「牧会ミニ通信」
2003.1.1〜
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  37                                                                                                 2003/01/01

「望みは一つ」  エペソ4:4

○キリストによって召し出されたクリスチャンの群れが教会です。私たちはイエス・キリストの十字架の贖いによって神の子供であり、やがてくる御国を受け継ぐことの保証として聖霊の証印を押されました(1:13,14)。やがて主が再臨なさるとき、救いが完成し、このからだも贖われ、主の栄光の姿に変えられるという望みが御霊によって保証されています。
  ○救われたときの経験がどうであろうと、私たちはただ全能の神様の恵みによって救われたのです。自分が何から召されたか、ということよりも、何に向かって召されたのか、ということに目を向けたいと思います。それが、クリスチャンとして私たちの「召しの望みを見る」ということです。
  ○劇的な回心をした方もあります。あまりその時を意識することなく回心した方もあります。どちらにしても、かつて罪と罪過の中に死んでいた者が、今生かされているのです。主を愛し、主を求め、主と共にいて、主と似たものになりたいと願っているのです。イエス様に癒された盲人にとって、最も大切なことは、今、現に見えているということです。私たちにとっても、どのようにではなく「今、神の国に入っている」ということこそ大事です。パウロも、「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走って」(ピリピ3:13,14)います。
  ○「召しによってもたらされた望み」を待ち望みましょう。主の日の目的は、全ての者がキリストにあって再び一つに集められること(1:10)です。その日私たちは、完全な者とされ、新しい天と新しい地が実現します。そして、私たちは主の臨在の中におかれます。さらに私たちは、主に似たものとされ、そこで主と共に治めるようになります。私たちが「地上のものを思わず、天にあるものを思」(コロサイ3:2)っているのなら「平和のきずなで結ばれた御霊の一致」が保たれ分裂や差別はなく、今ここで同じ栄光を味わっていることになります。既に天に凱旋している聖徒たちの、勝利の教会のことを思い、地上の教会の一致を大切にしたいと思わされます。地上のものを思わず、キリストが神の右に座を占めておられる、天にあるものを求め続ける一年でありたいと願わされます。

  38                                                                                                 2003/01/05

「一つのキリストのからだ」  エペソ4:4〜6

○「一つ」と言う言葉が七回繰り返されています。教会は、唯一の神の完全な現れであり、私たち自身その一員です。   ○「からだは一つ」です。御霊の一致による一つのからだが既にあります。その一致を壊さず、熱心に保ち、分離や分裂から守ることをパウロは願っています。これは、第一義的に目に見えない公同の教会のことです。私たちが、この目に見えない、唯一つのキリストのからだである、公同の教会に属していることにまず目を留めておきたいと思います。
  ○この教会は、新しく創造されたものです。教会は個人個人の寄せ集めではなく、古いものが壊されて、新しく創造されたものです。しかし、そこには様々な性質があります。その違いだけを見ますと、分派が起こってしまいます。教会生活では、一人一人が一つのからだを構成しているのですから、一人一人なくてはならない存在です。私たちはそれぞれ教会の一員であり、礼拝において一つの席を占めている、ただその事実がすばらしいことなのです。
  ○教会は、御霊なる神御自身の働きの結果です。教会のうちに働かれる御霊は、教会を生み出し、保ち、命を与えてくださいます。この一人の御霊なるお方がからだの中心におられて、命となり、からだの隅々まで行き渡ってくださるので、教会は一体性をもっているのです。私たちの内に、この御霊のみわざがなされたので、私たちはキリストのからだに連なるものとされました。その御霊による一体性を保つために、私たちは礼拝や集会ごとに教会に集まっているのです。同時に、御霊はそれぞれの器官をも命あるものとされます。御霊は、私たちを支配し、常に同じご自分の実を私たちの内に結んでくださいます。
  ○私たちの生まれながらの性質は、自己中心であり、それは分裂を招きます。そのような自分の人格ではなく、御霊に支配されているのがクリスチャンです。それによって、私たちの人格を通して御霊の実が表されます。私たちは、既にキリストのうちにあり、キリストに属しています。そして「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保つ」ことが出来るようにされている、ということを確認したいと思います。

  39                                                                                                 2003/01/12

「信仰は一つ」  エペソ4:5〜6
   

○「主はただひとりである」(申6:4)ということは、ユダヤ人にとって当然のことであっても、エペソ教会の信徒たちが関わっていた異教世界においてはそうではありません。多くの神々を信じることは分裂を招きます。日本の教会も、この「神がただお一人である」という理解が弱いかもしれません。御霊なる神、御子なる神、そして父なる神それぞれが、三位一体の一人の神として私たちの救いに関わり、ともに働かれます。この、御霊と御子と父なる神との関係に目を開かれることこそ、教会の一員である私たちが一致を保つ秘訣です。
  ○「主は一つ」です。主イエス・キリストは永遠の御子である、神そのものであるお方です。この主がお一人なので、その関係も一つでなければなりません。一人の主がおられるのですから、この方に属し、この方との真の交わりを持っているものには、一致があるはずです。
  ○この「イエスを主と信じる信仰」は一つです。それは、私たちが信仰のみによって救われ義と認められるという唯一の信仰のことです。教会の初期の洗礼は「父、子、聖霊の御名によって」ではなく、「イエス・キリストの名によって」行われていました。この「バプテスマは一つ」なのです。一つの主を信じる一つの信仰に基づいて一つのバプテスマを受けたのですから、私たちは一つとされてます。
  ○今、すでにある一致を壊さないためには、「一つのバプテスマ」を受けたときの「一つの信仰」を思い出すことです。父なる神、主なる御子イエス、聖霊なる神を信じてバプテスマを受け、教会という一つのからだに連なった、私たちのクリスチャン生活の始まりは「一つ」なのです。私たちはただ一人の神、ただ一人の救い主の、ただ一つの教会に入れられました。その「信仰」とは、イエスを「主」と信じ、父と主と御霊という三位一体の神を信じた信仰でした。これを告白しているのが4つの基本信条と言われるものです(使徒信条、ニケア信条、カルケドン信条、アタナシオス信条)。これを告白する人々は、教派・教会を越えてクリスチャン、キリスト教会として認められ、その「信仰は一つ」だということになります。この「一つの信仰」を告白する一つの公同教会の一致を、私たちも熱心に保ち続けたいと願わされます。

  40                                                                                                 2003/01/19

「恵みと賜物」  エペソ4:7〜10

○パウロは、「御霊の一致を熱心に保ちなさい」と勧めておりますが、この一致は画一的なこととは違うものです。生き生きとしていのちがあり、豊かな多様性をもった一致です。私たちはひとりひとり、個性を持ったまま一つのからだに入れられています。私たちは本質的に「一つ」なのですが、様々な面において違いがあります。一致の中での多様性というものは、教会に与えられている恵みです。
  ○主なる神についてダビデが詩篇68篇で賛美していることを、パウロはキリストと教会について語っています。ダビデは、キリストの来られることと、そのみわざを見ていました。またこれは、キリストが主なる神御自身である、ということでもあります。それはダビデを支配し、満たし、生涯を導き続けた、ご聖霊の働きです。そして、その御子キリストが天に上られたとき、御子は、父なる神から賜物を受け、その賜物を、教会とそれに属する一人一人に与えられました。このイエス・キリストこそ、教会に賜物を与えるお方であり、教会のかしらであり教会の主です。それは、御子イエスがまず地に下られ、救いのみわざを成し遂げてくださったからです。
  ○罪の中にいる人間は、サタンの奴隷となっています。神の御子キリストがこの世に来られたのは、敵であるサタンを滅ぼし、信じるものたちを解放するためでした。まず主イエスが地の低いところに下ってくださいました。そして、ご自分を卑しくし十字架の死にまでも従われました(ピリピ2:8)。主は死に、墓に葬られましたが、死は勝利に飲まれてしまいました。主は最後の敵である死に勝たれたのです。こうして、今まで人間を縛っていた、全ての敵が滅ぼされました。
  ○賜物を与えてくださる主が、まず下ってこられ、私たちの全ての敵に勝利し、彼らを勝利の凱旋行列に引き連れて行きました。主は教会のかしらとなり、御自身の決めたはかりに従って、ご自分の民一人一人に賜物を分け与えてくださいます。主なるキリストご自身が、ご自分のからだであり、ご自分の満ちておられる教会のご自分の民に、恵みと賜物を分け与えてくださるのです。その恵みと賜物を、既に私たちは頂いているということを覚えておきたいと思います。

  41                                                                                                 2003/01/26

「ひとりひとりの賜物」  エペソ4:7,11

○まず、イエス・キリストだけが、教会のかしらです。教会にはただひとりの王がおられ、それはキリストにほかなりません。そして教会は、このかしらの下で、それぞれの働きを担う一人一人によって構成されています。私たちひとりひとりに、キリストのからだの一器官として「キリストの賜物の量りに従って」特別な恵みが与えられています。
  ○次に、イエス・キリストが私たちを召してくださいます。私たちのすべきことは、主が「収穫のために働き手を送ってくださるよう」祈り、主が召してくださっていることを何でもしたい、と心から願うことです。また主は、教会の中の様々な務めや働きを定められます。主が教会の中に、務めや奉仕を「お立てになったのです」。全体が調和を持って働くために、全てが必要です。そして、それぞれ異なった務めに人を召し、その特別な働きを行う力も主が与えてくださいます。
  ○11節の四つの務めは、特にみ言葉に使える務め(使6:4)です。キリストのからだなる教会は、かしらなるキリストの御心(み言葉)によって整えられ、育てられ、建て上げられるからです。これらの務めのうち、使徒・預言者・(ここで言われている)伝道者は、教会において一時的で特別な務めであり、ある特定の期間の後はなくなりました。牧師また教師は今も続いており、教会の生活と証のためにいつの時代にもなくてはならない務めです。み言葉の務めを担う人自身、キリスト御自身から教会に与えられた賜物です。
  ○私たちが持っているものは、全て主から与えられたものです。与えられている働き、召されている務めは、全て意味あるものです。ひとりひとりの働きがなくてはならないものだからこそ、主はひとりひとりを召し、ひとりひとりに賜物を与えてくださったのです。主の栄光が現されるために、あらゆることを喜んでしたいと思います。私たち自身が、キリストのからだの一部とされている事実を、主に感謝しましょう。私たちを召し、務めを与え、賜物も能力をも与えてくださったのは主です。主が私たちを召しておられることを、私たちが悟り、受け入れられるようにしていただきたいと願います。そのうえで、聖霊御自身の力に支えながら、私たちに与えられた賜物を用いて行きたいと願わされます。

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