「牧会ミニ通信」
2010.9.5~9.26
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  №401                                                                                               2010/9/5

「イエスは十二弟子を任命された」  マルコ3:7~19

○イエス様は世界に福音を宣べ伝えるため、十二弟子を選ばれましたが、彼らは若者だったと考えられています。イエス様ご自身が、朝露のような若者たちといっしょに地上での働きを始められました(詩110:3)。
  ○主が教会に何を示されているのか、立ち止まって考えることも必要です。イエス様が黙っておられるときは、私たち自身がそのことについて振り返り、本来の主のみこころを探り求めるときです。イエス様が十二弟子を選ばれたのも、人々の期待に応えるためではなく、イエス様ご自身のご計画を進めるためでした。彼らが十二人弟子となったのも、自分からイエス様を師として選んでなったのではなく、イエス様ご自身が選ばれ召し出されたので、イエス様の権威あるみことばに従う以外の選択肢はなかったからです。
  ○十二弟子の任命に当って、イエス様はまず夜を徹して祈るために山に登られました(ルカ6:12)。弟子たちではなく、イエス様ご自身が弟子たちを選び任命されるためでした(ヨハネ15:16)。しかも「そのうちのひとりは悪魔です」(ヨハネ6:70)と言われるユダをも「ご自身のお望みになる者たち」として、自ら任命されるためでした。
  ○それはまず、彼らを身近に置くためでした。公の奉仕の場でみことばを語る前に、イエス様と共に過ごしイエス様との交わりの中にいる訓練の時が必要だったのです。次に彼らは福音を宣べ伝えるために遣わされました。主と共に過ごし、みことばを聞き、みわざを見ているだけでは弟子とはいえないのです。そのための訓練の時を過ごして来たのです。また、悪霊を追い出す権威が与えられました。この世を支配している悪魔の権威よりも更に偉大な権威が必要でした。似て非なる者を見分け(2コリント11:14)、勝利し、真実の告白に至らせるために権威が必要でした。
  ○「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。」(1ペテロ2:5)。今や主は、私たちをも証人として遣わされ、主が選ばれているたましいを、主のもとに導くイエス様の弟子として、召し出されているのです。

  №402                                                                                               2010/9/19

「新しい心と新しい霊を得よ」  マルコ3:20~30

○イエス様には弟や妹たちがいました(6:3)。イエス様が長男としての義務と責任を放棄して、会堂で教え、群衆に説教をし、汚れた霊を追い出し、人々の病気をいやし始めたので、身内としてはイエス様のことを「気が狂ったのだ」と思っても当然だったかもしれません(ヨハネ7:3-5)。
bsp; ○わざわざエルサレムからカペナウムまで下って来た律法学者たちは、イエス様のことを「ベルゼブルに取り付かれている」「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言いました(2列王1:2-16,マタイ9:34,10:25,12:24)。かえって悪霊たちの方が、イエス様をよく知っていました(1:24,3:11)。律法学者たちは敬虔な生活をしており、聖書の知識も十分ありましたが、その目は閉ざされており、その心はかたくななままでした。
bsp; ○悪霊を追い出すことが、その人を救うのです。イエス様が悪霊を追い出されたのは、強い人であるサタンに対して、より力のあるお方であることの証しです。イエス様はご自分の受難と十字架の死、そして復活を通して、神である主の全被造物の最大、最悪の敵である死に最初に打ち勝たれたお方です。イエス様の復活を通して全ての人が生かされる道が開かれたのです(1コリント15:20-28)。
bsp; ○あらゆる罪と神を汚すことは主ご自身によって赦していただけるのです。それは、イエス様が十字架で全ての罪を贖って下さったからです。真実な心で悔い改めて福音を信じるならば救われ、罪の赦しが与えられます(イザヤ1:18)。但し、ご聖霊に対する罪だけは例外です(マタイ12:31-32,1ヨハネ5:16.ルカ12:10,ヘブル6:4-6,10:26,29)。ご聖霊を汚す者は、自らの罪の悔い改めに向かうことはありませんし、「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」(1コリント12:3)。
イエス様の贖いのみ業を、私たちが心から真実に信じているならば、私たちはご聖霊によって新たに生まれ変わらされ、新しい心と新しい霊を得ているのです。

  №403                                                                                               2010/9/26

「信仰による神の家族」  マルコ3:31~35

○イエス様は我を忘れて、神の国のために働かれました。パウロも全く新しく造られた者として、人間的な標準を超えて我を忘れ、気が狂ったかのように働きました(2コリント5:13-16)。そのようなイエス様やパウロのうむことを知らない熱心さは、常識的な人々の目に「気が狂った」と映ったのです。はたして私たちは、キリストのゆえに気が狂ったようだ、と非難されたことがあったでしょうか。しかし、イエス様を信じたマルタは、その常識的な判断を押し切ってみことばに従ったとき神の栄光を見たのです。
  ○さて、イエス様の最も身近な身内が外に立っています。イエス様に従おうとする者の条件は、ただ神の国に向かって自覚的に歩んでいるかどうか、キリスト者としてこの世の日常を超えた天の常識に歩んでいるかだけです。イエス様の答えも家族関係を否定するかのような非常識さです。イエス様は、ご自分の働きを理解しようとせず、却ってご自分を連れ戻そうとする無理解さと、大勢の人の中に自ら入って来ようとしない家族たちに失望されたのです。
  ○イエス様はご自分の周りに座っているすべての人々を指されて、ご自分の家族だと紹介されました。もちろんイエス様ご自身、地上の家族関係を大切にしておられましたが(10:1〜,10:13〜,ヨハネ19:26〜)、それは「神のみこころを行う人はだれでも」「神の家族」(エペソ2:19)とされるからです。イエス様の家族であるならば、主のみこころを行っているのです。「主にあって」(エペソ6:1)こそが家族関係の基礎です。私たちはイエス様の名を信じたとき神の子どもとされ(ヨハネ1:12,13)、イエス様に対する信仰によって神の子どもとされたのです(ガラテヤ3:26)。
  ○私たちを、ご自身が長子である神の家族に迎え入れて下さるため、イエス様は自ら十字架にかかられました。それは、創造のときに天の父が望まれた家族を終わりの日に完全な家族として完成されるため、イエス様の御名を信じる者を信仰によって神の家族の構成員とされるためです。

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