「牧会ミニ通信」
2005/12/04〜12/25
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  175                                                                                               2005/12/4

「何の良いところが」  ルカ6:32〜36

○「天の父のようにあわれみ深くしなさい」という勧めは、マタイでは「天の父のように完全でありなさい」(5:48)と言われています。それは、私たちが創造された目的を果たすべきことの勧めです。私たちはあわれみ深い主にかたどって造られました。犠牲的な主の愛を示すとき、私たちはいと高き方の子とされ、子とされた私たちは、子が父に似るように、天の父に似た完全な者とされるのです。
  ○クリスチャンとは、天の父である神の子とされ、天の栄光に地上で与っている者のことです。生まれながらの人とは違った者とされているので、主ご自身の特徴を、私たちの日常生活において表すことができるのです。私たちが聖であり義である神を「天のお父様」と呼ぶことができる、神の子とされているならば、そのような父に似た者とされます。
  ○クリスチャンとは、新しく造られた者のことです(2コリント5:17)。私たちが神の前に全く罪深く、神に愛される価値のない者であり、神の敵でありながら、神がそのかけがいのないひとり子イエス様をこの世に送り、敵であった私たちの全ての罪を負わせて十字架にかけ、私たちの身代わりとして死のさばきを下されたことを知っています。ご自分の身を裂くようにして、私たちを滅びの中から救い出してくださった天の父の愛が私たちに注がれていることを知っているので、私たちもまたイエス様に贖われている敵を赦すことができるのです。天の祝福が報いとして約束されているからです。
  ○クリスチャンとは、いと高き方の子どもとされた者のことです。子どもが親に似て行くように、神である主が私たちの父であるならば、私たちも父に似てくるのです。私たちの内に神の性質が、ご聖霊によって宿っているからです。罪を悔い改めご聖霊によって新しく生まれ変わり神の子とされ神の愛を注がれている者だけが、天の父のようにあわれみ深く、愛において完全になることができます。
  ○私たちにある良いところとは、天の父の特別な性格が私たちのうちにあるということです。いと高き方の持っているものを、私たちも持っているということです。私たちは子どもとして父に似て行くのです。それは、まず、私たちが天の父の子どもとされたからです。私たちがいと高き方、天の父の子とされていることを、確認しておきましょう。

  176                                                                                               2005/12/18

「さばいてはいけません」  ルカ6:6:37〜38

○アドベントのたびに私たちは、再び来られるイエス様をお迎えする準備をしています。それは「裁き主」として来られるイエス様を喜び待ち望みつつ備えているということです。
  ○イエス様が、「さばいてはいけません」と言われたのは、一切の批判や裁判を否定しているということではありません。私たちは常にある基準によって判断し、その意味でさばきを行っています。教会戒規の執行は、み言葉の宣教と、聖礼典の執行と並んで教会のしるしといわれています。イエス様ご自身「正しいさばきをしなさい」(ヨハネ7:24)とも言われました。つまり、私たちがみ言葉を実行しようとするとき、み言葉を判断基準として物事を評価することは必要なのです。ですからイエス様は、人を非難することを注意しておられるのです。それは、自分が正しいと思い、他の人に対して優越感を抱き、軽蔑し、傷つける、パリサイ人精神です。
  ○私たちが人をさばくとき、本来神のものであるはずのものを横取りしています。主こそ裁き主だからです。そして、イエス様は人のいのちを救うために来られたのに、私たちは人をさばき滅ぼそうとします。本来私たちには、自分で自分をさばく権利さえありません(1コリント4:3)。私たちの「古い自分」はイエス様と一緒に十字架につけられ死んで葬られたはずです。そして、今やイエス様の復活と共に私たちは新しく作られ、私たちは罪の奴隷から解放され、人に対しても自分に対しても一切のさばきから解放された新しい自分を生きているはずなのです(ガラテヤ2:20)。イエス様を信じて永遠のいのちを頂いている私たちはさばかれません (ヨハネ3:17)。また「キリストが代わりに死んで下さったほどの人」(ローマ14:15)を、私たちがさばく権利はないのです。
  ○私が今、主の前にどう歩んでいるかということが大切です。私たちはキリストの義のゆえに主の前に立つことができます(ローマ5:8)。イエス様が「失われた人を捜して救うために」(ルカ19:10)この世に人として来られ、十字架の死を死んで下さったので、私たちはイエス様が恵みと憐れみによって備えてくださった、いのちに至る道を歩ませて頂いているのです。既にイエス様が私たちのさばきを受けてくださったので、私たちはさばきに会うことはないのですから、主のために生き、キリストの似姿に変えらる生涯を願わされます。

  177                                                                                               2005/12/25

「人となられた神」  ルカ2:6〜7

○私たち人間が罪を犯して傷つけた神の栄光を回復するために主ご自身がイエス・キリストとして来ざるを得なかったのがクリスマスの出来事です。イエス様は、やがて私たちの罪の身代わりとして十字架に架かるためにお生まれになりました。イエス様は人々からさげすまれ、のけ者にされ、卑しめられたご生涯を送られました (イザヤ53:1-6)。反対に私たちは、自我によって神の栄光を傷つけ、罪に罪を重ねています。イエス様は、この自我から私たちを解放してくださるために来られ、ご自分の十字架の死による贖いによって、私たち人間に仕えてくださったのです(ピリピ2:6-8)。
  ○もし私たちが、イエス様の教えを実行しようとするならば、自分の権利をまず捨てなければならないと気づかされます。自我が取り除かれるとは、キリストと共に十字架に付けられ(ガラテヤ2:20)、古い自分に死に(ローマ6:6) 、キリストが私のうちに生きておられる(ガラテヤ2:20)状態です。そして私たちこそ、キリストの血と御霊によって罪が取り除かれ、罪に死に、新しく造られ、生まれ変わらされた者なのです。
  ○イエス様は、ご自分から進んで父なる神様に全くゆだねておられました。ご自身神の御子であられるお方がご自分を低くされ、とうとう十字架の死にまで従われたのです。私たちがイエス様を告白しているということは、私たちがこのイエス様のように自我に死ぬことを願っているということです。イエス様が十字架で死んで下さったのは、私たちが自我の生き方から救われるためにほかなりません(2コリント5:15)。
    ○自分が罪深さで満ちていて死んでいる状態だと認めるとき、主は私たちを受入れてくださいます。「私はその罪人のかしらです」(1テモテ1:15)と言う告白を主は受入れ「きよい」と宣言してくださるのです。私たちが自我から解放され、自分自身に死に、主の栄光を現すことを人生の目的として生きるために、神の御姿であるイエス様はへりくだって人として来られ、しかも十字架で死んで下さいました。さらにイエス様は復活され、イエス様を救い主と信じる人にご聖霊を送り、その人のうちに住まわれ、働いてくださるので、そのように生きることができるのです。イエス様を信じて心に受入れ、私たちを罪に縛り付けている自我から解放して頂き、イエス様の似姿へと変えられる人生を歩み始めましょう。

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