「礼拝メッセージ」(全文)   2

「心に永遠を」
マタイ25:31-46、伝道3:1-13
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

                                                                                                 2008/1/1

祈り  

「天のお父様、お名前を賛美いたします。この二〇〇八年最初の日に、私たちを礼拝にお招きくださった恵みを感謝いたします。
  主よ、あなたは、私たちの内にみ子イエス様を生まれさせて下さいました。今なお私たちの内に住んでおられるイエス様によって、私たちも神の子として成長させて下さいます。この一年も、インマヌエルの主が私たちを贖い、私たちを背負い、私たちを抱いて歩んで下さいますように。私たちはただあなたのお約束を信じて委ね、お従いする者でありますように。キリストのうちにあって新しく造られた者として、歩ませて下さい。
  天のお父様、どうか今、御前に集いました私たちを、あなたのご聖霊で満たして下さい。 私自身の思いではなく、あなたご自身のお言葉に従う信仰をお与え下さい。すべてが新しくなったと言われる、あなたのみ言葉に信頼する信仰をお与え下さい。
  きょうこの礼拝に集われたお一人お一人の上に、ご聖霊なる主の豊かな導きがありますように。特に始めて来られた方々、久しぶりに来られた方々の上にあなたからの豊かな祝福がありますように。また、今入院中の方、回復途上にある方を顧みて下さい。病や苦しみ、悩み悲しみ、孤独や貧しさ、試練や誘惑の中にある方々にふさわしい助けをお与え下さい。すべて重荷を負っている方々をあなたのもとで休ませてください。また、帰省中の方、旅の途上にある方の安全をお守り下さい。
  神である主よ、暗黒の世に光として生まれたイエス様を頂いている私たちが、この暗やみの世にイエス様の光を輝かす者でありますように。戦争や紛争の中にある国々に平和が与えられますように。混乱の中にある国々に秩序が回復されますように。政治を司る者が正義と公正によって治めることができますように。何よりも、この世があなたのご支配の下にあることを全人類が認めることができますように。この礼拝から始まる一年を、あなたの御手にお委ねいたします。私達の救い主としてお生まれ下さった神の御子、イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。」

(序)

新年おめでとうございます。まとめてご挨拶させていただきます。今日、初めての方や久しぶりの方、ようこそおいで下さいました。今日、お会い出来ましたのも、神である主のご摂理です。感謝いたします。そして、クリスマスにお生まれになり、十字架で死なれ、復活して天に昇られたイエス様が、信じる者の心の内に今も生きておられるように、よみがえったイエス様は、今、この場にもおられます。そして、私たちを、この礼拝に招いて下さったのです。私たちは、その招きに応えてこの場にすわっているに過ぎません。私たちを招いて下さったのがイエス様ご自身ですから、そのイエス様は当然この場にご臨在され、私たちのお捧げするこの礼拝を受け入れて下さっています。イエス様がこの場にいらっしゃらなければ、私たちは招かれていなかったのであり、この礼拝を受け取って下さるイエス様がおられないならば、この礼拝も意味をなしません。聖餐式においても、イエス様がそこにご臨在され、私たちを招いてくださっているからこそ、そこが天の食卓になり、パンと杯にも意味があるのです。そうでなければ、ただのパンとただの葡萄ジュースです。
  ですから、この礼拝に、これだけでなく毎週ごとの礼拝にぜひ、本気で与っていただきたいと願わされています。教会の活動を様々しようと、奉仕に精を出そうと、伝道集会を開こうと、それらももちろん大切なのですが、礼拝に勝るものは何一つないのです。礼拝はイエス様が自ら主催され、イエス様が招いて下さっているのですから、人間的な余地の入る所は全くありません。そういう意味で完全な姿がここにあるのです。もちろん礼拝というものの本質について申し上げています。主を礼拝するということは、礼拝の式順やスタイルのことではなく、私たちが天において完全にされて主を礼拝しているということです。その姿を地上において映し出しているのがこの礼拝であるはずです。ですから、この礼拝を信じてこの礼拝に集うならば、すべてに対する答えがあるはずです。他のいかなるものでもかなわない、最高のものがここにあるはずです。主の言葉が語られ、しかも主ご自身によって語られ、御父と御子イエス・キリストとの交わりがここに存在しているのですから(1ヨハネ1:3)。ですから、礼拝にこそ力があり、礼拝こそ完全なのです。
  そして、そのように礼拝を受け取るために信仰を頂く必要があるのです。私たちに信仰がなければ、礼拝もただの集会です。しかしこの礼拝こそ、主のご臨在に満たされ、永遠のいのちに与り、主ご自身との完全な交わりの場であるということを一方的な恵みとして受け止めるならば、ここが天の御国です。私たちが信仰をもってそのように礼拝をお捧げするなら、天国の宴会を先取りしているのです。主の言葉が語られ、主ご自身からパンと杯を頂く、そのような尊い礼拝に私たちは招かれているのです。この礼拝で私たちは救われたのではないでしょうか。ならば、私たちの家族も、友人も、すべての人がこの礼拝で救われるはずです。礼拝に与ることによって力を頂き、命を頂く恵みを体験していただきたいと思います。全能の神である主がこの礼拝にすべての人を招いて下さっているのです。
  そういうわけで今日、新年の最初の営みを、この素晴しい礼拝から始められることは本当に恵みです。主の招きに応えて共に集い、主から直接み言葉を聞くことができる私たちは幸いです。主は、そのような大きな恵みで私たちを特別に選んで下さったのです。ですから同時に、そのように選ばれた私たちが、心からこの礼拝をお捧げすることによって、同じ主に礼拝を捧げているすべての人々や、この礼拝に集いたくとも集えずその場にあって主を見上げている方々とも一つとされ、恵みを分ち合うことができるのです。この礼拝を執り行っておられるのは、時間も空間も超越している主なのです。
  ところが、その主のお働きは、直接目に見ることはできません。しかし、主が私たちを愛し、私たちの罪を贖い、永遠のいのちを与え、そして、今も私たちと共にいて下さり、守り、導いて下さっていること、その福音、その目に見えない主のお働きの、目に見えるしるしが教会だといえます。私たちが本気でこの礼拝に与っているなら、私たちが罪を赦され永遠のいのちを与えられていることを本当に心から信じ、今も主とともに生きていることを疑わず、感謝し、喜んで、自分自身を主にお捧げしているなら、それこそ、目に見える主のお働きなのです。そして、その主のお働きが具体的に実を結んだ結果が、先日の洗礼式でした。私たちが心から信じて礼拝をお捧げし、救いのたった一つの道である福音を宣べ伝えているならば、主が必ずそれに応えて下さるのです。
  毎年、年が新しくなると同時に、この教会の前を通り過ぎて初詣に行く人々のざわめきを聞いています。大人も子どもも犬も足早に集い、二時近くまで行列が続きます。うらやましくもあり、悔しくもあり、悲しくもあります。なぜなら、そのように多くの人々が、救いを通り過ぎているからです。救いはここにしかないはずです。「天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです」。「この方以外には、だれによっても救いはない」というお方を私たちは宣べ伝えているのからです。私たちは、私たちのために命を捨て、永遠の命を与えて下さったお方とともに生きているのです。ここにこそ、人々をお招きする価値があるのです。そして、私たちはこのお方の御名によってすでに救われていることを、この礼拝で確認しているのです。ですから、この礼拝から一旦世に送り出されたならば、そのお方を宣べ伝え、すべての人が招かれていることを伝え、そして、そのお方のもとにお連れしたいとは思われないでしょうか。シャローム館をもっと活用出来ないでしょうか。

(1)最後の審判
   

お読みいたしましたマタイの福音書は最後の審判の場面ですが、そのときの審判の基準は憐れみをかけたかどうか、愛の業をしたかどうかだというのです。しかし、もし愛の業だけが天国に入るただ一つの条件だとしたら、信仰も罪の赦しも必要ないことになります。ですからこの愛の業は、天の御国に入るための条件ではなく、天の御国を継ぐにふさわしい者であることのしるしとしてあげられているのです。先ほどの主の働きと同じく、信仰も目に見えません。ですから、私たちに本当の信仰があるかどうか、愛の業がその目に見えるしるしとなるのです。しかも、その「正しい人たち」は「主よ。いつ、私たちは、・・食べ物を差し上げ、・・飲ませてあげましたか。いつ、・・泊まらせてあげ、・・着る物を差し上げましたか。また、いつ、・・お尋ねしましたか。」と、逆に尋ねています。それは彼らが知らずにしたことで、彼らの信仰が具体的に良い実を結んだということなのです。そして、最も小さい者たちのひとりに無意識的にしたことはイエス様にしたのです。クリスマスの飼い葉桶に寝かされていたイエス様こそ最も小さい者でした。しかも、その幼子は東方の博士たちによって礼拝されたユダヤ人の王でした。そして、平和の王としてろばに乗ってエルサレムに入城され、やはり「ユダヤ人の王」という罪状で十字架に架かられます。そして、この人の子が、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って栄光の位につかれ、すべての国々の民をさばかれる王として来られるのです。イエス様が再び来られるところ。再び来られてそこにおられるところ。教会こそ、そのイエス様のご臨在されるところです。
  つまり、この最後の審判は、今の教会に対する審判でもあるのです。イエス様がご臨在されている、教会の今の問題なのです。教会に今、愛があるかどうかが問われているのです。そして、その愛は、特別なことが求められているのではありません。衣食住、自由、健康という、人が生きていく上で最低限必要なことについてです。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と私たちの憲法にも記されています。それは、裁かれる人々にとっては、取るに足りないものと思えるようなものですらあります。彼らの応えは非常にあっさりしています。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。」そんなつまらないことにこだわらなくても「主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行なったではありませんか。」(7:22)。しかしイエス様は彼らに対して「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」と宣告されるのです。もしイエス様本人が困っておられたならば、私たちも間違いなくイエス様をお助けするでしょう。しかし、イエス様を見たことがあれば別ですが、どうやって見分けるかが問題です。そして、イエス様が困っておられたならば払うつもりの犠牲を、今困っている兄弟姉妹のためには払っているでしょうか。私たちは、兄弟姉妹の衣食住や健康や自由について無関心でありながら、礼拝を守ることができます。パンを分ち合わなくても主の祈りを祈ることができます。現実の問題を心の問題にしてしまって、主に仕えていると主張することができるのです。
  更に、「御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来」る(24:14)のですから、教会の出来事は世界の全人類の出来事でもあります。マザーテレサは、「私は、自分がふれるすべての人の中にキリストを見ます。・・自分が一切れのパンを与える度毎に、実はキリストにパンを与えているのです。」と言って貧しい人々と完全に結びつこうとしました。そして、「もし貧しい人々が飢え死にするとしたら、それは神がその人たちを愛していないからではなく、あなたが、そして私が、与えなかったからです。・・キリストが、飢えた人、寂しい人、家のない子、住まいを探し求める人などのいたましい姿に身をやつして、もう一度来られたのに、私たちがキリストだと気づかなかったからなのです。」とも言っています。彼女は社会に奉仕しているのではなく、キリストに仕えようとして、「最も小さい者たち」を全世界に拡大し、世界の現実の中にキリストを見たのです。イエス様も「悔い改めて、子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には入れません」(18:3)と言われました。私たちが小さい者であるべきなのです。イエス様が謙って幼子として誕生されたようにです。私たちが小さい者として、最も小さい者たちと共に生きることがイエス様と共に生きることなのです。主は、幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち立てられるのです(詩篇8:2)。
  そして、イエス様を信じて救われているならば、その信仰によって愛の業が実を結ぶように、救われている者には永遠のいのちが与えられています。私たちに備えられている御国は、永遠の国なのです(ダニエル8:27)。伝道者は、神が「人の心に永遠を与えられた」と言っています。イエス様を信じて私たちが永遠のいのちに生きる者とされ、天の御国に住まう者とされていることは、心に与えられている永遠によって確認していくことができるのです。愛の業において、日ごとに私たちに与えられている信仰を確認出来るように、神の国の現実であるこの礼拝において、私たちに与えられている永遠を確認して行きたいと思います。

祈り

「天のお父様。御名を讃美いたします。あなたは私たちの心に永遠を与えられました。私たちは神ご自身のかたちに創造された者でありますが、主のなさることをすべて見極めることはできません。しかし、その限界の中で日々与えられる喜びを受け入れ、主の賜物を認めていくことができますように。あなたから賜物として与えられた信仰が、愛の業として実を結びますように。私たちの招かれているこの礼拝が、神の国を現すものとなりますように。私たちが恵みとして与えられている永遠の命に生きていることを礼拝の度ごとに覚えることができますように。この年も、礼拝から始まり礼拝へ帰る主の民となしてください。私たちの救い主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン」

HOME