「牧会ミニ通信」
2004.09.05〜
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  71                                                                                                 2003/09/07

「この方以外に救いはない」  使徒4:1〜12

○ペテロとヨハネが、民を教え、死者の復活を宣べ伝えていたとき、彼らは捕らえられ留置場に入れられました。教会が設立されたとたん、迫害に遭いました。祭司、守衛長、サドカイ人たちにとって、ペテロたちがイエス様の復活を宣べ伝えることは、都合の悪いことでした。しかし、そのような緊迫した状況の中でも、五千人の男が信じ、福音は勝利をもたらします。「神の言葉はつながれていない」(2テモテ2:9)のです。
  ○翌日の議会での「何の権威によって、誰の名によってこんなことをしたのか」という尋問に対してペテロは、イスラエルのすべての人々に語りかけます。「この人を癒したのは、イエス・キリストの御名である。このキリストこそ、あなた方が十字架につけて殺したのを、神が死者の中からよみがえらせた方である」。さらに、このイエス・キリストの十字架と復活を、旧約聖書(詩篇118:22)からも裏付けて証明します。キリストは、神の家を建てるべき権威者たちから、かつては十字架に見捨てられましたが、いまや復活され昇天されることによって、神の家の礎の石となっておられるのです。
  ○また、捨てられた石が礎の石とされたというのは、家を建てる者たちの捨てた石が、教会の土台ともされたということです。エルサレムの神殿に変わる真の神殿、終わりの日に完成される教会の唯一の土台(1コリント3:11)として、イエス・キリストが礎の石となられました。使徒たちの復活の証言から始まった教会は、キリストの復活を心から喜び、神のみ業を褒め称える礼拝者によって完成されるのです。
  ○イエス・キリストが神の家の礎の石なのですから、救われる人は必ずキリストにつながれ、教会に加えられます(2:41,47)。神の家の一員となる救いは、神の家の土台であるイエス・キリストの名によってだけ与えられる、ただひとつの救いです。イエス・キリストの死と復活に与かり教会に加えられることにこそ救いがありますから、このような救いはキリストをほかにして誰にも与えられていないのです。この確信に立って、キリストの御名を宣べ伝えていきたいと願わされます。人間はただ、主が死者の中からよみがえらせたイエス・キリストの御名によってのみ、救いへと導かれるのです。これ以外の福音はありません。

  72                                                                                                 2003/09/21

「労苦の実」  ヨハネ4:35〜38

○普通、労働した人がその実りを他人に取られてしまうのは、あまりうれしいことではありません。しかし、ここでイエス様は、弟子たちが彼らの労働の結果でないものを刈り取るであろうと言われました(37)。かつて多くの預言者たちが、福音の種を蒔いてきました。主ご自身も種を蒔くお方であり、特にその十字架において、神の愛と力の種が蒔かれました。
  ○サマリヤでは、み言葉が蒔かれるとただちにその場で刈り入れが待っていました。収穫の時はもうきているのです。霊の麦が熟しているのだから、遅れてはならない、と主は弟子たちをせかしておられるようです。私たちは、地上のことばかりに目が向いて、なかなか天のことに関心を持てませんが、主の目には収穫はすでにもたらされています(35)。
  ○イエス様は種を蒔くために、父からこの世に遣わされました。そして、イエス様は弟子たちを、その実を刈り取らせるために、この世に遣わしました。そのために、弟子たちが力を尽くすことを主は願っておられます。さらに、弟子たちが蒔いた種を、今度は、ほかの人々が刈り取るときがやってくるのです。麦の畑は色づいて、主のために刈り取られようとして待っています。私たちも、その収穫を確実に刈り取ることができるよう、備えておきたいと思います。
  ○私たちは、目を上げて主の畑を見る事ができるでしょうか。この地で、50年という歳月をかけて、労苦が積まれてきました。私たちはその労苦の実をすでに得て、刈り取るために今、遣わされています。私たちにもイエス様のみ業を成し遂げるために、務めが備えられています。主に信頼して私たちに与えられている務めを果たしていきたいと願わされます。
  ○カナンの地に入ったヨシュアは最後まで、主の約束の地を完全に占領するよう、イスラエルを励ましつづけました。私たちも、よりすぐれた賜物を熱心に求めつつ(1コリント12:31)、完成を目指してこの地上での戦いに励み、さらに前進したいものです。そこで戦われるのは実際には主ご自身です。私たちは、主の戦いを戦っているのですから、大いなる助けを主に期待しつつ進むことができます。私たちは、ほかの人々の労苦の実である収穫の実りを刈り取るために、主から遣わされました。共に主の畑に刈り入れに出ていきたいと思います。

  73                                                                                                 2003/09/28

「人に聞き従うより神に」  使徒4:13〜22
   

○1872(明5)年3月10日、9名の受洗者を含む日本人11名を会員として、横浜に日本最初のプロテスタント教会(横浜公会)が生まれました。そのとき作られた公会規則に「主のためにはいかなる伝統的な宗教の拘束・政府の権力・肉親の情に屈しない」という三条項を入れることができませんでした。
  ○議会は「ペテロとヨハネとの大胆さを見」て驚きました。二人が恐れずに、自由に、確信を持って語っていたからです。それは、イエス・キリストによって罪を贖われ、赦されたという完全な自由を持っていたからです。更に二人が「無学な普通の人であるのを知って」驚きました。それは、二人が聖霊に満たされて語っていたからです。復活のイエス様と「共にいた」ことが、二人を大胆なものへ変えました。二人が生前のイエス様と共にいただけではなく、イエス様が今、この二人の中で、この二人をとおして語っておられたのです。
  ○しかし議会は、いやされた人がその場にいるのにもかかわらず、信じようとはしません。却って、「今後だれにもこの名によって語ってはならない」と二人を脅しました。ペテロとヨハネは福音宣教を禁じられたのです。まさに、キリスト教禁令の高札がここに立てられたのです。
  ○ところが二人は再び大胆に答えます。「神の前に正しいかどうか」ということが本質的な問でした。議会の判断がどうあろうと、キリストの復活の証人として召された二人にとっては「自分の見たことまた聞いたこと」、つまりイエス様の復活のことを話さないわけにはいかないのです。預言者や使徒たちは、語るまいと思っても、脅されても、み言葉を伝えずにはいられませんでした(エレミヤ20:9、アモス3:8、1コリント9:16)。
  ○イエス様の死と復活こそがこの世界の救いです。このことを全世界に知らせることが教会の使命です。復活の主イエス・キリストによってのみ私たちは救われるのだ、ということを、人の目を恐れず、この世の権力や慣習や肉親の情にも屈せずに宣べ伝え切ることが、伝道です。そして、教会は、復活のイエス様の命に新しく作りかえられ、いやされた人で満ちているからこそ、力強く大胆に復活の主を宣べ伝えることができます。ますます聖霊に満たされて、大胆に「神の前に正しい」福音を宣教しつづけていきたいと願います。

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