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「牧会ミニ通信」 2006.9.3.〜2006.9.24. |
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| 横浜上野町教会牧師 柴田 智悦 |
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210 2006/9/3
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○証拠とは、それによって事実を証明し権威を与えるものですが、神である主を証拠立て権威づけるものは主ご自身です。神である主以上のものは存在し得ず、それは、ただ信じる以外にはないからです。しかし、初めから信じたくない人には、どんな証拠を提示しても無駄です。イエス様が非難されたのは、彼らが単にしるしを求めたからではなく、悪意をもって、み言葉に従わない口実を作るために求めたからです。 |
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211 2006/9/10
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○「きよめの洗い」は、宗教的な儀式の問題でした。いのちのために与えられた律法も、規則で縛りますと、敬虔さが薄まり本質が失われ、偶像崇拝に陥ってしまいます。私たちは、天の御国に帰る時まで謙遜に自己点検をしつつ、完成を目指してパウロのように一心に走り続けるべきなのです(ピリピ3:11-14)。私たちの行いは私たちの内面のきよさを反映しています。私たちを創造された主は、私たちの体もたましいもお造りになられました。光であるイエス・キリストご自身を内に持ち、内側をきよめるなら、全てがきよくなるのです。私たち自身、からだも魂も主のものであると告白しているのですから、私たちの内なる人を主にささげることこそ、主の御心に最もかなう施しです(ホセア6:6)。私たちが、自我を砕かれ自分自身を主にささげるときにこそ、私たちは主を崇めるにふさわしい、きよい者とされるのです(テトス1:15)。 |
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212 2006/9/17
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○「偽善」とは、ある役を演じることです。パリサイ人たちは、いろいろな律法を守ることによってあたかも自分が熱心な信仰者であるかのように演じていたのです。そうして、イースト菌がパン全体に広がってパンをふくらますように、人々の中に偽善を広めて行きました。 |
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213 2006/9/24
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○貪欲に注意することは、全ての人にとって必要なことです。より多く持ちたいという思いは留まる所を知りません。しかし、その人のいのちはその人の所有物ではありません。むさぼりこそ偶像礼拝です(コロサイ3:5)。「神の戒めのどれかに反することを、心の中でほんのわずかでも願ったり考えたりすること」がむさぼりです(問113)。人は、神にも、富にも仕えることはできませんから(ルカ16:13)、富や物にではなく、それを与えてくださった主にのみより頼むべきです。 |