「牧会ミニ通信」
2006.9.3.〜2006.9.24.
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  210                                                                                               2006/9/3

「天からのしるし」ルカ  ルカ11:29〜36

○証拠とは、それによって事実を証明し権威を与えるものですが、神である主を証拠立て権威づけるものは主ご自身です。神である主以上のものは存在し得ず、それは、ただ信じる以外にはないからです。しかし、初めから信じたくない人には、どんな証拠を提示しても無駄です。イエス様が非難されたのは、彼らが単にしるしを求めたからではなく、悪意をもって、み言葉に従わない口実を作るために求めたからです。
  ○与えられるしるしとは、イエス様の復活に他なりません。イエス様の身にやがて起こる復活によって、神ご自身がイエス様を主またキリストとして証しされ、イエス様ご自身がしるしとなるのです。それこそ、イエス様が神の子であることの最大の、また、最後のしるしでした。そして、そのためにイエス様は十字架の道を歩み続けられました。しかし、悪霊を追い出す奇蹟を見ても信じることのできなかったユダヤ人たちは、十字架上のイエス様を見ても、復活されたイエス様を見てもついに信ずることができなかったのです。
  ○異邦人である南の女王は、ダビデの子ソロモンに聞くために地の果てから来ましたが、ユダヤ人たちは目の前にいる、ソロモンよりまさった、ダビデの子イエス様に聞こうともしなかったのです。ヨナの説教を聞いたニネベの人々は、異邦人であるにも関わらず悔い改めをもって応えました。しかし、神の民であると自負していたユダヤ人たちは、ヨナよりもまさったイエス様の説教を聞いても悔い改めなかったのです。イエス様のみ言葉を聞くことは、悔い改めへの招きです。
  ○イエス様が明らかに示されたご自身に対して私たちの目が悪ければ、その光がどれほど明るくともイエス様を救い主として受け入れることができません。霊的な目であるはずの心があかりであるイエス様を隠してしまいますと、生活全体が暗くなります。また、すでにあかりであるイエス様を自分のうちに持っているならば、その光が暗くならないように気をつける必要があります(ヘブル6:4-6)。イエス様こそ私たちに差し出されたあかりです。天の父は、イエス様こそ救い主であることを、事実としてはっきりと示してくださいました。私たちのすべての行動を導くあかりである、この救い主、天からのしるしそのものである、イエス様のみ言葉に聞いて従うことこそ、最も幸いな道であることを覚えましょう。

  211                                                                                               2006/9/10

「まず内側をきよめなさい」  ルカ11:37〜54

○「きよめの洗い」は、宗教的な儀式の問題でした。いのちのために与えられた律法も、規則で縛りますと、敬虔さが薄まり本質が失われ、偶像崇拝に陥ってしまいます。私たちは、天の御国に帰る時まで謙遜に自己点検をしつつ、完成を目指してパウロのように一心に走り続けるべきなのです(ピリピ3:11-14)。私たちの行いは私たちの内面のきよさを反映しています。私たちを創造された主は、私たちの体もたましいもお造りになられました。光であるイエス・キリストご自身を内に持ち、内側をきよめるなら、全てがきよくなるのです。私たち自身、からだも魂も主のものであると告白しているのですから、私たちの内なる人を主にささげることこそ、主の御心に最もかなう施しです(ホセア6:6)。私たちが、自我を砕かれ自分自身を主にささげるときにこそ、私たちは主を崇めるにふさわしい、きよい者とされるのです(テトス1:15)。
  ○捧げ物の本来の目的は、創造者である主に対する感謝や喜び、兄弟姉妹との交わりとレビ人への援助という、隣人への義務と神への義務でした。その「公義と神への愛」を無視して外側だけの規定をいくら定められた以上に守っても、自分を誇っているならば、自分の義を求めているに過ぎません。十分の一をささげることとは当然として、さらにそのとき隣人への愛と神への愛が伴っていなくてはならないのです。
  ○このイエス様のパリサイ人や律法の専門家に対する非難も、私たちが本当に幸いな者であるならば、もう一つの山上の説教の祝福の言葉として響いてきます。「幸いな者。あなたたちは、最も小さな収入についても十分の一をささげながら、公義と神への愛を実行しています。あなたたちは、会堂では上席を他の人たちにゆずり、町では人々から無視された孤独な人たちに進んで挨拶をしています。あなたたちは人目につかない泉のように、それとは気づかずに他の人々を祝福しています。」「あなたたちも幸いな者です。あなたたちは人々の重荷を軽くして、彼らが自分の荷物を背負うのを助けています。あなたたちは預言者たちを敬い、聖書のみ言葉を心に留めようと務めています。あなたたちのゆえにこの教会とこの世の者たちには希望があるのです。あなたたちは、知識への鍵を見いだしました。あなたたち自身が既にそこへ入り、他の人々がその道を見つけられるよう助けています。」

  212                                                                                               2006/9/17

「誰を恐れ誰を告白するか」  ルカ12:1〜12

○「偽善」とは、ある役を演じることです。パリサイ人たちは、いろいろな律法を守ることによってあたかも自分が熱心な信仰者であるかのように演じていたのです。そうして、イースト菌がパン全体に広がってパンをふくらますように、人々の中に偽善を広めて行きました。
  ○ある状況下(例えば戦争)においては、逆の形の偽善が起こります。イエス様に従って行く約束をしたのに、あたかもそんな約束をしたことはないかのように振る舞い、心ではイエス様を第一としていると思っていながらあたかもイエス様の弟子ではないかのように振る舞うことです。しかし、ご聖霊が与えられた教会に期待されていることは、イエス様の弟子として、本来の姿で公然とイエス様を告白することです。
  ○終わりの時はすでに始まっています。私たちの命はいつも主の御手の中にありますから、主のみが恐れられなければなりません。主に対する恐れこそ、他の全ての恐れを追い出します。積極的には主を信頼することです。そして、真理であるイエス様に忠実であることです。さらに、ご聖霊が教会に与えられ、教会はご聖霊によって生き、礼拝し、証言していますから、もし教会が迫害を受けたとき、教会にいのちを与えて下さるご聖霊を否定することは、自分のいのちを否定しているに等しく、それこそ偽善であり赦されない罪なのです。
  ○主を信頼する者に対して、主はご聖霊を通して働き、どんな危機的な状況にあっても、私たちに必要な真理の告白を授けて下さいます。むしろ危機に直面した時にこそ、ご聖霊の力を信頼して導きを求めるべきです。ご聖霊こそ私たちに信仰を与えて下さるお方です(1コリント12:3)。私たちの罪が、父なる神に於いて赦され、御子イエス・キリストはそのために十字架に架かられて死に、復活されたという告白は、ご聖霊においてこそ私たちのものとされるのです。ですから、私たちは毎日、主に罪の赦しを願い、主が私たちをご自身に和解してくださり、ついには死によって私たちの罪を全部取り去って下さった、という宣言を聞き、私たちが救われ神の子とされ永遠のいのちに生かされていることを、再確認していきましょう。イエス様において働いておられた、この真理の御霊により頼んで、終わりの日に達成される、私たちの救いの完成を目指して歩ませて頂きたいと願います。

  213                                                                                               2006/9/24

「神の前に富む者」  ルカ12:13〜21

○貪欲に注意することは、全ての人にとって必要なことです。より多く持ちたいという思いは留まる所を知りません。しかし、その人のいのちはその人の所有物ではありません。むさぼりこそ偶像礼拝です(コロサイ3:5)。「神の戒めのどれかに反することを、心の中でほんのわずかでも願ったり考えたりすること」がむさぼりです(問113)。人は、神にも、富にも仕えることはできませんから(ルカ16:13)、富や物にではなく、それを与えてくださった主にのみより頼むべきです。
  ○愚かな金持ちは、「自分の」作物、「自分の」倉、「自分の」穀物、「自分の」財産、「自分の」たましい、について心の中で思いめぐらしました。全てに対して自分のものは自分の好きにできると考え、自分の楽しみと喜びのためだけに自分の持ち物を用いて当然だと思っています。この自我と富に対する依存こそ、偶像礼拝に他なりません。主の言葉を聞かないことこそ、最大の愚かさです。主の摂理の中で、主の恵みを認めない高ぶりを、主は愚かであると言われます。
  ○自分の持っている財産にいのちの保証があると考えたことに、彼の愚かさがありました。自然と人生と歴史のすべてを支配しておられる神である主の許しの中で私たちは生かされています。私たちのたましいを今夜取り去ることのできるお方がいる、という厳粛な思いが、私たちの生きることも死ぬこともそして、死んだ後のことも正しく認識させます。私たちのたましいは、主の主権とご支配の下にあってのみ存在し、意味を持つのです。そして、たましいが主ご自身のものであるように、私たちの財産も主のものです。
  ○自分で自分のことをコントロールできることが自由だとしますと、結局、自分で自分を縛っていることになります。自己満足、自己追求に専念することが愚かさです。神である主との関係を認め、主の支配と摂理を認める時、私たちは謙遜にされ、自分のために蓄えないで天に宝を積み上げ、神の前に富む者とされます。私たちのいのちも、持ち物も、あらゆるものの所有権を神である主にお返しする時、自分のものは自分のものではなく主のものであることを認める時、私たちは神の前に富む自由を得るのです。それが「ただ一つしかない慰め」です。その時、地上のものにより頼まず、神である主の摂理にのみより頼む、神の前に富む者とされるのです。

HOME