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「牧会ミニ通信」 2004.09.05〜 |
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| 横浜上野町教会牧師 柴田 智悦 |
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116 2004/09/05 |
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○信仰による救いとは、私たちがイエス様に身を任せることです。「主イエスを信じなさい」というのは、「イエス様の上に自分自身を乗せ、全てを任せ、そしてそこにとどまり続けなさい」と、いうことです。私たちが「イエスは主である」と口で告白するだけでなく、日々の生活においても、イエス様にのみ信頼をおいて歩む生き方が勧められています。 |
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117 2004/09/12 |
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○テサロニケの会堂でパウロは、旧約聖書のみことばを証拠として並べて「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないこと」を説明しました。そして、旧約聖書のメシヤ(救い主・キリスト)預言は、イエス様によって成就されたので「このイエスこそキリストなのです」と宣言しました。イエス様こそ、ユダヤ人たちが長い間待ち望んでいたメシヤだったのです。このメシヤは、愛のゆえに、罪人のために苦しむお方でした(イザヤ53)。イエス様は十字架を負われ、言葉に尽くせない苦しみを受けられましたが、父なる神は、イエス様を死人の中からよみがえらせたのです。 |
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118 2004/09/19 |
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○パウロたちがテサロニケの次に行ったベレヤのユダヤ人たちは「素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ」ました。彼らがみことばを受け入れたのは心を開いていたからです。ピリピでは「主がルデヤの心を開いてパウロの語ることに心を留めるようにされ」ました(16:14)。看守とその家族も、主の言葉を聞くことによって「全家族そろって神を信じた」ので救われました(16:34)。救われた人は信じたからであり、それも主が心を開いて信じさせてくださったからです。一方、語る側のパウロは、聖書に基づいて論じ、キリストについて説明し、イエスこそキリストであることを論証しました。そのことが「よくわかった」テサロニケの幾人かは、パウロとシラスに従いました(17:4)。ところがベレヤでは、多くのユダヤ人が信仰に入りました。 |
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119 2004/09/26 |
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○神は探り求めるならば、見出すことのできるお方です(17:27)。しかし、的外れの方向に探り求めていても、神を見出すことはできません。多くの偶像を作ることは、結局、自己満足に過ぎず、実は何も信じられない不信仰の現れです。神を信じ礼拝するということは、ご自身を啓示される神に対して、人間の側から自覚的に求めることでもあるのです。 |
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120 在天者記念礼拝 2004/09/26 |
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○クリスチャンの一番幸いは、死の問題について既に解決がついていることではないかと思います。死を克服することが、人間の歴史においても果てることのない願いでした。しかし、私たちは聖書の約束から希望を与えられ、死に対する勝利を確信することができるのです。それこそが、救い主イエス様から与えられた、最大の喜びといえます。 |