「牧会ミニ通信」
2004.09.05〜
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  116                                                                                                 2004/09/05

「あなたもあなたの家族も救われる」  使徒16:19〜34

○信仰による救いとは、私たちがイエス様に身を任せることです。「主イエスを信じなさい」というのは、「イエス様の上に自分自身を乗せ、全てを任せ、そしてそこにとどまり続けなさい」と、いうことです。私たちが「イエスは主である」と口で告白するだけでなく、日々の生活においても、イエス様にのみ信頼をおいて歩む生き方が勧められています。
  ○「主イエスを信じる」ということは、イエス様に全てを任せてもよい、という決断を与えられたからこそ信じることができるのです。それは、イエス様が私たちの心を開いて信じさせてくださったのです。そして、私たちが信じる決断をし、イエス様に私たち自身を委ねるとき、本当のイエス様の価値を知ることができます。私たちは、イエス様とご聖霊が心を開いて信じさせてくださった恵みを頂いているのです。
  ○看守の求めに対し「主イエスを信じなさい。そうすれば、救われます」という福音が与えられました。「救われるためには何を」という看守の問に、この「主イエスを信じなさい」と答えが与えられました。それは、「イエスを主と告白し、悔い改め、バプテスマを受け」なさいということです。たましいの究極的な救いは、主イエスを信じること以外にありえません。そして、その救いに「あなたもあなたの家族も」はいる事ができると約束され、実際に「彼とその家の者全部がバプテスマを受け」「全家族そろって神を信じたことを心から喜」びました。そのような救いがもたらされました。
  ○31節は「あなたもあなたの家族も、主イエスを信じなさい。そうすれば救われます。」と理解されます。そして、パウロたちは「彼とその家のもの全部に主の言葉を語った」のです(32)。看守の家族もみことばを聞き、信じ、喜び、救われた証しとしてバプテスマを受け、パウロとシラスを家に迎え入れてもてなしをしました。主が心を開いてくださるからこそ信仰が起り、みことばが語られたからこそ、信じることができます。イエスを主と信じる決心をするときに、家族の心も開かれます。主が心を開いてくださるとき、ご聖霊によって、必ずその福音に応答し、みことばを信じて「イエスは主である」と告白することができるのです(ローマ19:9)。

  117                                                                                                 2004/09/12

「王の王イエス」  使徒16:35〜17:9

○テサロニケの会堂でパウロは、旧約聖書のみことばを証拠として並べて「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないこと」を説明しました。そして、旧約聖書のメシヤ(救い主・キリスト)預言は、イエス様によって成就されたので「このイエスこそキリストなのです」と宣言しました。イエス様こそ、ユダヤ人たちが長い間待ち望んでいたメシヤだったのです。このメシヤは、愛のゆえに、罪人のために苦しむお方でした(イザヤ53)。イエス様は十字架を負われ、言葉に尽くせない苦しみを受けられましたが、父なる神は、イエス様を死人の中からよみがえらせたのです。
  ○イエス様は、ローマ皇帝カイザルとは違う意味で「別の王」です。本来イエス様こそ全世界の王なのです。それは、この私たちのために苦しみを受けられたイエス様が、この世界を真にご支配しておられるからです。しかし、この世の王はそれを好みませんから、この「別の王」とその民たちを抹殺しようとします(マタイ2:1-18)。しかし、もしカイザルがこの真の王であるイエス様に背くことを命じたり、従うことを妨げるために内面であろうと形式的であろうと、私たちの信仰の領域にまで踏み込んでくるなら、そのときには「イエスという別の王がいると言って、カイザルの詔勅にそむく行ない」をせざるを得ません。上に立てられた権威も、神である主によって立てられたものに過ぎないからです(ロマ13:1)。
  ○イエス様が私たちにとって、「別の王」であり、王の王、主の主であるのは「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならない」ことが明らかだったからです。そして、そのようなお方はイエス様しかおられなかったのです。つまり、イエス様こそメシヤ、キリスト、救い主だということが聖書の証言です。イエス様は私のために苦しみを受け、私に代わって本当に死んでくださり、私のために死からよみがえってくださいました。このことが、イエス様が私にとって、カイザルやこの世の王とは全く異なる次元の「別の王」である理由です。私たちはまず目を地上から天に向け、このイエス様だけを王とすることを確認したいと思います。私たちは、既にこの世に勝たれた(ヨハネ16:33)王の王、主の主であるイエス様にお従いし、勝利者とされているのです。

  118                                                                                                 2004/09/19

「熱心に聞き毎日調べた」  使徒17:10〜15
   

○パウロたちがテサロニケの次に行ったベレヤのユダヤ人たちは「素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ」ました。彼らがみことばを受け入れたのは心を開いていたからです。ピリピでは「主がルデヤの心を開いてパウロの語ることに心を留めるようにされ」ました(16:14)。看守とその家族も、主の言葉を聞くことによって「全家族そろって神を信じた」ので救われました(16:34)。救われた人は信じたからであり、それも主が心を開いて信じさせてくださったからです。一方、語る側のパウロは、聖書に基づいて論じ、キリストについて説明し、イエスこそキリストであることを論証しました。そのことが「よくわかった」テサロニケの幾人かは、パウロとシラスに従いました(17:4)。ところがベレヤでは、多くのユダヤ人が信仰に入りました。
  ○ベレヤのユダヤ人たちは「良い人たち」でした。偏見を捨て、素直に福音を受け入れたのです。開かれた心で素直に聞くということが、その結果に大きな違いをもたらしました (1テサロニケ2:13)。また彼らは「非常に熱心にみことばを聞き」ました (ローマ10:17)。その彼らの熱心は「はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」ほどでした。聖書を理解するということは、主が聖書を通して示そうとしておられる御心を知る、ということです。だれもが一つの信仰にいたるように、ご聖霊の導きを求めて祈りつつ読むことが必要です。
  ○彼らが素直に、熱心に、毎日聖書を調べていたのは、聖書から主の御心を知ろうとして毎日生活していたということです。知識を増やすためではなく、生きておられる主ご自身に向き合い、現実に主と格闘しながら日々を過ごしていたのです(創世記32章)。私たちが既に主によって信じさせられ、心にご聖霊による証言を頂いている事柄について、揺るぐことのない確信が与えられていくことが信仰の成長です。
  ○私たちが自由に聖書を読むとき、聖書が明らかに証言していることについては、ご聖霊によって正しい理解が与えられることを、私たちは信じることができます。ご聖霊ご自身が、ご自分で霊感された聖書の中に、父なる神と御子イエス様との御声を聞き取らせてくださるはずなのです。(ヨハネ10:2-4)。聖書を通して毎日、主とお会いしていきたいと願わされます。

  119                                                                                                 2004/09/26

「神は近くにおられる」  使徒17:16〜34

○神は探り求めるならば、見出すことのできるお方です(17:27)。しかし、的外れの方向に探り求めていても、神を見出すことはできません。多くの偶像を作ることは、結局、自己満足に過ぎず、実は何も信じられない不信仰の現れです。神を信じ礼拝するということは、ご自身を啓示される神に対して、人間の側から自覚的に求めることでもあるのです。
  ○神である主は、私たち一人一人から遠く離れておられないので、見出すことができるのです。それは、神である主こそが世界の創造主であり、支配者であられるからです。世界を見渡すならば、その創造主である神を認めざるを得ません(ローマ1:20)。そして主は、全人類にとって、人類の歴史を貫いて神であられますから、どの時代、どの国の人々であろうと、まことの神である主を知り得たはずなのです。
  ○知られざるを得ないほど近くにおられる神である主を、人々は知らずにいました。それは、本当の神について無知だったからです。当然知るべき神である主を知らずにいる人々のことを、主は「見過ごして」こられました。ですから人間は、本当の神である主を正しく探り求めてこなかった罪を、悔い改める必要があります。
  ○神である主によるさばきは、「お立てになったひとりの人」によって行なわれました。そして、神である主のさばきが私たちに事実迫ってきている今は、もう見過ごされることはありません。「死者の中からよみがえらせる」という奇蹟によって、今、主は私たちに向かって、主ご自身が立てられた救い主であるイエス様を信じるよう、特別に命じておられます。ですから今、悔い改めてイエス様に立ちかえり、イエス様を通して唯一のまことの神である主を見出すべきです。
  ○パウロが最も伝えたかったことは、イエス様の復活の事実でした。神である主がイエス様をよみがえらせることによって確証が与えられました。その時、本当にこのイエス様が神によって立てられた世界のさばき主なのか、救い主なのか、探り求めて神を見出そうとする、心の砕かれた態度が悔い改めです。そのような人に神は近くおられるのです(詩34:18)。この今というとき、近くにおられる神を熱心に探し求め、主を見出す者でありたいと願わされます(マタイ7:7)。

  120                                                                        在天者記念礼拝   2004/09/26

「復活のキリストとともに」  テサロニケT4:13-18

○クリスチャンの一番幸いは、死の問題について既に解決がついていることではないかと思います。死を克服することが、人間の歴史においても果てることのない願いでした。しかし、私たちは聖書の約束から希望を与えられ、死に対する勝利を確信することができるのです。それこそが、救い主イエス様から与えられた、最大の喜びといえます。
  ○私たちが、この地上で生きていようと死んでいようと、かしらであるイエス様の肢であるということには、何の変わりもありません。私たちが、イエス様の再臨の前に死を迎えるということは、このかしらであるイエス様のもとに、肢である私たちが召されるということです。しかし、どちらかというと、それが本来あるべき姿なのです(ピリピ2:23)。
  ○既に死からいのちに移されている(ヨハネ5:24)私たちには、イエス様が復活されたのと同じように復活させられる、という希望と確信があります。イエス様が私たちをご自分のからだの肢とされたのは、私たちを主ご自身の復活のからだと同じ姿に変えようとしておられるからです(ピリピ3:21)。この地上における死は、決して死ぬことのない天の御国への通過点です。私たちが、イエス様の栄光の体と同じ姿に復活するために、死をもって備える必要があるのです。それは、主と共にいることになるためです。
  ○もし私たちが生きたままイエス様の再臨をお迎えするならば、そのとき私たちは一瞬のうちに違った状態に置かれます(1コリント15:52)。天の御国を受け継ぐことのできる状態に、生きたまま入れられるために、空中でその変化を頂きます。私たちのからだは、ご聖霊のご支配のもとに移され、完全に主にお従いする者に変えられます。そしてイエス様の栄光の体と同じ姿に変えられて、主とともにいることになります。
  ○つまり、主の再臨を死んだ状態で迎えようと、生きた状態で迎えようと、どちらも主と共にいることになるのです。主が再び来られたとき、私たちの状態がどうであろうと、私たちには新しい体が与えられ、主とともにいることになるのです。生きているときと死に際して、私たちがいつまでもイエス様と共にいることこそが、慰めであり、希望なのです。

バックナンバー8月へ

バックナンバー10月へ

バックナンバー目次へ

HOME