「牧会ミニ通信」
2007.9.9〜9.30.
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  257                                                                                               2007/9/9

「キリストは誰の子か」  ルカ20:41〜44

○イエス様は、自分自身のことについて尋ねられました。「キリスト(メシヤ)」とは来るべき油注がれた救い主のことです。そのキリストが「ダビデの子」だと言われています。イスラエル人達は、ダビデの子孫から救い主キリストが現れることを待ち望んでいました。そして、イエス様ご自身、ダビデの子孫の一人でした。「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば・・神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリスト」(ローマ1:3-4)。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」(ルカ2:11)。
  ○キリストはダビデの子であるというのは明らかなことですから、同時に「キリストはだれか他の者の子なのか、そういうことがどうしたらあり得るのか」と、いうことをイエス様は質問されているのです。この時、イエス様は詩篇110篇を引用されました。神である主ご自身が「私の主」の敵を屈服させ、ご自身の右の座に着かせて下さるのです。そして「私の主」は祭司また王であるメルキゼデクに等しい人なのです。
  ○裁判の席でイエス様が「人の子は神の右の座に着きます」と言われた時、人々は「ではあなたは神の子ですか」と尋ねます。彼らの言うとおり、神である主が「わたしの右の座に着いていなさい」と言われ「メルキゼデクの例にならいとこしえに祭司である」と言われる「私の主」はまさに、神の子でなければならないのです。そしてイエス様こそ神である主から送られた「愛する息子」(20:13)に他ならないのです。
  ○イエス様は人々から捨てられ、十字架につけられ、死なれますが、復活し、天に昇り、全能の父である神の右に座して、私たちの主、キリストとなられました(使徒2:29-36)。キリストのことをどう思うか、とはキリストが「だれの子」だと思っているかということです。私たちが、イエス様ご自身は誰であるかを深く思い巡らせる時、イエス様は神の子であるということに行き着くのです。救い主は私たちが信じて頼るように人となられ、私たちが神である主を知ることができるよう、十字架の犠牲となられ、私たちが主に従うことができるよう死に打ち勝って復活されたのです。「人にはできないことが、神にはできるのです」(18:27)。神の子イエス様を私たちの救い主・キリスとして信頼して歩みましょう。

  258                                                                                               2007/9/16

「レプタ二枚の信仰」  ルカ20:45〜21:4

○人は何によって主から正しいと認められるのでしょうか。人が主役で、私たちが努力することによって救われるとすれば、神である主は必要なくなります。ただ私たちは、一つでも間違うことはゆるされません。自分で自分を救おうとしている限り、この神である主の御前で私たちは答えを持ち得ません。「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです」(ローマ3:28)。私たちではなく、主がして下さったことによって、イエス様の十字架の犠牲を信じる信仰によって、私たちは救われるのです。ただ、主の前に謙って赦しをこい、赦しを受け取ること。それはイエス様の生き方に学ぶということです。
  ○イエス様は、貧しいやもめの献金を「どの人よりもたくさん投げ入れました」と言われました。主は額の多少ではなく、むしろ生活を見ておられます。彼女は彼女自身の生活そのものいのちそのものをささげてしまったのです。しかも、彼女は自分がささげられる力以上のもの、つまり自分の持ちものでないものをささげたのです。しかも、持っていたレプタ二枚を全部捧げました。その内の一枚だけを捧げて、もう一枚を自分のために残しておいても良かったはずです。しかし「持っていた生活費の全部を投げ入れた」のです。シドンのツァレファテのやもめも、自分と自分の息子がどうなるか、それはもう神である主にお委ねして、まずエリヤにパンを差し出しました(1列王17:15)。彼女も生活の全部をささげたのです。自分の頼りとするものを残さず、主以外の何ものも拠り所としないということが、すべてを捧げるということです。
  ○主の求めておられるものは捧げものではなくその心です(2コリント8:12)。私たちはそもそも何も持っていません。私の地位も、私の信仰も、私の功績も、主の前に何も言い開き出来ず、私自身に絶望し、主の前に「私の」ものが無くなるとき、それが主にすべてを捧げることです。ありのままで主の前に出、自分のからだを聖い生きた供え物として捧げ(ローマ12:1)、毎日主から与えられる糧によって養われ(ルカ11:3)、神の国を求めること(ルカ12:31)。主に信頼して、自分のものを残さず、まず捧げるものを捧げ、求めるべきものを求め、そして他のことは一切主にお委ねして行くことが、私たちの生活を主に捧げて生きて行くということです。

  259                                                                                               2007/9/23

「惑わされないように気をつけなさい」  ルカ21:5〜9

○人間には、隠されているものを見てみたい、教えられていないことを知りたい、という欲求があるようです。しかし、聖書が語っていないことについては、人間も謙遜に口を閉ざすべきです。私たちの希望や想像ではなく、あくまで、聖書に示されているみ言葉を判断の基準とすべきなのです。自分で何かを知り、主の御心さえ自分で判断しようとする思いを主の前に捧げて行くことが必要です。
  ○イエス様と弟子たちが目にしたエルサレム神殿は、ソロモン、ゼルバベルに次いで三度目にヘロデ大王が建設し始めたものでした(完成はAD64)。しかし、イエス様はこの神殿についても崩壊を予告され(ルカ13:35)、エルサレムの都の滅びについても予告されています(ルカ19:41-44)。人間的などのような大事業であっても、どれほど素晴しい建物であっても、必ず終わりが来るのです。
  ○彼らの「いつ」「どんな前兆」という質問に対してイエス様は「惑わされないように」と警告されたのです。「時は近づいた」という人たちが現れてもついていってはならないのです。また「戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません」。まだ「終わりはすぐには来ない」からです。それらは世の終わりの近づいているしるしではないのです(ルカ17:24、使徒1:6)。人々はいつもしるしや前兆を求めますが、イエス様はいつも、しるしはない、前兆を期待してはいけない、とおっしゃっています。かえって終わりの日までの時をいかに忠実に生きるかが大切なのです。偽預言者やうわさ話に惑わされない以上に、しるしがある前兆が起こる、という考え方にこそ惑わされないように気をつけるべきです。
  ○イエス様は本当の意味において神の神殿です。ユダヤ人達は自らの手で、その神の神殿を壊したのです。しかし、神の神殿は人の手によらずに三日目に建てられ、新しい神の国が始まりました。教会は「キリストのからだ」です(エペソ1:22)。神の御霊がやどる「神の神殿」(1コリント3:16)なのです。イエス様の再臨される世の終わりのとき、その神の神殿である教会がくずされないように、私たちも注意しておく必要があります。いつ主が来られてもよいように、「腰に帯を締め、あかりをともし」「主人の帰りを待ち受けている人たちのよう」(ルカ12:35,36)に備えておきたいと思います。

  260                                                                                               2007/9/30

「忍耐によっていのちを勝ち取れ」  ルカ21:10〜19

○イエス様は神殿崩壊の前に起こる出来事よりも、もっと差し迫ったことがあると弟子たちに教えられました。身近な問題として私たちが覚悟しなくてはならないことがあります。
  ○一つは、迫害に対して毅然として立つ、ということです。 イエス様が予告しておられる出来事は、実際に弟子たちの上に実現していきます。回心する前のパウロも、キリスト教に対する迫害の急先鋒に立っていた人でした(使徒8:1,9:1)。そのパウロが回心してキリスト教の伝道者となると、今度はパウロも捕らえら、議会に引き出され、総督や王の前に引き出され、ついにはローマ皇帝カイザルに向かうのです。
  ○もう一つは、裏切りや憎しみを覚悟するということです。しかも、身近な人間関係にまで裏切りが起こるというのです (ルカ12:51-53)。中には殺される者もでます。しかし、結果はともかくすべての人にイエス様の御名は宣べ伝えられるのです。迫害や殉教の死がありながらも、イエス様の約束通り、終わりが来る前に「御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ」るのです(マタイ24:14)。
  ○そのようなことがかえってあかしをする機会となります(使徒23:11)。しかもそのときイエス様は「ことばと知恵をわたしが」与えますと約束して下さいました。どのような形でか今は分からなくとも、ともかくイエス様がいつもどんなことがあっても一緒にいて下さるのです (使徒18:9-10)。
  ○そして最後に約束されていることは「あなたがたの髪の毛一筋も失われることは」ないということです。命の安全が保証されました。しかし、中にも殺される者もあるのですから、肉体的には殉教の死を遂げても、霊的には神である主の守りの中にあることが保証されているのです。さらに、自分のためにいのちを、何とかして獲得し、本当に自分のものとしてしっかりと保つことが出来るというのです。それは、もう決して失われることのないいのち(ヨハネ10:28)、本来のいのち、つまり永遠のいのちのことです。たとえ肉体的には殺されたとしても、その永遠のいのちさえ保っていれば、その永遠のいのちによみがえる者とされるからです。そのために必要なのが忍耐なのです(ヘブル11:36,39)。

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