「礼拝メッセージ」(全文)   4

「復活の証人」

ヨハネ20:1〜18
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

                                                                                                 2007/4/8

祈り  

「天のお父様、お名前を賛美いたします。復活の朝、私たちをあなたが設けて下さった、喜びと楽しみの礼拝にお招き下さり、感謝いたします。
  イエス様は、私たちの罪の贖いとなられるため、私たちを律法の呪いから贖い出すため、十字架に架かって下さいました。しかし、イエス様は王としても十字架に架けられ、救いをもたらすその名が世界のいたるところに広められることになりました。私たちの救いは、ただイエス様の死によって成り立ちました。私がキリストとともに十字架につけられキリストとともに一度死んだことによって、私たちもキリストともに新しいいのちによみがえりました。動物のいけにえや、律法の行ないは全て終わりました。イエス様によって私たちを救われる主のみ業は完了し、今から後、主にあって死ぬ死者は幸いであることを感謝します。
  そしてイエス様は、この主の日に、み言葉の約束通りよみがえりました。主よ、イエス様のよみがえりのいのちで私たちを生かして下さい。永遠のいのちを与えて下さった御霊で、私たちを満たして下さい。そして、あなたご自身が語られるみ言葉を悟らせ、従う力を与えて下さい。どうか、イエス様の御からだであるこの教会が、いのちに満ちあふれて歩み出すことができますように。
  いつくしみ深いお父様、病や苦しみの中にある方々をいのちの御霊によっていやして下さい。悩み悲しみ、試練や誘惑の中にある方々を神の国に入ることのできるいのちによって顧みて下さい。紛争や戦争の被害の中にある方々、飢饉や疫病の中にある方々に必要な助けが与えられますように。信仰の戦いの中にある方々に、死にすら勝たれたあなたの勝利をお与え下さい。どうか、この礼拝において御国における全てのことに解決を与えられた姿を見せて下さい。この世が真の平和と正義を求めるようにしてください。困難な中で福音宣教の働きをしておられる方々に力と励ましと知恵とをお与え下さい。そのような中でも救われた兄弟姉妹たちの信仰を支え、いよいよみ言葉に堅く立たせて下さい。
  (初めて集われた方、道を求めておられる方にご聖霊の導きが豊かにありますように。)
  期待しつつ、この一時を御手におゆだねします。私たちのただ一人の救い主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」

(1)マグダラのマリヤ

 イエス様のご生涯の最初と最後に、際立っているのは女性たちの働きです。クリスマスのときのヨセフとザカリヤに対して、マリヤとエリサベツの信仰。そしてイースターの前後でも、ユダはつまずき、ペテロは裏切り、「愛する弟子」以外の弟子たちが逃げ出して行く中で、女性たちは十字架の現場に留まり、イエス様の最後を見守り、遺体が墓に納められる所を良く見ていました(マルコ15:40-47)。
  マグダラのマリヤは、「罪深い女」(ルカ7:37)で、イエス様の足に香油を塗った女性だという人もありますが、イエス様から「七つの悪霊を追い出していただいた」(ルカ8:2)ということ以外に、聖書の説明はありません。しかし、その事実だけで、十分、多く赦された者がよけい愛するように、彼女もイエス様のことを「よけい愛した」(ルカ7:47)ということは分かります。彼女は、イエス様の地上でのご生涯において、七つもの悪霊を追い出していただいたほど、だれよりも多くをイエス様に負っていたのですから、イエス様から受けた祝福が十字架の死で終わらないことを、誰よりも早く知らされる必要があったのです。彼女は実にイエス様の復活の最初の証人とされました。
  マリヤは、他の女性たちと一緒に、朝早く墓に行きました。墓の前で嘆き悲しみながら、イエス様の思い出に浸ることで、慰めを得たいと思っていたのでしょう。まだ朝のあけきらない、暗いうちに墓にやってきた彼女の、イエス様に対する愛の深さが分かります。ところが彼女たちは、「墓から石が取りのけてあるのを見た」のです。墓の石は、自然に開くことはありません。坂道を下るようにして、入り口にふたをしているからです。また人が動かしたのでもありません。マタイの福音書には、「番兵が墓の番をした」(28:66)ことが記されています。石は「取りのけられていた」のです。いったい誰によって?マリヤが墓に行く前に、夜のまだ暗いうちに、人の手が全く関わることのできない所で、神である主が既に働いておられました。人の思いに先立って、神である主は働かれるのです。

(2)弟子たち
   

 マリヤは、急いでペテロともう一人の弟子のところに走って行って「だれかが墓から主を取って行きました」と告げました。彼女は墓が空いているのを見て、中を見たわけではありませんが、イエス様がいなくなったと思ったのです。イエス様がよみがえったことはまだ信じていたわけではありません。誰かが、ユダヤ人たちか、墓泥棒か、園の管理人か、それとも他の誰かが、イエス様の遺体を運び去ったと思ったのです。
  知らせを聞いた二人の弟子は、墓へ走りました。最初についたもう一人の弟子、恐らくヨハネは、墓の中には入りませんでしたが、続いて来たペテロは墓に入り、亜麻布がおいてあるのを見ました。そしてヨハネも入って来て「見て、信じた」のです。頭に巻かれていた布切れは、亜麻布から離れた所に巻かれたままになっていましたが、つまり、体を巻いた亜麻布は体を巻いたままそこに、頭を巻いた亜麻布は頭を巻いたままその場所に、まるで体だけが抜け出したように、亜麻布がそこにおいてあったのです。
  ヨハネはそれを見て信じました。もちろん、イエス様がよみがえられたということを信じたのです。まだ復活の主に出会ったわけでもなく、はっきりとそれを認識したわけではありません。それでも、しばしばイエス様ご自身の口から聞かされていて、今、目の当たりにしたイエス様のよみがえりの明らかなしるしによって、イエス様の体が誰かによって取り去られたのではないということを、そうではなく、神の大能の御手によってよみがえらされ、死人の中から復活させられたことを信じ始めたのです。墓の中には何もなく、ただ亜麻布と頭の覆いだけでした。イエス様がよみがえられたという納得の行く裏付けもまだありません。ただ、墓が空である、という事実だけでした。しかしそれを見てともかく信じたのです。ヨハネこそ「見ずに信じる」幸いな者でした(20:29)。かつてイエス様がご自分の父の家に行くことを証しされたとき「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」(14:1)と言われました。愛する者を失ってもやはなすすべがないこの時、残されていることはただ一つ「信じる」と言うことだけでした。そしてヨハネは、その通り信じたのです。
  実際、イエス様にとっては、墓の入り口を開けることも、ご自分を包んでいた亜麻布を残しておくことも、必要ではありませんでした。ただ、弟子たちを中に入れるために、墓の入り口を開け、ご自分が永遠のいのちによみがえられたことを証しし、弟子たちに信じさせるために、死のしるしとしての亜麻布を残されたのです。
  このとき、弟子たちは聖書をまだ理解していませんでした。しかし、イエス様が「死人の中からよみがえらなければならない」ということは、神である主が永遠の計画の中に定めておられたことです。十字架も復活も主の摂理だったのです。ですから、人が信じようと信じまいと、その事実をいかに覆そうと努力しても、イエス様の復活ほど確かなことはないのです。人間は不確かですが、神である主ほど確かな方はおられません。私たちが信じ礼拝し祈っているお方は、それほど確かなお方であるはずです。そのお方がイエス様をよみがえらされたのです。そのお方が聖書に「イエスが死人の中からよみがえらなければならない」と書かれたのですから(ヨナ1:7,ホセア6:2,詩篇16:10)、聖書は何よりもイエス様の復活の確かさが書かれている書物だといえるのです。私たちは何を疑う必要があるのでしょうか。彼らもまだ理解していませんでしたが、信じたのですから、やがて分かる時が来るでしょう。最初は、鏡にぼんやり映るものを見ているようでも、やがてはっきり見えるようになります(1コリント13:12)。信じたということに全ての始まりがあります。
  ヨハネも後に手紙を書いて「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです」(1ヨハネ5:13)と言っています。ヨハネは教会に手紙を書きました。彼らもイエス様を信じ、信仰をもっているのに、永遠のいのちを得ているという重大な事実をまだ悟っていなかったのです。だからその事実をよくわかってもらうために手紙を書き送ったのです。信じはしても、理解し、分かるためには、繰り返し礼拝を守り、祈りつつ聖書を読み、み言葉の説教を聞き、聖餐にあずかり、教会生活を続ける必要があります。その中で、イエス様を信じたのだから永遠のいのちに与っている、ということが自分のこととして分かって来るのです。そして、空の墓が主の栄光で満たされるように、私たちの心の虚しさが満たされるのです。

(3)イエス

 さて、弟子たちが帰った後も、マリヤは墓の外で泣き続けていました。最愛の主を失い、今やその遺体までも失った悲しみのゆえに、涙があふれてやみません。せめてイエス様の遺体に、最後の手当をしたいと願って来たのです。それほどイエス様を愛していたからです。最後の別れをしたいと思っていた、そのイエス様は今どこにおられるのか。マリヤは墓の外に立ち続けました。墓は死の世界の象徴です。死は絶望です。死こそいのちと愛の終わりです。そのような死の力に、イエス様も屈したのです。イエス様のように愛に生きたお方でも、死においてはなす術はなかったのです。だとしたら、イエス様はあくまで墓の中にいるはずです。全てが終わってしまったかの様でした。御使いに話しかけられても、悲しみと絶望感に沈みきっていたマリヤは驚くどころか、関心はただ、イエス様がどこにいるのか、ということでした。
  しかし、御使いは「なぜ泣いているのですか」と尋ねたのです。御使いは「イエス様はすでによみがえられてここにはいないのだから泣く必要はないではないか」と言っているのです。そのマリヤの背後にイエス様が近づいておられました。マリヤは振り向きますが、それがイエス様であることが分かりませんでした。エマオ途上の弟子たちの様にその目が遮られていたのです(ルカ24:16)。イエス様は御使いと同じ質問をします。続けて「誰を捜しているのですか」と尋ねます。「あなたはわたしを捜しているのでしょう。その、わたしは今あなたの前に立っているではないですか」と、言っておられるかのようです。そして、再び墓を向いたマリヤにイエス様は彼女の名を呼ばれました。このときもイエス様はヘブル語で、つまり通常話されていたアラム語で「マリアム」と呼びかけられたのです。「マリヤ、なぜわたしを死人の中に捜すのですか」(ルカ24:5)。マリヤは再び振り向き、イエス様に気づいて、やはりアラム語でいつも呼んでいたように「ラボニ」と叫んだのです。
  復活のイエス様が自分のすぐそばに立っておられるのに、それに気づかずに泣き悲しんでいることはないでしょうか。一度は振り向いてイエス様を見ていながら、それがイエス様だとは気づかずに、再び背を向けて墓のようなこの世の現実を見つめ、絶望と失意に打ちひしがれてしまっていることはないでしょうか。イエス様は背後から名を呼び招いていて下さいます。復活のイエス様こそ現実なのです。その永遠のいのちによって入る天の御国こそ現実であり、この世は鏡に映ったものにしか過ぎません。そのイエス様の方を振り向くように、悔い改めてイエス様の方を向くように呼んでおられます。そして「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」(マルコ6:50)と励まして下さるのです。「わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書きを与える。わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。」(イザヤ45:4-5)。そして「羊はその声を聞き分けます」(10:3)。振り返り、方向転換をし「主よ」、と答えることが信仰です。「無いものを有るもののようにお呼びになる方」(ローマ4:17)こそ主です。無い者であった私たち一人一人の名を呼んで下さるお方に、振り向き答えて行くこと、つまり、心の向きを変えること、心を入れ替え、悔い改めて、主に立ち返ることです。そこにイエス様が立っておられます。そこに私たちの死からいのちへのよみがえりの現実があるのです。
  そのイエス様は、永遠によみがえられた方です。ですから、「わたしにすがりついてはいけません」と言われます。イエス様により多くを負っている者ほど、イエス様により近い存在なのです。イエス様に負い目を持っている者ほど、イエス様のいのちに与らせられる者です。マリヤはイエス様に最も近い一人でした。イエス様は人となって私たちの間に住まわれた(ヨハネ1:14)方でした。顔と顔とを見合わせ、互いにふれあい、お互いの存在を確かめ合うことができました。しかし、それは人と人との関係でした。今やその人としてのイエス様は十字架に架けられて死なれたのです。イエス様は父であられる栄光の主のもとに戻って行かれるのです。変貌の山におけるペテロのように(ルカ9:33)、そのイエス様をいつまでも地上にとどめておこうとしてはならないのです。イエス様が天に昇られ、御子として御父から完全な御国を受けられるのを妨げてはならないのです。そのときこそ、イエス様が御父から託されたみ業が完成するからです。そして今後は、天に昇ったイエス様と御父から遣わされる助け主なるご聖霊によって、目に見えるイエス様との交わりを越えた新しい関係が続くのです(14:16,26,15:26,16:7)。

(4)新しい使命

 今やマリヤに一つの新しい使命が与えられました。それは、マリヤがイエス様の復活の事実の現実の証人として立つことです。そして「わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のものに上る』と告げ」ることです。イエス様の父であり神であるお方は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であり、マリヤの神でもあり、私たちの父なる神であるのです。私たちはイエス様によって「子として下さる御霊を受けたのです」(ローマ8:15)。地上のイエス様の時は終わり、新しい時が始まりました。マリヤは、そして弟子たちは、そして私たちも、イエス様の復活こそ現実であるという証人として立つ時が来たのです。「私は主にお目にかかりました」。これを伝えるためにです。自分の耳で聞き、目で見、手で触ったお方 (1ヨハネ1:1) だからこそ、それを伝えることができるのです。自分の名を呼ばれ、「主よ」とお応えしたお方だからこそ伝えられるのです。私たちもそのイエス様に出会い、一人一人名を呼んでいただき、主よ信じますとお応えし、「アバ、父」と呼ぶ御子の御霊を頂いたのです。一度振り向いてイエス様を観ていながら、再び振り返ってはならないのです。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのち」です(ローマ6:23)。もし私たちが、イエス様とともによみがえらされたのでしたら、地上のものを思わず、天にあるものを思っていきましょう。そこにこそ、イエス様が神の右に座を占めておられるのです(コロサイ3:1,2)。「私は主にお目にかかりました」。これが現実です。この現実を確信をもって伝えて行きましょう。

祈り

「天のお父様。御名を崇めます。永遠にいまし、全能の神である主よ、今日、この日、あなたは御子を通して死に勝利され、復活させられ、永遠のいのちに至る道を私たちに開いて下さいました。私たちは喜びをもって御子イエス様の復活を祝います。どうか、ご聖霊によって私たちを新しく生まれ変わらせて下さい。「私は主にお目にかかりました」。復活の主の現実を事実として人々に証しする者として立たせて下さい。地上を見ず、天を見上げ、いのちの光の中を歩き続けるものとして下さい。よみがえりの主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン」

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