「牧会ミニ通信」
2006.12.3.〜2006.12.24.
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  221                                                                                               2006/12/3

「神の国の備え」  ルカ21:25〜36

○私たちが何をするにしてもそこには目的があり、それを実現することができたなら、私たちの人生は十分意味があったと思われます。では、逆に、目的を達成できなかったとしたら人生の意味はどうなるのでしょうか。はたして、この世の終わりである前兆が現れ始めたときでも、人生に意味を与える目的を見いだせるでしょうか。その日には、私たちがある意味絶対的な信頼を置いている宇宙空間ですら崩れ落ち、私たちが土台を置いている地でさえ揺り動かされるのです。
  ○イエス様はその中で、私たちにいちじくの木や芽を出しているすべての木々を見るように言われます。その木々は新しい夏の到来を告げています。すべての物事の終わりにおいても、なお主はすべてを始めることのできる神であられる、ということです。そればかりか、主の御業は私たちの終わりに先立って働かれています。輝かしい栄光を帯びて来られる人の子が、私たちを光に向かって立たせて下さいます。それは、私たちの贖いの時だからです。救い主として来られるお方は、私たちを安らかにし、義とし、救いをもたらして下さいます。
  ○神である主の歴史は、常に新しい始まりです。イエス様とともにその主の歴史を歩んでいる私たちは、常に繰り返して新しく始めることができます。そこからからだを真直ぐにし、頭を上げてさらに前進できる始まりなのです(イザヤ43:19, 2コリント5:17,ピリピ3:13,14)。その時、主ご自身が私の目標となってくださいます。主が到来されたことによって、主ご自身が、私たちと共に新しく始めて下さるのです。
  ○そして、イエス様のご降誕によって、既に神の国は地上に来ていますが、今や、主のご支配が完全に達成される神の国が近づいているのです。その時がいつかはわかりませんので、主は、気をつけて、目を覚まし、準備し、祈っているよう勧めておられます。まだ時が残されている今、イエス様が最初に来られた時のことを思い起こしつつ私たち自身を備えるために、アドベントがあります。主が備えて下さったクリスマスを私たちが思い起こすことが、やがて到来する最後のアドベントを迎える準備となるのです。そこに「この民全体のための素晴らしい喜びを知らせに来たのです」という御使いの声を私たちも聞くことができるでしょう。祈りつつ目を覚まし、やがて来られる主をお迎えする準備をしましょう。

  222                                                                                               2006/12/10

「主の道を用意せよ」  ルカ3:1〜6

○バプテスマのヨハネが登場した時を、マルコは「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」としています。このイエス・キリストの福音は、歴史の中の出来事に裏付けられて始まっています。ローマ皇帝による政治の支配下にある混乱した時代に「神のことばがヨハネに下った」のでした。主の沈黙が終わり、生ける神である主が再び語り始められたのです。しかも、イスラエルが神の民として歩み始めた荒野で与えられました。以来、神のことばは告げ知らされ続けています。
  ○この預言者であるヨハネが説いた「罪の赦しを得させる悔い改め」は「いのちを得させる悔い改め」に他なりません。これこそイエス様の福音であり、私たちが証人として宣べ伝えるべきことです。その「罪の赦しを得させる悔い改め」すなわち、「いのちにいたる悔い改め」の信仰がユダヤ人だけではなく、すべての人々に与えられました。ヨハネはそのような「福音」をバプテスマという儀式を通して宣べ伝えたのです(3:18)。そしてそれは、イザヤの預言の通り「あらゆる人が、神の救いを見るようになる」ためでした(イザヤ40:5)。
  ○「悔い改め」とは、後悔だけでなく「回心」をも現しています。それは、今までの生き方を180度方向転換して、今まで背を向けて来たまことの神である主に立ち返る、ということです。主はイスラエルに「悔い改めと罪の赦し」を与えるために、御子イエス様を救い主としてご自分の右に上げられました(使徒5:31)。つまり、回心も同じように主からの賜物です。悔い改めたから赦されるのではなく、悔い改めも罪の赦しも、主からの救いの恵みとして頂くものなのです。
  ○「罪」とは主の御心から私たちが外れていることです。この罪が赦されるために必ず償いが必要でしたので、ユダヤ人たちは罪の赦しを得るために頑張って律法を守ろうとしていました。しかし、ヨハネは主に立ち返れば罪が赦される、と語ったのです。ただ主に立ち返るならば、回心も罪の赦しも一緒に頂けるという「福音」です。罪の償いは主が責任を取って下さり、イエス様の十字架と言う形ですでに支払って下さいました。私たちにはもはや「罪が赦されるための悔い改め」しか残されていません。ただ主に立ち返ればそれがいのちに至る悔い改めとなるのです。ですから、私たちも悔い改め、主の通られる整えられた道を用意して行きましょう。

  223                                                                                               2006/12/17

「さらに力のある方」  ルカ3:7〜18

○ヨハネは、主に先立って行き、主の道を整える使者でした。そうして真直ぐに整えられた主の道を通って主がおいでになります。ところが、その主が来られる主の日は御怒りの日であるとヨハネは告げています。ですから預言者たちが繰り返し警告して来たように(ヨエル2:12,13)、ヨハネも同じ警告を、バプテスマという形を通して繰り返すのです。そしてその御怒りは「必ず来」ます。しかもヨハネは、本当に悔い改めて主に立ち返ったアブラハムの子孫には、悔い改めにふさわしい実が結ばれるとも言っています。
  ○悔い改めにふさわしい実としてヨハネが勧めていることは、貧しい人に与え困っている人を助けるという、誰にでもできるあたりまえのことです。そのような小さな、あたりまえの生活をイエス様は最後の審判の日に評価して下さるのです(マタイ25:34-40)。それがヨハネの知らせた福音です。しかも、ヨハネはそれを王に対しても同じように伝え、ついには処刑されてしまいます。小さなことでも、み言葉に言われている通りやり続けることは、罪の赦しを得させるための悔い改めにふさわしい大きな実を結ぶことになります。
  ○来るべきお方は、ペンテコステの日に成就した「聖霊の火」による聖めをなさるお方です。そして、終わりの日にふるい分けをされます。つまり、そこへ行くまでの私たちの地上の生涯は、脱穀のようなものだということになります。ですから、試練が起こります。その試練に耐え、実を結び、倉に収められるために、私たちは、力と命の源であるご聖霊が授けられるのを待つのです。そして、そのご聖霊を注いで下さる方こそ来るべきお方です。この聖霊と火のバプテスマを受けるならば、脱穀されるような試練の生涯でも耐え抜くことができ、実を結んで、収穫の恵みにあずかるのです(1ペテロ1:5-9)。ご聖霊は、苦しい試練の中にあっても、それを与えて下さった神である主が天の父であり、私たちはその父なる神の子であるということを確信させて下さるお方でもあります。そのような聖霊のバプテスマを授けて下さるお方こそ、来るべきお方です。そのお方こそ、ヨハネよりもさらに力のある方、神である主キリストご自身です。そのお方が生まれたクリスマスと、そのお方が再び来られる再臨の時を、感謝と喜びに満たされてお迎えする準備を整えましょう。

  224                                                                                               2006/12/24

待降節主日礼拝
「祝福の源」  ルカ1:39〜45

○「男の子を産む」という御使いの言葉を信じたマリヤは、すぐに御使いから告げられたしるしを確かめに、また、それによって自分の信仰の確証を得るために、エリサベツの所を訪ねました。そして、マリヤがエリサベツに挨拶をしたとき、エリサベツの胎内の子が最初の預言をし、マリヤの胎内の子を歓迎しました。すると、エリサベツ自身も聖霊に満たされ、聖霊によって語り、マリヤから産まれて来るお方こそ「私の主」と告白しました。そして、「救い主」を生む母として選ばれたマリヤこそ祝福された幸いな人だと告げました。
    ○マリヤが幸いな者として祝福されたのは「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった」からです。それは、マリヤが「神のことばを聞いてそれを守る人」だったからです (ルカ11:27-28)。マリヤは信仰のうちに主のことばを受け入れました。そしてその信仰は自分自身をささげる従順な献身へとつながって行きました。これこそ、マリヤの祝福の源でした。さらにマリヤこそ「神のことばを聞いて行う人」(ルカ8:19-21)だったのでイエス様の真の家族とされました。
  ○エリサベツがマリヤを「あなたは女の中の祝福された方」と祝福しているのは、女士師デボラがイスラエルの勝利を導いたヤエルという女性を祝福した言葉と同じ言い回しです(士師記5:24)。また、「あなたの胎の実も祝福されています」と言っているのは、約束の地カナンを目前にしているイスラエルの民に対して、モーセが語った言葉と同じです(申命記28:1-6)。それは、主の約束の成就であるクリスマスを目前にしている私達にも与えられた祝福でもあります。
  ○マリヤを祝福したエリサベツ自身も幸いな人とされています。祝福の源は「主によって語られたことは必ず実現すると信じきる」信仰だからです。マリヤ同様エリサベツも「神のことばを聞いてそれを守る」人とされ、「神のことばを聞いて行う」人とされていたのです。つまり、マリヤを祝福したエリサベツ自身にも、マリヤのうちに認めた祝福の源が与えられており、イエス様の真の家族に加えられていたのです。マリヤから生まれるイエス様を「私の主」と告白し、このお方を本当に喜びとして「主によって語られたことは必ず実現する」と信じきって生きていくならば、私達もまた祝福の源を与えられたイエス様の真の家族に加えられているのです。

  225                                                                                               2006/12/24

降誕節主日礼拝
「この方こそ主キリスト」  ルカ2:8〜20

No.225(06/12/24) ○御使いは「この民全体のための素晴らしい喜びを知らせに来た」と言っています。つまり「福音を宣べ伝えに来た」、と言っているのです。そしてその喜びとは、きょうダビデの町であなたがたのためにお生まれなったお方こそが、救い主であり、主であり、キリストである、ということです。それは、神ご自身、ということですから、私たちは福音を信じることによって救われるのです(ローマ10:9,1コリント15:2)。
  ○御使いは「民全体のための」素晴らしい喜びを、あなたがた羊飼いに伝えます、と言っています。だからあなたがたはこの福音の知らせを民全体に宣べ伝えて行く福音の宣教者となる、ということです。福音という喜ばしい知らせは、その人自身が福音を聞いて「神をあがめ、讃美」するようでないと、次に福音として伝えられません。そして、貧しい人のための福音だからこそ、あえて貧しい羊飼いに委ねられたのです。また、仮の宿である地上で過ごされたイエス様の福音だからこそ、野宿している羊飼いたちに知らされたのです。
  ○御使いたちは、天においてはすでに栄光があり平和が満ちていることを讃美しています。戦うための軍隊が、天においては主を讃美し、平和を歌っているのです。その天においてはすでにある、神である主ご自身が持っておられる平和を、主は、御子イエス様を通して、人間の世界に送って下さったのです。天において絶えず主を賛美する御使いの軍勢をお持ちの主が、地上においても主を賛美する新しい民を造り出して下さるのがクリスマスの祝福です(詩篇102:18)。
  ○天の平和が、平和の主ご自身によってここにもたらされ、さらに主が共にいて下さるので、私たちが共に話し合える平和な関係が保たれるのです。それは、私たちがまだ罪人であり、神の敵であり、御心にかなわない者であった時に、イエス様が十字架に架かり、私たちと神である主との平和を取り戻して下さったからです(ローマ5:8)。そうして私たちを御心にかなう者へと作り替えて下さり、私たちの間にも平和をもたらして下さるのです。そのためにお生まれ下さったイエス様を覚えるのがこのクリスマスです。
    ○ですから、私たちは常に天を見上げ、主に栄光をお返しし、主をほめたたえ、平和の主ご自身をお迎えしたいと思います。そのとき私たちの間に、平和な関係が産み出されます。

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