「牧会ミニ通信」
2007.1.1〜1.28.
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  226                                                                                               2007/1/1

「羊飼いたちの喜び」  ルカ2:15〜21

○御使いから知らせを聞いた羊飼たちは、御使いのお告げを素直に主の言葉として信じ、それを実行に移しました。彼らはベツレヘムへ行くだけでなく、そのしるしを見て確認し、ますます、語られたみ言葉を確信したのです。そうして、見聞きした事に基づいて神を崇め讃美しながら帰って行きました。彼らは「すばらしい喜びの知らせ」、つまり、福音に信仰をもって応え、そのことで主を崇め讃美したのです。
  ○そして、福音に信仰をもって応答する時、そこに必ず実が結ばれます。まず「それを見た時、羊飼たちは、この幼子について告げられた事を知らせ」ました。主が知らせてくださったその出来事を、今度は羊飼たちが主から遣わされた御使いのように「知らせる」働きをしたのです。次に、「神を崇め、讃美しながら帰って行」きました。羊飼たちは、天の軍勢のように主の栄光を讃美する生活を始めていたのです。
  ○しかしマリヤは御使いから聞いたことばや、これまでのすべての出来事を次々に思い巡らしながら、繰り返し心に刻み付けていました。そして、それから三十数年後、イエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえり、四十日間使徒たちに現れ、そして天に昇って行かれた直後、弟子が集まっていたその中にマリヤもいたのです(使徒1:14)。彼女はイエス様を主とする信仰を持ち、クリスチャンとして実を結んだのです。み言葉を聞いて、それを心の中でしっかりと持つ人が実を結び、幸いな人とされるのです(1:45,11:28)。
  ○また福音は、その人自身が福音を聞いて神を崇め讃美するとき、福音として次に伝えられていきます。羊飼いたちは福音を聞いて素直に信じて受け止めました。彼らは、自分たちに知らされた「民全体のための喜び」を、実際に民全体に宣べ伝えて行くべき宣教者、神の使者として選ばれたのです。み言葉を聞いてすぐに従うならば、そのみ言葉は心の中に深く根付いてやがて豊かな実を結びます。み言葉を聞いて互いに励まし合い、愛をもって互いに仕え合うならば、さらに豊かな実が結ばれます。そして、イエス様の死と復活の事実は、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご以上のしるしとして、私たちを福音の喜びに満たしているはずです。福音を信じて救われた喜びに満たされ、神を崇め讃美しながら生活するならば、私たちも主の栄光を証ししているのです。

  227                                                                                               2007/1/14

「安息日だからといって」  ルカ14:1〜6

○安息日の最大の目的は「仕事を休む」ということでした。7日目は主の安息であるので「どんな仕事もしてはなら」ず、しかも、子どもも奴隷も家畜も在留異国人も同じように休むことができるのです。人間の業は一度中断される必要があるのです。どんな善いことであっても、人間が行う限り、自分を自分で正しいとする思いが必ず潜んでしまうからです。そのような考え方を、7日ごとに主によって中断されなければならないのです。それは「礼拝すべき」だからでも聖日を「厳守すべき」だからでもありません。安息日こそあらゆる「すべきである」とか「厳守」という考え方からも解放され、律法ではなく福音、苦しみではなく喜び、義務ではなく自由、行いではなく休息を得る日です。そして神のかたちに造られている人間を助けることこそ、安息日によりふさわしく、そういう思いやりこそ主が私たちに求めておられることです。
  ○人間が、自分をお造りになった天の父である神様と、本来の関係を取り戻すのが、安息日の礼拝です。異教の民に囲まれた中で、週に一度休むことはユダヤ人の神の民としての証しとなっていました。私たちも、主の日を休み、その日に主を礼拝することで神の子とされていることの証がなされ、また家族にとっても本来の健康や命を回復する日なのです。
  ○安息日を守るよう言われているのは、安息日の祝宴に主ご自身が私たちを招いておられるということなのです。私たちは、安息日に何の仕事もしないことによって主の安息と主ご自身の聖さに与り、神ご自身を聖としているのです。それは、人間の仕事を休む、ということで、人間の仕事にいつもついて回る、自分を主張したり、自分を正しいとしたりすることを止め、主だけを正しいとし、主だけを崇め、主を王とするということです。そういう意味で、安息日は私たちが休むための日でありますが、結局は主のための日です。だからこそ、イエス様もご自身を安息日の主と言っておられるのです。主のための安息日を主のために用いることによってそれが人のためになるのです。安息日に病気を直すことが正しいのは、それによって主の栄光が現され、主の慈しみがもたらされ、主の御名が崇められるからこそ正しいのです。安息日を主のために取り戻して行くことが、そのために私たち自身の業を止め、自己主張を中断させることが今必要なことです。

  228                                                                                               2007/1/21

「自分を高くする者、低くする者」  ルカ14:7〜14

○イエス様のたとえは「神の国」に関することです。結婚披露宴のように神の国においても、招かれた私たちが自分で席を決めるのではなく、披露宴の主人、つまり神である主ご自身が決めてくださっているのです。ですから、謙遜であるべきです。しかし、私たちがどんなに努力しても謙遜になりきることができないので、イエス様が私たちの代わりに極限の所まで謙らされました(ピリピ2:5-8)。イエス様が一番末席に座られたからこそ、主はイエス様を一番の上座に座らせ、すべての名にまさる名をお与えになったのです。ですから、私たちはただ、イエス様の歩みに倣っていれば良いのです。
  ○一方、招く側は「お返しのできない」人を選ぶべきです。家族や親類を呼ぶのは当然として、もっと心を砕かなくてはならないのは、お返しのできない人々に対してです。「貧しい者、からだの不自由な者、足のなえた者、盲人たち」は、おそらく無理しなければ招かないであろう人たちです。彼らはこの後も宴会の主人から呼ばれることになります(14:21)。つまり、神である主が呼んでおられるような人々を、いと高き方の子とされた私たちはこの地上でも招きなさいということです。そうすれば「義人の復活の時」主ご自身から「お返しを受ける」からです(ヨハネ5:29)。私たちは、永遠のいのちという最大の「お返し」を主から直接受けるのですから、今人々からのお返しを期待できなくても幸いなのです。
  ○私たちは、天の父から頂くお褒めの言葉とお返しを期待していきましょう。この世の原則は、ギブ・アンド・テイクですが、イエス様はギブ・アンド・ギブ、一方的に与えよ、と言われます。しかも、嫌々ながらではなく自ら喜んで与えるのです。「寄るべのないものに施しをするのは主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる」(箴言19:17)からです。主から頂ける報いは、天の御国において与えられ、この世の物とは全く質の違う、ただ主の恵みとして与えられるものです。私たちは、人との比較ではなく、主ご自身からの絶対評価やお返しを基準にして、この世の中で主のみ言葉に従って忠実に生きて行くことがイエス様から期待されているのです。それが天に宝を積み上げることになります。天に目を向け、天に宝を積み上げ、永遠のいのちという人間が主から頂き得る最大のお返しに期待して歩ませて頂きましょう。

  229                                                                                               2006/1/28

「天国の食卓への招待」  ルカ14:15〜24

○当時の宴会ではまず、あらかじめお客を招待しておきます。そして宴会の時刻になったとき、しもべを送ってもう一度招きました。ところがこの時「みな」同じように断り始めたのです。断られた方にすれば、面目丸つぶれです。すると次にこの主人が招いたのは、お返しのできない人たち(14:13)です。しかしまだ席があるので、今度は町の外から無理にでも人々を連れて来させ、空いている席をすべて埋めさせました。
  ○ここで「盛大な宴会」とは「神の国の宴会」のことです。主が救おうと考えておられる人は大勢いて、まだ席がたくさん残っています。しかも、ここで熱心になっておられるのは、席が満たされるまで人を呼び続ける主ご自身です。天の父が神の国の宴会を催され、一人子のイエス様を遣わされ、人々を招きに来られました。最初は、旧約時代に主が預言者を通して語られ、既にユダヤ人を招いていました。それなのに、パリサイ人や律法学者たちは、二度目のイエス様の招きを断ったのです。ですから今度はイエス様が一般の民衆、しかも罪人と見られていた遊女や取税人たちを招きました。さらにそれでも足りず、異邦人まで無理にでも招こうとされました。イエス様を受け入れることは、天の父の招きに応じることで、その時罪人や異邦人でさえ神の国の食卓につけるのです。主の招きを断ることが、神の国に入る機会を失わせるのです。
  ○主の招きに応えることよりも、この世のものを優先することが、神の国の食卓から自らを締出すことになります。ところが神の国のことは現在の問題です。主の招きに、今、すぐに応えるかどうかが問われている現実の問題です。神の国の宴会への招待状は、既に私たちに差し出され、私たちはそれに出席の返事を出したのです。そして今、イエス様が再び私たちを招きに来られました。ですから、今、それに応えることが、神の国の食卓に着くことの保証となるのです。みことばを聞いた今、私たちはそれぞれ永遠のいのちの責任を負わされました。私たちは、天の御国に生きるために今、地上で生かされているのです。神である主の熱心な招きに私たちもお応えし、神の国の豊かな食卓に着く人々の中に加えられる者とされるよう、今、自分自身を本気になって吟味し、心の一新によって自らを変えられ(ローマ12:2)、与えられている信仰を生活を通して証する者にされたいと願わされます。

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