礼拝のこころえ(1)−教会のしるし
教会とは、神のみことばが純粋に説教され、そして「聞かれ」、聖礼典がイエス・キリストの制定に従って正しく執り行なわれ、そして「受け入れられ」ているところです。説教と聖礼典こそ教会が教会であるための「しるし」です。
「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」(エペソ1:23)。
礼拝のこころえ(2)−説教
教会のしるしの一つである説教は、語る務めに召されている説教者と、聞く務めに召されている会衆とが、共同で生み出すものです。聞かれてこそ説教が説教となるのです。神である主が主権をもって語られるみことばを、真剣に語りまた聞く礼拝の民とされましょう。
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、間接と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル4:12)
礼拝のこころえ(3)−洗礼
教会のもう一つのしるしである「聖礼典」は、単なる儀式ではありません。洗礼は私たちが見える教会に加えられるだけでなく、恵みによって罪が赦され、聖霊によって新しく生まれ、イエス様につぎ木され、新しいいのちに生きることのしるしです。
「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、…私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:4)
教会のもう一つのしるしである「聖礼典」も、単なる儀式ではありません。聖餐において私たちは生きているイエス様の真実に触れているのです。そこには、人間的な交わりではない、主に贖われた私たちの教会の交わりがあります。
「パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。」(コリント10:17)
イエス様のからだである教会の肢とされた私たちは、交わりを持つことが必要です。その交わりの土台は、エデンの園で失われ、イエス様の十字架によって回復された神と人との交わりです。新しく生まれ変わったクリスチャンが、心を一つにして集まり、ともにパンを裂き、喜んで主を讃美する教会の交わりです。
「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」(1ヨハネ1:3)
「これは、永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるしである。それは主が六日間に天と地とを造り、七日目に休み、いこわれたからである。」(出エジプト31:17)
私たちは主の恵みのゆえに洗礼を受け、キリストのからだなる教会の肢とされました。礼拝においては、その教会のかしらであるイエス・キリストが常にあかしされています。死からよみがえられたいのちの主によって、私たちに復活のいのちが与えられるのです。
「また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。」(コロサイ1:18)
礼拝の始まりは「いつ」でしょうか。招きの言葉、前奏、讃美、席についたとき、会堂に入ったとき、・・・朝目覚めたとき、…土曜日の夜…、そう考えていくと、前主日の礼拝が終わったときから今日の礼拝が始まっていることになります。私たちにとって、主の日だけが義務的に礼拝を守る安息日ではなく、終りの日が来るまで毎日が安息日であり礼拝の日なのです。
「したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。」(ヘブル4:9)
主の日の礼拝は、「どこ」から始まるのでしょうか。寺社では、玉砂利が敷き詰められている境内に一歩足を踏み入れた所から、礼拝がはじまるといいます。私たちにとりましても、会堂の席に腰を下ろしたところから礼拝姿勢が整うわけではありません。会堂の入り口、教会の玄関、駅、家…、「時」とも関係しますが、毎日の生活の場が、主の日の礼拝への備えです。
「あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。」(1列王記8:29)
私たちの教会では、10時半から礼拝が始まります。礼拝は、よみがえられた聖なるお方にお会いすることですから、畏れをもって時間を守りたいものです。
10分前の前奏から、主に心を向ける時は始まっています。前奏が始まりましたら、おしゃべりは慎みましょう。席に着いたら、その日の聖書箇所を読み、讃美歌や献金の準備をし、説教者と奉仕者、自分と兄弟姉妹のために祈りましょう。礼拝は全員の力を必要とします。皆の心を合わせ、礼拝を整えていきましょう。
10時から10時15分までは「讃美のとき」です。礼拝で用いている、新しい讃美などを歌っています。できれば少し早めに来て、「讃美のとき」にご参加くださり、礼拝に向けて心の準備をしてはいかがでしょうか。歌いやすい讃美は、のどを整える効果もあります。子どもも大人も、喜びをもって讃美をささげましょう。
「ダビデはレビ人のつかさたちに、…喜びの声をあげて歌わせるよう命じた。」(歴代誌T15:16)
礼拝堂に入ったなら、挨拶は短くすませ、前からつめて座るようにしましょう。前の席ほど説教と讃美と祈りに集中できる恵みの座です。思いきって、一列前に座られてみてはいかがでしょうか。そして、後ろの席や、横の部屋は、幼児をもった方や、受付当番、後から来られる方のために空けておきましょう。
「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい。」(ヨブ記23:3)
新来者の方や子供たちが隣に座ったら、聖書や讃美歌を開いて差し上げるなど、積極的にお手伝いしましょう。もし、やむを得ず礼拝に遅れてしまった場合は、祈祷と聖書朗読中は会堂への入室を控え、讃美歌のとき静かに入りましょう。
「私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです」(ローマ15:2)。
「前奏は俗(世)から聖(教会)へのカーテン」(由木康)です。前奏は礼拝の序曲ではなく、前奏から礼拝は始まります。前奏をもって、会衆も奏楽者、司会者、説教者も、礼拝者として神である主の御前に出るのです。感謝と喜びと讃美とそして畏れをもって、主の御前に立ちましょう。
「喜び歌いつつ御前に来たれ。」(詩篇100:2)
「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。」(詩篇100:4)
招きのことばによって、私たちは主の礼拝へと招き入れられます。礼拝は主のみ業です。主が罪を赦し、罪ある私たちを招いてくださるからこそ、私たちは主を拝むことができるのです。礼拝は、主の救いのみ業によってはじめてできるものです。私たちではなく、神である主ご自身が、礼拝を求めておられるのです。
「…父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」(ヨハネ4:23.)
最初に歌われる讃美は、文字通り神である主を讃美するものです。主ご自身が素晴らしいお方だからこそ、主を褒め称えるのです。
1週間の生活に疲れ、悲しみ、疑い、信仰がぐらついていようと、私たちの気分によってではなく、主ご自身の素晴らしさを歌うことによって励まされ、そして、主を讃美できるのです。
「歌う者は二度祈る」(アウグスティヌス)と言われているように、讃美歌を歌うことは祈ることです。繰り返し讃美歌を歌うことによって、信仰の言葉が心に刻み込まれます。ことばで主をたたえるので、「賛美歌」ではなく「讃美歌」と書かれます。私たちは、礼拝における讃美歌を通して、主が私たちのただ中におられる、という溢れるばかりの喜びを表わしています。
「主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。」(詩篇40:3)
「アドベント」という語は、「接近」「到来」「到着」「出現」という意味のラテン語に由来します。動詞は「到着する」「やって来る」「今しも来つつある」という意味になります。やって来るお方はどなたでしょうか。そのお方の到来を待ち望む人々とはだれでしょうか。そのお方はいつおいでになるのでしょうか。私たちはどんな準備をして、そのお方をお迎えしますか。
「気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。」(マルコ13:33)
アドベントは年の始まりです。4回の主日のうち、最初の主日は、世界中のクリスチャンにとって新しい年の始まりです。クリスチャンたちは、熱心な態度でアドベントに臨んできました。生活を聖め、魂を探り、改めるべきところを正して自分自身を整えてきたのです。あたかも、恐れ多い大切なお客様を招くとき、私たちが身なりや家を整えるかのようです。
「だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。」(マルコ13:35)
やって来られるのは、人の子イエス・キリストです。その方を待ち望むのは私たちです。主が私たちのために死んでくださったので、愛のうちにその方を待つのです。再び戻ってこられる、というお約束とともに天に昇られたので、信仰のうちに待つのです。主がご栄光のうちに来られる最後のアドベントは、この時代に終りをもたらし、永遠の喜びの始まりとなるからです。
「帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。」(ルカ12:37)
救い主をお迎えするために、「仕える者」になりましょう。私たちは、「恐れなく、主の御前に仕える」ことが許されています。その奉仕は「きよく、正しく」行われます(ルカ1:74)。主のしもべとなるために、主に立ち返りましょう。悔い改めて、「罪の赦しによる救い」(ルカ1:77)を頂きましょう。
「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)
礼拝のこころえ(22)-クリスマス
アドベント・クランツのろうそくは、「アブラハムとその子孫を通してすべての人々が祝福されるという主の約束」、「来るべき救い主を預言した預言者たち」、「救い主をお迎えするために悔い改めを説いたバプテスマのヨハネ」、「御使いの知らせを信じたマリヤの信仰」をそれぞれ表わしていました。そして、世の光であるイエス・キリストがお生まれになりました。
「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」(ヨハネの黙示録21:23)
東方教会では、二世紀末から1月6日をエピファニー(主の顕現の祝日)として守ってきました。異邦人である東方の博士たちが、幼子のイエス様を訪ね、礼拝したことを記念する日です。救い主がすべての人に明らかに現れた日に、私たちも東方の博士たちと一緒に救い主にお会いしましょう。 「その家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」 (マタイ2:11)
異邦人である東方の博士たちは、星に神の語りかけを読み取りました。彼らは王を捜し求めてエルサレムに来、神が直接語られた預言者の言葉からそのお方を知りました。そして、イエス様に会いに出かけました。しかし、ヘロデも宗教指導者たちもエルサレム中の人も、恐れ惑うばかりで会いに行く人はいませんでした。私たちは、救い主の到来に目覚めているでしょうか。
「この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。」
(ローマ3:30)
東方の博士たちは、幼子のイエス様をひれ伏して拝み、宝の箱をあけて贈り物を捧げました。「金」は主が私たちの王であることの、「乳香」は主が聖なる神であることの、「没薬」は主の死のしるしです。主の受難と復活は、私たちへの限りない主の愛です。私たちも、すべてを捧げて主を愛し、主にお応えしましょう。
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
(ローマ12:1)
顕現節に続いて受難と復活に対する準備が始まります。古代教会では、受難節前第3主日より準備を始め、復活日(イースター)までの一連の期間を通して、主イエス様の受難をしのびました。この三主日は、それぞれ七旬節、六旬節、五旬節とも呼ばれ、受苦日(グッド・フライデー)を迎えるための断食をはじめる日を指示していたようです。
「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」
(詩篇126:5)
祈りは礼拝の主催者である主に対する応答です。礼拝を通して私たちは祈りを学ぶことができます。私たちに語りかけ、私たちの言葉を聞き入れてくださる主に対して、私たちがどのように語りかけ、私たちはどのように主の言葉を聞き取れば良いかを、礼拝の中で経験し、私たち自身のものとしていきましょう。
「その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。『主よ。…私たちにも祈りを教えてください。』」
(ルカ11:1)
灰の水曜日(今年は2/9)から始まる、6主日を除いた40日間をレント(受難節)と呼びます。40日とは、イエス様が荒野で断食し、悪魔と闘い、宣教の準備をされた期間、モーセが律法を授かるためにシナイ山に留まった期間です。この40日間、十字架の受難を覚え、悔い改めて心身をお捧げし、主とお会いしましょう。
「イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。」
(マタイ4:1、2)
「教会史上、最大の殉教者は主の祈りである」(ルター)。
あまりにも頻繁に、あまりにも無自覚に、あまりにも惰性的に唱えられ、多く繰り返されながらも口先だけで軽んじられてきたことに対する嘆きです。私たちはどのような「祈りの姿勢」で祈っているでしょうか。創造主なる主の御前に立っている自分が、罪人として存在していることをわきまえているでしょうか。
「父よ。…私たちの罪をお赦しください。」
(ルカ11:2〜4)
牧会祈祷は司会者の個人的な祈りではなく、礼拝の中で導かれる教会の公同の祈りです。牧会祈祷者の務めは、言葉を駆使することではなく、会衆を祈りのわざへ導くことにあります。公同の祈りは、神である主との交わりの器となるものです。牧会祈祷は、特定の時間と場所における特定の会衆のための祈りを、主に対して誠実に語りかけようとする務めなのです。
「主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。」
(詩篇130:2)
「アーメン」とはこの祈りが真実で確かです、という祈りに対する私たちの告白です。主に祈ったすべてのことは、私たちが感じている以上に確実に主に聞かれているのです(1ヨハネ5:14-15)。ですから、確信をもって、周りと一致して、「アーメン」と高らかにお応えしましょう。私たちの「アーメン」が本心からの応答となる時、私たちは一つとされているのです。「アーメン」が祈りに合わせて共に力強く告白されるとき、礼拝が生き生きとしてきます。
「民はみな、答えて、アーメンと言いなさい。」
(申命記27:15〜26)
報告は、神が私たちとともにいて行われたことの報告です(使14:27,15:4)。先週語られたみ言葉によって教会はどのように生きたのか、今日語られるみ言葉によって教会はどのように前進するのか、また、教会の肢々である兄弟姉妹の消息、教会の現在の状況や祈祷課題などが報告されます。主のからだである教会が、イエス様に向かって報告をしているのです(マルコ6:30)。やがて私たちは御国において、主に直接報告をするでしょう。
「私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。」
(ローマ14:12)
奉献は、神である主に対する私たちの応答であり、「もの」と「行い」と「言葉」をもってなされる信仰告白です。「感謝と献身のしるし」と祈られる通り、奉献は「神の民のわざ」そのものです。私たちは、主が創造し所有されている世界の中で、主の恵みによって生かされている存在です。すべては主のものですから、奉献は「神のものを神に」お返しすることです(マルコ12:17)。すべてのものを、本来の所有者である神に引き渡し、主と私たちの関係を正しい位置に回復させることです。
「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」
(詩篇24:1)
本日のしゅろの主日から始まる受難週の1週間、私たちはイエス様の受難にあずかります。木曜日の夜、最後の晩餐の席で、主は私たちに新しい戒めを与えられました。受難日の金曜日、主は私たちの罪のためのあがないのいけにえとして、十字架の死を遂げられました。そして、墓に葬られ沈黙の土曜日を迎えます。しかし、そこで終わりではありません。イエス様が死からよみがえられた復活の日曜日を迎えるのです。死によってほろぼされることのない、いのちに輝くイースターの朝です。
「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
(ヨハネ12:12)
「あの方はよみがえられました。ここにはおられません。」(マルコ16:6)イエス様は、死からよみがえられました。イエス様の復活こそ、私たちの信仰の土台です。復活があるからこそ、この世の人生や、私たちが死んだ後のことにも希望を持つことができます。イエス様とともに死んだ私たちは、いずれ主と共に復活するという確証をも得ているからです。
「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」
(コリント人への手紙第一15:17)
神は、全てがご自分のものであるこの世界と私たちに、ひとり子イエス・キリストを贈り物として与えて下さいました。私たちは、主の命を贖いの代価として救われました。主からいただいた豊かさを感謝し、主にその豊かさをお返しし、また、隣人とともに分かち合う行為が奉献です。私たちは奉献のたびごとに、主を思い出し、主に従う者として生きる決意を新たにしているのです。
「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」
(コリント人への手紙第二8:9)
奉献において、聖餐卓の上に置かれているのは、自己中心的な生き方からキリスト中心の生き方へ、自分一人で生きる者から主にある兄弟姉妹との交わりの中で生きる者へと変えられた私たち自身です。そのことを再確認し、主のみ前に自分自身を献げ、私たち自身が聖別され、主のご用のために用いられることを祈ります。
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)
通常「交読」として、司会者と会衆が讃美歌の交読文を交互に読む教会が多いようですが、私たちは全員一緒に聖書箇所を読むようにしています。現在は新改訳聖書(第2版)を用いています。スクリーンにも映し出されますので、周りの方々と声を合わせ、一致してみ言葉を読みましょう。(なお、今年度より、説教前の聖書朗読に限り、新改訳聖書第3版を使用いたします。)
「まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。」(歴代誌U5:13)
「読む」時には「読む人」が、「聞く」時には「語る人」が主役です。聖書朗読は、私たちが主のみ言葉を前にして、自分を主役とするか主を主役とするかを選ぶ時です。司会者によって「読まれる」み言葉を「聞く」時、私たちは主役の座を主に明け渡し、主を私たちの神として受け入れるという信仰を告白しているのです。
「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。」(ヨハネの黙示録1:3)
「読む」ことは「読む人」個人の行為ですが、「聞く」ことは「語る人」と聞く「私たち」との共同体的な信仰の交わりです。神の言葉を「共に聞く」時に、私たちは神の言葉に養われる「神の民」であることを確認し、教会を形成しているのです。「神の言葉」が読まれることの驚きと畏れと喜びをもって聖書朗読を聞きましょう。
「祭司エズラは、男も女も、すべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前に律法を持って来て、水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた。」(ネヘミヤ記8:1-2)
聖書が読まれる前に、「聖霊の照明を求める祈り」を捧げることは有益です。この祈りは、聖書のみ言葉が、語られた当時と同じように、聖霊の導きにより、力に満ちた主のみ言葉として、今ここにいる私たちに向かって語りかけられることを願い求める祈りです。それは、イエス様において働かれ、主の昇天後、天から送られた聖霊が、私たちにも働きかけ、聖書のみ言葉を神の言葉として受け止めさせて下さり、私たちを新しく造りかえて下さることを願い求める祈りです。
「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」
(1サムエル3:9)
復活後40日目の木曜日、イエス様は弟子たちの目の前で天に昇られ、復活後50日目(ペンテコステ)の主日、教会に聖霊が降りました。その日教会には、この地上でイエス様の働きを続けていく責任が与えられました。今日からアドベントまでは、イエス様の弟子である私達が、聖霊の導きとご支配のもとでどうあるべきか、いのちに向ってどう生きていくか、どのようにみ言葉を宣べ伝えていくか、ということを問う「教会の半年」です。
「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」(ヨエル書2:28)
ペンテコステ直後の主日は、父、子、聖霊の三位一体の神を拝し、その信仰を表明する日です。救い主の降誕、十字架、復活、昇天、聖霊降臨によって、神が人を救われます。その三位一体の神に栄光を帰する日です。この日から待降節までは、信仰の基本的なことが明らかにされ実際に適用される期間です。主によって始められた信仰生活が完成されるまでの、新生、成長、収穫、来るべき世のそれぞれについて、思いを新たにしましょう。
「主イエス・キリストの恵、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」
(2コリント13:13)
主のみ言葉が私たちの中で生きたものとなるために、語る者は聖霊の働きを求めつつ語り、聞く者も聖霊の働きを求めつつ聞きます。説教後の黙祷はそこで示されたみ言葉を思いめぐらし、私たちが何かをするのではなく、聖霊が働かれるのを「待つ」時間です。それは、神である主の力が働き、私たちの中にまかれたみ言葉の種が熟成し、私たちが変えられ、主の恵みの中で育まれるために必要な、期待に満ちた沈黙の時間です。
「私は、自分のたましいを和らげ、静めました。・・・私のたましいは乳離れした子のように御前におります。」(詩篇131:2)
礼拝のこころえ(45)-説教B
イエス様は、「よく聞きなさい」(マルコ4:3など)といわれます。主は「かすかな細い声」(1列王19:12)で語りかけておられます。私たちがみ言葉に集中し、そのみ言葉によって心動かされ、イエス様に従って行く決心をすることを望まれています。聞くことは私たちの生活すべてに関わる問題です。説教は、私たちに対する主からの問いかけであり招きです。私たちがみ言葉を聞いたとき、どのように主にお応えしているでしょうか。
「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の身を結ぶ人たちです。」(マルコ4:20)
礼拝のこころえ(46)-暗唱聖句
主のみことばに従う時、私たちは自分自身をきよく保つことができます(詩篇119:9?11)。みことばとともに働いておられるご聖霊によって心を整えられ、すなおにみことばを受け入れることができるよう、教会として、みことばのたくわえに取り組んでいきましょう。
「すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」
(ヤコブ1:21)
礼拝のこころえ(47)-信仰告白
『ハイデルベルク教理問答』は、私たちの信仰基準です。私たちが正しい福音の理解をふまえて、聖書を読み、み言葉の説教を聞くための、信仰の背骨となるものです。それは、その時々の風潮に影響されずに、聖書に基づいて礼拝を捧げ、正しい福音を宣べ伝えるためです。
「教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」(エペソ4:14-15)
礼拝のこころえ(48)-使徒信条
主の御前に出て恵のみ言葉を聞いた後、使徒信条によって私たちの信仰を言い表します。使徒信条は、キリスト者の信仰の要約として告白され、教会を豊かにするものです。この信仰告白は、恵みある主のみ言葉のメッセージに対する応答ですから、常に会衆によってなされます。
「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20:31)
礼拝のこころえ(49)-主への応答
(説教において)語られたみことばと、(聖餐式における)パンとぶどう酒という目に見えるみことばによって、主のめぐみを聴き味わった後、私たちは、感謝の応答をします。この応答は、常に喜びをともなって言い表される、私たちの決意のあらわれです。
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103:1、2)
礼拝のこころえ(50)-祝祷・派遣
主は私たちをご自分のもとにお集めになり、また私たちをこの世界へ送り出されます。主が私たちに生きる場所と果たすべき使命を与え、主の望まれる所へ私たちを送り出してくださいます。私たちは、礼拝の最後に与えられた祝福を携え、人々にその祝福を伝え、分かち合うために、先立って行かれる主の後に従って、出て行くのです。
礼拝のこころえ(51)-祝祷・派遣A 祝祷は、人間が神に対して願い求める祈りではなく、神が会衆を祝福する宣言です。祝祷をいただく私たちは、祝福という賜物が、確実に与えられることを確認します。神である主から与えられた確かな祝福を携えて、私たちはそれぞれの場所へ派遣されるのです。こうして、主の言葉(招詞)によって始められた礼拝が、主の言葉(祝祷・派遣)によって締めくくられます。
礼拝のこころえ(52)-葬儀 葬儀は教会において礼拝として執り行われます。主が中心であり、私たちはそこに、主を覚え主の栄光を讃美するために集います。全ての人間は死すべき存在ですが、私たちは主にあって生きる者とされています。私たちがひつぎの中で礼拝に参加するときも、今、主日礼拝に集っているときのように主は共にいてくださいます。私たちは主日礼拝のたびごとに自分の死を確認しつつ、主への信仰と、私たちに与えられている新しいいのちを受け止め直し、自分の日を正しく数えているのです。
礼拝のこころえ(53)-結婚式 結婚式も教会において礼拝として執り行われますので、中心は主です。イエス様が最初のしるしを現されたのは、カナの婚礼においてでした。「良いもの」(ヨハネ2:10)は、常に主のもとから来ます。私たちの人間的努力や知恵には限界がありますが、主は「もっとよいもの」を備えてくださっています。ですから、私たちは自分自身にではなく、神とキリストに最終的な信頼を置きます。そして、主の恵みと憐れみとに信頼して、主の前に祈りつつ誓いをなすのです。信仰とは、そのような約束を、神と私たちとの間に立てたものにほかなりません。
礼拝のこころえ(54)-主日礼拝@ 礼拝とは私たち自身のからだを主に捧げることです。私たちは食べるにも、飲むにも、神の栄光を現すためにしています (1コリント10:31)。ですからそれは、日曜日の朝のことだけではなく、1週間の全て、私たちの全生涯において私たち自身を主に捧げ、主と共に生きていくことです。それが私たちの霊的な礼拝です。つまり毎日が神の日ですが、現実には、死よりよみがえり、永遠に生き、今もなおここに私たちと共におられる主を思い起こす特別な日が必要です。それが「主の日」です。
礼拝のこころえ(55)-主日礼拝A 私たちの生活全てが礼拝であるにもかかわらず、主の日は神に所属する日として他の日と区別されます。それは、旧約の人々に与えられた安息日の自由と喜びと休息が、主の十字架と復活において、完全に私たちのものとなっているからです。ですから私たちは、主の日ごとに教会で礼拝に参加し、み言葉を聞き、聖餐に与ることによって安息日を聖としているのです。主と交わり、罪の赦しと永遠のいのちにあずかることによって、私たちは毎日の生活の中で真の休息を味わい、この世の生涯において、永遠の安息日をはじめているのです。
礼拝のこころえ(56)-主日礼拝B 主の日は、イエス様が死からよみがえり、永遠に生き、今もなおここに私たちと共にいてくださることを思い起こす日です。従って、どうやって安息日を守るかではなく、主の日をどのように過すかが大切です。それは、休息の日、家族や友人の集まる日、信仰を深める日、不幸な人を顧みる日、何より祈りのうちに主の臨在を知り、主と共にふさわしい一週間を過ごす力を与えられる礼拝の日です。主が私たちのうちに十分働かれ私たちが主のうちにいこいを得るために、主に捧げる日です。
礼拝のこころえ(57)-主日礼拝C 初期の教会の人々は、皇帝を礼拝せよとの命令に従わなかったため、何度も迫害されました。しかし彼らは、迫害が強まれば強まるほど、真剣に礼拝に集い、主を讃美し、祈り、み言葉に与り、聖餐を守りました。彼らは礼拝の中で、主の支えと慰めを祈り求め、互いの交わりによって励まし合い、生きる力を与えられ、この世に妥協することなく、やがて来るべき神の国を真剣に待ち望んだのです。彼らが生きたのは、私たちを新たにし、この世を新たにされる神である主を信じる信仰です。それは、主日礼拝を通して学び、受け継がれてきました。
礼拝のこころえ(58)-主日礼拝D ローマ時代のように、この国でもクリスチャンとして生き、礼拝を守ることが命に関わる時代がありました。「皇帝礼拝」ならぬ「天皇礼拝(国民儀礼)」を強要されたのです。残念なことに、日本の教会は国家に抵抗するどころか、積極的に応じました。しかし、それはある日突然そうなったのではなく、そこに至る過程の積み重ねがあったのです。教会の信仰理解とそれに基づく教会形成の歩みに関わる問題です。福音をどう理解し、どのようにキリストに従い、何を行動に表して行くのかが、その選択をする決断に大きな影響を与えるのです。
礼拝のこころえ(59)-主日礼拝E 教会が建つか倒れるかは「礼拝が真剣に守られているかどうか」「そこにキリストの体が形作られているかどうか」にかかっています。私たちは礼拝を通して一つとされ、共に教会を建て上げる働きに召されているのです。キリストが私たちを集めてくださり、一つの食卓を囲む新たなキリストの体を造り上げる業に、私たちは、礼拝を通して招かれているのです。教会のかしらであるキリストを中心とした礼拝を守ることによって、キリストのみ体なる教会が形作られていくのです。
礼拝のこころえ(60)-主日礼拝F 私たちは奴隷としてではなく自由な人間であるとき、初めて主を礼拝することができます。そして礼拝とは、何かを得るための手段や方法ではなく、礼拝すること自体が目的そのものであり喜びなのです。私たちは疲れた心を癒すためでも、1週間の力を養うためでもなく(そのような要素があるにしても)、第一義的には「礼拝するため」に主の日に集められているのです。礼拝において天の父のもとに立ち返る時にこそ私たちは本当に自由な人間として生きることができることを知ります。礼拝そのものが私たちが生きていく中心であり目的です。
礼拝のこころえ(61)-主日礼拝G 主と私たちの出会いである礼拝は、私たちのいのちに関わるものです。ですから、私たちが主を呼び求めるより先に、主が私たちを探し求め招いてくださるのです。しかし、私たちが礼拝に集うのは、自分の都合によって、自分の必要とするものを得るためのことが多いのです。それにも関わらず、そのような私たちに主が近づいて語りかけてくださるので、私たちも主ご自身を求めるように変えられます。私たちの真に出会うべきお方がそこにおられるからです。礼拝における、主との真の出会いの喜びこそが私たちを福音を伝える者へと変えるのです。
礼拝のこころえ(62)-主日礼拝H 神の民のわざである礼拝は、教会の生きた肢である神の民全員の共同作業によって形作られます。ですから私たちにとって礼拝は、私的なものではなく、礼拝こそが公的な務めです。礼拝に参加している私たちすべては、共に礼拝にあずかるために、それぞれの役割を果たしているのです。ひとりひとりが主との出会いに積極的に参加し、み言葉を聞き、祈りと賛美によって応答し、聖餐に与り、福音宣教のために働くことによって、主にある交わりとしての信仰共同体が生みだされているのです。
礼拝のこころえ(63)-主日礼拝I 人々はイエス様に「さわって頂こうとして」子どもたちをもみとに連れて来ました。連れて来られたのは幼子たち(乳飲み子・新共同訳)でした(ルカ18:15)。それは、イエス様に「手を置いて祈って頂くため」でした(マタイ19:13)。イエス様も「子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福され」ました(マルコ10:16)。そのような祝福を求めて、人々はイエス様のみもとにやって来たのでした。私たちを祝福しようと招いておられるイエス様のもとに、私たちは何を求めて集っているでしょうか。礼拝の祝祷において私たちも、幼子のようにイエス様に抱かれ、手を置かれ、祝福を与えられているのです。その祝福を受けるためにこそ礼拝に集っているのです。
礼拝のこころえ(64)-主日礼拝I@ ダビデが主の箱をダビデの町に運び上ったとき、彼は「主の前で、力のかぎり踊」りました(2サムエル6:14)。全イスラエルも「歓声をあげ、角笛、ラッパ、シンバルを鳴らし、十弦の琴と立琴とを響かせ」ました(1歴代誌15:28)。ダビデは「主の前で喜び踊」ったのです(2サムエル6:21)。真実に主の臨在に触れた者は、その喜びと感謝とを素直に表現し「喜び踊る」ことが許されています。主のご臨在される礼拝において、私たちはどれほど「主の前で」喜びに満ちあふれているでしょうか。
「あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。」(詩篇30:11)
礼拝のこころえ(65)-主日礼拝IA 神とキリストとを知り、永遠なる神とキリストとの交わりに生きる時、私たちは永遠のいのちにあずかっています。神に救われ神の国に生きるいのちを与えられているのです。このいのちの完全な現れは、終わりの日を待たなければなりませんが、キリストを信じる私たちには、キリストの十字架と復活のゆえに、永遠のいのちが現在、すでに与えられています(ヨハネ3:36)。礼拝は、その永遠なる神を見つめ、私たちが永遠のいのちに生かされている者であることを確認する場でもあります。
「その永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)
礼拝のこころえ(66)-祈祷会 教会は信仰の共同体です。共に集まり(共同体)、共に祈る(信仰告白)とき、ご聖霊が豊かに働かれ、キリストをかしらとした体なる教会であることを再確認させられます。また、み言葉とご聖霊に養われるとき、いのちが満ちあふれます。教会は祈祷会から始まりました。ペンテコステの日、皆が一つ所に集まり、心を合わせて祈っているとき、皆が聖霊に満たされ、福音が宣べ伝えられたのです。つまり、祈祷会から教会の伝道も始まったのです。「イエスは主です」と告白させてくださるご聖霊が、私たちを聞くだけではなく、み言葉に応答する者へと促してくださいます。教会のいのちである祈祷会に集まり共にとりなし、祈り合いましょう。
「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、・・」(ヘブル10:25)
礼拝のこころえ(67)-児童祝福式 「彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。」(ヨブ1:5)
教会では毎年、児童祝福式を通して、天の父である主に、子どもの成長に関する感謝と願いを捧げています。子どもの成長は喜ばしいことですが、ヨブの厳粛な態度に倣って、それが罪の中の成長にならないよう主に赦しを願い、子どもたちを義の衣で着飾っていただけるよう、祈り求めることこそ、親と教会の責任です。
礼拝のこころえ(68)-祈祷会A 祈祷会での祈りは、自分一人だけで祈る「密室の祈り」ではなく、「公同の祈り」です。それは、信仰告白を共有する場ということです。互いの徳を高める祈りにともに「アーメン」と言うのです。祈祷会は、個人の密室の祈りを整え、信仰の共同体である教会の一肢である自分を自覚させます。そして、私たちは公の場で、イエス・キリストが私たちのために執り成し、死んで下さっている出来事を告白しているのです。
「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」(ヤコブ 5:16)
礼拝のこころえ(69)-アドベント@ クリスマス前の4週間は「待降節」(アドベントーラテン語で「来る」の意)です。イエス様がこの世に来られた意味を思い巡らしながら、救い主の降誕を祝うクリスマスに備える期間です。アドベントリースの輪は永遠に尽きない神の愛を、常緑の枝は永遠のいのちを表しています。1本目のキャンドルは「約束のキャンドル」でアブラハムとその子孫への神の約束を表します。彼らの子孫を通してすべての人々がその日祝福されるのです。
「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(ガラテヤ3:29)
礼拝のこころえ(70)-アドベントA 2本目のキャンドルは「預言者のキャンドル」です。偉大なる大祭司であり、預言者であり、王であられる、来るべき救い主キリストを預言した、イスラエルの預言者たちを表しています。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)
「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」(ヨハネ1:45)
礼拝のこころえ(71)-アドベントB 3本目のキャンドルは「バプテスマのヨハネのキャンドル」です。イスラエルの民に、救い主がすぐに来られると告げた、バプテスマのヨハネを象徴しています。
「『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。」(マタイ3:2,3)
礼拝のこころえ(72)-アドベントC 4本目のキャンドルは「マリヤのキャンドル」です。「あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」と、御使いガブリエルによって告げられた、「救い主が生まれる」というよき知らせを、喜んで受入れたマリヤの信仰を思い起こさせてくれます。
「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)
礼拝のこころえ(73)-クリスマス クリスマス当日、5本目の「キリストのキャンドル」を灯すこともあります。これは、まことの世の光であるイエス・キリストを指し示しています。
「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」(ヨハネ1:9)
礼拝のこころえ(74)-命名日 1月1日はクリスマスから数えて8日目にあたります。この日、幼子にイエスという名前がつけられました。この日が祝われ始めたことによって異教的な新年祭や世俗的な正月の風習がキリスト教化されました。
「八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。」(ルカ2:21)
礼拝のこころえ(75)-顕現日 1月6日は主の顕現日です。人間の幼子において、その深い神性が明らかに現されたことを祝う日です。異邦人でさえイエス様が神であることを認めます。東方の博士たちは私たちの代表として、私たちの礼拝が主にささげられ、受入れられていることを確証しています。
「そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。」(マタイ2:11)
礼拝のこころえ(76)-祈祷会B 祈祷会で大切なことは聖書に導かれて祈ることです。ですから祈祷会では最初にみ言葉を学びます。その日のみ言葉から、主が何を語りかけどこへ導こうとしておられるのかを知ることができます。それによって祈りが単なる個人的なものにならず、共同体の祈りになるのです。
「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」(使徒2:42)
礼拝のこころえ(77)-祈祷会C 祈りにおいて大切なことは聖霊に導かれて祈ることです。私たちが「父なる神」に祈れないときでも、ご聖霊が私たちのために代わりに祈っていてくださいます。私たちの弱さを、ご聖霊ご自身がうめきつつ助けてくださるのです。私たちは、イエス様に執りなされているだけでなく、ご聖霊によってもなお執りなしていただいているのです。その恵みの中で、私たちは祈るように招かれています。
「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ8:26)
礼拝のこころえ(78)-祈祷会v 主のご臨在のうちに御霊に導かれ「みこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いて下さる」(1ヨハネ5:14)という信仰をもって祈ったならば、すべてを主にゆだね、祈り足りないと思うことも御霊のとりなしにゆだねることができます。そして、主の御手の中で休らうこのときこそ、主からの応えを頂き、力を受け取るときなのです。
「あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えて下さる。」(イザヤ30:19)
礼拝のこころえ(79)-祈祷会vi 祈祷会は、教会形成の原点であり、教会のいのちです。キリストの枝とされた一人一人が心を合わせて祈るとき、そこに確かなご聖霊の働きがあり、キリストのからだなる教会が確認されます。ともに祈って待っている所に主の恵みとしてご聖霊が注がれ、教会が誕生しました。私たちの教会にこのいのちはどれほどあふれているでしょうか。
「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。」(使徒2:1)
礼拝のこころえ(80)-祈祷会vii ところで、教会のいのちである祈祷会に、出席が困難な方がいらっしゃいます。家や職場から教会が遠かったり、祈祷会の時間や曜日などが合わなかったりする場合です。体調などの問題は別として、場所・時間・曜日などの条件がすべて満たされたなら、どれだけ多くの方が祈祷会に出席でき、共に主の恵みに与ることができるでしょうか。
「毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、・・」
(使徒2:46,47)
礼拝のこころえ(81)-祈祷会viii 私たちが豊かな信仰生活を送るほど、私たちの生かされているこの社会に対する関心も強くならざるを得ません。現在、私たちの置かれているこの国の状況は大変困難です。そこに遣わされて良い働きをし、主の復活の証人として証ししていくために、み言葉を学ぶことによって生活の土台を築くことが必要です。その上でさらに信仰を貫き通すために、教会の祈りによって支えられることがどうしても必要です。祈祷会によって真の養いが得られるのです。
「ペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」(使徒12:5)
礼拝のこころえ(82)-受難節(レント) イースターの40日前(6主日を除く)は「灰の水曜日」と呼ばれ、受難節の始まりの日と定められています。旧約聖書では、灰は悲しみと悔い改めを表すために用いられていました。イエス様は40日間荒野で断食し、宣教の準備をされました。イエス様の過ごされた40日間にならい、私たちもからだとたましいをイエス様に捧げる40日間を過ごし、主の復活を迎える準備をしましょう。
「イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。」(マタイ4:1,2)
礼拝のこころえ(83)-受難節(レント)ii 受難節に私たちがイエス様の苦難をたどるのは、私たちが死ぬべき存在である事を覚える必要があるからです。私たちはちりから取られましたので、ちりに帰らなければなりません(創世記3:19)。しかし、自分の死を覚えるとき、私たちの身代わりとして死なれたイエス様の死を思い起こすことができます。イエス様の死のうちに自分の死を見るとき、イエス様が復活されたように私たち自身も死からよみがえらされた事を確信できるのです。死が訪れたとき真に生きるいのち、その永遠のいのちを今与えられています。
「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。」(ルカ12:20)
礼拝のこころえ(84)-受難節(レント)iii 受難節に私たちがイエス様の苦難をたどるのは、イエス様と私たちの死の原因である私自身の罪を認め、キリストのきよい存在が必要があることを知るためです。私たちは自分の自我を神より高い所に置いていたので、その自我を死に追いやるほかありませんでした。イエス様の十字架は私に対する裁きと私自身の死です。つまり、罪は取り去られ、私の死はすでに成し遂げられたのです。自己中心的な私は死に、生まれ変わったもう一人の私が復活しました。
「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)
礼拝のこころえ(85)-受難節(レント)iv 受難節に私たちがイエス様の苦難をたどるのは、イエス様に従う私たちの歩むべき道を示して頂くためです。自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス様について行くとき、イエス様が歩まれたこの世との対立や非難、敵意や迫害、苦難と死、そして復活への道を歩まされます。そのとき、そこを先に歩まれたイエス様とお会いするのです。イエス様はどんなに厳しい苦難の中でも常にそこにおられ、私たちが自分の十字架を負うとき、そこに現れて下さるのです。
「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。」
(マルコ16:7)
礼拝のこころえ(86)-受難節(レント)D 受難節に私たちがイエス様の苦難をたどるのは、どんな悲しみも耐えることができる喜びに備えるためです。それは、患難を忍耐に、忍耐を品性に、品性を失望させることのない希望に変える (ローマ5:3-5) 喜びです。イエス様の復活がその喜びであり、私たちが復活するという確かな希望がその喜びの根拠です。そしてその喜びは、イエス様の死を悲しむことから始まりました。全てが終わったと思われ悲しみに沈んでいる弟子たちのただ中にイエス様が復活されました。喜びの大きさは、悲しみや恐れに比例します。
「悲しみは喜びに変わります。・・その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」(ヨハネ16:20〜22)
礼拝のこころえ(87)-受難節(レント)E ゲツセマネの祈りで主は、私たちも主の祈りに生きるべきことを教えています。(マルコ14:36、マタイ6:9-13)
「アバ、父よ(天にいます私たちの父よ)。あなたにおできにならないことはありません(私たちを試みに会わせないでください)。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください(私たちを悪からお救いください)。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください(みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように)。」そして、イエス様が父なる神のみこころを受け入れられたことで、まさしく今、ここに神の国が来ています(御国が来ますように)。
礼拝のこころえ(88)-受難節(レント)F 裁判のとき主は、ご自身の教えに生きておられました。捕らえられ、兵士たちのなすがままにされました(「悪い者に手向かってはいけません」マタイ5:39)。彼らは主にいばらの冠をかぶせ、紫の衣を着せ、嘲弄しました (「あなたの敵を愛しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい」ルカ6:27,28)。
たたかれ、つばきをかけられました(「さばいてはいけません。人を罪に定めてはいけません。赦しなさい」ルカ6:37)。ひざまずいて拝んだりしました(「人の子のため、人々があなたがたを憎むとき、・・あなたがたは幸いです。その日には喜びなさい。・・彼らの父祖たちも預言者たちに同じことをしたのです」ルカ6:22,23)。
礼拝のこころえ(89)-復活節(イースター) イエス様の納められた墓の中にイエス様の死体はなく、生きた青年がいました。女性たちは驚き、恐れ、気も転倒してそこから逃げ去りました。しかし、青年から弟子たちとペテロに言付けられた言葉が残りました。それは具体的に行動を促す言葉でした。「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます」(マルコ16:7)。それは、ペテロがご自分を三度否定すると予告されたところで言われたイエス様のお言葉でした(マルコ14:28)。ペテロはそのガリラヤでイエス様とお会いし、悔い改め、回復の機会を頂く必要がありました。しかもイエス様は先に行って待っておられます。私たちの行くべきガリラヤは、どこでしょうか。
礼拝のこころえ(90)-ミニストリー 教会において「ミニストリー」とは、奉仕や宣教という意味で用いられます。今年のレントからイースターにかけて捧げられた全ての奉仕のことも、中心となってくださったグループのことも「レント?イースター・ミニストリー」と呼ぶことができます。そのように「ミニストリー」とは、一人一人に与えられているそれぞれ異なった賜物を用いて主のみからだなる教会のために仕えることであり、その働きをするグループのことでもあります。
「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:16)
礼拝のこころえ(91)-ミニストリーA ミニストリーは、キリストのからだである教会を建て上げるため、御霊に示された人々によって、自発的に、喜んでなされる宣教の働きです(2コリント9:7)。それは、主と隣人とに対する、愛と感謝を動機としてなされます。すべてのことは教会の徳を高め(1テサロニケ5:11)、お互いの霊的成長のためになされます(ローマ14:19)。そして、「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」のです(エペソ4:13)。つまり、み言葉の学びと祈りによって生じた交わりが、宣教のためのミニストリーとして働き出すことによって、からだ全体が「愛のうちに建てられる」のです(エペソ4:16)。
礼拝のこころえ(92)-ミニストリーB ミニストリーは、み言葉の学びと祈りによって生じる交わりの場です。聖書は私たちの「信仰と生活の唯一絶対の規範」 (同盟教団信仰告白) ですから、ミニストリーの目的もみ言葉から導き出されます。つまり、その目的の実行に向かう具体的な働きの場としての交わりがミニストリーです。そして、ミニストリーの働きは一部の人だけがするのではなく、一つの目的を共有する一人一人が関わることによって、ついには教会全体の宣教の働きとなるのです。
「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに・・達するためです。」(エペソ4:12-13)
礼拝のこころえ(93)-ミニストリーC ミニストリーの目的は、宣教です。私たちは、ミニストリーを通して教会に仕えることによって主を証しし、宣教に携わっているのです。つまり、礼拝や祈りや讃美はもちろんのこと、掃除をし、食事を作り、送迎をし、看板を書き、週報を作り、プロジェクタを操作し、録音をし、花を生け、受付に座り、その他、教会のあらゆる働きをすることによって主の栄光が現されるのです。ですから、奉仕の働きをする時には、ことばによっても態度においても、キリストのかおりを放つ者として整えていただきましょう。
「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい」(1コリント10:31)
礼拝のこころえ(94)-昇天日 復活後40日目の木曜日は、イエス様が天に上げられた日です。この日はイエス様の地上における生涯の終結の日であり、弟子たちに世界宣教への大命令が授けられた日です。
「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」(使徒1:3)
礼拝のこころえ(95)-ペンテコステ@ イエス様が復活されてから50日目の日曜日、「みながひとつ所に集まっていた」とき聖霊が降られ、「みなが御霊に満たされ」ました(使徒2:1?3)。この日、ペテロのことばを受け入れた3000人の人々が洗礼を受けました。聖霊の働きによってみことばを聞き、信じる者が起こされ、「キリスト教会」が誕生したのです。キリストの教会である私たちにとっては、今や、毎日がペンテコステの時です。
「彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。」(使徒2:41)
礼拝のこころえ(96)-ペンテコステA 神の子とされた者が、ご聖霊のご支配のもとで生活することが主の御心です。私たちはご聖霊に満たされることがなければ、主の望まれる生活をすることができないからです。そして、ご聖霊の満たしと力ある働きは、常に祈りによって得られます。私たちに必要な賜物はただ天からのみ来るからです。ご聖霊が、私たち自身と教会を、主権をもってご支配してくださることを祈り求めましょう。
「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:13)
礼拝のこころえ(97)-ペンテコステB ご聖霊は、私たちを回心と信仰に導き(1コリント12:3)、私たちを励まし善と聖へ向かわせます。そればかりか、私たちの内に住まわれ私たちの内に働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです(ピリピ2:13)。このご聖霊の内住と働きによって真の礼拝が捧げられます。私たちは、内に住まわれる御霊を受けていることを自覚すべきです。
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮である・・ことを知らないのですか。」(1コリント6:19)
礼拝のこころえ(98)-ペンテコステC ペンテコステの時、十字架に付けられ、死んでよみがえり、天に昇られて栄光の姿となられた主イエス・キリストが、ご聖霊にあって、内なるお方として下って来られました。それは、私たちのいのちそのものとなってくださるためでした。御父に全く従われ、私たちのために自らを捧げてくださった主をいのちとして受け入れるとき、私たちはイエス様の霊によって生かされるようになるのです。
「もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは・・御霊の中にいるのです。」(ローマ8:9)
礼拝のこころえ(99)-ペンテコステD ペンテコステの日、エルサレムに集まっていた120人ほどの弟子たちが、聖霊に満たされ彼ら自身を御霊に委ねたとき、主が彼らのうちに住み、彼らによって「神の大きなみわざ」(使徒2:11)が語られました。その結果3000人の弟子が加えられたのです。御霊に満たされた教会によって、神の国が宣べ伝えられ、主の教会が勝利を収めたのです。
「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、・・話し出した。」(使徒2:4)
礼拝のこころえ(100)-ペンテコステvi 主イエスと深く結ばれ、主のために全てを捨てて主にのみより頼み、それまで望みをおいていた一切のものと自分自身にも絶望し、約束のみ言葉を握りしめて、生ける神を待ち望んでいた弟子たちに、ペンテコステの日、御霊が注がれました。そのとき弟子たちと教会は主ご自身のいのちにあずかるものとなったのです。
「その方は、真理の御霊です。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられる」(ヨハネ14:17)
礼拝のこころえ(101)-ペンテコステvii 私たちの内に住まわれるご聖霊によって罪に対する勝利が与えられました。私たちは罪の告白をする度に、その罪を赦されきよめられます。しかし、私たちが今なお多くの罪を犯している事はもっと悲しまれなければなりません。主がご聖霊によって教会と私たちを完全にご支配してくださいますように。
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」(1コリント6:20)
礼拝のこころえ(102)-ペンテコステviii 天の御国の確証を得た私たちはもう天を目指す必要はなく、他の人々と同じように、目に見えるこの世を楽しめばいいのでしょうか。 私たちの日々の会話や行い、意志や努力のどれだけが信仰に基づいているでしょうか。イエス様の御霊に満たされ、完全に支配される事を、どれだけ求めているでしょうか。
「私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。」(1コリント2:12)
礼拝のこころえ(103)-ペンテコステix ペンテコステに与えられたご聖霊は、全世界をキリストのために勝ち取ろうとする宣教の御霊でした。私たちはどれだけその御霊に満たされ、イエス様が私たちを勝ち取るために自らをささげてくださったように、どれだけ神の国の拡大のために喜んで自らを主にささげているでしょうか。主は、私たちのささげものを、ささげたものによってではなく、ささげないものによって評価されるのです。
「この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。」(ルカ21:3)
礼拝のこころえ(104)-ペンテコステx ペンテコステの祝福を妨げているものは私たちの自我です。神のいのちを所有するためには、自分自身のいのちを否定しなければなりません。イエス様ご自身に全てとなって頂くために、私自身が捨て去られる必要があります。私が、イエス様とともに十字架に死ななければなりません。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、・・そしてわたしについて来なさい。・・わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」(ルカ9:23,24)
礼拝のこころえ(105)-聖餐ii 天の父は、私たちを子として下さっただけでなく、私たちを養い続けるため、恵みの手段を設けてくださいました。私たちがいよいよ確信をもつために、イエス様の手を通して「聖餐」を定めてくださったのです。この「聖餐」においてイエス様は、私たちの魂を永遠のいのちに養う「いのちのパン」(ヨハネ6:48)であることを証しされました。
「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」(ヨハネ6:51)
礼拝のこころえ(106) -聖餐iii しるしとして与えられたのは、パンとぶどう酒のみです。この二品は、私たちがキリストの肉と血とから受ける目に見えない食物を、私たちの目に明らかに示すため与えられています。天の父は新しく生まれた私たちのいのちを支え、保つための食物を絶えず下さるのです。その、私たちのたましいを養う唯一の食物こそイエス・キリストです。
「というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちをあたえるものだからです。」(ヨハネ6:33)
礼拝のこころえ(107) -聖餐iv 私たちがパンを食べるときには、私たちの救いのために捧げられたイエス様の御からだを受けて食べるように命じられています。それは、いのちを得させるイエス様の死の力が私たちのうちに働いていることを、確信するためです。そして、イエス様はぶどう酒によって、ご自身の血による契約の継続を約束して下さっているのです。
「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」(ルカ22:19,20)
礼拝のこころえ(108) -聖餐D 私たちはイエス様に接ぎ木されイエス様のからだと一つとされたので、イエス様のものは全て私たちのものと言うことができます。従って、本来、主のものである「永遠のいのち」も私たちのものであり、主が既に入られた天の御国に私たちも入れられます。さらに、イエス様は私たちの罪をご自身のものであるかのように負って下さったので、私たちは全ての罪から解放されており、もはや自分の罪によって罪に定められることはあり得ません。聖餐のたびごとに証しされているこの信頼と喜びを確認しましょう。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちをもっています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」(ヨハネ6:54)
礼拝のこころえ(109) -聖餐E 「取れ」と言われるのはイエス様が私たちのものだからです。「食べよ」と言われるのはイエス様が私たちと同じ肉体をもたれたからです。イエス様の御からだと血とは、むしろ私たちのものなのです。しかもイエス様は御からだと血を私たちの贖いと救いのために捧げて下さったのですから、パンと杯に表されているイエス様の御からだと血は、私たちの霊的いのちの食物として定められているのです。
「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」
(マタイ26:26-28)
礼拝のこころえ(110) -聖餐F パンをしるしとして与えられるイエス様の聖い御からだは、パンが私たちの肉体を養い、支え、保つように、私たちのたましいを元気づけ活気づける唯一の食物です。ぶどう酒をしるしとして与えられるイエス様の聖い血は、ぶどう酒が私たちの肉体に対してそうであるように、私たちの魂を養い、活気づけ、晴れやかにする唯一の飲み物です。そのように、イエス様の十字架にかけられた聖い御からだと、流された聖い血は、私たちのたましいを永遠のいのちにいたるように、真に養うのです。
「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」(ヨハネ6:55)
礼拝のこころえ(111) -聖餐G イエス様の十字架において、約束は実現し、全て成就しました。イエス様はまさしく「いのちのパン」として天の父から私たちに与えられたのです。イエス様は私たちと同じように死なれることによって私たちをご自身の永遠のいのちに与らせて下さいました。ご自身を犠牲として捧げられることによって、私たちの呪いを引き受け、私たちをご自身の祝福で満たして下さいました。そして、ご自身の復活によって私たちを新しい命に生かして下さいました。そのような「いのちのパン」としてご自身を表されました。
「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」(ヨハネ6:51)
礼拝のこころえ(112) -聖餐H イエス様は聖餐式において、ご自分が「いのちのパン」になられたことを思い出させ、私たちにいのちを与えるためになされたその力を経験させてくださることによって、私たちが永遠のいのちに生かされていることを約束しておられるのです。イエス様は、私たちのために生まれ、私たちのために死なれ、私たちのためによみがえられたので、私たちにとって今でも「いのちのパン」であり、私たちが毎日それを食べ、イエス様にあずかるものとなるよう、み言葉によってご自身を差し出してくださっています。
「わたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6:51)
礼拝のこころえ(113) -聖餐I パンを食べることによって私たちの体が栄養を得るように、イエス・キリストを「信仰をもって」食べることによって私たちのたましいは、霊的ないのちに生かされます。パンが食物として体に取り入れられたとき肉体に力を与えるように、私たちは真にイエス様にあずかるとき、つまり、「いのちのパン」であるイエス様を信じつつ食べるとき、イエス様ご自身のいのちが私たちに移されて、私たちのいのちとなるのです。
「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。」(ヨハネ6:57)
礼拝のこころえ(114) -聖餐I@ 私たちが「信仰をもって」キリストを食べるということは、単なる頭の中での考えではありません。私たちは私たちと一つとなってくださったイエス様を信仰によって受け入れているのです。ですからイエス様は現実に私たちのかしらとなり、私たちは現実にイエス様の体のえだとなるのです。
「私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。」(1コリント10:16-17)
礼拝のこころえ(115) -聖餐IA キリストは、天から下られたみ言葉において「いのち」であり、地上でまとわれた肉においても「いのち」です。だからこそ、まことの食物であるキリストの肉と、まことの飲み物であるキリストの血に養われて、私たちは永遠のいのちに入れられるのです。私たち自身を明け渡し、私たちの肉をも生かしてくださる「いのち」なるキリストを受け入れることが、すなわち「いのち」を得ることです。
「このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。」
礼拝のこころえ(116) -聖餐IB 主が御からだのしるしであるパンを私の手に渡されたのは、私が主の御からだに真実にあずかることを確信させるためでした。「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。」
礼拝のこころえ(117) -聖餐IC 「見えるしるし」であるパンと杯によって示されているのは、「見えない実質」です。それは、私のために十字架上でささげられたキリストの体と注がれたキリストの血によって、私に罪の贖いと義と聖が与えられ、私を永遠のいのちへ至らせてくださるという約束です。この恵みを信仰をもって受けるとき、私たちはキリストと一つの体に結び合わされ、活力が与えられるのです。
「パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。」(1コリント10:17)
礼拝のこころえ(118) -聖餐ID 私たちがキリストの御からだにあずかるために、主はこの恵みをご自身の御霊によって与えて下さいます。私たちは主の御霊によって、主とひとつのからだ、ひとつの霊、ひとつのたましいとしていただけるのです。ただひとりの御霊が働かれることによって、私たちにキリストを所有させ、キリストを私たちのうちに住まわせて下さるのです。
「もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは・・御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」
(ローマ8:9)
「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネ20:21)
「あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
(創世記12:2?3)
「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに、知恵の心を得させてください。」(詩篇90:12)
「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。」
(2テモテ2:13)
「あなたがたのからだを、神に受入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)
「それは主が六日間に天と地を造り、七日目に休み、いこわれたからである。」(出エジプト31:17)
「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」(マルコ2:27、28)
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、をわきまえ知るために、心の一心によって自分を変えなさい」(ローマ12:2)
「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一心によって自分を変えなさい」(ローマ12:2)
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。・・・わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)
「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。」(ガラテヤ5:1)
「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。」(ヨハネ4:23)
「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、・・あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(1ペテロ2:9)