「牧会ミニ通信」」
2010.1.3〜1.31.
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  369                                                                                               2010/1/3

「ひとり子の神」  ヨハネ1:14-18

○顕現日は、イエス様がすべての人を照らす真の光として、世界の人々にそのキリストとしての栄光を現されたことを記念する日です(ヘブル1:3)。また、異邦人である東方の博士達が幼子のイエス様を礼拝したことを記念し、私たちが王なるイエス様にお会いし、私たちの礼拝も受け入れられている事を確証する日でもあるのです。
  ○異邦人である東方の博士たちは、救い主キリストを捜し求め、ついにその幼子を見出し、イエス様に対して礼拝と贈り物を捧げました。黄金は神性、乳香は聖性、没薬は死を示すと考えられます。再臨の時に没薬は必要ありませんが(イザヤ60:6)、この時、苦しみを受けられるためにお生まれになったイエス様には、没薬が必要だったのです。罪の奴隷として裁きの死に捕われていた私たちが、主ご自身によって贖われ、買い戻され、私たちの本来の所有者であられる主のもとに帰るために、主ご自身の側から御子イエス様の血という尊い値が支払われました。その代わり贖われた私たちは、主の恵みに満ち足り、慰めの感謝と喜びの涙にあふれて主のみもとに帰ることができたのです。
  ○イエス様を主と信じる者は皆、「この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた」のです。ご聖霊の満たしは、私たちに霊的な力を与え、すべての必要を満たしてくださるほど満ちあふれる大きなものです。私たちがイエス様と父の御手から奪い去られることは決してありません(ヨハネ10:28-29)。ですからイエス様と天の父の御手に私たち自身を委ねることが必要なのです。
  ○誠実な心でキリストに出会う者が、同じ道を引き返す事はあり得ません(マタイ2:12,ルカ2:20)。「この方を受け入れた人々」は神の子どもとされるのです(ヨハネ1:12)。イエス様にお会いした者は等しく神の子どもとされて、自分のところに帰って行きました。唯一の救い主であるイエス様と、そのひとり子をお与えになったほど私たちを愛しておられる御父を信頼して今年も歩ませて頂きましょう。

  370                                                                                               2010/1/10

「あなたは、わたしの愛する子」  ルカ3:15〜22

○イエス様はおよそ三十歳の時に洗礼を受けられます(4:23)。イエス様を主と信じる者は、聖霊によってバプテスマを受け、罪に対して死に、キリストと一つとされます。そして「キリストが・・死者の中からよみがえられたように」信じる者も新しいいのちに復活するのです(ローマ6:4-5)。イエス様は私たちのために洗礼を受けられました。
  ○バプテスマを受けたイエス様は祈っておられました(5:16,6:12,9:18,9:28-29,11:1,22:32,22:41-44,23:34)。今もイエス様は神の右の座で私たちのためにとりなしていてくださるのです(ローマ8:34)が、地上におられるときは人間として、天の父に自らのために祈られていました。私たち自身がイエス様以上にへりくだり、天の父に委ねて歩ませて頂くためにも、祈りの生活を再点検しましょう。
  ○そして、イエス様が祈っておられると聖霊が下られました。この後イエス様は、御霊に満たされ、御霊の力を帯びて宣教に出て行かれます(4:1,4:14,ヨハネ3:34,6:27)。ご聖霊の油注ぎ無しに、救いの福音の証人として働く事はおできにならなかったのです。ペンテコステの日、ご聖霊が弟子たち一人一人の上にとどまられたことから教会の福音宣教のみ業も始まりました(使徒2)。私たちもこの同じご聖霊に満たされ、私たちを通してもご聖霊ご自身が思いのままに福音を語って下さることを祈り求めましょう。
  ○さらに、イエス様にご聖霊が下られたとき、天から声がしました(9:35,ヨハネ12:28)。アブラハムは愛するひとり子イサクを主に捧げました(創22:2,12)。イザヤは主ご自身の贖いによって、私たちが主から愛されていると言っています(イザヤ43:1,4)。まず天の父の「愛する子」イエス様が、全焼のいけにえとして十字架の上に捧げられました。そして死そのものに打ち勝って復活され、私たちも天の父の「愛する子」として新しいいのちを頂きました。イエス様とご聖霊によって慰められ、励まされ、前進し続ける群れとさせて頂きましょう(使徒9:31)。

  371                                                                                               2010/1/17

「最初のしるし」  ヨハネ2:1〜11

○当時のパレスチナ地方の婚礼は通常七日間続き、その間ぶどう酒は不可欠なものでした。しかしイエス様のマリヤに対するお答えは、ご自分の時がまだ来ていないからということでした。イエス様は、肉親としてのきずなによって動かれるのではなく、天におられる御父の御心にのみ完全に従って歩まれておられることを示す必要があったのです。そして、イエス様の時、イエス様が栄光を最も受けられた時とは、十字架の時に他なりません。そこにおいて愛の業を為し終えた時こそ、天の御父のもとで栄光を与えられる時だったのです。
  ○マリヤは「あの方が言われることを、何でもしてあげてください」と言って、すべての力と権威をイエス様にお返しし、人々の目をイエス様に向けさせ、従うべきお方を示しました。イエス様から何かを得ようと望むならば、すべてを主に委ね、ひたすら主だけを見つめ、主の言われることを何でもさせて頂くことが必要です。
  ○イエス様の奇蹟は、ただ神である主の権威と力、そして何よりも人々に対する愛を示し、新しい時代の開始を告げるものでした。イエス様が来られ、その流された血で私たちの罪を全く清め、その完成を聖餐式のぶどう酒において私たちに示しておられる時代になったのです。イエス様は十字架の血によって新しいいのちを与えられ、人の心を喜ばせる完全な救いを与えて下さるお方なのです。
  ○天の御国は喜びの祝宴です。礼拝とは、主の前で主と共に喜び楽しむため食事をすることでした(申12:18)。しかも、御国の祝宴において私たちを招いて下さるのは花婿なるイエス様ご自身です。そのような祝宴の喜びを、イエス様は決して終わらされることなく、水をぶどう酒に変え、十分なぶどう酒を用意して、私たちと共に喜びながら新しい客が来るのを待っていて下さるのです。さらにこの奇蹟によってイエス様はご自身の栄光を現され、弟子たちの信仰が強められ、主への信頼が深まりました。

  372                                                                                               2010/1/24

「みことばが、実現した」  ルカ4:14〜21

○イエス様がガリラヤに来て宣べ伝えられたのは、神の福音でした。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)。悔い改めて回心する事が新しいいのちに生きる事ですが、それをさせて下さるご聖霊の恵みを信仰によって受け取ることが必要です。
  ○ある安息日に、イエス様がナザレの会堂に入られ、聖書を朗読しようとして立ち上がられ、イザヤ書61:1,2を読まれました。イスラエル人は、ここに預言されているメシヤが来られることによって、自分たちを苦しめている問題が解決することを待ち望んでいました。そしてイエス様は、ご自分こそイスラエル人が待ち望んでいたそのメシヤ、キリストに他ならないという事を宣言されたのです。
  ○イザヤ書61:2では「主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ」るためにメシヤが遣わされたと記されていますが、イエス様はあえて「主の恵みの年を告げ知らせるために」というところまでしか読まれませんでした。イエス様が来られた目的はまず「主の恵みの年を告げ知らせる」ことだったからです(イザヤ49:8,2コリント6:2)。私たちが恵みだけを受け、イエス様が再臨される時にも主の復讐を受けなくても良いように、イエス様ご自身が御父の人類に対する復讐を一手に引き受けて下さったのです。
  ○「主の恵みの年」というのはヨベルの年のことです(レビ記25)。安息の年を7回数えた後の年、50年目が「国中のすべての住民に開放を宣言する」ヨベルの年と定められました。そのような主の恵みの年が宣言されたということは、全く新しい時代の始まりの宣言でもあるのです。イスラエルがメシヤを待ち望む時代は終わり、イエス様によって真のヨベルの年が来たのです。私たちが永遠のいのちにいたるみ言葉を聞いた時、既に新しい時代が始まったのですから、きょうを永遠のいのちに歩み始める時とさせて頂きましょう(ヘブル3:13,15)。主の御声を聞いたきょう、私たちも主に答え、恵みの新年を歩ませて頂きましょう。

  373                                                                                               2010/1/31

「郷里での拒絶」  ルカ4:21〜30

○故郷ナザレの会堂で教えられたイエス様に対して人々は、一旦は喜んで受け入れました(マルコ6:2,マタイ13:54)。しかし、それを語っているのがイエス様であるということからイエス様につまずいています(マルコ6:3,マタイ13:57)。人々は軽蔑をこめて言い、やがて十字架に架かられたイエス様に対しても人々は「あれは他人を救った。・・自分を救ってみろ」(23:35)とあざけるのです。
  ○預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません」 (マルコ6:4,マタイ13:57,ヨハネ4:44)。神である主は、捕われ人、目の見えない人、虐げられている人、貧しい人等、弱い人々を歓迎して受け入れて下さり、それが実現している、という恵みの時を告げ知らせるためにイエス様は遣わされたのですが、そのイエス様を人々は、しるしがなければ受け入れないのです(ヤコブ4:1,2)。しかし、みことばを聞いたなら信じるべきです(ローマ10:17)。「見ずに信じる者は幸いです」(ヨハネ20:29)。「これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです」(1ペテロ1:8,9)。福音を聞いても信じない彼らの不信仰こそが、彼らの願っていた奇蹟を見せなくしたのです。
  ○そのようなナザレの人たちに対してイエス様は、旧約聖書のエリヤ(1列17)とエリシャ(2列5)の話をされました。シドンのサレプタのやもめも、シリヤ人ナアマンも、しるしを求めず言われたとおり従ったのです。そうしますと、その信仰のしるしがあとから現れました。カペナウムに病気の息子がいる王室の役人に対しても同じでした(ヨハネ4)。望んでいることを先取りして確信することが信仰です(ヘブル11:1)。語られたみ言葉に対してどう答えるのか、語られた方を信頼するのかどうかが問われています。
  ○イエス様は最後には十字架からは立ち去られる事なく、十字架の苦難の真ん中を通り抜けられました。自らをいけにえとして十字架に捧げて下さることによって、父なる神様をなだめ、主が私たちを歓迎して受け入れて下さっていることのしるしを、見せて下さったのです。

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