「牧会ミニ通信」
2007.12.2〜12.30
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  268                                                                                               2007/12/2

「人の子の到来」  マタイ24:36〜44

○アドベントは、クリスマス前の四つの主の日を含む期間のことで、イエス様のご降誕に向けて心備えをし、また再び来られるイエス様をお迎えする準備をする期間です。救い主としてお生まれ下さったイエス様の誕生をお祝いするのがクリスマスですが、それはすでに起こってしまいました。ですから私たちは、王として再び来られるイエス様を待ち望んでいるのです。王の王、主の主であられるお方をお迎えするのですから、私たちはどのように備えたら良いでしょうか。
  ○イエス様が再び到来される時を知っておられるのは、神である主のみです。では、私たちはイエス様の再臨を、どれほど現実のこととして捉え、熱心に待ち望んでいるでしょうか。毎年繰り返されるクリスマスはただのお祭りではなく、そのように、イエス様をお迎えする準備を、私たちの生活の中に整える必要があることを思い出させる日です。「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21)。
  ○私たちは目をさまし用心している必要があるのです。目をさましているということは、見ているということです。この世と歴史を見ていれば、イエス様の再臨が起こるということはおのずとわかるはずです。私たちは目をさまして、今も生きておられるイエス様を見つめ、光の子として生きて行きましょう(1テサロニケ5:5)。また、目をさましているということは、私たちの心が絶えず主に向かっているということですから、いつも油断せずに祈っていましょう(ルカ21:36)。
  ○そしてその日、ひとりは天の御国に迎え入れられ、ひとりは世の終わりのさばきのときに地上に残されます。イエス様が来られる再臨の日を、そのときまで知らなかったと言うことにならないよう、厳粛に待ち望む必要があります。私たちがクリスチャンとして、教会とこの世でどのように生きているかが問われています。イエス様の十字架の贖いによって罪を赦された私たちは、その後の生涯をイエス様が歩まれたように、主の御心に従って永遠のいのちに生きて行くのです。
  ○このアドベントの期間、イエス様が最初に来られた時のことを思い起こして、私たち自身を整えていきたいと思います。主が自ら、一人子を世に送られるために備えられたのがクリスマスです。それを毎年私たちが思い起こし学ぶことが、やがて到来する最後のアドベントに対する準備となるのです。

  269                                                                                               2007/12/9

「天の御国が近づいた」  マタイ3:1〜12

○バプテスマのヨハネの誕生も、ただの誕生ではありませんでした。そして、成長したヨハネはついに「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ』」(イザヤ40:3)と、預言されていたバプテスマのヨハネとなりました。イスラエルの民に「備えよ」と叫んだヨハネは、その救い主の最初の到来を知らせたように、今また、イエス様が再び来られることを知らせています。その時の叫びもやはり同じです。「備えよ」とヨハネは叫んでいるのです。私たちは、主が再びおいでになる準備をしているでしょうか。
  ○救い主キリストは確かに二千年前に生まれ、預言は成就しましたが、本当の平和を私たちはまだ知りません。それは終わりの日に再び来られるキリストを待たなければならないのです。クリスマスの光は時代を超え、全世界を包みます。やみの中を歩み、死の陰の地に住んでいる人々(イザヤ9:2)にクリスマスは訪れ、解放と平和を与え、主ご自身からの深い喜びと大いなる楽しみを与えてくれるのです。救い主が誕生するということは、王さまが誕生することであって、新しい支配が始まることなです。その救い主は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」(イザヤ9:6)と呼ばれるお方です。そのような王さまが来られることによって、世界が救われ、一人一人が救われるのです。この預言がまさにイエス様において成就しました。平和の君であるお方は、この罪と死の力から私たちを解放し、主との平和と喜びに生かして下さり、大きな楽しみに導いて下さるのです。
  ○そして私たちがそのようになるためには、主に立ち返ることが必要です。それこそバプテスマのヨハネが告げていることです。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」。悔い改めとは、心を180度方向転換することです。方向転換して主の方に向かい、主のもとに帰って来ることです(ルカ15:17,18)。それは悔いるだけでなく、もう一度出発点に戻って改めてやり直すという積極的な行動です。その悔い改めの理由も「天の御国が近づいたから」なのです。「イエス様が王としてこの世を支配する時が近づいた」からです。ですから、私たちは主の支配に従うために今すぐ、罪を悔い改めて主に立ち返りましょう。「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」(ヘブル4:7)。

  270                                                                                               2007/12/16

「おいでになるはずの方」  マタイ11:2〜11

○バプテスマのヨハネは、母の胎内にいる時から、イエス様こそキリストであると証言してきました。そのような信仰をもっていたヨハネがイエス様に尋ねた理由は様々考えられます。私たちも信仰と実際の経験の間にギャップを感じることがあります。「おいでになるはずの方はあなたではなかったのですか」と尋ねたくなり、「本当にあなたがキリストならそのしるしを見せて下さい」と確かめたくもなります。
  ○ヨハネは確認するために弟子たちを送って尋ねさせました。イエス様もそれを受け入れ、疑問に答えて下さいました。信仰とは信じたことを積極的に確認することです。マリヤがエリサベツに会いに行ったのも、羊飼いたちが飼い葉桶のみどりごを捜しに行ったのも、東方の博士たちがベツレヘムへ行ったのものそのためでしたし、実際に行ったとき確認出来ました。私たちも、み言葉を信じた時、その信じたことを確かめるため、一歩踏み出すなら、信じた通りになるのです。イエス様を信じて永遠のいのちを頂いたのなら、そのいのちに生きる一歩を踏み出すべきです。神の子とされたのならば神の子として生きる一歩を踏み出すべきです。救いは一方的な恵みによって与えられるものですが、それを受け入れるのも拒否するのも私たち次第です。一方的に与えられた救いを積極的に受け入れることが信仰です。福音は「信じるすべての人にとって救いを得させる神の力」なのです(ローマ1:16)。
  ○与えられた救い、赦された罪、すでに得ている永遠のいのちをいつも確認しながら、それを積極的に用いてこの世を生きて行きましょう。その時、信じていることが自分の身に成就していることが分かってきます。信仰の生涯とは、そのように私たちの救いを日々実践において確認しながら、本来の私たちの生活である天の御国における生活を思い出し、待ち望む生涯です。イエス様に尋ね答えを頂きながら、私たちがすでに永遠のいのちに生かされていることを確認しつつこの地上の生涯を歩ませていただきたいと願わされます。

  271                                                                                               2007/12/23

「きょう、あなたがたのために」  ルカ2:1〜14

○キリストはダビデ以上の王としてベツレヘムで生まれるはずでした。しかし実際には、神の子である救い主が幼子として生まれたばかりか、飼い葉桶の中に寝かされました。神の御子の誕生そのものが「へりくだり」であったことを表しているのがクリスマスです(ピリピ2:6-8)。「飼い葉桶のみどりご」にこそ、私たち人間のために、そこまで低く下られた、神の愛と憐れみが示されています。
  ○愛を人間の側から考えますと奪うものと言えます。「私が」愛されたいのです。もしくは、「私が」望む仕方で愛したいのです。しかし、主の側からみますとそれは与えるものです。相手に対する本当の愛とは自分の持っている何かを削って差し出すもの、といえます。イエス様はまさにご自分の命を削り尽くして私たちを愛して下さったのです(ヨハネ15:13)。そこから教会が始まったのです。自分は何を削れるか考えるとき、イエス様の愛を示すことができます。
  ○そして、イエス様が人となって生まれ、飼い葉桶に寝かされた時から、十字架が目標とされていました。それは、私たち人間の罪を贖うための、み業の開始でした。私たちの地上の人生は、主がその愛のゆえに、この地上に来て下さった人生なのです。主が受け入れ、主が私たちのために生きて下さった人生なのです。イエス様が十字架を負って歩まれた人生なのです。イエス様とともに歩む人生なのです。私たちの人生に救い主イエス様が来られており、いつまでも私たちと共にいて下さるのです。それは、決して失われることのない宝です。その宝を私たちは土の器の中に宿しています。あたかも、飼い葉桶に寝かされている救い主のようです。
  ○クリスマスは「きょう、私たちのために」です。私たちがイエス様を信じ洗礼を受けたとき、まさにみ言葉が実現したのです。永遠のいのちを受け、天に生まれ、天の栄光を先取りし、救いが実現したのです。救い主がお生まれになったのは、その救い主に従い、その主を受け入れた人々のためです。その神の子とされた民のために主がおられるのです。きょう、私たちが主の民、神の子とされていることを喜びましょう。そして、私たちの愛する人々に、この救いを告げましょう。救いは、いま、ここにあります。永遠のいのちを与えて下さる救い主イエス様、これ以上のプレゼントはないはずです。

  272                                                                                               2007/12/30

ナザレ人イエス」  マタイ2:13〜23

○神よりも権力を愛し、自分の利益のためにその権力を利用し、自分の中心に自分を王として据えて生きて行くことが罪であり偶像礼拝なのです。しかし、聖なる主の日を知らず、他人を自分より尊ばず、聖なる契約を破り、多くを持っていながら更に多くを望み、肉親を滅ぼし、競争相手を陥れようとするヘロデが私たちの内にもいるのです。
  ○ベツレヘムの母親たちの悲しみは、その子孫が捕囚になって行くことを嘆くラケルの悲しみに勝るとも劣りません(エレミヤ31:15)。しかし、主はその悲しみの叫びにも応えて下さいました。「・・あなたの労苦には報いがあるからだ。・・あなたの将来には望みがある。・・」(エレミヤ31:16,17)。「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を。』・・荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。・・』」(イザヤ40:1-5)
  ○ヘロデの強い敵意にも関わらず、主の命令に素直に従った東方の博士たちやヨセフによってイエス様の命は守られました。こうしてホセアの預言が成就しました(ホセア11:1)。モーセがエジプトからイスラエルの民を救い出したように、イエス様は第二のモーセとして、しかもモーセよりも偉大な者として、私たちを罪の束縛から解放して下さるのです。
  ○預言者たちは、救い主キリストが人に蔑まれることを預言してきました(イザヤ53:3-9)。主は、ご自分のみ子を、飼い葉桶に生まれさせたばかりか、ナザレに育たせることによって、ナザレ人と呼ばれ、そしられる者とされるまでへりくだらせて下さいました。その救い主はクリスマスの光としてすでに来られました。そして今、ここにおられます。幼子キリストとして私たちの内で成長されます。私たちの内で神の子が成長し、神のことばが知恵を増して行くならば、私たちがその力と知恵とに与ることができるのです。私たちの内なる神の幼子によって、私たちが神の子とされ、神の子とされた私たちを主は守り、背負い、抱いていて下さるのです。

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