「牧会ミニ通信」
2010.12.5.〜12.26.
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  412                                                                                               2010/12/5

「天の御国が近づいた」  マタイ3:1〜12

○バプテスマのヨハネは「荒野で呼ばわる者の声」でした(イザヤ40:3)。バビロン捕囚からの解放は紀元前538年、ペルシャ王クロスによって成就しました(エズラ1:1-4)。また、救い主イエス様が自分の罪の身代わりとして十字架に架かられ、死んで下さったことを信じる者が罪から完全に救われる、というみ業によって成就しました。しかし、私たちは今なお、この世の終わりにおける完全な解放である救いの完成を待ち望んでいます(マタイ25:31)。
  ○「天の御国」とは、天にある支配、神である主の支配、という意味です。主が支配され、人間が従うならばそれで正しい関係が成り立ちますが現実にはそうなっていないことが人間の罪なのです(創世記2:17,3:6)。ヨハネは、罪を洗いきよめるしるしとしてのバプテスマを授けていました。悔い改めは、自分の行いが変わらなければなりません。それは、罪の赦しを得させるイエス様のバプテスマの準備としての悔い改めのバプテスマです。
  ○パリサイ人やサドカイ人は悔いる事もせず(マタイ21:32)バプテスマを受けようともしませんでした(ルカ7:30)。ただ、悔い改める事だけが彼らに残された道で、悔い改めたならば悔い改めにふさわしい実を結ぶはずです。先祖がアブラハムだということは何の保証にもなりません(ローマ2:28)。来るべきお方を迎え、聖霊によるバプテスマを授けられて天の御国に入れて頂くために悔い改め、御霊による心の割礼を受けるべきです(ローマ2:29)。
  ○バプテスマのヨハネの勧めは、隣人を自分のように愛し、正直に仕事をし、罪を避けることです(ルカ3:10-14)。その悔いた心が主の前に正しいことを、外面的な行いを改めることによって示すことです。私たちも自分自身を振り返って、救いの角である(ルカ1:69)イエス様の前に罪を告白し、主の深い憐れみに私たち自身を明け渡し、罪の赦しによる救いを得るために、イエス様に立ち返りましょう。私たちの罪を赦し、天の御国の喜びの生活に入れてくださるために、今日、イエス様が来て下さっています。

  413                                                                                               2010/12/12

「おいでになるはずの方」  マタイ11:2〜11

○バプテスマのヨハネは旧約時代最後の預言者です。イエス様はこのヨハネこそ、マラキの預言する使者であり、さらにイエス様こそが、その使者の後から来られる主ご自身、キリストであるとはっきり言われたのです(マラキ3:1)。
  ○ところがそのヨハネは、自分が命をかけて期待して来たイエス様について、自分の最後が近づいている時に疑いを持たざるを得ないほど信仰が動揺させられました。しかしイエス様は、ご自分はイザヤが預言(イザヤ35:5,6)した以上の事をしており、さらにイザヤがキリストについて預言(イザヤ61:1)したように、「貧しい者たちに福音を宣べ伝え」ていると、キリストとしてのしるしを示されました。
  ○ヨハネは神である主のご意志として、罪を犯した者をさばく律法を伝えて来ました。それに対してイエス様が語られた福音とは、罪の赦しのメッセージでした。イエス様はつまずきの石、妨げの岩でした。しかし、このお方に信頼する者は失望させられる事がないのです(ローマ9:32,33)。だからこそ、わたしに躓かないでほしい、とイエス様は言われたのです。罪の赦しこそが天の御国の福音です。私たちもまず、その罪の赦しの福音を受け止め信じるべきです。
  ○今や、律法と預言者の時代は終わり、イエス様によってもたらされた福音の時代が始まろうとしています。私たちは今、その福音の現実に生かされています。そうだとすれば私たちはバプテスマのヨハネよりも偉大な存在なのです。イエス様のお言葉に信頼することによって私たちが神の子として頂いた自覚を持たせて頂き、全知全能の創造主の子とされた者として歩ませていただきましょう。
  ○再びイエス様が来られる時も、その罪の赦しの福音を完成されるために来られるのです。私たちはやがて御座の前に立たされ、自分の行いに応じてさばかれます(黙20:12)。しかし、私たちは、十字架と復活によって、罪の赦しを得、永遠のいのちに新しく生まれ変わりました。そして、主のご支配される天の御国に罪を赦されて入れて頂き、永遠に主の栄光を誉め称える者とされるのです。

  414                                                                                               2010/12/19

「その名はインマヌエル」  マタイ1:18〜25

○マタイ1:1-17の系図は、イエス様が旧約聖書において預言されて来たキリストであり、正統なダビデ王の家系に生まれたお方である、ということを強調するために書かれました。4人の女性によって代表されるような罪と恥の中に入り、その罪に満ちた人間全ての救い主、キリストとなって下さったお方がイエス様なのです。
  ○ところが、そのイエス様は、この系図の最後のヨセフとは関係がなく、聖霊によって受胎したのです。それは、聖なるお方が聖いままで罪と恥の中にある私たちと一心同体になって下さることによって、私たちの現状を変えて新たなものとするためです。罪人として愛されるに価しない存在だった私たちを愛して下さるために(ローマ5:9)、イエス様はご聖霊によってマリヤの胎に宿られたのです。
  ○一方ヨセフにとっては、マリヤが何者かによって「身重になった」という事実だけがありました。そこから判断できるのは、マリヤが不義を働いたということです。律法に従うなら、彼女は石で打たれて死ななければなりません(申命記22:20-21)。しかし、ヨセフはマリヤに対する愛による解決を求め、彼女を内密に去らせようと決めました(申命記24:1)。正しいヨセフが、普通ならば赦す事のできないマリヤの不義を、その愛の故に赦したのです。
  ○ヨセフの妻がマリヤである事は主の結論でした。彼女を正式に妻として迎え、ご聖霊によって宿り生まれて来る子の名を「イエス(ヘブル語でヨシュア、主は救いという意)」とつけることは主の命令です。こうしてイザヤの預言(7:14)は成就し、「インマヌエル(神は私たちと共におられる)」ということが具体的に表されるのです。
  ○私たちが主を受け入れたとき罪によって隔てられていた主との関係を修復することができました。それはただ、イエス様という贈り物によって、主ご自身がその関係を修復して下さったのです。みことばを信じてイエス様を救い主として迎え入れた時に、正しい者とされるのです。正しくない者を義とし、赦せない者を赦し、愛せない者を愛して下さるために、私たちと共におられるためにイエス様がお生まれになりました。今も私たちと共にいて下さる、インマヌエルのイエス様に従わせていただきましょう。

  415                                                                                               2010/12/26

「預言者の言葉の成就」  マタイ2:13〜23

○ヨセフは信仰によってその天の声に応答しました。約束に信頼をおくことが信仰です。全てを理解してから行うのではなく、全てを理解できなくともすべてを委ね、み言葉を下さったお方を信頼して従うことが信仰です。彼はみ言葉に従いました。そしてホセアを通して言われた預言が、イエス様がエジプトからイスラエルに戻られることによって成就しました(ホセア11:1)。
  ○ヘロデは自分がだまされたことに気づき、怒りに任せてベツレヘムとその近辺の2歳以下の男の子を一人残らず殺させました。そうして、エレミヤを通して言われた預言が成就しました(エレミヤ31:15)。ヘロデにとってクリスマスは、自分に対するライバルの出現に他なりませんでした。私たちがイエス様を心にお迎えしようというとき、自らを明け渡さない限り私たちもイエス様を殺しています。
  ○ラケル(創世記37:34-35)も、バビロンに滅ぼされたイスラエルの母親たちも、ヘロデによって子どもたちを失ったベツレヘムの母親たちも、子どもを失った母親の嘆きということで共通しています。イスラエルが悲しみに出会うとき、その悲しむイスラエルの民の母親がラケルです。バビロン捕囚という最大の悲劇がイスラエルの民を襲ったとき、エレミヤはそのラケルの事を思い出したのです。その預言は、今ベツレヘムの母親たちにおいて成就したのです。それは、神である主ご自身の出来事でもありました。
  ○イエス様は初めから死ぬことを目的として生まれました。天の父はあえて自らの愛するひとり子イエス様を十字架上でいけにえとして捧げられ、自らが子を失った親となられるのです。ベツレヘムの母親は、愛するひとり子を失われた天の父の悲しみを指し示しています。そのことで、彼女たちの悲しみも、預言の成就として救いの計画の中に組み込まれ、尊いささげ物として受け入れられたのです。そして、バビロンに連れ去られたイスラエルの民に主が答えられたように(イザヤ40:1-3)、イエス様はインマヌエルの主として慰め主としておいで下さるのです。

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