「礼拝メッセージ」(全文)   3

「完了した」

ヨハネ19:28〜42
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

                                                                                                 2008/3/21

  

(1)十字架
   

イエス様は、私たちの罪の贖いとなられるため、町の外に連れ出され、十字架に架けられました。旧約の律法において、罪の贖いとして血が流された動物は、幕屋の外に運び出されなければなりませんでした(レビ6:30,16:27)。そのように、イエス様は私たちの罪を贖うため、死という尊い犠牲を払われたのです。「ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられた」のであり(ヘブル13:12)、イエス様に負わせた私たちの罪を、イエス様が一緒に持ち去って、取り除いて下さったのです。イエス様はまさに強盗の一人の様に、あたかも他の誰よりも悪く、軽蔑されるべき者として、二人の強盗の真ん中で十字架に架けられました。今までの苦しみに加えて、そのような辱めをも受けられました。「木につるされた者は、神にのろわれた者」(申21:23)と律法に示されています。イエス様は、私たちを律法の呪いから贖い出すため、「私たちのために呪われたものとなって」下さいました(ガラテヤ3:13)。このように、イエス様が罪とされたのは、「私たちが、この方にあって、神の義となるため」でした(2コリント5:21)。イエス様が来ていた着物をはぎ取られたのは、イエス様の義を私たちにまとわせるためであり、イエス様が裸にされて人々の辱めを受けたのは、神の裁きの座に、私たちがイエス様の栄光をまとって立つことができるようにするためでした。
  これらのことは、イエス様を十字架で殺そうとしている人々が行なったことです。しかし、それすらも神である主のご計画によって定められ、啓示されていたことであり、神である主が定められた以外のことは何も行なわれなかったのです。父なる神のご意志に従って、正しい理由を持って、一人子のイエス様が犠牲の供え物とされたのでした。罪に対する主の怒りはそれほど恐るべきものであり、主は罪を激しく憎んでおられるのです。私たちに対する罪の宣言は、一人子であるイエス様が私たちのために呪われた者となって下さるのでなければ、取り除かれることがないほど大きなものでした。一方、私たちに対する主の愛は無限に大きいのです。ですから、天の父が罪に対してこのような裁きをされたのですが、また、父がその一人子を惜しまれなかったほど、私たちの救いに特別な関心を抱いておられたのです。主の恵みの豊かさを知ります。ですから、「私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」(1コリント1:23,24)。

2)ユダヤ人の王

そして、イエス様は王として十字架に架けられました。ピラトは「ユダヤ人の王ナザレのイエス」という罪状書きを掲げましたが、これのどこが罪状書きでしょうか。そこには、罪とされた行いの記録はおろか、何の辱めの言葉も、不名誉となる言葉も書かれて這いませんでした。それどころか、却ってイエス様について、救いを授ける方であること、神である主によって聖別されたナザレ人であること、選ばれた民の王であること、という真理が記されたのでした。もちろん、ピラト自身は、自分が書いたものにどんな価値があるかは少しも知りませんでした。しかし、ピラトの手を導いた神である主のご摂理は、このような福音の真理を書かせたのでした。しかも、ご聖霊は、ピラトをして、そのイエス様の称号を、三つの国語で書かせました。ユダヤ人の国語であるヘブル語、ローマ帝国の言葉であるラテン語、そして当時の世界共通語であるギリシヤ語です。つまり、救いをもたらすその名が世界のいたるところに広められるためにです。
  ピラトは、その自分が書いたことを変えようとはしませんでした。それは確かに、自分の決意を曲げさせて来たユダヤ人たちに対する腹いせだったかも知れません。しかし、自分でも知らないながら、彼は自分がイエス様に対して記した真実を頑として撤回しませんでした。それは、イエス様の言葉のように、決して変わることのない真理だったからです。ですから、それもやはり神である主のご摂理でした。あらゆるサタンの試みに対して、ピラトが少しもひるむことなく踏みとどまることができたのは、主が彼を支えておられたからです。彼は祭司長たちに、この時は一歩も譲歩せず、むしろ、主が彼の口を通して、イエス様が王として治められる国がどれほど確固として不動のものであるかを証ししたのです。イエス様の王国は、どんなに敵の攻撃によっても微動だにされない、堅固な国である、ということがピラトのはり札において明らかにされました。それは神の国の真理を表しています。神の国はこの世の物ではなく(18:36)、ニコデモに示された、新しく生まれなければ入ることのできない霊の国なのです(3:5)。そしてイエス様こそ、その神の国の王であるのです。
  ですから、私たちも、様々な脅しや危険に脅かされても、神である主がご自身の御霊によって私たちの心に刻み付けて下さった真理の告白を、躊躇するようなことがあってはならないのです。ピラトでさえ、自ら知らずに保った真理を、私たちは知っているのですから、なおさら躊躇したり撤回したりすることなく、告白し続ける必要があります。

(3)完了

そして、地上のご生涯において、天の父に従い通されたイエス様は、その最大の使命である十字架にまで従われ、その後ご自分の母マリヤに対しても息子としての務めを果たされました。最後まで、母親のことを心にかけられ、自分の愛する弟子に母親を託されたのでした。イエス様はいよいよ、人間としてのご生涯を全うされ、王として神の国に入って行かれるのです。人間的な条件を全て脱ぎ捨てる時が来たのです。
  イエス様は、人間の受ける全ての苦痛をご自分のものとして受けられました。神である主のさばきに対して私たちの償いを果たされ、罪のきよめがすべての点で完全になるまで、それから解放されようとは少しも望まれず、最後の一滴までその苦しみの杯を飲み干されたのです。そうして、私たちに対する愛が、全ての苦しみを克服されたとき、「すべてのことが完了したのを知って」「わたしは渇く」とおっしゃって、それまで拒んでいた「酸いぶどう酒」を受けられました。もちろん、本当に完了するのはイエス様が死んでよみがえられてからですが、すでにそれを先取りして言われたのです。イエス様は、もうご自分には死を通ってよみがえりのうちに入ることしか残されていないことをご存知だったのです。そして、「完了した」とおっしゃり、霊を父にお渡しになりました。
  私たちの救いの全ては、イエス様の死によって成り立っています。よみがえるということは、一度死ななければならないということです。私がキリストとともに十字架につけられキリストとともに一度死んだことによって、私たちもキリストともに新しいいのちによみがえったのです(ガラテヤ2:20、ローマ6:6)。私たちの信仰はただイエス様ご自身にあります。私たちの救いに役立つもの一切はイエス様のうちにあり、それ以外の所に求めてはならないのです。イエス様のうちにこそ、完全な救いがあるからです。
  それは、昔捧げられていた、動物のいけにえや全ての象徴的なものが完了した、ということです。律法を守り行なうことでは私たちの罪を消し去り、神の義を得させることはできませんでした。しかし、今や真の救いは世に示され、明らかにされ、律法の全ての儀式は終わったのです。イエス様こそそのいけにえの儀式の本質であり、それまでのものは全て影だったからです。本体が現れた以上、影を負うのはただ虚しいだけです。ですから、ただイエス様の死こそ私たちの救いにとって十分であり、その他の一切の助けはもう必要ないのです。イエス様によって私たちを救う主のみ業は「完了した」のです。私たちの救いは、イエス様の死というただ一つの犠牲によって、たった一回の捧げものによって完全に成就したのです。
  最後にイエス様はご自分の霊を父にお渡しになりました。自ら、自発的に、あたかも十字架を枕にして休まれるかのように、憩いを得るために委ねられたのです。イエス様は聖書の預言をすべて成就し、贖いのわざを成し遂げ、ご自分がこの世に来られた目的を完成され、神に受け入れられる完全ないけにえがささげ尽くされたことを満足されて、ご自分を遣わされた方に霊をお渡しになりました。
  私たちの永遠のいのちへの信頼もまさにそのことにあります。イエス様は私たちのために死なれ、死と戦って勝利を得て下さいました。ですから、わたしたちも死に対して自らを誇ることができるのです。「今から後、主にあって死ぬ死者は幸い」なのです。「彼らはその労苦から解き放されて休むことができる」からです(黙示録14:13)。私たちは、イエス様にあって死ぬとき、私たちの霊を天の父に安心して預けることができるのです。主はご自分が救われた魂を決して滅びさせず、守って下さいます。私たちの霊は、神である主ご自身に託された大切なものとして、そのからだのよみがえりの日まで確実に主ご自身によって守られます。それこそが永遠のいのちの保証なのです。
  死は人間の生涯の終わりであり、この世の可能性の終わりです。しかし、イエス様の死は神である主のご目的が完了した時でした。あらゆる人間の可能性が終わるとき、ただ主の栄光だけがすべてを支配するのです。人の望みの尽きる所になお主はご臨在されご支配なさるのです。イエス様のみ言葉を聞き、イエス様を遣わされた父を信じる者は「永遠のいのちを持ち」「死からいのちに移っています」(5:24)。私たちは「罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者」(ローマ6:11)とされているのです。私たちが、死をもってこの世の生涯を終えるとき、永遠のいのちへの新たな生涯がすでに始まっていることを知るのです。この世と人間に絶望したときこそ、永遠の御国と主に希望を持つことができるのです。贖いのみわざを成し遂げ、聖書のみ言葉を成就され、すべてを完了されたイエス様の十字架を基として、私たちも、この世に望みをおく生活に終わりを告げ、永遠の御国の希望に生き始める者とされたいと願わされます。

祈り

「天のお父様。御名を崇めます。あなたは、私のために死に、私の罪のためにすべてを与えて下さいました。あなたは、私のために人となられたばかりか、もっともむごたらしい十字架の死の苦しみをも受けて下さいました。あなたのご受難と十字架の死を思うとき、計り知れない主の愛に、感謝の言葉もありません。ただ、御前に立たせて、あなたを見つめさせて下さい。むち打たれた体と、茨で傷つけられた頭と、釘を打ち付けられた両手と両足、槍を突き刺された脇腹。全てが完了したのです。すべての預言が成就しました。主よ、あなたを崇め讃美いたします。ご自分の受難と死を通してすべてを新しくして下さったあなたに感謝いたします。死から始まる希望を指し示している十字架を見上げます。あなたの十字架の御許でいつも生きる者でありますように。あなたの十字架による永遠のいのちいの希望をいつも宣べ伝える者でありますように。十字架に死なれ、私たちの罪の贖いを完了してくださったイエス様のお名前によってお祈りします。アーメン」

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