「牧会ミニ通信」
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  438                                                                                               2011/7/3

「主よ。そのとおりです」マルコ7:24-30  マルコ7:24〜30

No.438(7/3)「主よ。そのとおりです」マルコ7:24-30 ○パリサイ人や律法学者たちにとって、昔の人たちの言い伝えを守ることは死活問題でした。例えば、食事の前に手を洗わなければ、主の前に汚れているとされたのです。このような規則を守ることが主を喜ばすことで、これらの規則を破ることは罪を犯すことでした。それをイエス様は反対されたのです。しかしイザヤも人々が口では主を敬っても、心は主から遠く離れていることを責めていました(イザヤ29:13)。
  ○食べ物についてもイエス様は、すべての食物をきよいとされました。人を汚すのは、人の内側から出る悪なのです。彼らは自分たちが受け継いだ都合の良い言い伝えによって、主のみことばを空文にし、結局十戒すら犯してしまったのです。彼らは複雑な儀式を行うことで主を礼拝しているようなつもりになっていましたが、自分たちの言い伝えを聖書の教えと置き換えているだけでした。大切なことは、私たちが主を愛し隣人を愛しているか、ということです。みことばは何と言っているかで判断することが大切なのです。
  ○強制されて、うやうやしく、尊敬の態度を取ったとしても、心からそれがなされていなければ意味がないはずです。心からなる感謝と喜びで礼拝をささげ、日々の生活を主とともに歩み、みことばに従うことが大切です。どんな教えであろうと、みことばによって確かめられなければなりません。あくまで判断はみことばであって、人ではありません。
  ○イエス様はご自分からコルバンとなられ、十字架に架かられ、完全にご自身をささげ尽くしてくださったのです。ですから、私たちが救われるためにささげるものは何も残っていません。私たちの罪の贖いは完全になされました。それを信じて受入れる者は神の子とされ、神である主を愛し、隣人を自分自身のように愛して生きる歩みができるご聖霊を与えられたのです。イエス様というささげ物だけで完成していることをもう一度確認し、みことばに歩む者とされたいと願わされます。主が求めておられるのは、「砕かれた霊。砕かれた、悔いた心」(詩51:17)であり「ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むこと」(ミカ6:8)です。

  439                                                                                               2011/7/10

「開け」  マルコ7:31〜37

○イエス様は大変な回り道をして、デカポリス地方にまで来られました。すると人々が、耳が聞こえず口の聞けない人をいやして頂きたいと願って連れて来たのです。そして、この時イエス様は他ではあまりなさらないことをされました。
  ○イエス様は、耳が聞こえず口のきけない彼の状態を見て、神である主の御声をきくことも出来ず、主に対して語ることも出来ない、サタンに束縛されている罪人の状態をみて、深く嘆かれたのです。彼は、主とも隣人とも通常のコミュニケーションをとることもできなかったのです。その姿が、主ご自身の前に自らを閉ざし、罪の中でうめいている全ての人間の姿に重なったのです。
  ○そして「開け」と言われました。閉ざされている主との関係、隣人との関係が開かれなければなりません。まず、耳が開かれ聴力が回復し、次に舌のもつれがすぐに解け、はっきり話せるようになりました。こうして彼は、人々との関係をも取り戻したのです。彼は生まれ変わった人間として、新しいいのちに生きる可能性を与えられ、新しく創造されたのです。彼がこのことを言いふらしたこと自体はほめられることではありませんが、彼の話しは、イエス様の素晴しさをあかしすることになりました。
  ○彼の耳が開かれ口が開かれたことにおいて、創造の回復が示されています。しかし、本来の救い主としての働きは、やがて十字架と復活において明らかにされます。信仰をもって、預言の全体を受け止めるとき、正しい理解になるのです。ますます私たちは自我のきよめられることを願い、感謝に満ちあふれて、人々にイエス様のなさったみ業を、ご聖霊の促しによって語る者とされたいと願わされます。

  440                                                                                               2011/7/24

「四千人の給食」  マルコ8:1〜9

○四千人の給食の出来事はマタイとマルコだけが伝えています。このときイエス様は、デカポリス地方においてこの奇跡をなされたのではないか思われます。そうしますと、ここに集まっている四千人ほどの人は異邦人と考えられます。
  ○この四千人の異邦人を見られたイエス様は「かわいそうに」思われました。彼らは主から遠く離れたところにおり、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みなく、神もない人達でした(エペソ2:12-17)。しかし、彼らも空腹を満たされるべきではないのでしょうか。主から遠く離れた状態のまま永遠に滅び、いのちを失うことが主のみこころなのでしょうか。「三日目に私たちを立ち上がらせ」私たちを御前に生かしてくださる主は(ホセア6:2)、ユダヤ人に恵みと尽きることのないあわれみを注がれた主は(哀歌3:22)、異邦人をあわれまれることはないのでしょうか。私たちは、どう応えるでしょうか。
  ○しかし、弟子たちはまた否定します。彼らは以前、イエス様がなさった奇跡を思い出さなかったのでしょうか。それとも異邦人が自分達と同じ恵みを受けることはあり得ないと思っていたのでしょうか。するとイエス様は、再び同じようにパンの数を尋ねられます。この時弟子たちはなぜ、イエス様が以前なさったことを、もう一度同じようにしてくださるのではないか、と期待しなかったのでしょうか。私たちが人々との間に建てている壁は何でしょうか。
  ○イエス様は忍耐深く、群衆に対する憐れみと熱心さによって、パンを配るように弟子たちに与えられ、また、魚も同じようにされました。ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、来るべき神の国の食卓に備えられた食べ物で満たされるべきなのです(ルカ14:15,ルカ13:29)。イエス様がやがて完成される十字架の贖いのみ業によって与えられる救いこそ、本当のいのちのパンであり、神の国で食事をすることのしるしなのです。そして、そのいのちのパンであるイエス様ご自身があらゆる人に差し出されているのです。主に信頼し、このいのちのパンであるイエス様を伝えさせて頂きましょう。

  441                                                                                               2011/7/31

「まだ悟らないのですか」  マルコ8:10〜21

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