「礼拝メッセージ」(全文)   2

「暗闇に光」
ルカ1:78-2:12イザヤ60:1-2
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

                                                                                                 2007/12/24

祈り  

「天のお父様、お名前を賛美いたします。今宵、あなたの憐れみによって、あなたのお誕生を祝うこの礼拝に私たちをお招きくださり感謝いたします。宿屋にはいる場所がなく、飼い葉桶に寝かされたイエス様こそ、私たちの罪を贖い、永遠のいのちを与えて下さるため十字架につけられる救い主でした。あなたの計り知れない深いご計画と愛とに感謝します。私たちは、すばらしい 喜びの知らせをきょう聞きました。私たちに与えられたこの救い主を、私たちのものとして受け入れることができますように。信じて命を頂くことができますように。そして、この喜びの知らせを知らない人々にお知らせすることができますように。天のお父様、どうか今、あなたの御霊で私たちを覆って下さい。クリスマスに現されたあなたの愛を受け取らせて下さい。
  今日集われたお一人お一人にあなたからの喜びの知らせが届きますように。この暗やみの世に苦しみ喘いでいる人々に、あなたからの希望の光が届きますように。平和が回復され、貧しい者が豊かにされ、苦しみ悩んでいる者が慰められ、痛んでいる者がいやされ、悲しんでいる者が喜びますように。特に初めて集われた方、道を求めておられる方にご聖霊の導きが豊かにあります ように。期待しつつ、この一時を御手におゆだねします。私たちのただ一人の救い主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」

(序)

クリスマスおめでとうございます。特に、初めて来られた方、久しぶりの方、年に一度このクリスマスの夜に来られる方、ようこそいらっしゃいました。   年の瀬も押し迫って来ておりますので、この一年を振り返りますと、いろいろなことがあったことと思います。泣いたり笑ったり、痛い想いをしたり、迷ったり、傷つけられたり、また、傷つけたり。しかし、「きょう」、この夜、「あなたがたのために救い主がお生まれになりました。」このお方、主キリストにこそ救いがあります。今晩、ここに皆さんが集められたのは決して偶然ではありません。
  主である神様が、永遠の計画に基づいて、二千年前に御子イエス様を、人間の赤ん坊としてこの世に生まれさせて下さったように、同じ主が、今日、この夜、皆さんをここに招いて下さったのです。今日、ここに集まるために、この一年の歩みがあったと言っても良いのです。主は目的を持ってこの夜皆さんを集めて下さったのです。主が完全な愛で皆さんを覆って下さいます。この礼拝にこそ、皆さんにとって特別な喜びと安心があります。それは、やがて天の御国において味わう喜びと安心の先取りなのです。ここに天の御国が来ています。イエス様が来られたからには、そうなのです。今晩ここに集われた皆さんを永遠のいのちへ導くためにイエス様はお生まれになられたからです。そして、今も生きておられるイエス様は、ここにおられ、私たちの礼拝をお受け下さっているのです。

(1)  夜
   

さて、先ほどキャンドルページェントをしていただきました。暗やみに光が灯されました。蝋燭の光というのは独特で、何ともいえない趣があります。クリスマスの出来事も、夜の出来事でした。世界に夜があり、私たちの中にも夜があります。その夜の闇のただ中に、神である主の恵みの光が訪れたのが、クリスマスです。
  聖書には、「神の深い憐れみ」によって私たちに光が訪れ、この光が「暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし」私たちを「平和の道に導く」と書かれています(ルカ1:78,79)。それがクリスマスの出来事でした。「暗黒と死の陰にすわる者たち」とは、最初のクリスマスの時の人々もそうでしょうし、現代のすべての人々もまた同じだと思います。現代の人々にも「暗黒と死の陰」があります。ききんや食糧不足に悩んでいるアジアやアフリカの人々。民族同士の紛争や、戦争で苦しんでいる地域の人々。自然災害によって打撃を受けた人々。温暖化の影響で消滅しようとしている国の人々。そういう地域の人々が、「暗黒と死の陰」の中で苦しんでいることは確かです。そういう環境や状態の中に「暗黒と死の陰」があると言えます。同時にその中に住む人々の内面や人間関係の中にも「暗黒と死の陰」があると思います。人々の心もまた不安に怯え、敵対心や復讐心でいっぱいになります。「暗黒と死の陰」が人間をゆがめ、心を傷つけます。
  私たちを振り返ってみますと、確かにそのような環境にはないかもしれません。しかし、私たちの間にも人間関係の争いがあります。今年の漢字は「偽」という字だそうですが、まさに私たちの社会は、つまりその社会を構成している私たちが偽りを行なっているのです。その上、憎んだり、うらやんだり、悪口を言ったり、ひとをけなしたりする思いが私たちの心や性格をゆがめています。いわれのない恐れや不安、怒りや疑いなどに支配されているかもしれません。「暗黒と死の陰」がここにもあるのです。光に照らされていない状態、主のみ言葉から離れている状態、み言葉に従って生きずみ言葉が生活に影響を与えていない状態が「暗黒と死の陰」です。そういう闇を人間は持っています。闇は、隣人を見えなくさせ、人間同士を引き離します。主のみ言葉の代わりに、闇の力が支配しているので、ねたみや恨みや競争心で人を傷つけ自分も傷つくのです。だからこそ、現代の世界にもクリスマスのメッセージが届けられなければならないのです。

(2)恐れるな

最初のクリスマスの夜、野宿していた羊飼いたちもそうでした。彼らも「暗黒と死の陰」にすわっていた者たちだったのです。彼らは安息日を守ることができない人々でした。生活も貧しく、同時に礼拝から離れ、主のみ言葉から離れ、み言葉に基づいた生活を送ることができないでいました。ですから、彼らは恐れていました。律法に従って立派な生活をしている人々や、神である主ご自身を恐れていました。自分たちは主にふさわしくない、主のご命令に応えていない、主のみ言葉から離れた自分は価値がないと思っていたのです。羊飼いとして生まれた自分の境遇を恨んでいたかもしれません。また、そんな自分を軽蔑していたかもしれません。「暗黒と死の陰」に座る自分に価値を感じられなかったのです。しかし、その彼らに御使いは「恐れることはありません」と語りかけました。彼らにクリスマスの光が臨んだのです。
  クリスマスは、そのような「暗黒と死の陰」にすわる人、暗やみや死の陰を抱えた人間、つまりすべての人に訪れた主の憐れみの光でした。そして、誰でもない、他ならない「あなたがたのために」救い主がお生まれになったのです。闇を抱えた罪人である私たちのために救い主は来られたのです。罪人を赦すために、ご自身のすべてを捧げて下さるお方が来られたのです。だから「恐れることは」ないのです。罪人であるがゆえに恐れている私たちに、恐れるな、と言われるということは、私たちは「赦されている」と言われているのです。罪が赦されていなければ、私たちは主の到来を恐れなければなりません。しかし、すでに赦されているから「恐れることは」ないのです。だからこそ主は「あなたがたのため」「私たちのため」の救い主なのです。私たちを赦すのために救い主が来ておられるのです。もう、私たちは価値の無い者ではありません。イエス様の赦しの光の中で自分自身を見直すならば、主に招かれている価値ある者なのです。
  そして、イエス様は「飼い葉桶に寝ておられ」ます。それは、イエス様がただ遠くから人々を照らすお方ではないからです。「暗黒と死の陰にすわる」人々のまっただ中に自ら来られたお方なのです。そして、共におられて、二度とはなれないお方です。世の終わりまで共にいて下さるお方です。「暗黒と死の陰」が私たちを孤独にし不安にしようとも、主は私たちと共にいつまでもおられます。二度と離れない、と約束されたのがクリスマスです。「インマヌエル、神は私たちと共におられる、と呼ばれる」お方が来られたのです。

(3)変化

その後羊飼いたちは帰って行きました。元いた場所へ、羊の番をするために戻って行きました。私たちもそれぞれの場へと帰って行きます。「暗やみと死の陰」のある現実の場所に戻って行かなければなりません。しかし、孤独と不安のままかえるのではないのです。イエス様の光に照らされながら、イエス様の光の中で赦された者として、イエス様の弟子とされた者として、主と共に帰って行くのです。決してわたしたちからはなれることのないイエス様とともにそれぞれの持ち場に帰って行くのです。ですから、もう恐れないで良いのです。赦されたからには、もう主である神を恐れなくても良いのです。主が共におられるのですから、闇をも恐れる必要はありません。赦された者が闇を恐れ、罪を恐れ、いつまでも罪に悩む必要はないのです。かえって「神をあがめ賛美しながら」帰って行きます。赦されたのですから。   人生の闇は無くなることはないでしょう。私たちの外に引き続き闇はあります。私たち自身の内にも罪の闇は相変わらずあります。しかし、その闇がどれほど深くても、クリスマスの光は輝きをやめることはありません。主のあわれみの光は照らし続けて下さいます。この世のどんな知恵にも力にも権力者にも医者にも、もはや私たちにはなす術がないというときであっても、その光に頼ることができます。私たちの考えをはるかに越えた主の御心という希望の光を見上げることができます。人間の限界を認めるときこそ、私たちは主の御心を信じてその闇に希望の光を灯すことができます。最後の永遠のいのちの希望としてこの光を見上げ祈ることができます。「みこころが天で行なわれるように、地でも行なわれますように。」人には愚かなことであっても、主の御心こそ、私たちが求めるべき本当の知恵です。光りに照らされているならば、そこはもはや真の闇ではありません。主が共におられ、主の赦しがそこにあります。そこに世に打ち勝たれた主の勝利があります。私たちは安心して良いのです。「自分のいのちのことで・・心配したり、からだのことで・・心配したり」する必要はありません。「あすのための心配は無用です」(マタイ6:25,34)。私たちは心配しないで思い悩まず、もっと安心して、共におられる主に信頼して私たちの人生を進めば良いのです。私たちの一歩を進めて下さるイエス様がおられます。クリスマスの光によって道を照らして下さっています。インマヌエルの主と共に歩む生涯を送りましょう。

祈り

「天のお父様。御名を讃美します。『光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった』。いのちであり、まことの光であり、神の一人子であるイエス様が、人となって私たちの間に住まわれたことを覚えて感謝いたします。希望の光に照らされて、私たちもそれぞれの持ち場に帰ってまいりますが、このお方にこそ希望を置いて、このいのちの光にこそ信頼をおいて歩むことができますように。光に照らされながら、イエス様によって赦された者として、命を与えられたものとして、神の子とされた者として、歩むことができますように。いつも決してはなれることなく共にいて下さるイエス様に信頼して思い煩わず、闇を恐れず、光を見上げて歩む者として下さい。私たちの救い主、いのちの光である主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン」

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