「牧会ミニ通信」
2006.1.1〜1.29.
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  178                                                                                               2006/1/1

「その名はインマヌエル」  マタイ1:21〜25

○イエスという名はヘブル語ではヨシュア、「主は救い」という意味です。特にイエス様は「ご自分の民をその罪から救ってくださる」お方であり、それによって救われるという名は、世界中でこの名前の他にはありません(使徒4:12)。
  ○イエス様の名は「インマヌエル」とも呼ばれます。それは、「神は私たちと共におられる」という意味です。主の約束のみ言葉を信じられないかたくなな人間に対して、主ご自身が私たちに一つのしるしを与えられるという預言 (イザヤ7:14)が、このイエス様において成就したのです。
  ○主が共におられるならば、たとい危機が迫っていたとしても、安心し、主に期待できます。主の御心を求めていくとき、主はご聖霊によって御心を示してくださいます。順調なときほど主との交わりが必要なのです。困難なとき主が戦っておられるように、順調なときも主が先立って進んでおられます。
  ○ヤコブが飢饉のためエジプトのヨセフのもとに行こうとしたとき、彼はベエル・シェバでいけにえを捧げました。それは、自分自身の意志を捨て、主の御心に何も反抗しないで従うことができるように助けてくださいという祈りです。主は夜の幻の中でご自身をヤコブに現され、恐れずにエジプトに下るようにと仰せられました。さらに主は、主ご自身がヤコブと共に行き、彼の歩みの全てを導き、再び約束の地に戻してくださるという約束によって励ましてくださいました。
  ○自分がすべてをしなければならない、という思いから私たちを解放してくださるために、インマヌエルの主が私たちのうちに来られました。主ご自身が私たちに先だって私たちを導いておられます。私たちの歩み一つ一つに摂理の主が、主権を持って関わっておられるのです。主が伴い、背負い、鷲の翼に載せるようにして私の人生を導いてくださるのです。私がどこへ行こうとも摂理の主ご自身がいっしょに行ってくださり、どこからでも主ご自身が必ず再び導き上ってくださるのです。この救い主こそインマヌエルの主であり、この主が私たちとともにいてくださるなら、私たちは罪から救われているのです。そして、イエス様は復活して天に昇られる時にも「世の終わりまで」いつもともにいる(マタイ28:20)と約束してくださっています。いつも共にいてくださるインマヌエルのイエス様に信頼し、委ねて歩む一年としましょう。

  179                                                                                               2006/1/8

「目から梁を取りのけよ」  ルカ6:39〜42

○私たちが人をさばいてはいけないのは、自分がさばかれないためです。それは、他の人から批判されないように、というより主によってさばかれないように、という意味です。私たちは永遠のさばきからは免れているにしても、神の子であるために与えられるさばき、罪に定められないための「主による懲らしめ」というものがあるからです。私たちが自分をさばいて自分のうちにある悪いものを取りのけることによって、主からの懲らしめも免れることができるのです。そして、大胆に確信を持って主の前に立つことができるのです。
  ○また私たちが人をさばくことによって、自分の受けるさばきの基準を自分で決めることになるからです。そしてさらに、主ご自身が、私たちの設けたその基準に従って私たちをさばかれるからです。もし自分がさばく相手と同じことを行っているならば、自分で自分を罪に定めることになるのです。
  ○さらに私たちがさばいてはいけないのは、もともと私たちに人をさばく資格がないからです。私たちが人を批判したり、欠点を指摘したりするのは、その人を本当に助けたいというより、ただ私たちがそれを見つけて喜んでいるという敵意を隠し持っている場合があります。それを主は「偽善者たち」と非難されるのです。もし、本当に相手のためを思い、純粋に相手を助けたいと思うなら、まず自分の目から梁を取りのけることです。そうすればはっきり見えるようになります。
  ○まず、自分の中にある人をさばいたり批判したりあら捜しをしたりする態度こそ、相手の目にある小さなちりに比べたら梁のようなものだということを認めることです。それは、自分を真正面から見つめ直し、自分についての真実を知るということです。1コリント13:4-7を客観的な基準にして自分自身を判断し、その上で何を言いたいのか問い直すべきです。そうしてみ言葉の基準によって自分自身を検討し直し、自分自身をさばいていくならば、み言葉の前に謙遜にならざるを得ず、主によってさばかれることがないのです。そのようにして自分の目から大きな梁が取りのけられたとき、本当に相手のことを思い、相手を助けるために、その目にある小さなちりを取りのけるにふさわしい者とされるのです。私たちがまず自分自身をさばくことによって目から梁を取りのけ、イエス様の十字架の血によってきよめていただけますように。

  180                                                                                               2006/1/15

「良い木は良い実を結ぶ」  ルカ6:43〜45

○私たちがクリスチャンであるということは、堕落していてどんな善にも全く無力であらゆる悪に偏っていた私たちの本性が、神の御霊によって新しく生まれ変わったということです(ガラテヤ2:20)。それは表面的な事ではなく、木とその実との関係のように、本質的な問題です。実の善し悪しではなく、木の問題です。まず、木であるその人自身を良くしなければ、行いである実も良くはならないということです。
○  私たちの信じていることは生活に関わってきます。私たちは自分が何者であり、何を信じているかを生活において外に現しているのです。しかし、実は見分けにくいものです。明らかに違うものはかえって分かりやすいのですが、似ているようで違うものには注意が必要です。また、生まれながらに健全で高い基準に生きている方もいます。しかし、主の目に尊く価値があると見られるのは、ご聖霊によって、生まれ変わった新しい本性から溢れ出てくるものだけなのです。
○  私たちはイエス様の十字架を通して、人間の義はことごとく無益であって、人間は徹底的に無力で汚れた罪人であるという事実をいつも思い出すようにしている必要があります。私たちが福音によって全く生まれ変わり、ご聖霊の支配の下で歩んでいるならば、キリストの香りが放たれるのです。そして、福音を受入れた証拠としての実が結ばれます。良い木はみな良い実を結ぶのですから、私たちが自分自身のうちに主のご性質を頂いているならば、必ずこの良い実を結ばずにはいられなくなるのです(ガラテヤ5:22,23)。そして、良い木とはイエス様に繋がっている人のことです(ヨハネ15:5)。
○  私たちが福音を心から信じているならば、私たちの変えられた人格のうちにあるものが、やがて外へ現れ出てきます。私たちの語る内容よりも生活態度のほうが重要です。それによって、私たちの本当の姿が明らかにされてしまうからです。 本来、だれ一人として神である主からの罪のさばきを免れることができません。しかし、その私たちが偽善者としてさばかれることが無いように、イエス様ご自身が、天の父のさばきをお一人で受けてくださったのです。このことを受け入れることによって、私たちは、既に神である主ご自身の性質にあずかっており、良い木にして頂いていることを覚えておきたいと思います。木が良ければ当然良い実が結ばれます。

  181                                                                                               2006/1/22

「岩の上の土台」  ルカ6:46〜49

○地面を深く、岩の地盤に達するまで掘り下げてその岩の上に土台を据えて家を建てた人は、人生の基礎を正しく据えた人のことです。労力を惜しみ、地面を掘りもしないでそのまま地面の上に、土台もなしに家を建てた人は先見の明がありませんでした。私たちの人生も、目前のことだけではなく、長期的な、永遠の視点でものを見ていくことが大切です。
  ○主を知っている人は、主の摂理や目的、計画が永遠で変わらないことを知っているので待つことができます。また謙遜になってイエス様が語る言葉を聞き、立ち止まって、起こりうる可能性や、不慮の出来事を想定し考えます。建てる前に十分検討することが必要です。どのような土台が定められているかは、建て終わってからではわかりませんが、土台が何より一番大切なのです。そして、その土台こそイエス・キリストなのです (1コリント3:10,11)。これを信じるものは、あわてることがありません (イザヤ28:16)。私たちは人生を建てるべきみ言葉の土台を選ぶことができるのです。
  ○そして、イエス様の言われることを行うことこそ、岩の上に土台を据えることです。それこそ天の父の御心です。イエス様は神の言葉そのものですから。信仰とは、頭だけのものではなく、いつでも実際的です(ヤコブ2:17,26)。信仰とは、私たちの生き方に現れるものです。イエス様のみ言葉を聞いてそのとおり行なうことが私たちの人生のただ一つの確かな土台です。そして、そのようにイエス様に従う生活は、どんな嵐が来ても安全なのです(コロサイ2:7)。
  ○私たちは自分自身を否定するほど深く掘り下げないとキリストの中に根ざすところまでたどりつけません。私たちはみ言葉を聞き、聞くだけでなく行なうことによって、キリストに根ざすことができます。それによって、「教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、・・かしらなるキリストに達することができる」(エペソ4:14,15)のです。私たちは自分の人生の歩みを、自分自身を基準とするのではなく、み言葉を基準として歩むことができます (テトス2:14)。私たちは確かに御国に入れていただけますが、今、イエス様ご自身を知り、イエス様とともに歩き続けることができ、御国の味わいをこの地上で楽しむことができるのです。それが岩の上に土台を据えて家を建てることです。

  182                                                                                               2006/1/29

「ただおことばを」  ルカ7:1〜10

○この百人隊長は、ユダヤの国民を愛し会堂を建ててあげるほどの宗教的な人でした。ユダヤ人の長老たちが、イエス様のみもとに来て、百人隊長のしもべのために熱心にお願いしたのは、彼がユダヤ人の社会の中で信頼され尊敬されていたからです。しかし、ユダヤ人の長老たちの態度も腑に落ちません。もし、イエス様が神である主の賜物を分け与えることによって、しもべの病気をいやすことができると思っているならば、なぜ、彼ら自身がまずイエス様を信じなかったのでしょうか。反対に、どうせそんなことはできるはずがないと思っていたならば、彼らの熱心な願いは偽善にすぎません。
  ○この百人隊長は謙遜にも、イエス様を自分のような汚れた異邦人の家に迎え入れて、神の預言者であるお方に迷惑をかけられないと考えました。そればかりか、自分とイエス様が顔を合わせることさえふさわしくないと恐れていました(使徒10:28)。そして、彼はイエス様の大きな権威を認めており、イエス様の命令と言葉だけで、彼のしもべが治してもらえると信じていました。自分の百人隊長としての権威がある結果をもたらすのであれば、イエス様の権威はより多くの結果をもたらすはずだということに、信頼を置いていたのです。彼は神の力がイエス様のうちにあると確かに理解していました。彼は、人間の言葉による力ではなく、まさに、神ご自身の言葉による力を求め、その神の言葉をイエス様に求めたのです。イエス様は百人隊長が「りっぱな信仰」から語ったということを認めておられます(7:9)。彼は神の力がイエス様のうちにあると確かに理解しており、イエス様が神の言葉を語られるならば、その通りになると信じていたのです。
  ○百人隊長はイエス様と直接会う事も話す事もありませんでしたが、確かにイエス様の恵みを受け取るための器として、信仰をさしだしました。イエス様もそれに応えてそこに恵みを注がれました。私たちの信仰をイエス様が満たして下さるのです。イエス様は私たちの祈りを確実に聞いておられ、イエス様のみ言葉のあるところには、百人隊長のしもべをいやした主の力が働き続けています。それは、創造者であり支配者であり、神であり救い主である唯一のお方の力です。確かに私たちを救って下さったイエス様が、なお私たちをいやし、また生かして下さる事に信頼して歩みたいと思います。

HOME