「牧会ミニ通信」
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  460                                                                                               2012/1/1

「あなたの御救いを見た」」  ルカ2:22〜40

○クリスマスは、神である主がご自分の御子を女から律法の下に生まれた者として遣わされた、という出来事です。そしてイエス様が律法の規定に従われたのは、律法の下にある者を贖い出し、私たちが子としての身分を受けるようになるためです(ガラテヤ4:4-5)。律法の下に生まれたイエス様であったからこそ、その十字架の死によって、私たちを律法の支配から贖い出すことができたのです(ガラテヤ3:13)。こうして私たちが神の子とされた、ということが救われた、ということなのです。それは、御子の御霊が与えられ「アバ、父」と呼ぶ祈りによってわかるのです。
  ○シメオンにとって、イスラエルの慰められることは、主のキリストを見ることでした。アンナにとって、エルサレムの贖いがこの幼子でした。シメオンもアンナも神である主とその御国、また、主のみわざを待ち望んでいましたが、それがこの幼子によって到来したことを知ったのです。クリスマスの夜お生まれになった救い主、主キリストは、まさにイスラエルの慰めであり、「御救い」そのものです。
その御救いを彼らは見たのです。私たちに与えられる救いは、事実であり現実のことです。それが、幼子イエス様という姿になって目の前に与えられた御救いです。私たちがイエス様を信じてたましいの救いを得ているならば、見ていなくともイエス様を愛し、イエス様を信じ、言い尽くすことのできない喜びに満たされるのです(1ペテロ1:8-9)。
  ○主のみことばの約束は必ず成就します。シメオンとアンナも信頼と待望の信仰をもっており、その通り彼らは主の御救いを見ました。旧約聖書で預言されて来た救い主の到来は、イエス様の誕生で成就したのですから、もはや私たちは、幼子としてお生まれになるイエス様を待ち望んでいるのではなく、再び来られると約束されたイエス様の再臨を待ち望んでいるのです。そのとき、御救いは完成され、神の国が到来し、異邦人もイスラエルも救われ、主の栄光が満ちるのです。その事を思い起こし、再臨のイエス様をお迎えする準備をするため、毎年クリスマスがあるのです。 クリスマスは、十字架を目指し、ペンテコステを目指し、再臨までも目指しています。そのとき神の家族の祝宴に連なる神の子とされていることこそが祝福です(1テサロニケ4:16-17)。み言葉の成就のときを待ち望みたいと思います。

  461                                                                                               2012/1/8

「ひれ伏して拝んだ」  マタイ2:1〜12

○東方の博士たちは、一説によればメディヤ人でペルシャ帝国の間で祭司職を司る種族だったと伝えられています。バビロンではカルデヤ人として知られていた占星術師や学者をさしました (ダニエル2:2,12)。真理を探究する真面目な賢人、善良な聖人であったと考えられますし、王であったかもしれません(イザヤ60:3,詩72:10-11,黙21:24)。
  ○この東方の博士たちは幼子イエス様を見ると、ひれ伏して拝み、最上のささげ物をささげて礼拝しました。通常であれば礼拝される側の人々がひれ伏して拝んだその相手は、小さな村の貧しい家の中にいるまだ二歳にもならない赤ん坊です。しかし彼らは、救い主としての栄光をこの世の栄光やこの世の権威の中にではなく、主ご自身によって導かれたこの貧しさと弱さの中に見出し、この幼子こそ約束の救い主キリストであり神ご自身であると受け止めたのです。
  ○神の国の原理はこの世の原理と正反対です(20:26-28)。神の国の栄光は、人に仕え人の犠牲となり人に与えることで表されます。その究極の姿が、奴隷となって仕えてくださり、文字通りご自分のいのちを与えてくださった十字架のイエス様に表されています(ピリピ2:6-11)。この世の栄光を求め、強要され(ダニエル3:6)、サタンに誘惑されるとき(4:9)、み言葉によって勝たせていただけます(4:10)。
  ○神の国の栄光は、ほふられた小羊にこそ現されました (黙5:6,12-14)。ダビデ王の再来というより、苦難のしもべ(イザヤ53:1-7)こそ、救い主キリストの本来のお姿でした。ほふられた小羊である十字架のイエス様のお姿の中にこそ主の栄光がありました。イエス様が再臨されるときは、誰の目にも明らかですが(24:30,黙1:7)、その栄光の姿とは、ほふられた小羊としての苦難のしもべ、突き刺されたままの姿であるかもしれません。天の栄光は地の栄光と正反対なのです。東方の博士たちが、貧しい家の幼子のイエス様にこそ天の栄光の姿を「見、ひれ伏して拝んだ」ように、そのような地上の栄光の対局にあるお姿に「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」(ヘブル1:3)を見ることのできる、信仰の目を与えられたいと願わされます。

  462                                                                                               2012/1/15

「ベツレヘムの母親の悲しみ」  マタイ2:13〜23

○ヘロデがベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させたように、自分の地位と権力を守るためには手段を選ばないのがこの世の権力者です。私たちも、イエス様を自分という王国の王に対する権力者として受け止めますと、自分が王であり続けるためにはその対抗者としてのイエス様を殺さなくてはなりません。しかしイエス様が主なるお方であるのは、救い主、としての主なのです。
  ○この時、悲劇に巻き込まれたのはベツレヘムとその近辺の母親たちです。しかも、この残虐な行為が預言の成就であり、神である主の救いの計画に組み込まれている出来事だというのです。BC.586年エルサレムが陥落し、イスラエルは滅ぼされ男性のほとんどがバビロンに捕囚とされます。その通り道のラマには、イスラエルの生みの母と見られていたラケルの墓があります(1サムエル10:2)。その子孫が捕囚に連れて行かれるためにラケルの墓のそばを通ったとき、生みの母ラケルは墓の中でどれほど嘆き悲しんでいるだろうか、とエレミヤは言うのです(エレミヤ31:15)。そのラケルの嘆き悲しみが、今ヘロデによって命を落とした二歳以下の男の子の母親たちの嘆き悲しみとなったのです。
  ○イエス様はこの三十数年後、十字架で命を落とされます。そして、その十字架の死こそが、天の父のご意志であり、天の父はあえて自ら愛するひとり子のキリストを十字架で全人類のための罪のいけにえとしてほふられ、自ら子を失った親となられます。その、愛するひとり子を失った天の父の悲しみを指し示し、あかししているのが、実は、愛する二歳以下の男の子を失ったベツレヘムの母親たちの悲しみなのです。こうして、息子を失ったということさえも神である主にささげられ、天の父の悲しみを証しすることによって、意義あるものとなるのです。
  ○ラケルの嘆き悲しみに主の慰めと希望が与えられているように(エレミヤ31:16-17)、ヘロデが行った残忍な殺害の後しばらくしてイエス様が人々の救い主として現れ、神の民の新しい時代が到来し、ベツレヘムの母親たちの嘆き悲しみも報いられ、主の救いのご計画の中で意義あるものと変えられるのです。こうして子を失った母親の悲しみは、近づいている救いの福音を指し示すことになります。その福音に目を止めてこの困難な時代を歩ませて頂きましょう

  463                                                                                               2012/1/22

「神を信じなさい」  マルコ11:12〜14,20-25

○いちじくの木から取って食べ、ぶどうの木から取って飲むのは平和と安全と繁栄のしるしでした(1列4:25,ミカ4:4,ゼカリヤ3:7)。しかし、イスラエルの民は、主のみこころに従わなかったゆえに実を結ばないいちじくの木にもたとえられました(エレミヤ8:13,ミカ7:1,ホセア9:10,16)。神の国の実現は、見せかけの葉によるのではなく実質的な実を結ぶことによって完成されるのです。
  ○「神を信じなさい」ということは、自分に自信はなくても祈りを聞いてくださる方の力を信じること、疑わないで信じることです。祈り求めるとき、疑わずに信じて願う、幼子のような信仰のこと(ヤコブ1:6,マルコ10:15)、神である主と私たちとの関係が結ばれていることです。さらに、信仰は、主と私たちとの縦方向だけの関係ではなく、私たちと人との関係も必要です。信仰の条件として祈りと同じように赦しが必要です。主との正しい関係は、私たちの罪が主によって赦されている、ということです。主との正しい関係を持ち、主から赦された者となるということは、人と人との正しい関係でもあるはずです(マタイ5:23,24)。赦しは祈りとともに、信仰を実りあるものとする、豊かな実を結ぶための信仰の条件です。
  ○エデンの園でいちじくの葉は、罪をおおい隠す道具とされました(創3:7,イザヤ59:2)。イエス様の時代も民の指導者たちのありようが、このいちじくの木に象徴されていました(アモス4:4-5,6,8,9,10,11)。主は、小さかろうが青かろうが未熟だろうが結ばれている実を求めておられるのです。しかし、葉のほか何もないイスラエルにイエス様は失望されたのです。私たちはどのように備えてやがて再び来られるイエス様にお会いできるでしょう(アモス4:12)。
  ○しかし主は、回復を約束されました(アモス9:14,15)。そのために、イエス様が私たちの身代わりとして十字架にかけられ、呪われ、枯らされたのでした。ですから、すでに受けたと信じて祈り求め、兄弟姉妹を赦す愛の実行をもって神である主との正しい関係に入り、実際に実を結ぶ「神ご自身の信仰」を持ち続けさせていただきましょう。

  464                                                                                               2012/1/29

「すべての民の祈りの家」  マルコ11:15〜19

○バビロン捕囚から帰った民が再建すべき新しい神殿で用いられる寸法は、普通のキュビト(約44cm)に一手幅(約7.4cm)を足した長さでした(エゼキエル40:5)。みことばに生きる生活も、この世の生活とかけ離れてはいませんが、決して同じではありません(ヨハネ3:3,1コリント10:31)。
  ○イエス様には、すべての国の人々のための祈りの場所(イザヤ56:7)であるはずの神殿が、強盗の巣と見えたのです(エレミヤ7:11)。さらにこの異邦人の庭は、近道としてさえ使われていました。イスラエル人は「在留異国人を押しのけて」主を恐れない者(マラキ3:5)となっていました。
  ○教会も、人と人との間の垣根がない、どのような人でも受け入れられるべき所であると同時に、この世とは区別された聖なる場所でなければなりません。私たちの内からも追い出されなければならないものがあります。そして、祈りの家として頂くためにご聖霊に満ちて頂くべきです。
  ○イエス様の行為は預言の成就でした(マラキ3:1-5,ホセア9:15,16)。こうして、エゼキエルを通して預言された、きよめられた神殿の時代(エゼキエル40-48章)が近づいていることを示されました。そのために、イエス様が自ら十字架の犠牲になろうとしておられるのです。形式的な犠牲ではなく、自らを犠牲として捧げることによって隔ての壁を打ちこわされ、敵意を廃棄され、私たちを主と和解させようとしておられるのです。こうして私たちは神の家族とされ、神の御住まいとなるのです(エペソ2:13-22)。

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