「牧会ミニ通信」
2009.12.6.〜12.20.
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  366                                                                                               2009/12/6

「主の通られる道をまっすぐにせよ」  ルカ3:1〜6

○ヨハネの誕生に当っても、主は特別な備えをされました (1:66)。この幼子が「荒野に呼ばわる者の声がする」(イザヤ40:3)、「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす」(マラキ3:1)と預言されていたバプテスマのヨハネとなりました。彼は最初のアドベントを知らせ、イスラエルの民に備えるよう叫び、今、私たちに対して最後のアドベントを告げ知らせ、イエス様の再臨に備えるよう叫んでいます。
  ○ヨハネは「荒野で叫ぶ者の声」として、まるで荒野のようなイスラエルの民に向かって叫びました。彼らが主に立ち返るよう叫び、私たちにも終わりの日の完全な贖いに備えるよう叫んでいるのです。ヨハネはイスラエルの民に、主を受け入れるために心の道を備えるよう訴えました。主が来られるならば、心から悔い改める者は救われ、ふさわしい実で満たされ、高慢な者は謙らされ、不正直な者の性格もまっすぐにされ、荒々しい気性の者も穏やかな心にされ、主を受け入れるすべての人は救われるのです。
  ○まず、イエス様が道を設けられ、先に場所を備えに行ってくださり、イエス様のおられる所に私たちもいるために迎えに来てくださるのです(ヨハネ14:6,3-4)。だからこそ、私たちも主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにして、再び来られる主をお迎えする準備ができるのです。そうしてイエス様が来られたとき、私たちは御国に住むのにふさわしい者へと完成されるのです(ヨハネ10:9,10)。
  ○しかし、イエス様ご自身に対して道は塞がれ、天の門は閉ざされたままでした(マタイ27:46)。「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです」(ヘブル10:20,9:8,マタイ27:51)。その道に向かって、人として地上の生涯を歩まれるため、イエス様が来られたのがクリスマスです。そして、再び来られるとイエス様は約束されました。その時、私たちのうちにイエス様ご自身が通られるまっすぐな道を見出して頂けるよう、用意させて頂きましょう。

  367                                                                                               2009/12/13

「悔い改めにふさわしい実」  ルカ3:7〜18

○ヨハネのメセージは、アブラハムの子孫だと思っているイスラエル人にとって、衝撃的でした。彼は、進んで自分の罪を告白する人々に向かって語りました。もし、主に対して心から悔い改めているのであれば実を結ぶはずですから、その生き方を通してあかしがなされるはずです。
  ○ヨハネの後から来られるイエス様は「聖霊と火とのバプテスマをお授けに」なるお方です。救い主を待ち望み、福音を受け入れる者こそ、ヨハネから「罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマ」を受け、やがてイエス様から「聖霊によるバプテスマ」を受けるにふさわしい者なのです。そして、ご聖霊によって罪が完全に焼き尽くされ、火によるさばきを経験する事は決してないのです。
  ○悔い改めとは、隣人を自分自身のように愛し(レビ19:18)、いつくしみ深い行為を示すことです(ミカ6:8)。心から悔い改めて謙る者は救われ満たされるようになるのです。また悔い改めることによって、不正直な性格が直され、自分の利益のために人々を犠牲にしなくなるのです。
  ○信仰の結果として良い行いという実を結んでも、彼らにとってはただイエス様のなされたように生活していたに過ぎません。しかし、その悔い改めの実が永遠のいのちか永遠の刑罰かを分けるのです。イエス様は私たちにたましいの救いを得させ、永遠のいのちを得させるために、自ら罪のさばきを負われ、焼き尽くされる経験をされたお方です。悔い改めを証しするクリスマスでありたいと思います。

  368                                                                                               2009/12/20

「私たちの間に住まわれた神」4  ヨハネ1:1〜14

○悔い改めの実を結ばせる隣人愛はどこから来るのでしょうか。まず、神である主を愛することから隣人を愛することが出来るのです(ルカ10:27,30-37)。そしてそれには、主がどれだけ私達を愛してくださったか、ということを知る必要があります。
  ○神であるお方は、ご自身に始まりがあったのではなく、永遠の昔から存在しておられたお方です(創世1:1)。そして、そこにすでにことばである主イエス様がおられました。そして「神のことば」(黙示録19:13)であるイエス様ご自身が創造主であり、すべてのものを造られたお方です。
  ○イエス様はいのちの源です。イエス様を主と告白して新しく私たちが創造される時(ガラテヤ6:15)、私たちは霊的ないのちを頂き、神の子として信仰によって新しく生まれます。それはただ「神によって」のみなされるのです。○「このいのちは人の光」でした。私たちにいのちを与えてくださった方は、私たちの歩む道に光を照らし、私たちに必要な導きと指示を与えてくださるお方です。そして、罪の暗やみを照らす光としてイエス様は来られました。
  ○この神のことばが肉体となって私たちの間に住まわれました。イエス様ご自身のうちに神の栄光のご臨在がありました(ヘブル1:3)。そればかりでなく、私たちの罪の身代わりとして、十字架の上で死んでくださったのです。十字架の上にこそ、神である主がどれだけ私たちを愛しておられるかが余す所なく語られています。いのちの源であるお方がそのいのちを私たちに与えるため、ご自身のいのちをお捨てになったのです。イエス様は、十字架という祭壇に全焼のいけにえとして捧げられました。そこまでして私たちを救おうとしてくださった、天の父の愛のことばです。
  ○私たちを生かすため、イエス様によって、天の父なる神がご自分を否定されたのです。そのようにして愛が示されました。その愛を示してくださるために、イエス様が人間としてお生まれになりました。私たちがその愛を受け入れイエス様を信じるなら、そのイエス様が私たちを幕屋として私たちの内に住まわれます。私たちを通して神ご自身の栄光を現してくださるのです。その愛を私たちも知り、その愛で隣人を愛するクリスマスでありたいと思います。

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