「牧会ミニ通信」
2003.12.06〜
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  80                                                                                                 2003/12/06

「神の証言」  使徒5:21〜32

○主の使いによって助け出され使徒たちは、夜明け頃から宮で教え始めました。使徒の働きやパウロの手紙から感じるのは、初代教会の緊迫感に満ちた熱心さです。それは、イエス・キリストの再臨が、すぐにでも起こる、という緊迫感からでした。彼らは、与えられた時間を少しも無駄にすることなく、いのちのことばの福音を伝えずにはいられなかったのです。
  ○使徒たちが伝えていたのは、ユダヤ人たちによって十字架に架けて殺され、しかし、主なる神によってよみがえらされ、天に上げられたイエス・キリストのことです。それは、「イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与える」ためでした。私たちもかつては主なる神を呪い、キリストの敵でした。そこに、ご聖霊が送られ、私たちがまるで自ら悔い改めたかのように悔い改めさせられ、約束通り罪の赦しを与えられたのです。
  ○使徒たちは、主からキリストの証人となるように命じられていますから、いくら大祭司とはいえ、彼らに沈黙を命じることはできません。人間が主よりも権威あるかのように振舞うとき、そうして主の神としての栄光を奪おうとして自らが神となるとき、それが偶像となります。使徒たちにとって、主の権威に従うことこそ絶対でした。使徒たちは、現実に生きておられる主の御前で語っていたのです。使徒たちは、みことばをそのまま生きていたので迫害されました。建前だけで生きていれば、丸く収まったでしょう。しかし、それが信仰のことである以上、彼らは妥協できなかったのです。
  ○宣教とは、事実を証言することです。それは、単純な言葉です。教会であるとは「私たちはそのことの証人なのです」と言うことです。私たち自身、キリストによって悔い改めと罪の赦しを与えられた証人なのです。さらに、「神がご自分に従うものたちにお与えになった聖霊」こそ、本当の証人です。人間にではなく主に従う、新しい人に生まれ変わった全てのクリスチャンを用いて、ご自分を表しておられるご聖霊の証言こそ、私たちが伝えるべき教会の働きです。つまり、生ける神自ら、私たちに悔い改めと罪の赦しを与えられた証言者として、教会の先頭に立って働いてくださっているのです。私たちは、このご聖霊のゆえに、主の復活と昇天の生き証人とされているのです。

  81                                                                                                 2003/12/14

「イエスの御名のために」  使徒5:33〜42

○使徒たちの宣教の言葉を聞いたユダヤ人たちは「怒り狂い」ました。その怒りは「使徒たちを殺そうと計った」ほど強いものでした。しかし、殺意に満ちた怒りの中で、使徒たちは少しも動じることなく、ひたすら「イエスがキリストである」と宣べ伝えることだけに集中していました。それは、変えることのできない事実だからです。
  ○そのような、険悪な状況の中で、イスラエルの国民全体に尊敬されていた律法学者、パリサイ人ガマリエルが登場し、自由放任政策を提案します。それが受け入れられ、議会は使徒たちをむち打ちにした上で釈放します。しかし、ガマリエル自身、使徒たちの教えが神からのものか人からのものか、確信はなかったようです。本来ならばそれは「放って」おいていいものではなく、「自分が従うか従わないか」の問題です。もし、神からのものであるならば、そうすべきです。そこには、妥協はありません。
  ○物分かりのよさそうなガマリエルでしたが、実はその態度は玉虫色でした。それに対して、使徒たちの態度ははっきりしています。このような迫害を受けても「御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを、喜びながら」議会から出て行くのです。後にパウロも、「患難さえも喜んでいます」(ローマ5:3)と言っています。イエス様も、同じように励まされました(ルカ6:22,23)。このとき迫害されたペテロ自身、御名のために受ける非難を「幸いです」と受け止めています(1ペテロ4:14,16)。ただ、主イエスの「御名のため」にだけ、彼らの喜びがあるのです。
  ○そして、その喜びは、彼らの生活を通して表されています。彼らは辱められ、むち打たれた傷を、「イエスの焼印」(ガラテヤ6:14)として栄光にさえ思っているのです。そして、捉えられる前と同じように、宮や家々でイエス様の教えを教え「イエスがキリストである」ということを宣べ伝えていました。父なる神ご自身が証人です。そして、みどりごとしてお生まれになったイエス様こそ、私たちの罪を贖い勝利の復活をして天に凱旋されたキリストに他ならないと、今や天から送られたご聖霊によって主ご自身が証言していて下さるのです。   

  82                                                                                                 2003/12/21

「ベツレヘムの星」  マタイ2:1〜12

○生きている、「いのちのパン」(ヨハネ6:35,51)であるイエス様がお生まれになったのは、ユダヤのベツレヘム(ヘブル後で「パンの家」という意味)というところでした。そこにやって来たのが、東方の博士たちです。博士たちはまず、エルサレムにやってきました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」ですから、当然エルサレムの宮殿にいると思ったのでしょう。学者たちは、その「ユダヤ人の王」であるキリストは「ユダヤのベツレヘム」で生まれると教えました。ところが、だれも博士たちと一緒に、救い主イエス様に会いに行った人はいません。
  ○博士たちは、星に導かれた家で幼子のイエス様を礼拝し、宝物を贈りました。博士たちを導いてきた星が、そのしるしでした。実は今、私たちもイエス様にプレゼントをしているとも言えます。礼拝というのは、この博士たちのように、私たちの一番大切な自分自身を、プレゼントとしてイエス様に捧げることです。しかし、クリスマスのときは、私たちもプレゼントを頂きます。博士たちはお返しの品は何ももらいませんでしたが、博士たちは救い主を求めてやって来て、イエス様に出会い、信じて礼拝しました。博士たちは、いのちのパンを食べたのです。そして、黄金や乳香や没薬などよりもよっぽど高価な、永遠のいのちという最高のプレゼントを頂いて帰って行ったのです。そのイエス様の恵みを知ることができるように、私たちもこのクリスマスにそれぞれプレゼントを頂くことができるのです。
  ○博士たちは、いつものように星を観測していたとき、このベツレヘムの星を見つけました。そして、この星を目印として、イエス様のところまでやってきました。しかし、博士たちが星だけを頼りに来た時には、エルサレムまでしか行けませんでした。そこで聖書のみことばを教えられたとき、イエス様のいらっしゃるベツレヘムまで行くことができました。私たちも、いつも生活しているところで、ベツレヘムの星のような目印を頂くことができます。そして、私たちが、聖書のみことばから教えられたとき、本当にイエス様にお会いすることができます。みことばによって、いのちのパンであるイエス様を信じ、礼拝し、永遠のいのちを頂きましょう。

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