「牧会ミニ通信」
2005.09.18〜09.25.
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  165                                                                                               2005/9/18

「あわれみかいけにえか」  ルカ6:1〜11

○イエス様と弟子たちは、ある安息日に麦畑の中を通っておられました。弟子たちは「ひもじくなったので」麦の穂を摘んで、手でもみ出して食べました。多くの人々のために働き続けたイエス様と弟子たちは飢えて疲れておられました。おまけにイエス様たちを隣人として安息日の食事に招く人は誰もいませんでした。その弟子たちに向かってパリサイ人たちは、彼らが麦の穂を「摘んで手でもみ出して食べた」ことが、安息日の規定(出34:21)に反すると言って非難しました。弟子たちが刈り入れ・脱穀・ふるい・食事の用意、しかも収穫の十分の一を主に捧げないという罪を犯したというのです。安息日を汚し、十戒に違反した彼らは石打の刑にされなければなりません(民15:32)。パリサイ人たちは安息日規定を守ることに熱心のあまり、恵みと喜びを見失っていました。
  ○しかしイエス様は、安息日の律法の本来の意味を問題とし、主が安息日を設けられた目的が何であるのかを問われました。そして、イエス様こそ救い主として安息日の主であり、安息日の正しい用い方を決定できる唯一のお方でした。本来、安息日の律法は、人間を神である主との交わりに導く恵みの業であり、特権として、喜びとして守るものでした。イエス様によって、律法の本来の意味が明らかにされました。
  ○イエス様にとって安息日は、父なる神との安息を守る時であり、み言葉を語り教えられる日でした。いつものように会堂に入って教えられたとき、イエス様は、右手のなえた人を真ん中にたたせ、憐れんで癒されました。安息日を守るとは、何をしてはならないか、ではなく何をすべきかが問われるべきです。何もしないことは、かえって悪を行っているのです。
  ○右手のなえた人も、信仰を持って答えました。信仰とは、自らを主に委ねみ言葉に従うかどうかの決断です。この人もその通りにしたとき、その手が元通りになりました。彼のいのちが回復され、本来人のためにある安息日の本当の意味が回復されました。イエス様は彼のいのちを救い、真に生かされたのです。イエス様によって、約束された神の国が到来し、罪あるものに赦しが、病にあるものには癒しが、悲しんでいるものには喜びが、私たちには安息日を通して示されていた永遠の安息という祝福そのものがもたらされたのです。私たちも、本当の安息日の意味に生きていきたいと思います。

  166                                                                                               2005/9/25

「新しい神の民」  ルカ6:12〜19

○私たちは、人生のどこかでイエス様に出会い、イエス様に触れ、主のみ言葉を聞きました。そこに信仰という関係があったからこそ、その出会いによって私たちの存在そのものがいやされ、本来の安息に入れられたのです。インマヌエルの主が私たちを受入れてくださるためにこの世に来られたことを知ったとき、私たちは本当に生きることができました。
  ○イエス様が祈りながら夜を明かされたのは、弟子たちの中から12人を使徒として選ぶためでした。彼らは、世に遣わされるため、父なる神が「世から取り出して」イエス様に与えられた人々でした(ヨハネ17:6)。十二使徒によって教会の土台がすえられ、終わりの日の完成を待つことになりました。
  ○それにしても、使徒たちの名簿から考えさせられることは多くあります。イエス様にとってもこの一晩の祈りの時は、父なる神との格闘の時だったのではないかと思えるほどです。彼らはごく普通の人々であり、祈りながら夜を明かされたイエス様によって選ばれて使徒とされたのです(ヨハネ15:16)。だからこそユダの裏切りも、教会の信仰を動揺させるどころか、かえって強めることになりました。そのことによって教会が立つのは人間によるのではないことが示され、すべての人が信仰に堅くとどまるように教えられました。
  ○私たちの教会が立てられているのも、その最初の所にイエス様の祈りがあったからです。私たちがイエス様の祈りにあずかり、ご聖霊に導かれて、主の祈りを継承していくところに、教会の交わりがあります。だからこそ、教会は山で祈り、礼拝するだけではなく、山を下り、平地に立って、この世の人々の中で、人々の不幸や苦しみや問題に直面し、み言葉を宣教し、イエス様のいやしのみ業にあずかるのです。
  ○私たちも、一方的にイエス様に選ばれ召されて教会に加えられました。主がイスラエルを選んで始められたことを、主は私たちを弟子として招くことによって今も進めておられるのです。それは、新しい神の民である教会を通して、地上のすべての民族を祝福するためです。だからこそ、教会は神の民を呼び集めるために福音を宣教し続けるのです。主が地上で始められたことを、イエス様に招かれた弟子たちが引き継いでいます。私たちもご聖霊の助けによって、イエス様にお従い続ける人生を歩ませて頂きたいと願わされます。

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