「牧会ミニ通信」
2003.12.21〜
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  82                                                                                                 2003/12/21

「ベツレヘムの星」  マタイ2:1〜12

○生きている、「いのちのパン」(ヨハネ6:35,51)であるイエス様がお生まれになったのは、ユダヤのベツレヘム(ヘブル後で「パンの家」という意味)というところでした。そこにやって来たのが、東方の博士たちです。博士たちはまず、エルサレムにやってきました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」ですから、当然エルサレムの宮殿にいると思ったのでしょう。学者たちは、その「ユダヤ人の王」であるキリストは「ユダヤのベツレヘム」で生まれると教えました。ところが、だれも博士たちと一緒に、救い主イエス様に会いに行った人はいません。
  ○博士たちは、星に導かれた家で幼子のイエス様を礼拝し、宝物を贈りました。博士たちを導いてきた星が、そのしるしでした。実は今、私たちもイエス様にプレゼントをしているとも言えます。礼拝というのは、この博士たちのように、私たちの一番大切な自分自身を、プレゼントとしてイエス様に捧げることです。しかし、クリスマスのときは、私たちもプレゼントを頂きます。博士たちはお返しの品は何ももらいませんでしたが、博士たちは救い主を求めてやって来て、イエス様に出会い、信じて礼拝しました。博士たちは、いのちのパンを食べたのです。そして、黄金や乳香や没薬などよりもよっぽど高価な、永遠のいのちという最高のプレゼントを頂いて帰って行ったのです。そのイエス様の恵みを知ることができるように、私たちもこのクリスマスにそれぞれプレゼントを頂くことができるのです。
  ○博士たちは、いつものように星を観測していたとき、このベツレヘムの星を見つけました。そして、この星を目印として、イエス様のところまでやってきました。しかし、博士たちが星だけを頼りに来た時には、エルサレムまでしか行けませんでした。そこで聖書のみことばを教えられたとき、イエス様のいらっしゃるベツレヘムまで行くことができました。私たちも、いつも生活しているところで、ベツレヘムの星のような目印を頂くことができます。そして、私たちが、聖書のみことばから教えられたとき、本当にイエス様にお会いすることができます。みことばによって、いのちのパンであるイエス様を信じ、礼拝し、永遠のいのちを頂きましょう。

  83                                                                                                 2004/01/01

「満ちあふれる神の栄光」  ヨハネ1:14

○主の栄光は光だけとは限りません(詩19)。主は今もこの世界に生きておられるのですから、今ここにも主の栄光が満ちているはずです。イエス様のみ顔に、主の栄光が一番輝いており、イエス様のご生涯やその救いのみことばに、主の栄光が見えるのです。しかし、その主の栄光がどこにも見えないように思えます。それはどうも私たちの側が、イエス様を正しく見ていないからのようです。
  ○主の栄光を受ける資格がなくなった人間は、自分の罪を認めて悔い改める必要があります(ヨシュア7:19)。罪を犯して主の栄光を傷つけた人間を回復するために、神はキリストにおいて人となられました。そのことがクリスマスにおける天からのみつげでした。クリスマスに救い主イエス様がお生まれ下さったのは、やがてご自身が私たち罪人のために、十字架にかかってくださるためでした。
  ○イエス様は、この世で一番汚い、罪人のところにお生まれになりました。私たちが本当に自分の罪を知り、傲慢さを知り、愚かさを知ったところに、イエス様がお生まれになるのです。その所で、恵みを受け罪が赦され罪人が救われる、ということが起こるのです。救い主をお迎えするはそういうことです。自分に罪があることを知り、そのことに気づいたとき、私たちはイエス様の前にひざまずき、ただ「私の主、私の神」(ヨハネ20:28)といって拝むほかはありません。真実な礼拝の行われる所にこそ、主イエス様はおいでになるのです。
  ○私たちが罪を示されて悔い改めるのは、悔い改めることによってその罪から赦されるためというよりは、罪が赦されていることを確信するためです。すべての罪は、既にイエス様の十字架によって赦されています。私たちは、罪を示されたとき、悔い改めることによってその罪も、示されていない罪も、既にイエス様の血潮によって赦されていることを確信し、感謝しつつ喜びをもって、主を賛美し礼拝できるのです。   ○私たちは、悔い改めつつ行く年を送ったかもしれませんが、救い主イエス様の赦しを確信するとき、感謝して恵みの年を迎えることができます。主ご自身に、信仰と希望の根拠を置き、主の栄光に満たされて歩む一年でありますように。

  84                                                                                                 2004/01/04

「もっぱら祈りとみことば」  使徒6:1〜7
   

○旧約聖書と新約聖書の間に、一時的にユダヤ人が独立した時がありました(BC.142-63)。そのころ起こった新しい群れや、国外に離散している(ディアスポラ)ユダヤ人たちは、主にギリシャ語を話し、ギリシャ的な考え方に影響されていました。そのようなギリシャ語を使うユダヤ人(ヘレニスト)と、ヘブル語を使うユダヤ人との間の文化的違いから問題が起こりました。しかし教会は、キリストのからだとして御霊に委ねつつ問題を解決し、一致を保ちました。ご聖霊に導かれる教会は、主に従い続けるため、変化にも対応できる用意が必要です。
  ○12使徒は弟子たち全員を集めて教会総会を開き、7人の役員を選びだす提案をしました。それは、教会の一体性を保つためでした。そこで「御霊と知恵に満ちた評判の良い人」が全員によって選ばれ、使徒たちによって任命されました。教会が教会として機能していくために教会自体、改革され続けていきます。そして神の言葉は、人間的な対立やサタンの妨害に会っても、妨げられることなく前進していきます。
  ○この7人が選ばれた直接の目的は、やもめたちへの毎日の配給のためでした。ですから、教会の執事職の始まりとも考えられます。しかし本質的な目的は、使徒たちを「もっぱら祈りとみ言葉の奉仕」に励ませるためでした。執事であろうと、役員であろうと、他の奉仕者であろうと、それは「祈りとみことば」に専念できる奉仕者を教会に確保するための働きです。7人は、教会の使命を果たすために選ばれました。
  ○どんなに奉仕分担が整理され、きちんとそれらが果たされていようと、主のみ心を第一とし、主のみ旨に従うこと以上に大切な目的は教会にありません。それが、みことばを委ねられたという事です。みことばと礼拝の務めが第一にされ、教会が主のみ心に導かれ、私たちが真実な礼拝者となっているかどうかが重要です。教会を教会とするのがみことばであり、それを主から委ねられた教会全体が、みことばを宣べ伝える働きに邁進し、教会内でも必要な働きが行われるように、奉仕分担も役員も選ばれる必要があります。教会を支えるみことばに、初代教会のように信頼し、お仕えすることが、私たちの第一の奉仕となる一年でありたいと願わされます。

  85                                                                                                 2004/01/11

「聖霊に満たされた人」  使徒6:8〜15

○7人の役員の筆頭に上げられているステパノの、生涯最後の日が聖書に記録されました。みことばに信頼し、みことばに従って生きようとするとき、毎日の生活の一瞬一瞬が大切であり、主の計画と導きの中にあることがわかります。
  ○イエス様の十字架と復活は、旧約聖書の律法の成就です。神殿における動物の犠牲は、イエス様の十字架の死の雛型でした。イエス様ご自身による犠牲が成し遂げられた後、神殿とそこで行われる動物の犠牲は、もはや必要なくなったのでした。しかし、それを主張することは、ユダヤ教徒たちにとっては「モーセと神とを」けがし「聖なる所と律法に逆ら」うものに他なりません。
  ○イエス様は「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」(ヨハネ2:19)とおっしゃいました。それは、「ご自分のからだの神殿」のことです。本当の神殿は復活の主のからだであって、手で造られた宮にはいつまでも意味がありません(7:48)。イエス様をかしらとする神の家にこそいと高き方が住んでおられるのです。「三日で建てよう」とイエス様が言われた家とは、復活の主のからだのことですが、イエス様のからだなる教会のことでもあったのです。
  ○ステパノが「恵と力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議な業としるしを行っていた」のは、彼が「信仰と聖霊に満ちた人」であったからです。それは、イエス様をかしらとする教会こそ、神殿に変わるまことの神の家である、という信仰でした。イエス様は、12使徒のことばによる証言にも、ステパノの奉仕による証言にも、ご聖霊によって力を与えました。教会は、ことばにおいても奉仕においても、主ご自身を証する証人で満たされているのです。
  ○教会はいつでも、イエス様のみ言葉と御心に従おうとしていました。教会こそ、いと高き方の住まわれるところ、主の御心がなされ、主が臨在しておられる神の家だからです。ステパノの顔が御使いの顔のように見えたのは、主が今ともにおられるということを、栄光の輝きをもって示されたからです。私たちも、私たちをもご聖霊で満たしてくださる主を、生涯をかけて追い求めていきたいと願わされます。

  86                                                                                                 2004/01/18

「アブラハムの子孫」  使徒7:1〜16

○ステパノの裁判に立ち会った大祭司は、イエス様の裁判にも立ち会ったカヤパ(AD18-36在職)であろうと考えられます。ステパノも主と同じような理由で訴えられ、弁明する機会を与えられました。このとき彼は、自らを弁明するのではなく、アブラハムの召命から始まる大説教を語りました。
  ○「栄光の神」はイスラエルの歴史の中、どの場面でも彼らと「共におられる」インマヌエルの主でした。ステパノが訴えられたのは、「聖なる所」に逆らうことばを語ったという偽りの理由からでした。しかし、主は場所に拘束される事なく、どこにでもいらっしゃり、神殿のいけにえや儀式という慣例にも束縛されずに礼拝をお受けになられるお方です。もしメシヤが現れたのなら、礼拝も新しい形になるのです。
  ○アブラハムが信仰をもって主の約束に従うところから、神の民の歴史が始まりました。しかし、約束の地では彼に何一つ与えられなかったのです。彼は、ただ主のみ言葉のみを信じ、み言葉に基づいて行動しました。アブラハムが「信仰の父」と呼ばれる所以です。イスラエルが頼るべきものは、目に見える土地や財産や神殿ではなく、見えない主の約束を信じ、ただ主のみ言葉のみにより頼むアブラハムの信仰です。
  ○イスラエルの歴史は、主の恵の業であると同時に、主の導きに対する人間の不従順の歴史でもありました。ヨセフはねたまれ、モーセは退けられ、とうとうメシヤであるイエス様も殺されました。しかし、ヨセフが兄弟たちを救うために選ばれ、モーセがイスラエルをエジプトから救うために選ばれたように、イエス様も、罪の奴隷から私たちを救うために選ばれたお方でした。「栄光の神」の恵みはすべて、私たちが心を尽くして主なる神を礼拝する目的のために注がれます。
  ○アブラハムに与えられた割礼というしるしは、イスラエルに対して特別に、主の選びと契約のしるしとしての意味をもつことになりました。アブラハムの子孫とは、肉的な関係だけではなく、割礼の契約で決められます。しかし、信仰において心と耳とに割礼を受け、イエス・キリストの父なる神に全ての信頼を置くものこそ、栄光の神を信じるアブラハムの子孫です。世界の相続人となる約束は、恵によって、アブラハムの信仰にならう人に保証されています。(ローマ4:16,17)

  87                                                                                                 2004/01/25

「モーセと律法」  使徒7:17〜43

○「荒野の集会」(38節)はギリシャ語で「エクレシア」つまり、教会とも訳せる言葉です。教会は旅人であり寄留者である集会として、歴史の中を歩んでいます。この荒野において、教会は生けるみ言葉を授かり、その生けるみ言葉をよりどころとし、そのみ言葉を世に宣べ伝えることによってその使命が果たされていきます。世の荒野にある人々は、モーセの言葉に聞き従わず、ステパノの言葉も受け入れませんでした。
  ○モーセとイエス様と、良く似たところがあります。二人とも生まれながら、この世からは邪魔者扱いされ、殺されかかりました。また、同胞からも理解されず拒絶されました。しかし、神とイスラエルとの間の仲保者として二人は立てられました。ユダヤ人の信ずるモーセは、イエス様の雛型でした。モーセを信ずるならば、イエス様を信じるはずなのです。
  ○しかし私たちは、私たちの側の妨げによって、主の助けのみ手を遅らせてしまうことがあります。イスラエルがモーセを「押しのけた」結果、40年間、自分たちの解放の時を遅らせてしまいました。出エジプト後、カナンの地を目の前にしながら入っていかなかったゆえに、さらに40年間、荒野を放浪しなければならなくなります。また、モーセがシナイ山で主から律法を受け取っているとき、シナイ山のふもとではイスラエルが金の子牛の像を作りました。かたくなで心と耳とに割礼を受けていない人たちは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。
  ○いけにえや献げ物や祭りを形式上は絶やさずとも、内面が伴っていないなら、それは先祖の犯した偶像礼拝と変わりません。ですから「公義の水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。」(アモス5:24)と言われた主の御言葉は、今のイスラエルに対してもやはり同じく語られています。アッシリヤ捕囚(BC721)も、バビロン捕囚(BC586)もみな同じ罪の結果でした。今、ステパノを裁いているイスラエル自身が、ローマに捕らえられている現状を認めるべきです。
  ○このイスラエルの歴史に学び、心と耳とに割礼を受け、生けるみ言葉に従う者とされたいと願わされます。仲保者なるイエス様によって「栄光の神」と親しく交わり、イエス様にあって律法を全うする群れとされたいと願わされます。

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