズさんのお証し 2009年10月18日

メシアニック・ジュー(主イエスを信じるユダヤ人)ハヤさんからの感動のメッセージをどうぞ。

門は開かれている 2010年08月29日  北大阪教会 北尾欣三牧師

献堂14周年おめでとうございます。これまでの明野キリスト教会の歩みのいたるところに、神の恵みの足跡を見ましょう。そして目を上げて、大きく門が開かれていることも知りましょう。神は私たちの思いを超えてはたらかれるお方です。

見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。  黙示録 3章8節

救いはここに 2010年08月22日

創世記3章の悲劇からサタンについて知る3つのこと。(1)サタンは神に従うことをつまらないことだと思わせる (2)サタンは私たちの高慢につけ込む(3)サタンは罪の結果を刈り取らなくてもよいと言う。 サタンは巧みに私たちの意志に働きかけます。サタンにつけいるスキを与えないために神との交わりをますます親密なものにしましょう。そのためには、私たちとの交わりを主が喜んでくださっていることを思い起こすことです。

わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。  創世記 3章15節

これほどまでの愛 2010年08月15日

神は愛です。それは(1)愛なき相手への一方的な愛(2)御子をなだめの供え物とする投げ出す愛(3)私たちのうちに愛を生み出す愛です。ヨハネはこの愛を最後の晩餐のとき、主イエスのみ胸で聞いて、私たちに伝えました。私たちも一方的な、投げ出す愛で愛し合いましょう。この全き愛を熱望しましょう。

もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、 神の愛が私たちのうちに全うされるのです。  ヨハネの手紙 第一 4章12節

教会で偉い人 2010年08月08日  関西聖書神学校校長代行 足立幹夫牧師

天国で偉い人、教会で偉い人とはだれでしょうか。それは(1)けんそんな人(2)信仰の幼子への心づかいをする人(3)ひとりを大切にする人(4)祈りとりなしをする人です。聖霊によって私たちもそんな「偉い人」にしていただきましょう。

だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。  マタイの福音書 18章4節

真の礼拝者 2010年08月01日

主イエスは真の礼拝の時の到来を宣言されました。それは霊とまことによる礼拝。まことは真理、キリストです。キリストの十字架を通して父を礼拝すること。霊は聖霊。聖霊によって揺さぶられた私たちが存在をあげて献げる礼拝です。礼拝式(サービス)が終わると、私たちは家庭や職場での奉仕(サービス)のために遣わされます。霊とまことによって、神の再創造のみわざに仕えるために。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。  ヨハネの福音書 4章24節

はじめに、神が 2010年07月25日

神はこの世界と私たちを創造されました。
(1)それは意志をもっての創造。私たちは、神がお望みになったから存在しています
(2)神は良きものを創造。神の思いの中にしかなかった、息を呑むほどの良きものが、実際に造り出されました
(3)神はさらに良きものを創造。それは神ご自身に似せられた人間。神が三位一体の神であるように、たがいに愛し合い、神と交わる人間。
☆罪はすべてを損なったが、神の意志を損なうことだけはできませんでした。天と地を創造された神は、今も天と地を再創造しておられます。その意志は十字架の上でさえ、折れることのなかった強い意志なのです。

初めに、神が天と地を創造した。  創世記 1章1節

帰郷 2010年07月18日

「福音書の真珠」とも呼ばれる放とう息子のたとえ。実は、待っている父のたとえです。神は私たち待ち続け、帰る者を抱きしめ、口づけてくださるお方。そのままで、今、神に帰りましょう。ありのままの自分を告白し、あわれんでくださいと申し上げましょう。そのさまたげとなる恐れや恥や反感には十字架の助けがあります。十字架の上の取りなし手である主イエスこそ、このたとえの語り手だからです。

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。  ルカの福音書 15章20節

よきサマリヤ人 2010年07月11日

「何をしたら、永遠のいのちを受けることができるか」。主イエスはこの問いにたとえでお答えになりました。人が救われるのはただ信仰によります。けれども、信仰の目的は愛。主イエスの十字架の愛を存在の奥底に注がれた者は、あふれる愛を神と人とに注ぎ返すのです。「あなたも行って同じようにしなさい」とおっしゃる主に従いましょう。限度を定めず注ぎだし、祈り、愛する者として。

「あなたも行って同じようにしなさい。」  ルカの福音書 10章37節

種が落ちたよい地 2010年07月04日

種まきのたとえは、じつは種をまかれた土地のたとえ。みことばに反発して跳ね返すかたくなな心、信仰ゆえの困難や迫害にあうと身を引く心、人間が作り出したものに奪われた心が戒められています。けれども、私たちをよく耕された実り豊かな地にすることをだれよりも望んでおられるのは神。私たちを耕す神に自分をゆだね、聖さと救霊の豊かな実を結ばせていただきましょう。

別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。  ルカの福音書 8章8節

岩の上に建てた家 2010年06月27日

岩の上に家を建てた賢い人とは、山上の垂訓に代表される主イエスのことばを聞いて行う者。やってくる洪水や風はご再臨のことです。行いではなく信仰によって義とされた私たち。けれども義とされたときに私たちに注がれた神のいのちは、自分を注ぎ出す者に私たちを作りかえます。私たちをじっと見つめてくださる主イエス(マタイ19:26)が、そうさせてくださるのです。

だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。  マタイの福音書 7章24節

求めなさい、そうすれば 2010年06月20日

6章で、主イエスは天の父は、私たちを知って養ってくださるかたであるとお語りくださいました。いっさいの必要は神にゆだねればよいのです。けれども、7章ではしつこく祈り求めるべきものがあることを教えました。それは、黄金律と呼ばれる「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」の実現であり、それを可能にする聖霊(ルカ11章)です。求めて、捜して、たたきましょう。

求めなさい。そうすれば与えられます。  マタイの福音書 7章7節

ごらんよ、野のゆりを 2010年06月13日

神は私たちの必要のいっさいを満たしてくださるあわれみの神です。だから、私たちは安心して神のみこころ願い、そのために祈り、労することができます。目に見える祝福そのものよりも、神ご自身に注目しましょう。とりわけ十字架に架けられた神、主イエス・キリストに。このお方を愛し、喜んで仕えるおたがいでありますように。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。  マタイの福音書 6章33節

幸いな人 2010年06月06日

主イエスは人々をいやしておられる手をとめて、山の上から幸せの秘訣をお語りくださいました。それは、神に対して何を主張し要求することもできない あの取税人(ルカ18)のように、何ももたない心の貧しい自分を認め、神のあわれみにすがることです。幸いな私たちにはさらに大きな幸いが待っています。それは 再臨。そのとき私たちは主イエスを見、神のふところに抱かれます。それまで私たちは、喜びながら悲しみ、泣きながら笑います。そしてますます主イエスにあこがれ、主イエスを慕うのです。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」  マタイの福音書 5章2節

目を覚まして祈りなさい 2010年05月30日

パウロが教える地上の天国生活の秘訣の最後はお祈り。人間は本来、祈る者として造られたのに、罪の結果祈ることができなくなりました。けれども、あわれみの神は私たちを探し、贖って、祈り始める者としてくださいました。神のあわれみに目を注ぐところに祈りが始まります。他の人にではなく、自分自身でもなく、神ご自身に目をとめて「アバ、父よ」と祈りましょう。

目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。  コロサイ人への手紙 4章2節

聖霊の満たし 2010年05月23日

ペンテコステは教会の誕生日。その日、弟子たちは神に会い、神に満たされ、老若男女を問わずみな神のことばを語りました。また、彼らはたがいに愛し合う群れへと変えられました。聖霊に満たされましょう。そのためにたがいに心を合わせ、熱心に祈りを献げましょう。聖霊の満たしはすべてのクリスチャンに対する神の招きだからです。

終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。  使徒の働き 2章17節

わたしの心だ。きよくなれ。 2010年05月16日(音声はありません)

主イエスの心は私たちに対する深いあわれみの心です。主の深いあわれみがその手を動かします。主は罪に汚れた私たちにさえ、ふれて下さいます。主は言われます。「わたしの心だ。きよくなれ。」主の言葉は必ず成就し、私たちのすべての罪は完全にきよくされます。主の深いあわれみに信頼し、主を心に受け入れましょう。

「わたしの心だ。きよくなれ。」  マルコの福音書 1章41節

子どもたちよ 2010年05月09日

神は父のように正しく、母のように優しいお方。このお方は罪の中に死んでいた私たちをよみがえらせ、新しい生命に生きる者にしてくださいます。夫婦の関係も親子の関係も新しくされて、主にあって愛し合う家庭が誕生するのです。私たちの家庭が、全員そろって主にお仕えする、主に喜ばれる家庭でありますように。母たちに、父たちに、子どもたちにすばらしい祝福がありますように。

「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。  エペソ人への手紙 6章2節

妻たちよ、夫たちよ 2010年05月02日

キリストの十字架に土台を置く地上の天国生活は、教会生活だけではなく、私たちの家庭生活にもおよびます。妻を夫を解き放ち、たがいをたがいの祝福とすること。それが神の願いであり、神にはそうすることができます。そして地上の天国である家庭はこの世に対して神がいかなるお方であるかを雄弁に語るのです。

妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。  コロサイ人への手紙 3章18-19節

主イエスの名によって 2010年04月25日(音声はありません)

「上にあるものを求めなさい」とパウロは書きます。それは十字架で罪赦され、罪から解き放たれた私たちが地上で天国生活を送ること。聖い生活、愛に満ちた生活を送ることです。そのための二つの秘訣を知りましょう。それは私たちの心をキリストに支配していただくことと、たがいに教え合い戒め合うことです。

あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。  コロサイ人への手紙 3章17節

主イエスを信ぜよ 2010年04月18日

主イエス復活を疑うトマスのために、主はもう一度来てくださいました。神は人間を探し求める神です。探し出されたトマスは「私の主。私の神」と言いました。「私のために死んでよみがえってくださった主イエスよ、あなたは神です」と告白したのです。疑うトマスにお会いくださった主イエスは私たちにも同じように会ってくださいます。

トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」  ヨハネの福音書 20章29節

キリストにあって 2010年04月11日

禁欲主義、律法への後戻り、御使い礼拝など問題を抱えたコロサイ教会にパウロは書き送ります。「キリストにあって歩みなさい」と。キリストは人となられた神。このキリストの十字架は私たちに罪の赦しと罪からの自由を得させるからです。キリストが私たちに満ち満ちてくださるとき、私たちはキリストのように生き、そして死ぬ者とされます。キリストは私たちにそれを望んでおられます。私たちは望むでしょうか。

そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。  コロサイ人への手紙 2章10節

空っぽのお墓 2010年04月04日

イースターの朝、墓は空っぽでした。十字架に架かって死んだイエス・キリストが復活されたからです。よみがえったキリストは今も生きておられて、重荷を負っている私たちにお会いくださり、休ませてくださいます。そして、死に勝利されたキリストを信じる者は、死んでもよみがえります。キリストを信じて死んだすべての聖徒とともによみがえって、永遠にキリストとともにいるのです。

ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。  マタイの福音書28章6節

キリストの十字架 2010年03月28日

主イエスは十字架の上で「完了した」と叫ばれました。それは私たちを一生涯、死の恐怖によって奴隷としていた悪魔の支配を滅ばしてくださったことの宣言でした。この神のあわれみの中へ、まるごと自分を投げこみましょう。人となられた神の十字架は、あらゆる被造物への依存から私たちを解き放つことができるのです。

イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。  ヨハネの福音書19章30節

主イエスよ、来てください 2010年03月21日

迫害の時代の中で「イエスが愛された弟子」と自ら名のるヨハネは「主イエスよ、来てください」と記しました。彼はイエスの答が「わたしはすぐに来る」であることを確信していました。なぜなら、主イエスは私たち身近に置きたいと願っておられるからです。だから、私たちは救われることができます。そして「主イエスよ、来てください」と祈ることができます。

「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。  黙示録22章20節

キリストの苦しみの欠けたところを 2010年03月14日

パウロは獄中から奥義を書き送りました。それは「あなたがたの中におられるキリスト」。キリストは教会のためにご自分を投げ出してくださいました。キリストを内に宿したパウロは、私たちにも自分と同じように「キリストにある成人」として立つように招きます。「キリストの苦しみの欠けたところ」を満たす私たちにしていただきましょう。

そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。  コロサイ人への手紙 1章24節

待ち望む私たち 2010年03月07日

ローマで軟禁状態にあったパウロは、コロサイ教会にあてて手紙を書きました。それは主イエスが神であることに疑問を持つ人々がいたからです。パウロは、主イエスが神であり、その十字架の血によって、私たちが神との和解にあずかっていることを宣言します。ですから私たちは神に会うことができます。期待して毎週の礼拝に備えましょう。誰よりも神が私たちと交わることを望んでおられます。

その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。  コロサイ人への手紙 1章20節

待ち望む私たち 2010年02月28日

今、被造物全体も、またすでに救いにあずかっている私たちもうめき苦しんでいます。けれども、御霊なる神がもっとも深いうめきをもってとりなしてくださっているのです。すべてのうめきと苦しみが取り除かれるのは、主イエスがもう一度来てくださるご再臨のときです。そのときまで、主イエスをしたい、主イエスを喜びつつお仕えしてまいりましょう。特に祈りの手をおろすことなく、人々の救いのために、そしてたがいのためにとりなし続けましょう。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。  ローマ人への手紙 8章26節

見よ、神の小羊 2010年02月21日

バプテスマのヨハネは主イエスに会って「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。彼は、主イエスが十字架にかかった神であること、そして十字架は私たちの罪を赦し、罪から解き放つためであったことを告げたのでした。キリスト教とはキリスト、死んでよみがえり、今も生きておられるキリストです。バプテスマのヨハネが「見よ」と告げた主イエスを見て信じましょう。信じたなら、私たちも「見よ」と主イエスを指し示しましょう。

その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」  ヨハネの福音書 1章29節

やがて目覚める聖徒たち 2010年02月14日

わずか4ヶ月の間に3人の教会員が召された明野キリスト教会。テサロニケの教会もまた多くの教会員を失ったばかりでした。この手紙の著者パウロは、彼らが悲しみに沈むことがないようにと励ましています。主イエスを信じて召された方々は眠っているにすぎないこと。彼らは、この世の終わりに主イエスがもう一度来られるときによみがえっていつまでも主とともにいること。また、主イエスを信じる私たちも彼らとともにいることになると教えて慰めたのです。私たちも召された方々がやがて目覚めることを覚えて、たがいに慰めあいましょう。そして、私たちが一人残らず主イエスを信じる者となりますように。

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。  テサロニケ人の手紙第一 4章16・17節

栄光の望み 2010年02月07日

義認・聖化・栄化。義認と聖化は現在可能な恵みですが、栄化は再臨のときに実現する恵みです。神に似たものとして造られた私たちが、罪の結果失ってしまった神のかたちの回復が栄化です。「毛虫はう、ちょうになる日を夢見つつ」。パウロが「神の栄光」(2節)と呼んだ栄化を望んで私たちも喜びましょう。その喜びは、今の患難からさえも喜びと希望を引き出すほどのものです。

またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。  ローマ人への手紙 5章2節

栄光の相続人 2010年01月31日

パウロは「アバ(お父さん)、父」と神を呼びます。これはゲッセマネで御子イエスが御父ににじりよったときに使われたお言葉でした。かつてパウロは神に受け入れられないことを恐れて律法を守り、クリスチャンを迫害していました。けれども、ダマスコへの道で主イエスにお出会いしたとき、神がパウロを愛してくださっている恵みの神であることを知りました。神を信じてはいたが、神を知らなかったパウロは御霊によって神の子どもとなりました。私たちも御霊ご自身による救いの確信をいただき、「アバ、父よ」と呼びましょう。

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。  ローマ人への手紙 8章15節

すばらしい愛 2010年01月24日

神のすばらしい愛によって、私たちは今、現に神の子どもです。罪人である私たちが主イエスにあがなわれたこの恵みをもう一度確信しましょう。さらに神の子どもは再臨のとき、キリストに似た栄光の姿に変えられます。それまでの間、神の子どもたちは、父なる神を愛し交わります。罪を憎み、罪から自分を清くし続けるのです。

私たちが神の子どもと呼ばれるために、─事実、いま私たちは神の子どもです─御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。  ヨハネの手紙第1 3章1節

闇から光へ 2010年01月17日

神は光あって、罪の暗やみを心から憎むお方です。けれども私たちは暗やみのことばと行いと思いを愛する罪人でした。その私たちに神は罪を言い表すようにとおっしゃいます。そうするならば罪を赦して闇から光へと移してくださると。罪を言い表すとは自分を神のあわれみの中に投げ込むことです。そのとき御子イエスの血が私たちの救いとなるのです。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。  ヨハネの手紙第1 1章9節

だれでも神の恵みによって 2010年01月10日

新年伝道メッセージの2回目は義認の恵み。私たちは暗やみのことばと行い、また神をうとましく思う暗やみの思いによって罪をおかしてきました。罪の暗やみを愛する者だったのです。暗やみをお憎みになる神は、ただ恵みによって、キリストの十字架のあがないのゆえに私たちを義と認める宣言をしてくださいました。それは私たちが罪を赦され、暗やみを憎む者となり、新しいスタートを始めるためであったことを知りましょう。

ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。  ローマ人への手紙 3章24節

新しく生まれた人 2010年01月03日(音声はありません)

訪ねて来たニコデモに、主イエスは「新しく生まれなければならない」と救いが私たちの手の届かないものであることをおしえられました。けれども、「新しく」にはまた「上から」という意味もあります。私たちは、上からの神の力によって生まれることができるのです。そのために主イエスは天から下り、十字架に上げられてくださいました。このお方に心を開いて、救いをお願いしましょう。

「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」  ヨハネの福音書 3章3節

主に感謝を 2009年12月27日

「いつも喜んでいなさい」とパウロは悲しみの中にあるテサロニケの教会に書き送りました。キリスト者は悲しみと同時に喜ぶことができる存在だからです。その喜びはキリストに愛されている喜び、キリストがともにいてくださる喜びです。この喜びは病によっても悲しみによっても決して奪うことができません。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。   テサロニケ人への手紙 第1 5章16-18節

まことの王 2009年12月20日

東方の博士たちは星に導かれてキリストにお会いし礼拝しました。彼らは 王に献げる黄金、神に献げる乳香、そして死体に用いる没薬を贈りました。それは幼子に、まことの王、人となられた神、十字架の主を見たからでした。けれども、博士たちとはちがって、祭司長たち、学者たちは預言を知りながらエルサレムにとどまり、ヘロデはキリストを殺そうとしました。私たちは博士たちとともに礼拝します。

そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。  マタイの福音書 2章11節

クリスマスの賛美 2009年12月13日(音声はありません)

ベツレヘムは世界の片隅ではありませんでした。そこは実は御使いと多くの天の軍勢が神を賛美する世界の中心でした。私たちが神との平和をお与えくださった御子と御父を賛美するとき、その礼拝は世界の中心であることを知りましょう。そこには、目には見えない天の軍勢もまた連なって、耳には聞こえない賛美を献げているのです。

「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」  ルカの福音書 2章14節

救い主の誕生 2009年12月6日

皇帝アウグストは実在の人物。ルカはこの皇帝の命令による人口調査が救い主の誕生の背景にあったことを記しました。神は歴史の中に本当に現れてくださったのでした。神は私たちのために、人となるという果てしなく長い距離を出かけてくださいました。神はまた、すでに回心した私たちにもさらに深い恵みを味あわせてくださいます。このお方に「あなたのいる場所は馬小屋しかありません」と言うことがないようにと願わされます。

ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。  ルカの福音書 2章6-7節

ひとりのみどりごが 2009年11月29日

紀元前7世紀、ユダ・イスラエルの両王国は暗黒の時代にありました。神は預言者イザヤを遣わし、やがてひとりの男の子が誕生することを告げられました。イエス・キリストです。神が人となって裸で地上に来てくださったクリスマスの不思議に驚きましょう。私たちの想像をはるかに超えた神に、さらなる恵みを大胆に求めましょう。

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。  イザヤ書9章6節

収穫の祝福 2009年11月22日

マラキの時代、バビロン捕囚から帰還した民は神殿を再建しましたが、その献げ物には神への愛が欠けていました。神が私たちにお求めになるのは愛です。十字架を見上げるときに、私たちにも神への愛が芽生えました。この愛を神に育てていただき、御国に着く日までまっとうさせていただきましょう。御国に着いたらなお、永遠に。

わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう。  マラキ書 3章10節

泉への招待 2009年11月15日

主イエスは、サマリアで一人の女性にお会いになりました。彼女には満たされない渇きがありましたが、それが何であるかは自分では知らずにいました。主イエスはその渇きを知って、ご自分から彼女を訪ね、生ける水を飲むようにとおっしゃいました。その水とは、主イエスご自身であり、主イエスを信じる者が受ける永遠のいのちです。今朝、主イエスは私たちにも同じ渇くことのない水を差し出しておられます。飲ませていただきましょう。飲むとは主イエスに全人格をもって応答することです。

しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。  ヨハネ4章14節

もしそうでなくても 2009年11月8日

ユダヤの三青年は「もしそうでなくても」と偶像礼拝を拒否しました。それは死よりも強い神への愛ゆえでした。神への愛は神を知るほどに増し加えられます。神は私たちの愛を増し加えることを日々願っておられます。神に期待しないかたくなさによって、また愛にともなう犠牲を惜しむことによって、神を愛するという最大の幸福を曇らすことがないようにしましょう。

「しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」  ダニエル書3章18節

聖霊の川 2009年11月1日

神は、バビロン捕囚の中にいる預言者エゼキエルに、エルサレム神殿の再建の幻をお見せになりました。それは、神がイスラエルの民をお見捨てになっていないことを伝えるメッセージでした。私たちもさまざまな問題を抱えていますが、神は手をこまねいておられるわけではありません。今も解決のために働いていてくださっています。神殿から流れ出している、どんどん水かさを増す不思議ないのちの川は、主イエスが渇いて来る者に与えてくださる聖霊。主の招きに応えて飲ませていただき、自らも愛を注ぎ出す者としていただきましょう。

この川がはいる所では、すべてのものが生きる。  エゼキエル47章9節

秘密をあらわすひとりの神 2009年10月25日

秘密をあらわす一人の神は、ダニエルを通して「人手によらずに切り出された石」である主イエスのご降誕と神の国の始まりをあらわされました。すでにこの秘密によって神の子とされた私たちは、神に、兄弟姉妹に、そして苦しむこの世に、愛を注ぎだします。それはインマヌエルの神がともにいてくださるからです。そうです。私たちとともにいてくださるお方は神なのです。

一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。  ダニエル2章34節

高価な真珠 2009年10月18日

畑の宝、また高価な真珠とは天の御国のこと。それは最初のクリスマスに始まり、この世の終わりに完成する神の支配です。この宝を得た者は、永遠のいのちを確信し、現在の生活の中で永遠なるお方とともに、永遠を歩み始めます。そのために支払う代価とは、罪ある本当の自分として神にお会いすることです。大淵善平兄もまたそのように神にお会いし、神のもとへ帰られたことを感謝しましょう。

すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。  マタイ13章46節

主とともに歩む 2009年10月11日

ユダ・イスラエルは神がいかなるお方であるかを忘れ、偶像礼拝・搾取・腐敗・不道徳の中にいました。神はミカ(「誰が主のようであろうか」の意)を通して、「ともに歩もう」と語りかけられました。さらに、私たちは人となって地上をともに歩んでくださった神を知っています。だから「あなたのような神は他にはいません」とお答えし、ともに歩ませていただきましょう。

主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。  ミカ書 6章8節

神の相続人 2009年10月4日

神の子とされた私たちは神の相続人、しかも神の栄光の相続人です。その日を思うとき、私たちは自分のたりなさに気づかざるを得ません。けれども神ご自身が働いてくださり、私たちのうちに神のかたちを回復させてくださいます。自分自身を御霊にゆだねましょう。一度ゆだねたなら、生涯ゆだね続けましょう。

もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。  ローマ人への手紙 8章17節

大いなる愛 2009年9月27日

神の大いなる愛によって神の子どもとされた私たち。神に似るように、神のかたちに造られた人間ですが、罪のために失ってしまった神のかたちの回復が神の子どもの中に始まります。神の子どもは(1)キリストにとどまるかぎり、故意に犯す罪からは守られ(2)今はおぼろげにキリストを見つつ、弱さを日々いやされ(3)やがてキリストを直接見るとき、想像を超えた栄光の姿に変えられます。 神の子どもとして、父の願いと喜びを知る者となろう。

私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。  ヨハネの手紙 第1 3章1節

あなたのいる場所 2009年9月20日

主イエスは「放とう息子と父」を通して、神がどのようなお方であるかをお語りになりました。神は(1)私たちを待っていて、帰るならほんとうの満足を与えてくださるお方(2)罪人の私たちをそのままで抱きしめて下さるお方(3)私たちを探すために、御子イエスをお遣わしくださったお方 です。 この神のもとへ私たちも帰りましょう。

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。  ルカの福音書 15章20節

救いを与える命の光 2009年9月13日(音声はありません)

主イエスを信じて救われたクリスチャンたちはどのように生きていくのだろうか。欲に生きるだろうか。愛に生きるだろうか。世の光として、主イエスと共に歩こう。

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」  ヨハネの福音書 8章12節

新しく生まれた人 2009年9月6日

主イエスを訪ねたイスラエルの教師ニコデモには、その夜には新生の恵みがわかりませんでした。新しく生まれた私たちは幸いです。それは、地上にはない新しいいのちを通して、神の永遠と聖さが分け与えられる恵みです。十字架にあげられた主イエスによって与えられたこの恵みを感謝しつつ、その豊かさにあずかりましょう。

人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。  ヨハネの福音書 3章3節

幸いな人 2009年8月30日

主イエスの山上の垂訓(すいくん)。その冒頭の「心の貧しい者」とは自分が罪人であることを知り、神から遠く離れていることを嘆く者。神は、彼らを主イエスの十字架によっておおい、救ってくださいます。だから幸いなのです。私たちは心の貧しい者でしょうか。そこがクリスチャンの出発点、また繰り返し立ち帰るべき原点です。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。  マタイの福音書 5章3節

主のために生きる 2009年8月23日 献堂13周年記念礼拝 特別講師 岸本望牧師

すべてのクリスチャンは主のために生きるように召されています。それは私たちがすでに主のものだからです。神の専属の者となり、神があがめるために生きる者としていただきましょう。聖書とお祈りと礼拝はそのために欠くことのできないものです。

もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。  ローマ人への手紙 14章8節

いのちのことばを 2009年8月16日

使徒たちが語ることを命じられたいのちのことばとは、主イエスご自身でした。主イエスがいのちを捨ててくださったのは(1)私たちに永遠のいのちを与えるため(2)わたしたちも一粒の麦となって死んで実を結ぶためでした。私たちが置かれているそれぞれの場所で、自分自身を主にお献げしましょう。また、牧師・宣教師として立ち上がる者が起こされるように祈りましょう。

「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい。」  使徒の働き 5章20節

聖霊に満たされて 2009年8月9日

ペテロの伝道は聖霊による伝道でした。聖霊は私たちを満たしてくださるキリストの御霊です。また真理の御霊ですから真理に気づかせます。それは、(1)自分の本当の姿。それは罪人です。(2)十字架のキリストの姿。それは救いです。(3)この世の本当の姿。それは滅びです。 聖霊に満たされ、真理を教えられて、大胆に神の言葉を語りましょう。

彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。  使徒の働き 4章31節

いましばらくの苦しみ 2009年8月2日

「目をさましていなさい」とペテロは手紙をしめくくります。3つのことに目をさましましょう。 (1)悪魔が私たちを神から切り離そうとしていることに対して。油断してはなりません。 (2)神ご自身の私たちへの関心に対して。主イエスのとりなしの祈りを思いましょう。 (3)苦しみがしばらくの間であることに対して。神の力は悪魔よりも強いからです。

堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。  ペテロの手紙 第1 5章9節

キリストの苦しみに 2009年7月26日

ペテロは迫害を目前にしている教会に、キリストの苦しみを味わうことの喜びを語ります。それは (1)そこにはキリストとの一致という特権があるから (2)キリストのための生きるならば、苦しみに意味が与えられ、キリストを愛する喜びが生まれるからです。
私たちもそれぞれの苦しみの中にあって、神をあがめましょう。

むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。  ペテロの手紙 第1 4章13節

神のみこころのために 2009年7月19日

ペテロは万物の終わりを待ち臨んでいました。その日が、主イエスにお会いする喜びの日だからでした。再臨がいつかはわかりませんが、やがて私たちも主にお会いします。それはどれほどの喜びでしょうか。その時まで、神のみこころのために、互いに力の限りをつくして愛し合いましょう。私たちが互いの欠けや罪を自分のことのように受けとめおおい合う時に、御霊は働いてくださり、イエス・キリストを通して神があがめられるからです。

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。  ペテロの手紙 第1 4章7節

キリストを主として 2009年7月12日

ペテロはすべてのクリスチャンに一致と愛と謙遜をすすめます。その土台はバプテスマです。そこで私たちは、古い人に死んで、新しい人に復活しました。その恵みの深さ、たくましさ、うれしさをさらに知りましょう。また恵みをくもらせることなく、心の中でキリストを主としてあがめましょう。

キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。  ペテロの手紙 第1 3章18節

妻たちよ、夫たちよ 2009年7月5日

ペテロは信者でない夫を持つ妻たちに、夫に服従することを命じました。それは、夫もともにいのちの恵みにあずかるためでした。また、信者である夫たちには、信者である妻を尊敬するようにと言います。いずれも当時の社会では考えられないことでしたが、主イエスは私たちと私たちの家庭を作りかえて、お用いになることができるのです。

同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。  ペテロの手紙 第1 3章1節

神によろこばれること 2009年6月28日(録音はありません)

ペテロは信仰ゆえに苦しみを受けるとき、それに耐え忍ぶように命じました。不当な扱いをする支配者やどれいの持ち主に対しても反抗したり、信仰を捨ててしまうことがないようにと教えたのです。それは、苦しむ神の民を通して世界が救われるためでした。クリスチャンを迫害したローマ帝国は250年後にキリスト教を公認し、ついには国教としました。神は私たちの苦しみも福音宣教のためにお用いになることができます。今日、世界宣教デー。今も世界で苦闘する宣教師たちやその実である兄弟姉妹を覚えましょう。

人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。  ペテロの手紙 第1 2章19節

驚くべき光の中に 2009年6月21日

主イエスは私たちをご自分の驚くべき光の中に招いてくださいました。信仰の本質は、このお方とのいのちの交わりにあります。十字架の上にご自身の存在を投げ出してくださった主に、私たちが応答することです。そして、神の痛みを知ることが、私たちの信仰の目を開きます。

あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。  ペテロの手紙 第1 2章9節

聖なる者とされなさい 2009年6月14日

先週私たちは「主よ、あなたを愛します」とペテロとともに告白しました。そのペテロに主は「わたしに従いなさい」とお命じになりました。主は今朝、同じ口調で私たちに「聖なるものとされなさい」とお命じになっています。キリストの尊い血によって、いつかでもなく、だんだんにでもなく、今、聖なるものとしていただきましょう。

あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。  ペテロの手紙 第1 1章15節

喜びにおどる私たち 2009年6月7日

ペテロはこの手紙を現在のトルコに散ったクリスチャンにあてました。クリスチャンとは、いのちを与えられ、そのいのちを三位一体の神によって守られている人々。すなわち、父のみこころにより救われ、御霊の聖めの印をうけ、御子の十字架によって神と結ばれた者たちです。私たちはまだ、天の遺産を受けておらず、試練にさらされています。けれども、ペテロは自ら喜びに踊りながら、私たちを同じ喜びへと招きます。それは主イエスに愛され、主イエスを愛する者が知る、ことばに尽くすことのできない喜びです。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。  ペテロの手紙 第1 1章8節

神はあなたをあこがれさせる 2009年5月31日

サラが死に、アブラハムは悲しみのうちに彼女を葬りました。彼はそのために法外な値を払って小さな墓地を手に入れました。それはかれらが、生まれ故郷にはもどらず天の故郷を目指す旅人であったからでした。彼があこがれたのは天の都であり、そこで神にお会いすることでした。神は同じあこがれを私たちにもお与えくださっています。今日、ペンテコステ。聖霊に満たされましょう。神は今も、求める者に聖霊を満たして、地上の生涯を愛と確信のうちに歩ませてくださいます。

私はあなたがたの中に居留している異国人です。  創世記23章4節

神はあなたを試みられる 2009年5月24日

アブラハムのイサクへの執着が神との関係が危険にさらすようになったとき、神は「イサクをわたしにささげなさい」とお命じになりました。それは アブラハム、そして私たちが、幸福になるため、また神の祝福を他の人々に取り次ぐ通路となるためです。そのための3つの秘訣は、(1)神のストップへの即座・無条件の服従 (2)神とともに楽しむ選択 (3)軽く握ること です。

「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」  創世記22章18節

神はあなたを力づけられる 2009年5月17日

イサクが生まれた後、ハガルがアブラハムに産んだ子が再びサラとアブラハムの悩みとなりました。追い出され、荒野で水が尽きて死を覚悟したハガルに、神は井戸を与え、救われました。イシュマエルはサラとアブラハムの不信仰の結果の子でした。けれども神は人を造ったゆえに負ってくださるお方です。私たちの罪を負い、罪の結果も負ってくださる神の愛に、目を見はりつつ、お仕えしましょう。

恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。  創世記21章17節

輝いて生きる 2009年5月10日(特別講師:船田文子先生)

主イエスは罪人である私たちを光で照らし、光の中にとどまるように命じ、光に従うように招いて下さるお方です。このお方を信じて、罪から解放され、自由な人にしていただきましょう。

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」  ヨハネの福音書8章12節

神はあなたを笑わせられる 2009年5月3日

ついにアブラハムとサラに約束の子が与えられました。その名はイサク。「笑い」という意味です。神はアブラハムとサラに最高の喜びと驚きの笑いを与えてくださいました。同じ笑いは私たちにも約束されています。「天の御座に着いておられる方は笑う」(詩2:4)。神に寄りそう者は、神とともに最高の笑いにあずかることができるのです。

アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。  創世記21章3節

神はあなたを戒められる 2009年4月26日

アブラハムはまたしてもサラを妹と称して大失敗をしました。人を恐れて神から目を離したためでした。いつも神への信頼に立ち続けるためには、神を知ることです。それは、神ご自身のご性格にふれ、そのすばらしさを味わい、そのご関心を共有し、ともに行動して、喜びや悲しみをともにすることです。「私の息子よ」「私の娘よ」と呼んでくださる天の父に近づきましょう。

「あなたはしてはならないことを、私にしたのだ。」  創世記20章9節

神はあなたをのがれさせる 2009年4月19日

ソドムの悪に対して神の怒りはくだりました。けれども怒りの中にあってもあわれみをお忘れになることがない神は、ふたりの御使いを送って、ロトと家族の手をつかんで救い出してくださいました。神は同じあわれみのゆえに、御子イエスをこの世界に送って、十字架におかけくださいました。やがてくるこの世の終わりまで、悪から離れ、み前にとどまり、み名を宣べ伝えましょう。

「急いでそこへのがれなさい。」  創世記19章22節

キリストの勝利 2009年4月12日

十字架から三日めの朝、イエスは復活されました。弟子たちはイエスを見て喜びました。イエスを信じる私たちもまた、復活にあずかります。そのとき私たちもイエスを見て喜ぶでしょう。そして、死に勝利されたイエスは、私たちを助けて罪に対しても勝利させてくださいます。イエスを信じ、イエスと一つに生きようではありませんか。

弟子たちは、主を見て喜んだ。  ヨハネの福音書20章20節

ユダヤ人の王 2009年4月5日

棕櫚の聖日、群衆は熱狂的に主イエスを歓迎しました。けれども、主がローマからユダヤを解放する王ではないことに気がつくと、今度は主を十字架にと要求しました。それは主イエスがどれほどすばらしい王であることを知らなかったからでした。罪と死から私たちを解放し、神を愛する喜びを与える真の王に心を献げてお仕えしましょう。

ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人(じん)イエス」と書いてあった。  ヨハネの福音書19章19節

神はあなたを友とされる 2009年3月29日

罪の町ソドムの叫びを聞いた神は、人々を惜しみつつも町を滅ぼすことを決意されました。けれどもアブラハムは神の前に立ちはだかるようにして、しつこく交渉を繰り返します。神とアブラハムは人々を惜しむ愛において一致していたのです。アブラハムが神の友と呼ばれる理由がここにあります。主イエスが友とお呼びくださった私たちもアブラハムのように救霊のために祈りましょう。

「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」  創世記18章17節

神はあなたに近づかれる 2009年3月22日

アブラハムを訪れた旅人は神と2人の御使いでした。この神へのアブラハムの信仰をパウロは、賞賛します。それが、
 @望みえないときに望みを抱く信仰
 A神の計画の実現を望む信仰
 B疑うことをしない信仰
だったからです。私たちもこの信仰にならう者としていただきましょう。

「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」  創世記18章10節

神はあなたを新しくされる 2009年3月15日

新しい名と召しを受けたサラ。ではイエス・キリストを自分の救い主と告白し、新しく生まれたクリスチャンとはどのような恵みを与えられている者なのでしょうか。それは
@キリストにある限り、罪に打ち勝つ者
Aキリストにある限り、平安の中にある者
Bキリストにある限り、神と人への愛を注ぎ出す者です。
土の器である私たちを通して宝であるキリストが栄光を現してくださいますように!

「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。」  創世記17章15節

神はあなたに仰せられる 2009年3月8日

アブラハムは「全き者であれ」とおっしゃる神が愛の神であることをあらためて知ります。神はそのアブラハムと契約を結ばれました。それは永遠に神の民とされている恵みを、決して忘れないため。割礼は恵みの記憶のための手段でした。十字架の主イエスを知る私たちは、さらなる愛の神を知る者。私たちが試みにあうときにも、誤りをおかすときにも、けっして変わることがない神の愛に堅く立ちましょう。

あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。  創世記17章11節

神はあなたを全くされる 2009年3月1日

13年間の沈黙の後、神はアブラハムに全き者であれと命じます。それは、これから神が創り出そうとされている神の民の姿でした。クリスチャンとは、ありのままで神に帰って救われた人々。けれども、救われたならそのままでい続けることはできません。エル・シャダイ(全能の神、十分な神)と名乗る神には、私たちをご自分に似た者に変えることができるからです。

「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」  創世記17章1節

見よ、畑は色づいて 2009年2月22日

スカルで起こったリバイバルは今も起こります。祈りに応えて神はすみやかにみわざを起こされます。救いは今です。収穫する私たちのために種をまいてくださったのは主イエス。まかれた種もまた十字架で命を捨ててくださった主イエスです。収穫を待つ野に出てゆき、主とともに働きましょう。

目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。  ヨハネの福音書4章35節

神はあなたに会われる 2009年2月15日

サライとアブラムは神のご計画から外れてハガルによって子をもうけますが、結局彼女を追い出します。途方にくれるエジプト人の女奴隷ハガルを救ったのはエル・ロイ(ご覧になる神)の神でした。神がご覧にならない人、神が負ってくださらない人はだれ一人いません。

そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。  創世記16章13節

神はあなたと契約される 2009年2月8日

神はアブラハムに広大な地を約束されました。あまりの恵みに約束の保証を求めるアブラハムに神はお姿を見せてお答えくださいました。神の祝福を額面通り期待しましょう。求める者に現れ、共にいてくださる神を求めましょう。そして、神との交わりをさまたげる高ぶりや誘惑をしりぞけ、最も良いことのために時をお献げしましょう。

さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。  創世記15章17節

神はあなたを義とされる 2009年2月1日

神はアブラハムに身をかがめて語りかけ、星空の下に連れ出されました。それは世界を救うご計画を知らせるためでした。アブラハムは信じて、計画に加わりました。同じ神が、私たちに十字架による救いを与え、「あなたの子孫は星のようになる」とさらなる宣教のビジョンを知らせてくださっています。私たちも心から、「アーメン」と申し上げて参加させていただきましょう。

そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」  創世記15章5節

神はあなたを支えられる 2009年1月25日

ソドムに住んでいたロトは、エラムの王に連れ去られました。追跡してロトとソドム・ゴモラの全財産を取り戻したアブラハムを2人の王が出迎えました。ソドムの王は人と財産を分けようと持ちかけますが、アブラハムはソドムと関係を持つことを拒否しました。一方、シャレムの王メルキゼデクは、神の手からのみ祝福を受けるようにアブラハムを励ましました。神の民の生き方がここに教えられています。

彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。」  創世記14章19節

神はあなたに約束される 2009年1月18日

アブラハムはエジプトで自分の身を守るために妻サラを妹といつわりました。惨めなアブラハム。けれども、ベテルで神に礼拝を献げたときに回復が訪れました。神はへりくだる者の神。アブラハムは神を信頼し、ロトに自由に土地を選ばせます。大不況といわれる中ですが、慌ててはなりません。今こそ大胆に、神を信頼し、神にゆだね、信仰によって踏み出しましょう。

わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。  創世記13章15節

神はあなたを守られる 2009年1月11日

神の友と呼ばれたアブラハムの祝福の秘訣は礼拝にありました。旅を続ける先々でアブラハムは祭壇を築いて礼拝を献げました。神を人生の中心にすることこそ祝福の秘訣です。
 神を知らない私たちのために、御子イエスは遣わされて私たちを探し、十字架で罪をゆるし、永遠のいのちを与えてくださいました。このいのちは生きている今から働いて、私たちを世に勝たせます。世で勝つ人生でなく、世に勝つ人生を生きることができるのです。

彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。  創世記12章8節

神はあなたを祝福される 2009年1月4日

神はアブラハムをご自分のご計画のためにお召しになりました。
@アブラハムへの召しは神からの一方的なものでした。
Aアブラハムは今までの暮らしを捨てて出て行きました。
Bアブラハムは行き先を知らないで出て行きました。
アブラハムの応答の結果、地上のすべての民族の祝福となるという神の約束は主イエス・キリストにおいて実現しました。今年、私たちもさらなる信仰の一歩を踏み出しましょう。恵みによって大胆に。

主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」  創世記12章1節

喜びの礼拝 2009年1月1日

明けましておめでとうございます。今年も真の礼拝者として集いましょう。
@礼拝には神に会う喜びがあります。
A礼拝には他では味わうことができない安らぎがあります。
B神は礼拝を通して祝福を注がれます。

私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」  詩篇16篇2節

ナザレ人イエス 2008年12月28日

主イエスはインマヌエル(神は私たちとともに)の神。それだけでなく辺境のナザレの寒村で、私たちの一人になってくださいました。だから
@主は私たちが出会うすべてのことを経験されたから慰めてくださることができます
A主は父なる神との交わりを通してあらためて父をお知りになりました。それは私たちも主にならうためです。

そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる。」と言われた事が成就するためであった。  マタイの福音書2章23節

クリスマスの贈り物 2008年12月23日

博士たちは、キリストに黄金・乳香・没薬を献げました。

 黄金は王に献げる贈り物。当時の王は戦いの先頭に立ちました。今、あなたにはどのような戦いがありますか?キリストはあなたのために戦う勝利の王です。

 乳香 は焚いてその香りを神に献げる目的に用いる樹脂。キリストは神です。神はあなたの切なさや痛みのひとつひとつに関心をもってこの世にきてくださいました。被災地を慰問する天皇や首相に励まされるとするなら、神があなたに与える慰めはどれほどでしょうか。

 没薬は死体の防腐剤。赤ん坊にはふさわしくない贈り物、けれどもキリストは十字架にかかるために来てくださいました。あなたのためには何も惜しむことがない神の愛がここにあります。

クリスマス、このキリストに感謝をお献げしましょう。

ユダヤのベツレヘムで 2008年12月21日

「キリストはどこで生まれるのか」という問いに対する答は、「ユダヤのベツレヘム」。かつてダビデの子孫に約束された永遠の王位が、ベツレヘムで、世界で最初のクリスマスに成就しました。クリスチャンたちは、それを3重の驚きをもって信じています。それは
@神が人となった驚き
A神が十字架についた驚き
B十字架が自分のためであった驚き。
十字架を思うとき胸を刺す痛みとともにクリスマスをお祝いしましょう。ご自分を投げ出されたベイビー・キングに礼拝を献げつつ。

彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。」  マタイの福音書2章5節

東方の博士たち 2008年12月14日

東方の博士たちは主にお会いすることができました。
それは
@神が、彼らに求める心を与えてくださったから
A神が、☆と聖書を用いて導いてくださったから
B主が、すでに生まれていてくださっていたから
すべての恵みはみな神から始まります。私たちも心を開いて神の恵みを受け取りましょう。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。」  マタイの福音書2章2節

神はわたしたちとともに 2008年12月7日

インマヌエル(神は私たちとともにおられる)の主イエス。
この主は
 @苦しみの中に ともにいてくださるお方。
 A苦しみを通して 近づいてくださるお方
 B喜んで私たちとともにいてくださるお方
クリスマス、このお方を心から喜んでお迎えしましょう。

その名はインマヌエルと呼ばれる。訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。  マタイの福音書1章23節

救い主イエス 2008年11月30日

イエスという名は「主は救い」という意味です。主の使いはイエスの救いが罪からの救いであることを宣言しました。イエスは (1)罪に対する神の怒りからの救い主、(2)罪の結果である傷と痛みからの救い主(3)罪の力からの救い主です。罪の結果は、自分と他人に恐ろしい傷と痛みを残します。裏切られ、侮辱され、鞭打たれたイエスは、身をもって私たちの苦しみを知っていてくださいます。そしてその傷によって私たちをいやしてくださいます。

「その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」  マタイの福音書1章21節

自由への道 2008年11月23日(録音はありません)

1862年9月22日、リンカーン大統領は奴隷を永遠に自由にすることを宣言しました。今、神は私たちを罪から解放することを宣言されます(18節)。キリストの十字架は、私たちを「雪よりも白く」(詩51:7)します。罪の力からの奴隷解放宣言を信じて、すでに目の前に開かれている自由への道へ、自分の足で歩き出しましょう。自分自身を罪の奴隷ではなくキリストの奴隷(しもべ)として献げて、キリストの勝利に加えていただきましょう。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。  ローマ人への手紙 6章23節

キリストに生きる 2008年11月16日

パウロは6章で罪からの自由を宣言します。にわかには信じられないような恵みですが、カギは「キリスト・イエスにつく」(3節)「キリストにつぎ合わされて」(5節)にあります。罪に無縁(罪に死なれた)のキリストとひとつになるなら、ひとつである間は、私たちも罪に無縁(罪に死ぬ)です。自分の現状ではなく神の恵みに期待しましょう。神はすでに義とされた私たちを罪から解き放つべく待ち構えておられるのですから。

絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。  ローマ人への手紙 6章2節

たいせつなあなた 2008年11月9日(録音はありません)

神は愛です。そして、その愛とは自分を他の人のために犠牲にする愛です。米田さんが出会った神は、ご自分のひとり子を十字架につけるという測り知ることができない高価な犠牲を支払ってくださった神でした。私たちもこの神に招かれています。明日ではなくて、今日。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。  イザヤ書 43章4節

永遠のいのちへ 2008年11月2日

最初の人アダムは神への不服従の結果、罪と死の支配下に入りました。同じことがすべての人に。けれども、私たちを救う神の決意はキリストを十字架につけました。神への従順を貫いたキリストの支配は私たちを罪の支配から救い出し、永遠のいのちを与えます。そしてキリストとともに王として支配する者とするのです。

恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。  ローマ人への手紙 5章21節

神の愛 2008年10月26日

神を誤解し神を憎んだルターが神を愛したときが宗教改革の始まりでした。義とされ神との正しい関係に入れられた私たち。神はその私たちを、患難を通して「逃げ出さない根が生えたような強さ」(忍耐)、「テスト済みの確かさ」(品性)、そして「神の約束する未来」(希望)へ進ませます。恵みによってさらなる恵みを!

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。  ローマ人への手紙 5章5節

世界の相続人 2008年10月19日

アブラハムとサラのからだは死んだも同然でした。けれども神は無から有を、死から生命を創造されるお方。アブラハムはこの神を信頼し恵みを受け取りました。今も十字架の主イエスをよみがえらせた神を信じる者は、神との正しい関係に入り、永遠のいのちを与えられて、世界の相続人としていただけるのです。

そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。  ローマ人への手紙 4章16節

この幸い 2008年10月12日

パウロは信仰によって義とされた証人としてアブラハムとダビデを挙げます。何の働きもないアブラハムも、罪人のダビデも、ただ神の恵みに応答したので義とされました。神との正しい関係に入る唯一の道は信仰であり、信じる私たちを義とするのは神の恵みです。恵みの神に受け入れられていることを確信し、お互いに祝い合いましょう。

何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。  ローマ人への手紙 4章5節

ただ神の恵み 2008年10月5日

すべての人は罪人で滅びるさだめ。この最暗黒の谷に朝日が昇りました。キリストです。神は御子を十字架につけ、その血によって私たちを受け入れてくださいました。人のそむきのために長い年月の間、神が忍耐くださった深い傷、さらに罪の解決のために裂かれた神の心のさらなる痛みを思いましょう。私たちを受け入れてくださる神を受け入れ、全く新しい人にしていただきましょう。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。  ローマ人への手紙 3章23〜24節

義人なし 2008年9月28日

パウロは聖書中再暗黒の谷底へと筆を。それは「義人は一人もいない」という宣言。人はみな罪の力の下にあって、神がわかりません。その結果、神に似せて造られたのに、神とは似ても似つかぬ者になっています。いかに言行が整っているように見えたとしても例外はありません。だから、私たちも罪の下にある一人です。このことを悲しむとき、また神が私たちのありさまを無念に思っておられることに気づくとき、谷は底を打って道は登りに転じるのです。

「義人はいない。ひとりもいない。」  ローマ人への手紙 3章10節

神の真実 2008年9月21日

ユダヤ人も異邦人も全く同じ罪人か?反対者たちはパウロに食い下がりました。もちろん、ユダヤ人であっても罪に対する神の怒りをまぬがれることはできません。神の怒りはユダヤ人にも異邦人にも下ります。その怒りを受けとめるのはキリスト。十字架はユダヤ人と異邦人、両方のためでした。これが真実な神のなさったことでした。そして、今や信じるすべての者は、神の真実を世界中に伝える祝福の器として召されているのです。

すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。  ローマ人への手紙 3章4節

心の割礼 2008年9月14日

神を礼拝し、聖書を読む目的は神にお会いすること。神はお会いくださる都度、私たちを驚かせてくださいます。今朝の驚きは、心の割礼。神がアブラハムに、そして私たちに「わたしの前を歩み、全き者であれ」(創17:10)とおっしゃってくださることです。全能の神がその全能を惜しみなく私たちの歩みのためにお用いくださるのです。人とは違って神にはできないことはありません。

文字(もんじ)ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。  ローマ人への手紙2章29節

ユダヤ人のさばき 2008年9月7日

異邦人もユダヤ人もみな罪人と論じるパウロだが、律法を与えられたユダヤ人には「神を侮るのか」(24)と特に厳しい。律法はユダヤ人と神との特別な関係を象徴し、ユダヤ人の罪は神にとりわけ深い痛みを与えるからだ。今日、振起日。起源は夏休み後のCSの再結集だ。明野の群れも、へりくだりと悔い改めをもって神の前に再結集し、神の御臨在の前に神との交わり、互いの交わりをリバイブしていただこう。

それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るようになる。その日、『ここにわたしがいる』と告げる者がわたしであることを知るようになる。  イザヤ書52章6節

わたしの福音 2008年8月31日

ユダヤ人も異邦人もさばきをまぬがれない。ユダヤ人には律法、異邦人には良心が与えられているからだ。けれども、神のさばきはキリスト・イエスによるさばき(16)。信じる者はさばかれないというさばきだ。それは、さばきが御子の上にくだったからだ。悩みの日にはこの十字架の主イエスに近づこう。都の外で苦しみを受けてくださった主だけに、本当の慰めがあるのだから。

律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。  ローマ人への手紙 2章12節

弟子達の突然の召命と献身 2008年8月24日(録音はありません)


イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。  ルカ9章23節

神の慈愛と忍耐と寛容 2008年8月17日

神の怒りは神に背を向ける不敬虔、歪んだ欲望という不正に向けられる。けれども、神は我らを愛するゆえにその怒りを御子に下された。その慈しみの愛は私たちを悔い改めに導く。悔い改めには2つの意味がある。180度の生涯の転換と罪の告白だ。かたくなさと悔い改めのない心を手放して、2つの悔い改めを徹底しよう。さらなる神との交わりに進むために。

それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。  ローマ人への手紙 2章4節

神の怒り 2008年8月10日

聖書の「神の怒り」は私たちが最も聞きたくないが避けて通ることができないことばだ。神の怒りはまず神を神としてあがめない「不敬虔」と道徳的に堕落した「不正」に対する怒りだ。神はご自分がお造りになった世界と人間の堕落に怒り、心を痛めておられる。滅ばさなければその悪は増し加わるが、滅ばすことはなお耐え難い。そして神の怒りはついに降った。死罪つまり永遠の滅びとして。けれども、その怒りを受け止めたのは神のひとり子だった!怒りの手を御子の上にふりおろす神の痛みを知りなさい。アブラハムのように。そして知ったなら、宣べ伝えなさい。神の怒りとその痛みを。

不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。  ローマ人への手紙 1章18節

救いを得させる神の力 2008年8月3日

福音は神の力であり、そのうちには神の義が啓示されている。キリストは神による解放の宣言という福音であり、神の救いのみわざという神の義であり、神の押し迫る恵みという神の力だ。このキリストに応答(=信仰)するものは義人。義人は限りなく、割り引くことなくキリストに応答する。救いは義認・聖化・栄化に渡る神のすさまじい恵みだ。この福音を誇り、この福音を生きよ。それこそが神があなたに熱望しておられることだ。

義人は信仰によって生きる。  ローマ人への手紙 1章17節

ギリシャ人にも、未開人にも 2008年7月27日

ローマの「聖徒たち」(7節)へ、福音を伝えたい(15節)とパウロは熱望した。ローマ教会はユダヤ人と非ユダヤ人の混成ゆえに悩んだ。けれども御子の福音(9節)は、この悩みを想像を絶するスケールで超えて行くことを、パウロは知っていた。福音はキリスト。キリストにあって罪赦され、キリストと一つにされた者たちは、キリストを生き、キリストを宣べ伝えて、世界を変えることを知りなさい。

ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。  ローマ人への手紙 1章15節

祈り、愛し合おう 2008年7月20日

私達はそれぞれ違った試練や、困難に遭います。その中で主は私達にどのような応答を望んでおられるでしょうか?ペテロはその頃迫害の中にあった初代クリスチャン達に困難の中にあっても、「努めて祈り、互いの愛を熱く保ちなさい」と教えています。試練の中でまず主の前に出て、主に祈る。主に出会うと愛と平安を得ます。その愛をもって主の人々の元に出ていく。この祈りと行動の伴った愛の中に生きるとき、その困難や試練にも押しつぶされることなく、勝利をもって生きることができます。

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。  ペテロの手紙第1 4章7-8節

神の福音 2008年7月13日

パウロはイエスとイエスを信じる人々を迫害していた。パウロにとって神は律法を守る者を義とする神。クリスチャンたちのためにユダヤに神の怒りが降るのを恐れての迫害だった。ところがダマスコ途上でパウロはキリストに会った。福音との正面衝突でパウロは愛ゆえに十字架にかかった神を知る。死と罪と悪に対する勝利の書、ロマ書冒頭のあいさつを単なるあいさつですませることができなかったパウロの喜びを知り、同じ喜びと神への愛を求めなさい。

この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。  ローマ人への手紙1章2, 3節

狭き門 2008年7月6日

主イエスは十字架が待つエルサレムへの途中で、「努力して狭い門からはいれ」と教えられた。また「先頭の者がしんがりになる」とも。救いの門はだれにでも開かれているが、そこにはいる者は、ただ知識で主イエスを知っている者ではない。主イエスの十字架をたましいで知り、主をますます愛するたましいとされた者だ。アブラハム・イサク・ヤコブや預言者のようにもてる限りの力を尽くして神を愛しなさい。御子の血をもって門を開いてくださった神を。

努力して狭い門から入りなさい。  ルカの福音書13章24節

御国を継ぐ者 2008年6月29日

御国を継ぐ者とはだれか?主イエス・キリストの十字架により永遠のいのちをいただいた者だ。この命はキリストの命、自らを注ぎだしたキリストの命だ。苦難も試練もこの命を奪うことはできない。この命からあふれるのは自らを犠牲にして痛んだ世界を愛する愛だ。この命を受け取り、この命を生きよ。あなたが愛する時、主イエスは2度喜ばれることを知れ。まず、愛された兄弟を。そして、愛したあなたを。

あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。  マタイの福音書25章40節

嵐の夜、神はいったい? 2008年6月22日(録音はありません)

人生の試練の中で祈るときに、祈りが聞かれないことがないか?けれども、神はあなたの痛みに無関心でもなければ、あなたを見捨てることもしない。嵐の夜に、もっとも激しい痛みを引き受けてくだるのは神だ。あなたの罪を痛みつつも赦し、あなたと滅びとの間に身を入れてくださる神の痛み、沈黙のうちに声も出さずにこらえてくださっている神の痛みを知れ。やがて嵐の夜が明けるその朝まで。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。  ヨハネの福音書3章16節

ぶどう園のあと取り 2008年6月15日

ぶどう園の主人は神でぶどう園はイスラエル。ぶどう園を借りた農夫たちは祭司長、律法学者、長老たち。遣わされたしもべたちは主イエスに先立つ預言者たち。神は何度も預言者を送ったが、彼らは迫害を受けた。愛する息子は主イエス。今、神は主イエスを十字架につけることになる人々に警告を発する。けれども、ここから冷たい勧善懲悪の神を想像してはならない。神はぶどう園をいつくしんで育て、さばきをくだすことに心を痛め、御子に手をくだした者たちにも救いを差し出しておられる。神は、痛む神、涙の神であることを知りなさい。

彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。  マルコの福音書 12章6節

良きサマリヤ人 2008年6月8日

自分の正しさを示そうとした律法学者に対して、主イエスは良きサマリア人のたとえをお話しになった。律法学者は永遠の生命を受けるために律法を守り、サマリア人はかわいそうに思って(共に苦しむという言葉)旅人を助けた。神の思いと心を持っていたのはどちらであったか?神と人を愛する生き方、それは永遠のいのちの条件ではない。いのちに見合う生き方だ。あなたのために自らを投げ捨てた神は今朝もあなたを招く。あなたが愛されたように、人生という流血の道で出会う助けを必要とするすべての人を愛しなさい

するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」  ルカの福音書 10章37節

10人のおとめ 2008年6月1日

花むこはキリスト。待っている十人の娘はクリスチャン。キリストがこの世の終わりにもう一度来られる再臨。その日がいつかはわからない。けれどもいつも用意を整えておくようにと主はお命じになった。用意とは、絶えざる祈り、神のみこころへの日々の服従、隣人へのゆるしと苦難にある人々への注ぎ出す愛。つまるところは神と人への全き愛だ。あなたはどのような思いで再臨の主の前に立つだろうか?恐れおののきながら?恥じ入りながら?それとも全き愛をもって?

だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。  マタイの福音書 25章13節

良い忠実なしもべ 2008年5月25日

タラントは福音。5タラント、2タラントを預かった者と違って、1タラント預かった者は「持たない者」(29節)であった。彼が福音を宣べ伝えなかったのは、福音を知らなかったからだ。彼は、神がひとり子をさえ与える神であることを知らず、無理なことを押しつけできないからと罰を与える方だと思い込んでいた。神が恵みの神であることを知りなさい。救われるためではなく、救われたゆえに神に仕えなさい。

だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。  マタイの福音書 25章29節

盛大な宴会 2008年5月18日(録音はありません)

神の国は神が催す盛大な宴会に似ている。すべての人がそこに招かれている。けれどもすべての人が招きに応じるわけではない。ある人々は事業や日常のことに心を奪われて、またある人々は自分の持ち物に執着して神の招きを断る。また神の祝福である家族が神の招待を断る理由になることもしばしばだ。けれども、神の側ではもうすっかり用意ができている。その用意とはあなたの底知れない罪のためにほふられた主イエスの十字架だ。今、神の招きに応じなさい。

さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。  ルカの福音書 14章17節

聖霊降る! 2008年5月11日(録音はありません)

かつて神は過越の夜に小羊の血によってイスラエルを贖い、50日目にシナイ山で律法を授けて、神と隣人を愛する生活へと招かれた。やがて、やはり過越に、キリストは十字架に架かられ、50日目のペンテコステに聖霊は待ち望む一人一人に降った。聖霊を受けた者たちは、心に律法を刻まれ、全き愛に満たされたキリストの証人となった。主は今も同じことをしてくださる。認めて、献げて、待ち望むあなたに!

また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。  使徒の働き 2章3節

真理の御霊 2008年5月4日

主イエスは十字架前夜、恐れる弟子たちに助け主である聖霊を遣わすと語った。彼は真理の御霊。復活の主を証しして不信の罪をあばき、主の昇天に目を開かせて、キリストの義を証明する。この世を支配するサタンがすでに裁かれ、十字架に頭を砕かれたことも。真理とはキリスト。御霊はキリストの存在とことばと行動に顕れた全き愛をあなたの中に実現するお方だ。聖めとは全き愛だ。求めて聖霊を受け、神と人とを自分の存在の深みから愛する者にしていただこう。

さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。  ヨハネの福音書 16章11節

天に上げられた主 2008年4月27日

主イエスが昇天の前に命じられたことは、「エルサレムを離れないで聖霊を受けよ」であった。伝道に、また他のすべての活動に先立って、聖霊を受けよ。神はあなたにご自分の霊を与えなければ満足することがおできにならないお方だ。これほどにあなたを愛してやまない神とひとつになることをあなたは願うだろうか?あと2週間の明野聖化期間。認めて、献げて、待ち望め。

イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。  使徒の働き 1章4節

ペテロを呼ぶ主 2008年4月20日

「あなたのためにはいのちも捨てます」(13:37)と誓ったペテロは受難の夜、3度イエスを否んだ。復活の主は、ペテロをその出発点であるガリラヤ湖畔に訪ねる。主からの3度の求愛と新たな任命に、ペテロはもう一度自分を献げてエルサレムへ。そこでペンテコステの聖霊を受けたペテロは、もはや以前のペテロではない。神と人への愛に満たされ、主にしたがい抜いて十字架で殉教した。何度も主に背を向けたあなたをもう一度主は招く。招きに応えて聖霊を受けよ。聖めをすっぱいぶどうと言ってはならない。

イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」  ヨハネの福音書 21章17節

マリヤを呼ぶ主 2008年4月13日

復活された主にすがりついたマグダラのマリヤをイエスは止められた。彼女のなすべきことは弟子たちのところへ行って、やがての主の昇天を告げることだったからだ。主は御父のもとに上ることによって、我らをも神の子としてくださった。キリストによって真の神の子とされた者は、神を愛するがゆえに罪のうちを歩まない。あなたは真の神の子だろうか?

わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。  ヨハネの福音書 20章17節

トマスを呼ぶ主 2008年4月6日

復活の主に会って弟子たちは喜んだ。キリスト教はキリストだ。キリストに会うことを喜ぶ喜びの宗教だ。トマスも人づてではなく、直接に主に会うことを願い、そして聞かれた。そのように主を求めよ。トマスの「わたしの神」の叫びは歴史を作った。「見ずに信じる者は幸いです」はあなたへの招き。今、復活の主の手からパンとぶどう酒を受け取れ。愛の源である聖いいのちとともに。

トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」  ヨハネの福音書 20章28節

エマオの道で 2008年3月30日

最初のイースターに、主はエマオの道を行く2人の弟子たちを追いかけ、聖書から説き明かし、またパンをさく食卓の主となって、彼らの目を開いてご自分をわからせた。あなたの目は今ここにおられる復活の主に開かれているか?十字架はすべての終わりではなかった。死んでよみがえられた主が与える生命は、死と罪の力に打ち勝つ新しい生命、あなたと教会とこの世をまったく変えてしまう生命の始まりであることを知りなさい。

彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。  ルカの福音書 24章30節

よみがえりの朝 2008年3月23日

キリストと結ばれた者は罪に対して死ぬ(無縁となる)者。そしてキリストの復活の命をいただく者だ。そのような者は、キリストと同じく神に対して生きる。それは、生ける神の命の源から受けて生きる存在、ただ神のために生きる存在、あなたが生きていることで神の栄光が輝く存在となることだ。この命にフルに与るために、いのちの御霊を受けよ。認めて、献げて、待ち望め。

キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。  ローマ人への手紙 6章9節

み前に立つ教会 2008年3月16日

キリストの十字架の目的は聖い教会を立てあげることであった。教会とは建物ではなく私たち。水の洗い(バプテスマ)が表している罪に対して死に、御霊を注がれた一人ひとりとなることが明野キリスト教会の目的だ。すべての計画はそのためなら益であり、そうでないなら害となる。今、心の底から主の花嫁にしていただこう。まず、あなたから。

ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。  エペソ人への手紙 5章27節

キリストの死 2008年3月9日

死んだが、よみがえって生きておられるキリスト。その死は罪の支配からの自由、よみがえって生きることは、神とひとつになること。キリストの死と復活はわたしたちにも罪からの自由と神とひとつの生き方を与えることを知りなさい。あなたは本気でそれを望むだろうか?

なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。  ローマ人への手紙6章10節

神の沈黙 2008年3月2日

十字架のイエスの叫びに神は沈黙のまま。それゆえ、人々はイエスを神にのろわれた者とみなした。けれども、神が一声発したなら、御子は救われ、そしてあなたは罪と汚(けが)れの中に滅ぶしかなかった。神にとって沈黙こそが最も困難であったことを知れ。黙して御子を見殺しにした神の引き裂かれた心を思え。

わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。  詩篇22篇2節

訴えられる者 2008年2月24日

訴えられる者の譬(たと)えを通して主イエスがお命じになったのは、罪を悔い改めて生ける神に立ち帰ることだ。罪とは何か?英語では「物」を指すとき「イット」と言う。罪の本質は、神と隣人を「あなた」と呼ばずに自分の利益のために存在する「イット」と見なすことにある。そのように生きるあなたもまた、愛を知らない「イット」であることを知りなさい。神に立ち帰り、自分の中の「イット」をいやしていただきなさい。そして全き愛に満たしていただきなさい。

あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するよう努めなさい。  ルカの福音書 12章58節

岩の上に建てた家 2008年2月17日

2人の建築者のちがいは家そのものではなく、土台が岩か砂か、そして土台を掘って基礎を打ち込んだかどうかにある。岩の上に家を建てた者とは、イエスのことばを聞いて行おうとする者でもなく、ある程度行う者でもなく、行う者だ。あなたは?
神のみこころを生き抜いたのはキリスト。そのみ霊だけがあなたを賢い建築者にする。それは、神と人を全き愛で愛する者だ。この世は愛を失い、雨と洪水と風はますます強くなり、われらの愛を奪い去ろうとするだろう。けれども、あなたがキリストという永遠の岩と一つなら、何ものも神の愛からあなたを引き離すことはできない。だから、聖霊を受けなさい。

だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。 マタイの福音書 7章24節

主人としもべ 2008年2月10日

よいしもべとはどんなしもべだろうか?自分の奉仕の報酬を求めないしもべ、自分のことを忘れて仕えるしもべだ。主人を愛するしもべだけが、そんなしもべとなることができる。愛するから主人に自分を献げ、主人の欲することを、言われるまでもなくしようとする。あなたはそのように主を愛するだろうか?よいしもべのようにご自分を投げ出してくださった主を。

あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。  ルカの福音書 17章10節

塔を築こうとするとき 2008年2月3日

キリストは熱狂する人々に対して、弟子となることの代価を計算せよと命じた。一時の興奮ではなく、また強制されてでもなく、自由な人として決断するようにと招かれた。キリストは私たちを支配する罪の力と今も戦っておられる。キリストとともに歩む者もまた戦いに伴う犠牲をも覚悟しなければならない。本当にキリストの愛を知っている者だけがその犠牲を選びとる。あなたは主とともに最後まで戦うだろうか?

塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。  ルカの福音書 14章28節

不正な裁判官 2008年1月27日

主イエスはその生涯を通して絶えずお祈りになった。それは祈りを聞いて下さる父なる神がいかなるお方であるかをよくご存じであったからだ。神は不正な裁判官のような方ではなく、ご自分から我らの祈りを待ち受けていてくださるお方。このことを知る者は、主イエスのように祈る。父のふところに飛び込み、確信をもって。

まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。  ルカの福音書 18章7節

高価な真珠 2008年1月20日

主イエスは神の国を畑に隠された途方もない宝や、すばらしい値打ちの真珠にたとえた。どんな犠牲を払っても惜しくない神の国とはキリストだ。キリストを得るならば、キリストの心と思いに生きる。それこそ神の国の住人の生き方だ。自らをかえりみないキリストのごとく生きるために、キリストを得よ。そのために何物も惜しむな。キリストを得ない生涯はゼロ。キリストを得た生涯は無限大であると知れ。

すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。  マタイの福音書 13章46節

キリストの弟子 2008年1月13日

主イエスは大ぜいの群衆と歩いていたとき、ご自分以上に何かを愛することがないようにと教えられた。それは、強制ではなく求愛だ。花むこから「だれよりもぼくを愛して欲しい」と求められる花嫁は幸福だ。キリストの花嫁として、心の底から主を愛したい。主に差し上げるものとて何もない私たち。せめて身に合う十字架を負わせていただきつつ。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。  ルカの福音書 14章27節

ある日、ぶどう園で 2008年1月6日

ぶどう園の主人は神。私たちは労働者。私たちは自分の働きの大きさを主張するが、神はすべての人に平等な恵みを与える。平等、それは誰にも最高以下のものをあたえようとしないがゆえの平等だ。神は惜しみなく、すべての人に最高の恵みを与えるお方であると知れ。
神は人を幼子としてではなく成人として創造された。それは神と交わるため。神と交わらない者は、何歳であっても未成年だ。今年、二十歳になる人だけでなく、二十歳にまだならない人も、すでに二十歳を超えている人も、すべての人が今年、神の恵みによって、ほんとうの成人にしていただこう。

ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。  ルカの福音書 15章20節

赦されたしもべ 2008年1月1日

キリストの十字架によって救われたクリスチャンには自分の正当な権利を当然のように行使する以上の生き方が求められていおり、また可能とされている。主が払ってくださった犠牲の大きさを知り、自分をかえりみずに他の人々を愛する生き方への主の招きに応えなさい。

しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。 マタイの福音書18章27節

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聖書本文は新改訳聖書第三版(2003年)(C)新日本聖書刊行会 を使用しています。