15 ロ−マ人の手紙  題 「無から有を呼び出される神」 2003/3/2

「すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ロマ4:25−26)


パウロは旧約聖書を代表する信仰者としてアブラハムを取り上げました。アブラハムはおよそ紀元前16−7世紀にメソポタミア地方からパレスティナに移り住んだ有力な部族長であり、イスラエル民族の父祖となった偉大な人物でした。アブラハムは神への信仰の徹底さのゆえに「信仰の父」とも呼ばれ、現在もユダヤ教、キリスト教、イスラム教において最も重要な人物であり等しく尊敬されています。

クリスチャンにとっても「アブラハムの信仰」はその「足跡に従って歩み」(12)、「ならう」(16)べき模範であるとパウロは教えています。ではアブラハムの信仰とはどのようなものでしょうか。パウロはアブラハムの信仰の中心は「死者を生かし、無い者を在る者のようにお呼びになる方」(17)を信じる信仰にあったと理解しています。アブラハムは、「神は死者を生かすことがおできになる、何も存在しない無の状態からいのちを呼び出され、世界を創造する力に満ちておられる」と神を理解し、その神を信じたのでした。

 無からいのちを創造するだけではなく、死者さえも復活させることができる全能なるいのちの神をアブラハムは信じました。そしてこの信仰が神によって賞賛され、神の前に義とみとめられたのです。後のユダヤ教徒たちがモ−セの律法を守ることが信仰の本質と考えたことと比較すると、大きな隔たりがそこにはあります。

アブラハムが100歳、妻サラが90歳のとき、実子が生まれイサクと名づけられました。およそ25年前に「あなたの子孫は夜空に輝く星の数のようになる」と神様から知らされたにもかかわらず、子どもは生まれませんでした。妻のサラは若いときから不妊の女性で、年老いた彼女の胎はもはや「死んでいた」(19)、つまり完全に閉経してしまっていたのです。医学的にはもはや妊娠の可能性は皆無0でした。しかしアブラハムは不信仰になって神の約束を疑うことをせず、望み得ないときに望みを抱いて信じ、神には約束されたことを成就する力があると堅く信じました。無から有を呼び出されるいのちの神を信じていたからです。アブラハムのこの信仰はひとり子イサクをモリアの山で犠牲の供え物として捧げようとしたときにさらにはっきりとしました。彼はお供の者に「私たちは神を礼拝して帰ってくる」と告げて登ってゆきました。死者をよみがえらせることができる神を信じていたから言えた言葉です。アブラハムの信仰の深さに驚きます。

しかし聖書は理想論だけを描く書物ではありません。現実のアブラハム夫妻の姿を描いています。創世記を読めば現実のアブラハム夫婦は神様の約束に固く立ち続けたというわけではなく、妻のサラは女奴隷ハガルをアブラハムの側室として与えイシマエルという男子を産ませ跡目を継がせようとしました(創16章)。アブラハムもサラの提案を受け入れ子を産ませました。それは明らかに神の御心に反する行為でした。さらに神様が「来年、あなたの妻が男子を産む」と予告されたときにも、彼ら夫婦は心の中で「笑った」(17:17)とその不信仰ぶりがはっきりと描かれています。パウロが語るアブラハムの姿とギヤップがあります。この違いはどこにあるのでしょう。

旧約聖書のアブラハムは人間の弱さの側から見たアブラハムの姿であり、新約聖書で記されたアブラハムは恵み深い神様の側からみたアブラハムの姿と言えます。そして信仰というのは、人間の側から見た姿ではなく神様の側からはどのように映っておられるかを理解してゆくことでもあるのです。

人間の信仰というものは強いようで弱く、確かなようで実はあやふやなものです。ところが神様の側では私たちの頼りない小さな信仰さえもごらんになり、喜ばれ最大限に高く評価して下さっているのです。ですから自分の不信仰をあれこれ数えあげてはなりません。自分の不信仰を信じてはならないのです。イエス様は「もしあなたがたの中にからし種一粒ほどの信仰があれば山を動かすことができる」(マタイ17:20)と弟子たちにお語りになりました。私たちの中に小さな信仰が1粒でも宿っているならば、神様はその信仰を最大限に評価してくださり喜んでくださっているのです。不信仰とは自分で自分の信仰に低い点数をつけてしまうことです。大切なことは神様が私たちの信仰をどのようにごらんになっておられるかという視点を大切にすること、信じることです。

「信仰がなくては神に喜ばれることはできない」とは、もっと信仰がなければならないという律法的な要求ではなく、私たちの小さな信仰であっても神は喜ばれているとして肯定的に理解することがたいせつです。

2 キリストの復活を信じる信仰

繰り返しますがアブラハムの信仰とは「死者を生かし無から有を呼び出される神」を信じる信仰でした。この信仰は実は、「十字架で身代わりとなって死なれた神の御子イエスキリストの復活」を信じる信仰と重なり合います。アブラハムは妻サラの死んだ胎からでも子が誕生することを信じました。一人子イサクをたとえモリアの山でささげても神は甦らせてくださると信じました。イサクのよみがえりを信じお供の若者に「私たちは神を礼拝して戻ってくる」とさえ語っています。私たちがもし、神は十字架で死なれたイエスを3日後に墓の中から呼び出し死者の中から甦らせたと信じるならば、それはアブラハムの信仰を共有すること、あるいはアブラハムの信仰に私たちもともに立つことを意味しています。

「すなわち私たちの主イエスを死者の中から甦らせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。」(24)

キリストの復活を信じることは常識的な感覚の持ち主にとって難しく受け入れがたいことです。聖書を信じられない人々の最大の理由は、復活を信じられないというつまづきにつきると思います。キリストの復活は最大の奇跡ですから、復活を信じることができれば他の奇跡はすべて信じることができます。

求道中の方は私たちクリスチャンがどのように復活を信じるようになったか、たいへん関心をもっておられると思います。ほとんどの人々が丁度トマスのように「この目で見るまでは信じることはできない」と疑っているからです。私は単純な人間でしたからキリストがよみがえられたと聖書に記してあるのだからそのまま事実として受け入れてしまいました。そのように単純に受け入れた背景には、「キリストがまことの神ならば人間のように死に支配されることはないだろうし、聖書の神が創造主なる永遠の神であるならばキリストを死から復活させることはたやすいことだろう」という私なりの論理はあります。

復活という聖書中最大の難問は、じつは「そのまま信じる」という最も単純な方法で全面解決してしまうのです。「わたしはよみがえりでありいのちです。わたしを信じるものはたとえ死んでも生きるのです。また生きていて私を信じる者は決して死ぬことはありません。・・あなたはこれを信じますか」(ヨハネ11:25−26)と、イエス様は「考える」ことではなく「信じる」ことを求められました。考える能力ではなく、信じる能力を活用することを求められたのです。疑い深い人は考える能力は開発されていても信じる能力があまり開発されていません。信じる能力は人間関係においてもとても大切な能力なのです。

「人を見たら泥棒と思え」という教えと「人を見たら友と思え」という教えとどちらが人生を楽しいものに変えるでしょうか。

信仰の初期にこんな例話をある本で読みました。ある学者がヨナ書に出てくるような大きな魚、人間を飲み込み胃の中で3日間も生かしておけるような魚などこの世界には存在しないと批判したところ、敬虔な一人の老婦人が「神さまは必要ならその魚を飲み込むことができる人間さえもお造りになることができます」と答えたというのです。むちゃくちゃな理屈ですが、しかし信仰の世界ではこれが真理なのです。人間の常識の範囲の中で信仰を捉えている限り、神様もまた常識の中でしか働くことしかできません。聖書の神は「無から有を呼び出された」偉大な創造主です。「神にはできないことは何もありません」と宣言できる力に満ちたお方ですから、私たちにも「はい、おことばですから信じます」というダイミックな信仰が求められているのです。

アブラハムの信仰を今日私たちは学びました。ある方は「私など足元にも及ばない」と思うかもしれません。律法は守れない、アブラハムのような信仰にも立てないと二重の意味でダメ−ジを受ける方がおられるかもしれません。大切なことは、アブラハムの信仰に従うとは、今日の私たちの立場から言えば「復活の信仰」に生きることを指しています。キリストが聖書の預言に従い3日後によみがえられたこと、そしてキリストを信じる者たちもまたたとえ肉体の死を迎えたとしても聖書の約束に従い、永遠のいのちによみがえり、天の御国を受け継ぐことができること、この復活信仰、神の国と永遠のいのちを信じる信仰が、アブラハムの信仰の足跡に従うことに他ならないのです。

「もしあなたの口でイエスは主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるならばあなたは救われるからです。」  (ロマ10:9)

「わたしはよみがえりでありいのちです。わたしを信じるものはたとえ死んでも生きるのです。また生きていて私を信じる者は決して死ぬことはありません。」 (ヨハネ11:25−26)

先日、ひとりのおばあさんが肺炎で危篤状態に陥ったので「ぜひ天国のお話をしていただきたい」依頼され、大阪の病院に出かけました。お薬が効いて眠っておられましたが、声を大きくだして耳元で、イエス様を信じて永遠のいのちをいただきましょうとお勧めして来ました。

私たちもまた、キリストの復活を信じ、キリストにあって眠った人々の復活を信じ、こんな小さな信仰ではありますがキリストのお約束に従い、キリストともによみがえらされ神の国の民として永遠のいのちに生かされる希望を信じる信仰に生きるのです。アブラハム同様、私たちも「復活の信仰」に希望をおいて信じているのです。このような信仰に生きるわたしたちもまた「信仰の父、アブラハムの子」なのです。


祈り

御子イエスキリストの復活を信じる私たちの信仰が、無から有を呼び起こされる神を信じたアブラハムの信仰に通じることを知りました。イエスキリストの復活を信じる信仰にいよいよ私たちを導いてください。

                     

     

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