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「牧会ミニ通信」 2007.9.9〜9.30. |
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| 横浜上野町教会牧師 柴田 智悦 |
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257 2007/9/9
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○イエス様は、自分自身のことについて尋ねられました。「キリスト(メシヤ)」とは来るべき油注がれた救い主のことです。そのキリストが「ダビデの子」だと言われています。イスラエル人達は、ダビデの子孫から救い主キリストが現れることを待ち望んでいました。そして、イエス様ご自身、ダビデの子孫の一人でした。「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば・・神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリスト」(ローマ1:3-4)。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」(ルカ2:11)。 |
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258 2007/9/16
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○人は何によって主から正しいと認められるのでしょうか。人が主役で、私たちが努力することによって救われるとすれば、神である主は必要なくなります。ただ私たちは、一つでも間違うことはゆるされません。自分で自分を救おうとしている限り、この神である主の御前で私たちは答えを持ち得ません。「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです」(ローマ3:28)。私たちではなく、主がして下さったことによって、イエス様の十字架の犠牲を信じる信仰によって、私たちは救われるのです。ただ、主の前に謙って赦しをこい、赦しを受け取ること。それはイエス様の生き方に学ぶということです。 |
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259 2007/9/23
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○人間には、隠されているものを見てみたい、教えられていないことを知りたい、という欲求があるようです。しかし、聖書が語っていないことについては、人間も謙遜に口を閉ざすべきです。私たちの希望や想像ではなく、あくまで、聖書に示されているみ言葉を判断の基準とすべきなのです。自分で何かを知り、主の御心さえ自分で判断しようとする思いを主の前に捧げて行くことが必要です。 |
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260 2007/9/30
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○イエス様は神殿崩壊の前に起こる出来事よりも、もっと差し迫ったことがあると弟子たちに教えられました。身近な問題として私たちが覚悟しなくてはならないことがあります。 |