「牧会ミニ通信」
2005.1.2〜1.30.
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  132                                                                                                 2005/01/02

「その名は、平和の君」  イザヤ9:2〜7

○クリスマスから数えて8日目の1月1日は、イエス様がユダヤ教の律法に従って割礼を受け(創17:12、レビ12:3)、イエスという名前をつけられた日にあたります。「イエス」という名前(ヘブル語でヨシュア)は、「主は救い」という意味です。主は他にも「救い主」「聖なる者、神の子」「インマヌエル」「キリスト」「王」「主」として知らされていました。
  ○北イスラエルがアッシリヤに占領され(BC721)、南ユダもアッシリヤの属国となり、暗闇をさまよい歩いているようなとき、その民に向かい、イザヤが将来の喜びを預言しました。そう宣言できるのは「ひとりのみどりごが私たちのために生まれた」からです。このみどりごは、主権そのものをその肩に担われたお方です。他のすべての「主」と呼ばれるものも、この唯一の「主」によって治められなければならないのです。
  ○私たちは「不思議な助言者」として助言を与えてくださるこのみどりごと共に歩んでいくように招かれています。そして、全知全能、天地を創造された「力ある神」が、私たちの一切のことを引きうけてくださるのです。また、みどりごは、ご自身の敵であり、ご自分を十字架にかけた私たちを、贖ってあまりあるあわれみに満ちた「永遠の父」です。さらに、このみどりごは、私たちと神との正しい関係を十字架によって打ちたてるため「平和の君」としてお産まれになりました。
  ○イエス様のもたらされる平和は、剣を持ってふるいわけ、火によってきよめる分裂(ルカ12:51)によって到達する、見せ掛けではない本当の平和です。そして地の上に平和が来るのは、あくまで御心にかなう人々にだけですから(ルカ2:14)、イエス様ご自身によって、私たち自身がそう変えていただく必要があります。私たちが平和の君であるイエス様のもとに留まっているならば、必ず限りない平和に至ります。
  ○私たちに先立って行かれる、みどりごのイエス様と、そのみどりごの中にある神の力に目を向けましょう。この世界の様々な状態を貫いて、永遠の平和の御国まで、このみどりごだけが私たちを導いてくださることに信頼しましょう。人間の不可能を越えて、万軍の主の熱心が、限りなく続く正義と平和の王国を建て上げてくださることに期待を寄せ、新しい年を歩ませていただきたいと願わされています。

  133                                                                                                 2005/01/09

主イエスのたどりし道」  使徒21:27〜36

○パウロは、ヤコブの意見に従って、ユダヤ人クリスチャンたちの誤解を解き、隔ての壁を取り除くために信仰による自由に基づいて行動しました(1コリント9:19)。しかし、ユダヤ人クリスチャンと一致するためのパウロの愛の労が、パウロの受難のきっかけとなったのでした。この時パウロは、ローマ軍の千人隊長の介入によって難を逃れます。パウロはまず、異邦人たちによって、ユダヤ人の手から救われたのでした。
  ○ユダヤ人たちがパウロを捕えた第一の理由は、パウロが「この民と、律法と、この場所に逆らうことを至る所ですべての人に教えている」と誤解したからでした。もう一つは「ギリシヤ人を宮の中に連れ込んで、この神聖な場所を汚している」と思い込んだからでした。それは、彼らのパウロに対する敵意という隔ての壁が、そのように考えさせたのです。
  ○とうとうパウロは捕えられます。そしてパウロは宮の外庭に引きずり出され殺されそうになります。そこで主は、一人の異邦人、千人隊長クラウデオ・ルシヤを用いてパウロの命を救われました。彼は、ローマの役人らしく正義を貫き、たとえパウロがどんな罪を犯して殺されそうになっていたとしても、その理由を聞き、法に従って処罰すべきであるという立場を守ります。しかし群衆は、パウロを死刑にすることが目的でしたので、彼らに聞いても埒があきませんでした。そこで千人隊長は、事の真相をつかむために、パウロを、アントニアの城にある兵営につれていくことにしました。こうして、パウロは異邦人の手に渡され、囚人となりました。
  ○それは、パウロが主の囚人となり、ついにはローマにまで行って、全世界の中心において主の証人となるためです。パウロは、まさに主の囚人としてイエス様のたどられた道を歩みます。彼は、キリストのからだなる教会のために、自分のからだをもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのでした(コロサイ1:24)。主の復活の証人とされている私たちは、どこに目を留めているでしょうか。パウロや、使徒たちや、歴史の聖徒たちのように、十字架の主のみを見上げているでしょうか。王として来られたイエス様に私たち自身が支配され、イエス様に捕えられた主の囚人として、イエス様のたどられた道を歩ませていただきたいと願わされます。

  134                                                                                                 2005/01/16

「あなたを異邦人に遣わす」  使徒21:37〜22:21
   

○使徒の働きに、パウロの回心の記事は3回記録されています(9,21、26章)。ここでは、ユダヤ人の律法主義者たちを相手に、律法に熱心であった自分が、どのようにキリストと出会い、なぜ異邦人の伝道者となったかを中心に語っています。
  ○回心前のパウロは、厳格なパリサイ人でした。しかし、パウロの律法に対する自分中心の熱心さが、「万軍の主の熱心」(イザヤ37:32)に変えられたのでした。パウロは、自分が迫害しているイエス・キリストご自身から呼びかけられ回心しました。罪を悔い改め、罪の赦しを信じ、主に従いました。またそのために用いられたのはアナニヤという一信徒でした。そして、エルサレムへ帰り宮で祈っているときに、主はパウロの思いに反して「遠く異邦人に遣わす」と言われました。
  ○律法に熱心であったユダヤ人が、主のみ心に無知であったのは、律法の目指していた目標(ロマ10:4)であるキリストを知らなかったからです。神である主は、パウロにみこころを知らせようとされ、彼に「義なる方」を見させたのです。ユダヤ人は、エルサレム神殿で主にお会いしようとして、儀式を重んじてきました。回心したパウロが、その神殿で祈ったとき、そこでお会いしたのは「義なる方」イエス様ご自身でした。イエス様こそ、この神殿の主であられたのです。
  ○ユダヤ人には律法として与えられたものは、すべての人にとっては本性に刻み込まれたものです(ロマ1:20)。善悪の判断や、良心の呵責などによって、人間の行動にある一定の秩序が保たれているのも、この律法があるからです。ユダヤ人は、この律法が「主の」言葉による戒めであることを忘れ、ただ「先祖」の律法として先祖のしきたり通り伝統を守ることに熱心でした。しかし、キリストという目標を見失っていては、いくら人間の法則に熱心でも、何にもならないのです。イエス様こそ律法の中心であり、礼拝の儀式の目標です。このお方を知ることによって、人間の行動と生活におけるすべての法則が一つの目標に重なり、焦点のあった人生をおくることになります。そこから私たちは、み言葉を聞いて行う主の熱心をいただき、ご聖霊によって歩むことができるのです。私たちの考えや好みによらず、主の召しに応えていきましょう。

  135                                                                                                 2005/01/23

「良心によるあかし」  使徒22:22〜23:11

○パウロの最高議会における第一声は「私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました」でした。24:16でも「神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています」と言っています。良心に従って生きるとは、主のみ言葉に従って生活の場で、具体的にそれを実践して生きるということです。パウロはそのように、神である主の前に生きてきました。
  ○ユダヤ人は、律法を誇りながら、律法を破壊してしまいました。神をも、法をも恐れない、良心を失ってしまったようなアナニヤこそ、愚かな白く塗った壁です。宗教の衣服だけをまとい、内実を失ってしまった信仰ほど、空しく力ないものはありません。教会も、神の言葉以外のものによって立つとき、いつも敗北してきた歴史を忘れてはならないのです。
  ○再び兵営に連れて行かれたパウロに主が語られました。主はすでに勝利をおさめておられますから(ヨハネ16:33)、「主の僕たちよ、安心しなさい、しっかりしなさい、勇気を出しなさい」と励まされるのです。しかも、ただ安心するだけではなく、主からいただいた力を用いて、主をあかしするのです。
  ○パウロのあかしは、妥協や弁解によりませんでした。今、パウロを迫害しているユダヤ教徒たちに対して「救いは律法によらない。悔い改めて主イエスを信じなさい」と宣言し、ユダヤ教の議会や大祭司に対して、もはや権威を授けられた民の指導者ではなくなったと否定します。それが福音であり、教会の存在する理由だからです。良心によるあかしは、主の喜ばれる方法で行われ、信じた人の数や人間の評価で決まるのではありません。このとき、パウロによっては一人のユダヤ教徒も回心していませんが、主は「あなたはエルサレムでわたしのことをあかしした」とおっしゃってくださいました。あかしとは、イエス・キリストを、正しく宣べ伝えることです。その後の責任はあかしを聞いた人の側にあります。あかしは、今、全力を傾けてなされなければなりません。パウロは、エルサレムで死ぬ覚悟の中で、主をあかしする機会を見逃しませんでした。「全くきよい良心をもって、神の前に」全力であかしする生活をしていたのです。私たちも、主の熱心によるあかしの生活をさせていただきましょう。

  136                                                                                                 2005/01/30

「人の混乱と神の摂理」  使徒23:12〜35

○パウロが主からの励ましを受けているまさにそのとき、ユダヤ人たちは、パウロを殺す計画を立てていました。しかし、パウロの甥が、その計画を耳にしたのです。「たまたま」そこにいて「偶然」耳にしたかに見える出来事も、神である主の摂理が支配しています。「摂理とは、全能であって・ずっと働いている神の力のことです。」(ハイデルベルク問27)
  ○神の摂理は、運命や宿命のようなものとは違います。一面では、すべて主にお任せすることが必要ですが、私たちはその主のみ旨に従って行動する必要があります。パウロは甥を直接、千人隊長に会わせるよう百人隊長に頼みました。しかし、その先は主にお任せしました。千人隊長は、パウロの護送に470人もの兵士を召集し、その夜のうちに出発させ、パウロをカイザリヤの地方総督ペリクスに引き渡しました。
  ○この出来事の中では、御使いがが現れてパウロを救い出したり、牢獄の扉が開いて逃げおおせたり、教会の熱心な祈りによって支えられたり、という記録がありません。しかし、主が夜パウロのそばに立って励まされ約束されたお告げが、次の日からすぐに実現にむけて動き出しています。パウロの甥の知らせや、千人隊長や大部隊の護衛が、御使いの助けや教会の祈りに匹敵する主の守りとして働いていたのです。主のご支配は、現実の生活の中で現わされるのものなのです。
  ○このとき、パウロを守ったのは470人のローマ軍でした。そもそも事の発端も、ユダヤ人の陰謀を耳にしたパウロの甥がそれを知らせてくれたことによるのです。その小さな出来事が、今のパウロにとっては天の万軍にも匹敵するかのようなローマの大軍を出動させたのです。パウロにとってまさに必要なときに必要な助けが与えられたこの奇蹟こそ、天の軍勢をエリシャに送られた主の摂理なのです(2列6:15-17)。
  ○主は一人を守られるために全世界をも動かされます。イエス様がその一人を命をかけてご自分の者とし、ご自分の器として用いようとしておられるからです。主を主としてあがめ、恐れ、お仕えしているならば、私たちのうちに住まわれるご聖霊なる主ご自身のために、私たちの周りには天の軍勢が取り巻いているのです。そのことを、私たちも主によって目を開かれて、現実に見させていただきたいと願わされます。

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