「牧会ミニ通信」
2004/12/05〜
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  128                                                                                               2004/12/05

「主イエスの御名のためなら」  使徒21:1-14

○ツロは、ステパノのことから起こった迫害によって、散らされた人々が伝道をしたところです(11:19)。パウロたちは、一週間しか滞在しなかったにもかかわらず、ツロの教会の信徒たちと主にある深い交わりをしました。教会の交わりの本質は、共に主のみことばを聞き、聖餐に与かり、祈ること、つまり、礼拝の中にあります。主にあって互いに祈り、群れを形成し、共にキリストの体を建て上げていくところに、本来の交わりが生み出されるのです。
○パウロは、ご聖霊に迫られ、エルサレム行きを決意していました(20:22)。パウロには、エルサレムで「なわめと苦しみ」が待っていることも示されていました(20:23)。しかし「主イエスの御名のためなら、…死ぬことさえも覚悟」していました。ところが、パウロのこの固い決意を、「御霊に示されて」止めようとする人々がいました。預言者アガボも、エルサレムにおけるパウロの運命を聖霊によって告げました。彼らは兄弟愛からパウロを引き止めましたが、パウロの主に対する愛の方が、それに勝っていました。
○エルサレムに向かうパウロの姿は、イエス様ご自身が弟子たちの忠告を振り捨ててエルサレムに上られたお姿と同じです。パウロもエルサレムへ向かって顔を真直ぐに向けていました。パウロについていく者たちは、恐れを覚え引き止めようとしましたが、パウロは先頭に立って歩いていきます。きょうもあすも次の日も進んでいかなければならない、と覚悟しているからです(ルカ13:33)。ですから、引き止めた人々も「主の御心のままに」と言わざるをえません。
○パウロの願いは、主の死と同じようになり、主の復活とも同じようになることでした(ローマ6:5)。自分のいのちは、ただ主の栄光をあらわすためにのみ存在していると知っていたからです。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ9:23)とイエス様は言われました。私たちは自分を捨てずして自分の十字架も負うことができません。私たちの思いではなく、主の御心が常に私たちの主となるように、「主イエスの御名のためなら」、とのパウロの決意を私たちにも与えられ、キリストに倣うものとされたいと願います。

  129                                                                             2004/12/12  

「ユダヤ人にはユダヤ人のように」  使徒21:15-26

○パウロの異邦人伝道に関する報告を聞いたエルサレムの長老たちは、パウロの身の上を心配しました。ユダヤ人クリスチャンの多くが、パウロのことを快く思っていなかったからです。彼らはクリスチャンになってもモーセの律法に熱心であり、習慣や儀式を守っていました。彼らの間には、パウロが「モーセに背くように教えている」らしい、といううわさが広まっていました。そこで長老たちのすすめによって、パウロは誓願を立てた人に儀式のための費用を出してやり、彼自身も主を敬い、「律法を守って正しく歩んでいる」ことを人々に分かってもらおうとしました。
  <○しかしパウロは、救いはただ信仰による恵みの賜物であって律法の行いは必要ない、と主張してきました。ですからこれは、ユダヤ人クリスチャンに対するパウロの配慮でした。私たちが福音の真理を知っているなら、世間の誤解や迷信からはまったく自由です(ヨハネ8:31-32)。しかし、他の人をつまずかせないため、自分の自由に制限を設けることもできます。すべての人に対して自由であったパウロは、同じにすべての人の奴隷となりました(1コリント9:19)。これが「キリスト者の自由」です(ルター)。私たちが自由であるということは、自分の特権を捨てる自由も持っているということです。パウロは、つまずきを与えないために、喜んで自ら律法に従ったのです。
  <○これは信仰の妥協とは違います。パウロとエルサレムの長老たちは、救いは律法の行いを必要としない、という福音の本質に立っていますから、枝葉のところで歩みよっていくことができました。大切なのは、その動機が妥協なのか愛によるのかです。パウロはユダヤ人を救うために「ユダヤ人にはユダヤ人のように」なりました(1コリント9:20)。福音を伝えるという目的の下でこそ、クリスチャンの自由が発揮できます。
  <○パウロがヤコブの提案に従ったのは、教会を愛し、教会に仕えることによって、キリストの苦難に与かることを自らの光栄としていたからです。大事なのは「愛によって働く信仰」です(ガラテヤ5:6)。福音の本質は揺るがすことなく、魂の救いのためにはすべての人に対して自由でありつつ、すべての人に仕える、キリスト者の自由を持ち続けたいと願わされます。

  130                                                                             2004/12/19  

「その名はインマヌエル」  マタイ1:18〜25
   

○ヨセフは、おそらくその状況では最も良いと思われる判断をました。しかし、そこに主が働かれました。天地が創造された最初のとき、この世界を覆っていた神の霊が、今、働いてマリヤの胎に実を宿らせました。この世を創造した神の言葉が、今、この世に遣わされたのです。これが、人の正しさをも越える神である主の恵みであり、これこそ、主ご自身からのクリスマスプレゼントです。
  ○「インマヌエル」とは「神は私たちと共におられる」という意味です。その「私たち」には、この「私たち」も含まれています。「私たち」は事実ここに存在し、神である主は今も、ここに、私たちと共におられるのです。そして、主は私たちの全生涯に渡って「私たちと共におられる」お方です。
  ○「インマヌエル」である主は「ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」。罪は人間を神から離し、結局は人からも離し、孤独にしていきます。そこから私たちを救い、孤独な存在にいのちを与え、神である主との交わりを回復し、人と人との平和な交わりに私たちを導いてくださるお方こそ、インマヌエルとしてお生まれ下さったイエス様なのです。
  ○「インマヌエル」とは主ご自身の名です。イエス様が来られるはるか以前に、預言者の口を通して語られたこの神の名を、主はご自身の手で果たそうとされました。それがクリスマスに明らかにされました。神である主は死の中にある私たちと共におられ、永遠に私たちと共におられます(マタイ28:20)。それは、死からいのちへの救いです。この救いによって、私たちの新たな生活が始まります。今や私たちは孤独ではありえず、かえって他人を顧みる自由さえ与えられています。
  ○クリスマスにインマヌエルとして贈られたイエス様によって、私たちの罪は赦され、死から解放され、主との関係が回復されました。そして、私たちがご聖霊によってきよめられ、正しい人として生きるため、罪の奴隷からも救い出されたのです。私たちの人生の中でイエス様をお迎えするとき、私たちは父なる神との交わりを回復されます。眠りから覚めたヨセフが、恐れと迷いから立ち上がり主に従ったように、私たちも立ち上がり、主に従える者とされたことこそ、クリスマスに、天の父から私たちに贈られたプレゼントなのです。

  131                                                                                               2004/12/24

「きょうあなたがたのために」  ルカ2:8-14

○当時、羊飼いたちは世間から疎外され、取るに足らないものとみなされ、差別されていた存在でした。しかし、そのような者たちが、御使いから直接、救い主の誕生を告げられるに値するものとみなされました。なぜなら、神である主がお選びになったからです。羊飼いたちは、王の宴会の主催者であるイエス様に、招かれているのです(ルカ14:12-24)。
  ○救い主イエス様は「この民全体のため」に来られました。このイエス様こそ、イスラエルの民にはるか昔から約束されていた救い主、メシヤでした。しかし主は、マリヤとヨセフを通してさらにすべての民に―羊飼いや、異邦人、そして私たちにまでも―約束されたのでした。羊飼いたちこそ、このクリスマスの出来事における、私たち自身です。その私たちに、御使いが告げるのです。「恐れることはありません」「きょう、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。」
  ○救い主は、私たちと同じ人間として、しかも、最も低いところにお生まれになりました。そして、やがて十字架の上で、人間として死なれます。しかし、同時に全能の父なる神の子としてお生まれになりました。救い主は、私たちを救うために来られました。このお方の死が、私たちを、罪と、私たちを神である主から引き離そうとするすべてのものから、救い出して下さるのです。このお方は、救い主として、ただ喜びをもたらすために来られました。
  ○私たちは、羊飼いと共に行って、幼子イエス様にお目にかかります。何の贈り物も携えてきませんでしたが、ただ、私たち自身を、聖い生きた供え物としてお捧げします(ロマ12:1)。そうして、今度は御使いに代わって、私たち自身がその良き知らせの使者となるのです。イエス様こそ、私たちの救い主です。人間が最も恐れる死の恐怖から解放してくださるお方です。聖い主とその戒めに、耐えることができない私たちの病を負い、私たちの痛みをになってくださるお方です(イザヤ53:4)。私たちと共にいてくださる神である主イエス様は、私たちのための神です。そこでは、恐れる必要はないのです。この世を救うため、「きょう、私たちのために」幼子としてお生まれくださった救い主イエス様が、私たちにその救いと喜びを与えてくださいますように

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