「牧会ミニ通信」
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  456                                                                                               2011/12/4

「福音のはじめ」  マルコ1:1〜8

○福音のはじめは荒野において、バプテスマのヨハネが語るところから始まりました。まるで主が、茫漠としたやみのような荒野の世界において、再び創造のみ業を始めるかのように福音が語られ始めるのです。この世界と私たち人間は、造り変えられることが必要なのです(エゼキエル36:26,11:19)。
  ○そしてこれから始められる福音は、「イエス・キリストの」福音です。その福音とは「良い(喜ばしい)おとずれ」「グッドニュース(良い知らせ)」です。それは「神の国は近くなった」という知らせでした。その福音を信じることはイエス様を信じることでした。それはイエス様がそのご生涯、特に、十字架の死と復活において、人類の救いを完成されたことです。 そして、イエス様が来られて新しい天と新しい地がもたらされる完成に向かって私たちは天を目指して歩んでいるのです。
  ○イエス様が始められたからこそ、イエス様が完成されます。その、終わりに対する初めが、バプテスマのヨハネです。それは預言に基づいています(イザヤ40:3,出23:20,マラキ3:1)。イザヤの捕囚からの解放の預言は、イエス様による罪からの救いのみ業、さらには、終わりの日の完全な解放についても語られていると考えられます。それは、新しい始まりを示し、新しい出エジプトのしるしでした。ヨハネの姿は、人々にイスラエルの民の歴史を思い起こさせ、人々の目を荒野とヨルダン川に向けさせ、もう一度原点に立ち返って自分たちの生き方を吟味させたのです(マラキ4:5,6)。
  ○ヨハネのバプテスマはきよめの儀式でした。しかし、ヨハネのあとから来られる方は、聖霊のバプテスマを授けるお方です。このご聖霊によって、イエス様のご生涯も導かれていました(ルカ1:35,マルコ1:10,12,ヨハネ15:26)。ヨハネは悔い改めた人々に水のバプテスマを授け、そして、彼らに後から来られる方の聖霊のバプテスマを約束したのです(エペソ5:18)。私たちもご聖霊によって福音の時代を完成に向けて歩んでいるのです。この世においても神の国を押し広げて行く者とされたいと願わされます。

  457                                                                                               2010/12/11

「まことの光」  ヨハネ1:6〜8,19〜18

○当時、多くのユダヤ人はキリストを待望していました。しかし、本当にキリストが来るということを、期待以上に大きな恐れをもっている人々もいました。なぜなら、キリストは新しい時代と新しい秩序をもたらすからです。キリストを信じ、キリストに従う生き方を望むなら、キリストの求めておられる、愛と憐れみと平和に基づいて、自分自身と社会とが変わることを願い求めて行くべきです。
  ○ヨハネは「私はキリストではありません」と公に宣言しました。ヨハネは「エリヤ」(マラキ3:1,4:5)でもなく、「あの預言者」(申命記18:15)でもありません。彼は、いかなるキリストの栄光も、自分のものではないと宣言したのです。来たるべきキリストは「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方」として来られます。人々が求めるようなキリストを待ち望むのではなく、悔い改めと神の国を宣べ伝え、愛と憐れみと平和に生きるように人々を導くことこそが、先駆者としてのヨハネと教会の果たすべき使命です。
  ○では、ヨハネは誰でしょうか。彼は「預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です」(イザヤ40:3-5)。王の到来に備えるよう告げる一つの声です。声であるヨハネに対して、キリストはことばそのものでした(ヨハネ1:1-2)。ヨハネはそのキリスト、イエス様を指し示す者としての一つの声でした。しかも、水のバプテスマしか授けられない自分に対して、イエス様は聖霊のバプテスマをお授けになるお方です(ヨハネ1:33)。そのためヨハネは、異邦人のみならず、ユダヤ人自身もきよめられなければならないことを教えのです。
  ○ヨハネは、ただ声としてことばを指し示し、自分は消えて行く存在としてすべての栄光をイエス様にお返ししようとしていたのです。教会の目的も、イエス様こそまことの光であり、イエス様こそ十字架で私たちの罪をあがなってくださったまことの救い主キリストであることを証言し、イエス様がやがて再びこられて救いを完成されるお方であることを私たち自身の存在によって指し示すことです。

  458                                                                                               2011/12/18

「彼の王国」  ルカ1:26〜38

○御使いガブリエルがマリヤに受胎告知をするところは、ザカリヤに対する告知と良く似ていますが、かえって地味な印象を受けます。エルサレムの神殿に対してガリラヤのナザレという町。祭司ザカリヤに対して貧しい家の少女マリヤ。しかし、マリヤはザカリヤ以上に戸惑いながらも、主のおことばどおりになるよう信じ受け入れました。
  ○「主の御恵みを授けられた女の方、おめでとうございます」。つまり、マリヤが「おめでとう」と呼ばれているのは、ただ恵みによって、主がマリヤを愛し、彼女に祝福を与えておられるからです(エペソ2:8)。また、「主があなたとともにおられます」ということばにマリヤはひどく戸惑いましたが恵みを与えられた者というのは、主が共にいて守って下さらなければとても恵まれた者とは言えない、そのような重荷を負わされるという事でもあるからです(創28:15,出3:12,申31:23,士6:12,マタイ18:20, 28:20,使18:9,10)。
  ○マリヤはその恵みを見いだしました。@「あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい」(イザヤ7:14)。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方」(マタイ1:21)だからです。A「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます」。このお方は生まれた時から偉大で、その存在自体がすぐれた者であるのです。ですから、まさに主ご自身に等しく、だからこそ「いと高き方の子」なのです。B「神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります」。主がダビデに新しい約束を与えられた通り(2サムエル7:11-13)、イエス様が、ダビデの子キリストとして、本来ヤコブの家を治めておられる主のご支配を、目に見える形で代行して行かれます。イエス様が治める「ヤコブの家」とは、バプテスマのヨハネによって、彼らの神である主に立ち返らされる「イスラエルの多くの子ら」(1:16)、主のために用意された「整えられた民」(1:17)のことです。イエス様がとこしえに治められ、その国は終わることがない、と約束されている国に属している者としてクリスマスをお迎えしたいと思います

  459                                                                                               2011/12/25

「あなたのための救い主」  ルカ2:8〜20

○ベツレヘムは、ダビデの出身地でもありましたのでダビデの町とも呼ばれていました(1サムエル17:12)。イエス様がベツレヘムで誕生されたのは、旧約聖書のミカ書の預言の成就でした(ミカ5:2,マタイ2:5)。
  ○また、主であるキリスト、救い主が、幼子として生まれ、飼い葉おけの中に寝かされていることがキリスト誕生のしるしでした(7,12,16)。神であられながら人となられた救い主が、徹底的に貧しく低くなられ、全く無防備で無力となられました(ピリピ2:6-8)。すでに誕生の時から「十字架の死にまでも」従われた歩みが始まっていたのです。それは、私たち人間の救いのために、そこまで下られた主の憐れみであり主の愛の表れなのです。
  ○ベツレヘムにお生まれになったイエス様は、やがてエルサレムへ上られそこで十字架にかかられるのです。十字架にかかられて、私たちを罪とその結果である裁きと死から解放してくださるためです。飼い葉おけの中に産まれた方が十字架に死なれました。飼い葉おけの中に寝かされた方が、墓の中に横たえられました。それは私たちが豊かにされるためでした(2コリント8:9)。
  ○私たちの人生は、主がその愛のゆえにここに来てくださった人生です。私たちの生涯はイエス様と共に生きることの出来る生涯なのです。そして、私たちの生涯に訪れてくださったイエス様は、いつまでも私たちと共にいてくださいます。それが、神の御子が誕生されたということです。私たちの地上の生涯に天からの宝があたえられたのです。しかもそれは、主がいつまでも共にいてくださるという、決して失われることのない宝です。
  ○クリスマスは、きょう、私たちのためにお生まれになった救い主を喜ぶ日です。そのとき、クリスマスが、きょう、私たちのことになるのです。そして、御心にかなう人に平和があるようにとは、み言葉を信じて受け入れる人のことです。ただ信じて受け、神の子とされたことを喜ぶ人のことです。「きょうあなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」と語られたのはきょうの私たちのためでもあるのです。そのように信じ、決意をもってそのことを受け入れ、羊飼いたちのように、主をあがめ賛美する生涯に帰って行きたいと思います。

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