「牧会ミニ通信」
2008.9.7〜9.28.
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  306                                                                                               2008/9/7

「一つの違反と多くの恵み」  創世記3:8〜13

○「あなたはどこにいるのか」という主の御声が聞こえた時、アダムは何と答えたでしょうか。彼は、言い訳を言っただけでした。弁解はしても悔い改めはありませんでした。それが、罪のしるしなのです。ところが、主はそのことを責めるのではなく、再び問いかけて下さいました。主は、このときも尋ねておられます。それはアダムが、罪を告白して赦しを求めるチャンスでした。主はどこまでも、人に働きかけ、人が自ら悔い改めに導かれるよう、促しておられるのです。
  ○しかし、アダムはこの主の問いかけに、ここでも素直には答えません。自分の罪をエバのせいにしました。しかも、その責任転嫁は妻のせいだけに留まっていません。「あなたが、私のそばに置かれた」この女のせいです、と、その原因があたかも主にあるように言ったのです。言い訳の理由はいくらでもできます。いくらでも他人のせいにできます。しかしそれは、行き着く所、神である主のせいにしているのです。
  ○主はエバにも尋ねられます。同じように悔い改めを促しておられます。ところが、またエバも同じでした。自分が食べたことは一応認めていますが、やはり蛇にそして主に責任転嫁です。それでは自由な意志を与えられた意味がありません。
  ○こんな人間は、その場で滅ぼされてしまっても文句は言えなかったはずです。特別な存在として造られた人間が、主に従って、主が備えて下さった本来の良い生き方をするのではなく、神のようになろうとして罪を犯したのですから。しかし、なお主は人を生かそうとして下さいました。それどころか、人を贖いとろうとして下さったのです。
  ○その人間の大きな罪を贖い、永遠のいのちに生き返らせて下さるためにイエス様の十字架がどうしても必要でした。神である主は、人間が救われる方法として、ただ一つ、イエス様の十字架という方法をとられました。ですから私たちはただ、イエス様の十字架の御業を、私の罪の贖いとして信じ受け入れるだけで、罪が赦され、永遠のいのちに生かされるのです。主の恵みと賜物によって、私たちは救われるのです。

  ///                                                                                               2008/9/14

「『祈りのノート』について」

○先週、デボーションについて証ししていただきましたので、『祈りのノート』の事について少し書かせていただきます。
  ○この『祈りのノート』は、2004年10月から発行していますが、その目的はまず「教会の祈り」を共有するということです。以前は祈祷会で用いていた祈祷課題を印刷してお配りしていました。それは、祈祷会に出席された人だけではなく、皆さんに教会の祈祷課題を知っていただき、一緒に祈っていただきたかったからです。そして、曜日ごとにテーマを決め、また教会の兄弟姉妹のことも毎日一人ずつ、全員のことを覚えて祈っていただきたかったからです。さらに、紛失しにくいように4週間分を1冊にまとめ、同じみ言葉を読みながら同じ課題を祈ることができるようにしました。
  ○目的の第二は、教会暦を覚えるためです。私たちの教会は教会暦を大切にしてきました。週報にも必ず載せて、今日が教会暦ではどのような日なのかを常に覚えてきました。また、クリスマスやイースターなどの前には、そのためにふさわしい聖書の箇所を書いた表をお配りして、特に教会暦を意識していただけるようにしていました。それを、通読箇所の所に組み込んで、日々のデボーションの中で教会暦にふさわしいみ言葉を読んでいただくことができるようにしました。
  ○最後の目的は、今ではこれが最大の目的だと思っていますが、主の日に語られたみ言葉によって一週間を過ごすことができるようにするためです。2006年の待降節から、礼拝で語られた聖書箇所を一週間かけて読み返すようにしました。同時に「アドベントの思い巡らし」のための解説を載せました。2007年の受難節にも解説を載せたことをきっかけとして、それ以降その日に読むみ言葉の解説を載せるようにしました。それによって、聖書の文脈に沿った、その日のみ言葉の理解をしていただけるのではないかと思います。また週報も、前週の説教の要約からその週の要約に変え、週報と『祈りのノート』によって、その週の礼拝で語られたみ言葉を思い返しながら、聖書を読み返すことができるようにしました。
  ○以上のように、主の日に語られたみ言葉を一週間共有し、教会の祈祷課題を共有できる、当教会オリジナルなデボーションノートになって来たと思います。このノートを用いて、一つとなって主を礼拝する群れとなることを願っています。

  307                                                                                               2008/9/21

「さばきと救い」  創世記3:14〜19

○罪を犯した人間に対して、罪の結果の罰が宣言されます。女性は産みの苦しみを経験しなければならなくなりました。そして、夫婦の、主を中心とした人格的な愛の関係は、力によって一方が他方を支配する関係となってしまいました。男性は労働の苦しみを宣言されます。苦しんで働かなければ食べていくことができなくなったのです。
  ○さらに、人間全体に向かって死が宣告されました。もともと、人間が創造された時の世界では、いのちだけがあったのです。しかし善悪を知ることをすべての判断基準とし、自分を神のような絶対者としたとき、そのようになった人間が永遠に生きることは悪を限りなく広げることになりますので、それを防ぐために死がもたらされました。
  ○ところが人間が神である主に反逆した瞬間、主は人間を捨てられず、かえってご自分のものとし続け、最終的にサタンに勝利すると言われたのです。人間を滅びに陥れようとする罪の根源であるサタンの頭を踏み砕くのは、女の子孫として生まれ人間の代表となられるイエス・キリストご自身に他なりません。そのイエス様は十字架でかかとにくぎを打たれ傷を負われます。この3:15は原福音と呼ばれています。
  ○さらに神は、世界の基の置かれる前からキリストにあって私たちを選んで下さったのです(エペソ1:4)。天地創造の前からキリストが存在しておられます。そのキリストは、神である主に人間の罪を赦していただくため、ご自分を犠牲にして十字架に死なれたお方です。神である主の本当の御心は、イエス様において示されているのです。それは、私たち人間の罪のためにご自分を身代わりとして十字架に捧げ、罪を解決して下さるということです。そしてイエス様の十字架の御業を受け入れ、永遠のいのちを頂いた者にとって地上の死は、本来のその人の存在の中心となった永遠のいのちに生きる門を開くことになるのです。これほどまで私たちを愛して下さる主の御心を知ってますます主を崇めたいと思います。

  308                                                                                               2008/9/28

「いのちへの希望」  創世記3:19〜22

○善悪の知識の木の実を食べた人は、神のようにはならず、却って善を憎み悪を愛するようになりました。結局、罪人として善悪を知るようになったにすぎず、自分が悪だと言うことを知っただけなのです(ローマ7:18,19)。私たちは堕落しており、どんな善にもまったく無力であり、あらゆる悪に偏っていると告白せざるを得ないのです(ハイデルベルク問8)。
  ○主は、そのようになった人が、さらにいのちの木の実を食べて永遠に生きることを望まれませんでした。罪の中で死なないということは、第二の死に等しい状態です(黙示録2:11,20:6,14)。ですから、楽園からの追放は、罪の刑罰と同時に、永遠の死から免れさせるための主の恵みだったのです。悔い改めて主の救いにあずかった者は「神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べ」られます(黙2:7,22:2,14)。実際に、いのちの木への道は閉ざされただけでなお保たれています。
  ○アダムが妻の名をエバ(「いのち」の意味)と呼んだのは、自分たちが死ぬべきものとなったということを知った直後のことでした。しかし、裁きの中でも主による救いを信じ、死の宣告の中でもいのちへの希望を抱くことができたのです。エバも産まれて来る新しいいのち、生きている者の母となることが許されているのです。しかも、その子孫は二人を誘惑したサタンに打ち勝つ、と主は約束されたのです。
  ○しかし、人は裸の恥を自ら覆うことはできず、主から与えられる義の衣を着なければなりません。そして皮の衣のために、動物が殺されました。人の罪がおおわれるため、生き物が血を流さなければなりませんでした。それは、幕屋や神殿における動物の犠牲、究極的には神の小羊であるイエス様の十字架における犠牲へと連なるのです。主ご自身が人となり、人類の罪を永遠に覆う、あがないの死が永遠のご計画として立てられていました。イエス様は、その身を切り裂かれながら、永遠のいのちの木への道を開いてくださったお方です。「主イエス・キリストを来なさい」(ローマ13:14)。

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