「牧会ミニ通信」
2008.12.7〜12.28.
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  318                                                                                               2008/12/7

「主の通られる道をまっすぐにせよ」  マルコ1:1〜8

○福音の初めを宣べ伝えたのが、祭司ザカリヤの子として生まれたバプテスマのヨハネでした(ヨハネ1:17,ルカ16:16)。ザカリヤが祭司として、生涯にたった一度の大切な務めを果たしている時に主の使いから告げられたのが、このヨハネと名づけられる男の子が生まれ、その子が預言者となるということでした(マラキ3:1,4:5,6)。
  ○しかしザカリヤは「この喜びのおとずれ」を疑いました。自分の常識から疑ったのです。それは「主が来られる」という、預言者を通して主が宣べ伝えて来られた、主の約束を疑い、主ご自身を疑ったということです。彼は、自分の不信仰のしるしとして、ものが言えず、話せなくなりました。
  ○主の約束通り生まれた幼子は成長し、「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ』」と、イザヤによって預言されていたバプテスマのヨハネになりました。人々が待ち望んでいたイスラエルの慰めとエルサレムの贖いをもたらす主の道を整えるバプテスマのヨハネとなったのです(イザヤ40:1-3)。
  ○教会がアドベントを毎年守って来たのは、私たちにとって来るべき本当のアドベントがあるからです。イエス様の最初の到来を告げ知らせたヨハネは、今も私たちに、イエス様の再臨を知らせる使者なのです。「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」とは、預言者であるヨハネを通して私たちに伝えられている「喜びのおとずれ」です。それは、教会が二千年間待ちこがれた、主の再臨と言う約束です。
  ○イエス様は「わたしはすぐに来る」(黙示録22:20)とおっしゃいました。私たちの主人が帰って来るときは分からないのですから、それまで私たちは忠実であるべきです(2ペテロ3:8-9,マルコ13:33)。私たちは主がおいでになる道を整えているでしょうか。救い主をお迎えするために「すべての谷はうずめられ、すべての山と丘は低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道はたいらに」(ルカ3:5-6)されているでしょうか。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ3:2)。まず、私たちを受け入れて下さる主の愛があり、私たちを罪から救い出すために罪の赦しが与えられました。それを受け取る器が信仰であり悔い改めです。主をお迎えするにふさわしく整えさせて頂きましょう。

  319                                                                                               2008/12/14

「主があなたとともにおられます」  ルカ1:26〜38

○御使いと出会うことすら恐ろしいことですが、マリヤが驚いたのは、その御使いの告げることが、自分にはあり得ないことだからです(1:34)。どう考えても人間の力ではどうにもならないことです。本来、クリスマスには、そのような驚き、絶対にあり得ないことが起こったという驚き、聖なる御使いの前に立ったときのような畏れ、というものが必要なのです。
  ○人間の力ではどうにもならないということは、人間の力だけで何とかしようとしているからです。それを、主に委ね、主ご自身にお任せすることができると、事情が全く変わって来ます。重荷でしかなかったものから、主の恵みを知ることができるのです。恵みとは、自分にとって嫌なこと、試練や悩みが一つもなくなると言うことではありません。自分の考えや気持ちではなく主がお与えになるすべてを、与えて下さるままに受け取ることができる、それが恵みです(ピリピ1:29)。マリヤの受けた試練も恵みとして与えられたのです。マリヤは、全生涯を主に捧げるという告白をしました(1:38)。
  ○マリヤが御使いの言葉を受け入れることができたのは、主が一緒にいて下さるということが分かったからです。神である主が一緒にいて下さる、今も味方であって下さる、という事以上に安心できる事はないのです。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である)(マタイ1:23)。イエス様がこの世に来られたのは、インマヌエルの事実を確信させて下さるためです。それは、マリヤに「主があなたとともにおられます」と告げられた事と同じであり、私たちもこのクリスマスに同じみことばを聞く用意をする必要があるのです。
  ○このアドベントに私たちは、救い主がすでに来られ、その主が今も私とともにいて下さり、そうしてやがて再び来られる事実を喜びたいと思います。「シオンの娘よ。大いに喜べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる」(ゼカリヤ9:9)。マリヤが恵まれた者だと言えるのは、恵みを受けただけでなく、今も恵みの中にいるからです。約束を受けてその約束が必ず成就する事を待つ恵みの中にいるのです。マリヤのように全く受け身になって、御心のままになさって下さいと祈りつつ、新しい心でクリスマスを待ち望みましょう。

  320                                                                                               2008/12/21

「民全体のためのすばらしい喜び」  ルカ2:1〜14

  ○彼らにはしるしが与えられます。「布にくるまって飼い葉桶に寝ておられるみどりご」です。そして彼らは、御使いが知らせてくれた通り、飼い葉桶の中のみどりごを捜し当てるのです。羊飼いたちは、その幼子こそ自分たちのための救い主であることを確信し、人々に見た事、聞いた事を語りました。彼らは教会の最初の福音伝道者となったのです。
  ○救い主であるみどりごにとって、飼い葉桶に寝かせられていることは本来あり得ないことです。人間の罪の世界の中に救い主がおいでになったことが、そもそもあり得ないことです。そして、その救い主が罪人として十字架で死なれるという、これほどあり得ない事はないのです。それが私たちの救いとなりました(ピリピ2:6-8)。神である主は、ご自身の基準を人間に押し付けて裁くのではなく、ご自身から人間のところまで謙られ、ご自身に従えるように御霊を遣わして下さり、そうして救いに導いて生かそうとして下さるお方です。
  ○御使いたちの讃美は礼拝そのものです。救い主の誕生が神の栄光を現し、人間のための平和をもたらすからです。クリスマスは「きょう」「わたしたちのために」です。「民全体のためのすばらしい喜び」ですが、それが、きょう、ここにいる、私たちのためなのです。そして、御心にかなう人々に平和がおとずれるのですが、御心にかなう人とは、みことばを信じて受け入れ主を信じて従う人の事です。主を信じて従う人とは、神の子とされた事が喜びである人の事です。主がお生まれになったのは、その主に従い、その主の民となる全ての人々のためにです。主が来られたのはご自分の民のため、その主を信じて従う人々のためです。きょう私たちのために救い主が、主として、王として、キリストとしてお生まれになったのです。そのことを受け入れ、主を崇め讃美し、きょう主の民とされていることを共に喜びたいと思います。

  321                                                                                               2008/12/28

「私たちを照らす光」  ルカ2:8〜20

○クリスマスは夜の出来事でした。暗やみの中、野宿をしている羊飼いのもとに、突然天から主の使いがやって来て主の栄光が回りを照らしました。その灯りは恐ろしさを覚えるほどのものでした(イザヤ9:2,ルカ1:78,9)。天の神ご自身がそこにおいでになったという出来事(ヨハネ1:1-14)、神の御子が人となってお生まれ下さったという出来事なのです。
  ○主の栄光が回りを照らしたのは、私たちの心の暗やみを、内から追い出して下さるためです。闇を抱えた罪人である私たちのために救い主は来られたのです。罪人を赦すために、ご自身のすべてを捧げて下さるお方が来られたのです。だから「恐れることは」ありません。私たちは安心して良いのです。私たちは、この救い主のみ業によって、すでに赦されているので「恐れることは」ないのです。神である主のあわれみによって、栄光の光が私たちを照らすのです。
  ○その救い主は、飼い葉桶に寝ておられます。イエス様は、闇を抱え、飼い葉桶のように汚れた、私たちのまっただ中に来られたお方です。主の栄光が、イエス様のお顔に輝いています(2コリント4:6)。そして、その救い主は、私たちと共におられて、二度とはなれないお方です。「暗黒と死の陰」が私たちを孤独にし不安にしようとも、主は私たちと共にいつまでもおられます。「インマヌエル(神は私たちと共におられる)」と呼ばれるお方が来られたのです(マタイ1:23)。
  ○神の御子が人となって生まれたのが、なぜ飼い葉桶だったのでしょうか。それが神である主のへりくだりのお姿であり、私たちの生と死に関わって下さる方法だったのです。やがてイエス様は、私たち人間の全ての罪をその身に負われ、十字架に死なれます。イエス様がお生まれになったのは、私たち罪人のため身代わりとして死なれるためです。そのことを信じ、イエス様を救い主と信じる人こそ、御心にかなう人です。
  ○やがてイエス様が「その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、・・その栄光の位に着きます」(マタイ25:31)。その時であっても、主が共におられるのですから、恐れる必要はありません。インマヌエルの主に信頼して行けば良いのです。きょう、私たちのためにお生まれ下さったイエス様が、クリスマスの光によって私たちを照らして下さっています。このイエス様をぜひ受け取って頂きたいのです。

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