「牧会ミニ通信」
2008.1.6〜1.27.
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  273                                                                                               2008/1/6

「ひれ伏して拝む」  マタイ2:1〜12

○博士たちは、ユダヤ人だけではなく、全世界の王として生まれた方を求めて旅をして来ました。異邦人の彼らこそ、イエス様を最初にキリスト、救い主と認め礼拝した人たちです。 新しい時の始まりを意味するキリストの誕生を本気で受け取るならば、私たちの生き方や社会全体、全世界が変わって来るはずです。しかし、知識として知っているだけで、救い主について無関心な者は何も行動しませんでした。
  ○救い主が現れたならば、だれであろうと「ひれ伏して拝む」のです。クリスマスとは主にひれ伏して拝むこと、すなわちキリストのミサ、「キリスト礼拝」ということです。博士たちは幼子を礼拝し、贈り物を捧げるためだけに来ました。これが私たちにとってもただ一つ必要なことなのです。イエス様を礼拝する時、そこで全ての労苦が報われ、重荷が取り除かれ、全てのことに意味があったと知らされるのです。
  ○@イエス様は黄金を受けるにふさわしい「王」です。イエス様を「ひれ伏して拝む」ことはイエス様を真の王として信じ、主として礼拝し、そのお方に従って生きることです。Aイエス様は乳香を受けるにふさわしい「祭司」です。イエス様は私たちが父なる神のみもとへ行くための「道」そのものです(ヨハネ14:6) 。罪の壁を打ち壊し、主への道を切り開いて下さったのがイエス様の十字架でした。Bイエス様は初めから「死」を目指して生ました。没薬はイエス様の十字架(マルコ15:23)と死(ヨハネ19:39)の場面で用いられました。
  ○礼拝と捧げものによって私たちの信仰が表現されています。クリスマスにお生まれになった救い主の誕生は、このお方を「私の主、私の王、私の神」として礼拝し、ひれ伏して拝む私たち自身の新しい出発でもあるのです。礼拝の後それぞれの日常生活に帰って行きましても、そこに共にいて下さるイエス様がおられます。礼拝でイエス様をひれ伏して拝んでいるならば、イエス様によって新しく生まれた私たちもそこで日々新たにされているのです(2コリント4:16)。

  274                                                                                               2008/1/13

「これはわたしの愛する子」  マタイ2:13〜17

○私たちは「新しいいのち」によみがえるために、「キリストにつぎ合わされて」「キリストの死に与るバプテスマによってキリストとともに葬られたのです」(ローマ6:4)。このことを確信させて下さるために、イエス様も私たちと同じバプテスマを受けて下さいました。それは、罪の人間を救うために、罪のないお方が罪ある人間と同じ立場に立たれるためでした(ヘブル2:17)。十字架の前に、神の義と愛が、すでに出会っていたのです。
  ○このとき神の御霊が下り、天の父がイエス様を「油注がれた者」「キリスト」として公に示されたのです。また聖霊と火とのバプテスマをお授けになるお方であるということが示されました(ヨハネ1:32-34)。そしてイエス様は柔和さと愛と平和によって、優しく罪人を救いの希望へと呼びかけ、招いていて下さるお方なので、神の御霊が鳩の様にご自分の上に下られたのです(イザヤ42:2,3)。私たちは、その聖霊のバプテスマを授けられたからこそ、イエス様を主と告白し、救われて、水のバプテスマを受けたのです。私たちは、具体的に主の愛に目覚めて、日々新たに生まれさせて頂けるよう、ご聖霊のお働きを祈り求めていくべきなのです。
  ○天から告げられた声は、イエス様が神の御子(詩篇2:7)であり、神の愛する一人子(創世記22:2,ルカ20:13)であり、受難のしもべ(イザヤ42:1)であるということを示しています。そして、ご聖霊は私たちに神の子としての身分を授けて下さるお方です(ガラテヤ4:5,6)。私たちもその御霊を頂き、バプテスマを受けたとき天の父は「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」とおっしゃって下さったのです。ですから、私たちも、どんな罪や汚れの中、苦難の中にありましても、イエス様によって神の愛が注がれているという自覚をもって神である主に信頼していきたいと思います。洗礼を受けた時にこの御声を聞いた者として、日々その御声を聞きつつ、歩ませていただきたいと思います。

  275                                                                                               2008/1/20

「神の小羊」  ヨハネ1:29〜42

○ヨハネが鳩のように下って来られるご聖霊を見たことがイエス様を神の子として明らかに示すしるしでした。このしるしとしてのご聖霊は、イエス様がキリストであることを確かに証しするために与えられたものです。ヨハネがイエス様をキリストとして知るというより、ヨハネの証言を聞く私たちが、イエス様を神の子キリストと確かに信じるためだったのです。それは、イエス様こそ「聖霊によってバプテスマを授ける方である」ということが明らかにされるためです。
  ○バプテスマのヨハネの弟子たちも、イエス様が神の子でありキリストであるという証しが本当かどうか確かめたいと願っていたようです。そして、この日のイエス様との交わりを通して、彼らは「イエス様こそキリストである」とはっきり確信したのです。そして彼らは、イエス様のところにとどまりました。いつまでもイエス様の所にとどまることこそ、イエス様の弟子であるということです。私たちもイエス様と出会い、新しいいのちを頂き、新しい人間とされイエス様を土台とした神の神殿、生ける神の教会建設に用いられる岩(ペテロ)と変えていただけるのです。
  ○イエス様こそ、自らの死の犠牲を通して世の罪を取り除き、私たちを神である主に和解させて下さる神の小羊です。イエス様の血によってこそ、私たちは罪の汚れから洗いきよめられるのです。イエス様こそ父なる神の怒りをなだめ、私たちを正しくきよい者と見なされるようにして下さるお方なのです。私たちがすべき唯一のことは、私たちに差し出されているこの恵みを受け入れ、頂くことだけなのです。だれでも信仰によってイエス様のもとに行くなら、イエス様のうちに和解を見出すことができます。それが、ヨハネが指し示している私たちの罪を取り除くたった一つの方法です。聖霊によるバプテスマによる以外、その罪を取り除くことはできないからです。そして、聖霊によるバプテスマは、イエス様の十字架の死によって罪の贖いがなされた結果授けられました。

  276                                                                                               2008/1/27

「天の御国が近づいた」  マタイ4:12〜23

○イエス様はアンデレとシモン、ヨハネとヤコブを先に弟子として召され、そして後に使徒として特別な「人間をとる漁師」としての働きのために召されました。しかも彼らはその時、仕事の最中に突然召されました。彼らもすぐに網を捨て、子どものように素直に、単純に、イエス様に従いました。私たちはそれぞれの働きを通して、今召されているその所で、主に従う者であることができるのです。
  ○バプテスマのヨハネが捕らえられた時から、イエス様の宣教が始まりました。メシヤの先駆けとしてのヨハネの働きが終わり、イエス様のメシヤとしての公生涯が始まったのです。イエス様は「御霊の力を帯びてガリラヤに帰られ」(ルカ4:14)、ご自分の故郷であるナザレを去って、カペナウムで宣教を開始されました。真の神である主を忘れて偶像礼拝に陥り「暗やみの中」「死の地と死の陰」にすわっていた民に「世の光」(ヨハネ8:12)「義の太陽」(マラキ4:2)であるキリストが現れ、「死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました」(Uテモテ1:10)。
  ○イエス様は、天の御国がすでに近づいたので、心を入れ替えて主に立ち返れ、と呼びかけました。イエス様は罪の赦しそのものを得させるための悔い改めを宣べ伝えられました。イエス様が来られ、天の御国が来たから悔い改めてこれに入りなさい、という福音を語られました。天の御国はすでに来ており、イエス様を信じるものは既に永遠のいのちを持ち、死からいのちに移っています(ヨハネ5:24)。既に来て現在実現している天の御国こそ教会です。そしてこの教会が初穂となって、最後に完全なる天の御国が実現するのです。既に天の御国は来ているのですから、一刻も早く信じて天の御国の一人となり、聖霊の賜物である永遠のいのちを得るべきです。それが福音です。今差し出されている救いを受け取るために悔い改めて回心する事をイエス様は求めておられます。私たちはこの恵みを信仰によって受け入れるだけなのです。

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