「牧会ミニ通信」
2002.12.01〜
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  33                                                                                                 2002/12/01

「神の充満」  エペソ3:19〜21

○朱基徹牧師の最後の説教は、「@死の力に打ち勝つことが出来るように。A長期間の苦しみに打ち勝つことが出来るように。B年老いた母と妻と子供たちをゆだねます。C義に生き、義のために死ぬことが出来るように。D私の魂を主にゆだねます。」という五つの獄中からの祈りでした。朱牧師の祈りからも、またパウロの獄中書簡からも、獄中に囚われている人間特有の救いようのない思いはうかがえません。御霊の働きによって内なる人が強められ、彼らがその祈りの通りに生きていたからに他ならないと思います。
  ○「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて」とパウロが祈るお方は、無限の力を持たれた全知全能にして、御子イエスキリストの父なる神であり、私たち人間の経験や想像力をはるかに越えたことをなさるお方です。そのような父なる神に、パウロはより頼んでいます。
  ○家族の熱心な祈りにもかかわらず、朱基徹牧師は殉教し、残された家族は、住まいも食料の配給も教育を受ける権利も奪われました。朱光朝長老はついに「私の神さま」ではない「父の神さま」を捨てようと決心します。しかし主は、結婚後救われた奥様を通して、主が朱長老を見捨てなかったばかりか、却って愛してくださっていることを証明して下さいました。朱基徹牧師が殉教する瞬間、自分を主の御手に委ねたその祈りに、主が応えて下さったことを確認できたのでした。
  ○獄中から書かれたパウロの手紙から、彼がいつも神の栄光を第一にしていたということがわかります。獄中にあってもパウロの思いは異邦人の教会にあり、彼らが主の御心を確信して立ち、主の御心にかなった歩みをし、神の満ち満ちたさまにまで満たされることでした。しかし、それによって父なる神の栄光が現されることこそ、彼の究極的な願いでした。
  ○自分を隠し、神の栄光のみを求めたパウロや朱基徹牧師のような生き方は、私たちに対しても示唆を与えてくれます。人間中心ではなく、集うすべての者が常に神に栄光を帰す教会、営みのすべてが神の栄光のためになされる教会でありたいと願います。内なる人が強くされ、キリストが宿り、神の満ち満ちた様にまで満たされ、ただ神の栄光を現すために生きる教会であることを祈り続けていきたいと願わされます。

  34                                                                                                 2002/12/08

「召しにふさわしく」  エペソ4:1〜3

○エペソ書は、前半の1〜3章では教理的なことが、後半の4〜6章では実践的なことが述べられています。前半の教理的なことが、私たちの日常生活とどのように関係しているのか、ということが後半で明らかにされていきます。
  ○クリスチャンとは、キリストによって召し出された人のことです。クリスチャンは、この世から呼び出され、「闇の中から驚くべき光の中に」(1ペテロ2:9)招かれた人のことです。私たちは、自分で選び取ったのではなく、召し出され、招き入れられたのです。ですから私たちは、暗闇から光へ招かれたものとして生活すべきなのです。
  ○私たちは今、キリストにあって天にあるすべての霊的祝福を持って祝福されています(1:3)。私たちが召されたのは、私たちが聖い者とされ、御前で傷のないものとされるためです(1:4)。私たちは神の家族として召され(2:19)、神の子供とされています(1:5)。子供であるということは相続人であり(1:11)、その保証として私たちの内に聖霊が与えられています(1:14)。私たちが教会の一員であるということは、 キリストの体の器官であるということです(1:23)。私たちは、かしらであるキリストに結び合わされ、今キリスト共に天のところに座らせていただいています(2:6)。ですから、キリストが私たちの内に住んでいてくださり、私たちの内に神の豊かさが満ち溢れているものとして生きるべきです。これらは、私たちの努力によるのではなく神の一方的な恵みによる賜物です。私たちを救うため、キリストの血が流され、私たちが救い出されるために、キリストの命が支払われました。
  ○パウロは、キリストに捕らえられており、キリストの命令に従う「主の囚人」でした。獄中のパウロ同様、獄外の私たちもキリストに召された主の囚人です。私たちがその召しにふさわしく生きることは、神とキリストにならうことなのです。それは、個人の人格形成のためではなく、「あなたがた」と呼ばれる主にある共同体、教会のためでした。主の囚人とされた私たちは、自分が召されていることを自覚し、それぞれの召しにふさわしく生きることによって一つとされ、ただ、主の命令に忠実に聞き従うことを喜びたいものです。

  35                                                                                                 2002/12/15

「御霊の一致」  エペソ4:2〜3
   

○主に召された私たちが、その召しにふさわしく歩むとは、「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保つ」ということです。父なる神の御心は、罪が入り込む以前に存在していた一致へと、私たちを再び集め、回復することです。
  ○それは「御霊の一致」と言われているように、聖霊ご自身によって生み出され、創造されるものです。ですからパウロも、私たちに一致を造り出すようにではなく、すでにある一致を「保つ」よう勧めています。同じ御霊が私たちの内におられるからこそ、私たちも一致することが出来ます。教会は一致を造り出すためにではなく、すでにある御霊による一致を告白していくために、集められた群れです。
  ○私たちに勧められている「御霊の一致を熱心に保つように努めなさい」ということを、急いで、熱心に、人生の最優先とすべく召されているのがクリスチャンです。「保つ」ことは、握り締めて保存することです。私たちの中に、既に一致が存在しているのですから、それを守っていけばいいのです。御霊なる神が、すべてのクリスチャンのうちにいてくださるところに一致があります。私たちが最優先にすべきことは、この御霊による一致を守り保つことなのです。
  ○「謙遜と柔和」は、御霊の一致が守られるために、どうしても必要なものです。この謙遜と柔和は、他の人々とのかかわりの中で、寛容として現れてきます。寛容こそ、主なる神さまの私たち人間に対する態度です。私たちも、主に倣い、自分自身を受け入れるように他人をも受け入れることこそ、寛容の表れです。現実の生活の中でも、謙遜と柔和と寛容を身に付け、自分を抑え、忍耐し、相手を理解していくことが求められています。それには、愛をもってするしかありません。人々を愛するなら、その人たちに対して寛容であり忍耐深くあるはずです(1コリント13:4-7)。
  ○私たちが平和を望み、平和を造る者なら、平和を保ち御霊の一致を保つことができます(マタイ5:3-9)。このために、新しく生まれた私たちは召し出されました。御霊が私たちの間で実を結ぶよう働いてくださるとき(ガラテヤ5:22-3)、御霊ご自身による一致が、平和のきずなによって保たれていくのです。

  36                                                                                                 2002/12/22

「下られたキリスト」  イザヤ52:13〜53:3
   

○イザヤは、バビロンに捕囚されたイスラエルの民の回復の約束と、贖われた民の賛美に満ちた礼拝との狭間に、見る影もなく低められた苦難のしもべの姿を描いています。その姿は、多くの人が見て驚くほどのみにくさでした。彼は、人が顔をそむけるほどさげすまれ、人々からのけ者にされました。
  ○クリスマスは、私たち人間をその罪から救うために十字架にかけられた、苦難のしもべイエス様がお生まれになったときです。主が十字架にかかられることによって、全ての人間が罪人であることが明らかになりました。さらに、主が罪人である人間を救うために、ご自身が罪あるもののようにみにくくなってくださった、ということを知るときなのです。
  ○しかし、イエス様が、このようなお姿になられたのは、主を軽蔑しているまさにその人々を救うためでした。主が病を知っておられたのは、病のある人を慰めるためであり、主がのけ者にされたのは、罪ゆえに神の前からのけ者にされる人々を救うためでした。ですから、イエス様が十字架につけられた理由を知ることは、私たち自身がさげすまれ顔をそむけられるような人間であること、主の救いがなくては到底救われることのない罪人であることを認めることです。
  ○「私たちも彼を尊ばなかった」のです。過去の人の話ではなく、現在の私たちもイエス様を尊ばなかったのです。私たちも、イエス様の中には美しい姿しか求めようとはしていません。みにくくされた主を尊ばないのは、そこに罪を赦していただく必要のない自分の美しさを見たいからです。
  ○十字架のイエス様なくして、クリスマスもありえません。主の悲しく、みにくい姿は、私たちの罪のせいです。そして、主はそれを、十字架において解決してくださったのです。捕囚からの解放と栄光の礼拝は、苦難のしもべによってもたらされます。私たちが罪の束縛から解放され、御使いと天の軍勢とともに神を賛美することも、飼葉おけに生まれ、十字架に死なれた苦難のしもべイエス様によってもたらされます。神であるお方が、下られて人となり、最も低いところにお生まれ下さったからこそ、相対的に私たちも神であるお方を、本当の意味で賛美できるようにされたのです(ピリピ2:6-8)。

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