「わたしたちの主の祈り」
「ハイデルベルグ教理問答」講解
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  1                                                                                                  2003.09.21.  

「わたしたちの父よ」  

○主の祈りは「私たちの父よ」で始まっています。これが、主がお教えになった祈りの始まりで、神への呼びかけです。神は、キリストによって私たちの父となってくださり、私たちは恵みによって神の家族の養子とされました(ヨハネ1:12)。キリストを、罪を贖われた方として見上げ、キリストを通して神の御許へ行く者が、子として神を敬い、信頼する特権を持ちます。父としての神に祈れるのはクリスチャンだけです。
  ○父は、御子を愛するように、養子とされた私たちを愛してくださっています。私たちのためにひとり子を死に引き渡された方が、私たちの祝福に必要なすべての良いものを下さらないはずがありません(マタイ7:11)。良いものとは聖霊のことです(ルカ11:13)。まず罪の赦しを得させる聖霊を祈り求めましょう。聖霊は私たちの中から奴隷精神を追い払い、子として神に向かって「アバ、父よ」と呼ばせてくださいます(ローマ8:15)。実際、私たちが神の前に、罪を赦されて神の子とされること以前に、祈り求めるべきことが何かあるでしょうか(マタイ6:33)。
  ○私たちは神によって、聖霊によって新しく生まれ(ヨハネ1:13、3:6)、神の養子とされ、神との関係が変えられました。聖霊を内にもつ私たちが落ち込み、どのように祈ったらよいかわからず、祈るべき思いのないときも、聖霊が私たちの心の中で私たちのためにとりなしてくださいます(ローマ8:26,27)。ですから、主のみこころと御国をいつも求め、父をあがめ、主の教えに従順であろうと、いつも心がけていたいものです。
  ○また、父は「私たちの」父です。「私たちの父よ」と祈るのは、主の祈りがとりなしの祈りだからです。私が求めることを、兄弟姉妹にも下さるよう求めているのです。とりなしの祈りだからこそ、確実に聞いていただけるのです。神の家族を、いつも配慮と祈りを持って愛することこそが祈りです。
  ○私たちは主が教えてくださったように、「父」としての神にいつも祈っているでしょうか。神を「天のお父様」と呼ぶことができるのがクリスチャンです。しかし、常に意識して祈っていないと、「天のお父様」と祈り始めてもいつしか無意識に「神さま」と呼びかけていることに気づきます。祈るときも語るときも、対象である「私たちの父」をはっきりと見上げ続けましょう。それが私たちの祈りの基礎となるのです。

  2                                                                             2003.11.02.  

「天にいます」  

○私たちの父は天におられます。そして父は「天上の尊厳」をもって地上の私たちを顧みてくださり、この世界をご自分の永遠のご計画と摂理によって治めておられます。父は、私たちの必要をご存知ですし、私たちによって永遠のご計画を補われたり、計画を変更されたりすることもありません。変わらない、信頼に足るお方です。「神の天上の尊厳」には、私たちが地上で神を尊ぶ以上の尊さがあります。
  ○また、天の父は、私たちの幸せと救いの完成に必要なものはすべて、霊的なものも物的なものも与えてくださる「全能の神」です。それは、父が天にいらっしゃるだけでなく、はかり知ることのできない慈しみ深いお方であるということででもあります。私たちはこの「全能の神」に、霊的なものも物的なものもすべて期待することができます。それこそ私たちの祝福のために必要なものですから、それを与えてくださることのできる天の父に期待して祈ります。
  ○そして、私たちはこのような、慈しみ深い父の「全能の神の力」によって生きています。それは、御子イエス・キリストによって、そのように生きることを許されたからです。神こそ私たちの本当の父です。神を父とし、天の父から「体とたましいに必要なもののすべて」を受けることこそ、真の人間として生きることです。
  ○取るに足りない、罪深く、死すべき者であった私たちが、罪を悔い改め、受けるべき罰を認めてへりくだり、信仰によってキリストを避け所として御許に行ったとき、神が父となってくださいました。「天上の尊厳」を持たれたお方が、身をかがめて「地上」の私たちを引き上げ、ご自分の家族に加え、永遠の交わりにおいてご自身を与えてくださったのです。天におられる全能の神が、地上の私たちを神の子とするために献身してくださり、私たちの父となってくださいました。
  ○私たちが天の父に向かって、主が教えてくださった祈りを祈るとき、父の御名があがめられます。私たちの「体とたましいに必要なもののすべて」、私たちの祝福に必要なすべてを、私たちの思いを越えて与えてくださる、慈しみ深く豊かな父の名を呼ぶことで、私たちは天の父の御名をあがめているのです。

  3                                                                               2003.11.30.  

「御名があがめられますように」  
   

○神の御名をあがめることは「神を正しく知る」ことです。 この第一の祈りは、全ての祈りの目的です(マタイ6:33)。神の御名とは神ご自身のことです。また、イエス・キリストとは、神の御子の名ですから、このお方を唯一の永遠なる主と知ることは、永遠の命を受けることです。そのように神を正しく知ることは、みことばにより、イエス・キリストと聖霊による以外にありません。それは神を父として知ることです。そして、イエス・キリストによって神の子とされ、とりなされ、保証として聖霊を頂き、神との関係を正しくすることです。
    ○御名があがめられるとは、「御名が聖くされる」ということです。神の御名はそれ自身聖いのですが、私たちはこの祈りによって、私たちの間でも神の御名が聖いものであるように祈ります。それは、神のことばが正しく純粋に教えられ、私たちが神の子として、みことばに従って聖く生活するときに実現します(マルティン・ルター『小教理問答書』)。
  ○私たちは本来、自分の存在、思いと言葉と業とによって神の名を汚しています。ですから、私たち自身が悔い改めて神に立ち返り、新生の恵みを受け、聖められることによって、神の御名をあがめることができます。教会も聖められ、神の栄光を第一の目的とすることによって、神の御名をあがめることができます。ですから「御名があがめられますように」との祈りは、悔い改めの祈りです。私と教会の罪が赦され、聖霊によって満たされ,聖められることを祈る祈りです。
  ○私たちは、キリストの似姿に変えられると約束されています。そのように召されていますから、キリストが聖くあられるように自分をも聖くします(1ヨハネ3:2,3)。自分を聖めることは、み言葉と御霊にしかできません。しかし、神の聖い名によって生きる生活は福音の証を立てます。私たちは、主の祈りを祈るごとに「私たちが考え、語り、行っている生活のすべてを整え」るように求められています。そして神の聖い御名を「いつも崇め・ほめたたえるように」召されています。主の祈りを祈るごとに、キリストが与えてくださった恵みに立ち返り、悔い改めて、神を正しく呼び、キリストと聖霊によって礼拝しましょう。

  4                                                                                                   2004.02.15.  

「み国が来ますように」  

○福音書は神の国が主題となっています(マルコ1:14,15)。神の国を求める祈りこそ教会の祈りとしてふさわしいものです。また神の国は、永遠の命と等しく語られています。イエス様ご自身が神の国そのものであり永遠の命の源です。そして、神の国は、父なる神が御子イエス・キリストによってご支配なさることです。さらに、地上の教会にとって神の国とは聖霊の働きのことです(ローマ14:17)。神の国は「天の父が私たちに聖霊を与えて、私たちが、主の恵みによって、聖なるみ言葉を信じ、この世においても、永遠の世においても、信仰ある生活をするときに実現します。」(ルター小教理問答)
  ○したがって、神の国がついに完成する時まで、み言葉と聖霊によって教会を強く保ち増進させてください、と祈ることが教会の祈りです。主ご自身が教会を建て、保ち増やしてくださるのです。
  ○私たちは、信仰によって主に向き変わり、罪の赦しを受け、義なる神の子と認められました。さらに聖霊によって恵みにとどまらせ、きよくならせていただけます。そして終わりの日に栄光あるものにされ、魂に与えられている永遠の命がからだにも与えられます。しかし、キリストによって与えられた恵みを奪い取ろうとする敵を打ち負かすために、なお祈るべきです。キリストの十字架によって既に敗北している悪魔は、神の国が到来するときまで活動しているからです。
  ○まず、神の国を求めることから信仰生活を始めましょう。私たちの生活に必要なことはこの神の国から豊かに注がれるからです。私たちは、すべての源である神の国へと向き変わり、そこからくる豊かな恵みを求めるべきです。確かに恵みは主が備え主が提供されます。しかし、主は求めるものに与えると約束されました。「罪人であるあなたを愛しているから恵みを与えよう。あなたの功績ではなく私のほうから一方的に準備した恵みを与えよう。だからあなたは心から願って求めよ」と、言われているのです。主が恵みを賜るということは、人格的なことです。神と私たちの間の、親しい間柄の事です。神は全てご存知だから、祈らなくとも恵みは自然に与えられるだろう、と考えるのは自然を神とする宗教観です。神の国を求め、主との人格的交わりを回復しましょう。

  5                                                                                                       2004.03.28.  

「みこころが天で行われるように地でも行われますように」  

○クリスチャンになると、主のみ心に従う生活を学ぶようになります。信じることと、心から従うこととは一つです。天地を創造された主なる神がキリストを地上に送られた目的は、キリストの救いの業によって信じる人々を教会に集めて、主を礼拝する民をつくることです。主は礼拝する者に「神だけがもっている善い御心」を示してくださいます。
  ○まず、主を信じている人もまだ信じていない人も全ての人々が「自分自身の意思を捨てて」、「神だけが持っている善い御心」に生きることが願われています。それは、人間は少しも善い意思を持っていないからです。御心が地にならないのも、私たちが反抗しているからです。ですから、主との交わりにとどまり「神のみ心に何も反抗しないで従うことができるように助けてください」と祈る必要があります。私たちの救いは、自分の意思を追及することではなく、私たち自身の上に主のみ心がなされることです(ルカ22:42)。
  ○さらに、「みここころが天で行われているように、地でも行われますように」と祈るのは、被造物全体に主の救いが及ぶように、ということです。主が創造されたものの中で、御心が完全に及んでいるのは天だけです。ですから「自分が召されている働きを天上のみ使いがしているように、喜んで忠実に成し遂げることができるように助けてください」と祈るのです。私たちは、今与えられている務めを重んじて生きればいいのです。それぞれが、召されたときに受けた務めを忠実に果たすために、御言葉を聞き、従順を学ぶところに、私たちの行うべき善いことが現れてきます(1コリント7:24)。
  ○召されている私たちは、既に今ここで御国の生活を始めています。私たちが、主の助けによって、その務めを喜んで忠実に成し遂げることを祈り求めるなら、私たちは確かに御国に召されているのです。主は、召された私たちが召しにふさわしく務めを行い、御国の生活を始めるように教え、そのために主の助けを祈り求めるように命じられたのです。この地上で主のみ心がなること、天上のみ使いのように私たちが地上において主のみ使いとして、主のみ心を行うことができるようになることを祈り求めましょう。

  6                                                                                                   2004.09.05.  

「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」  

○イエス様は「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」と教えられました(マタイ6:33)。それも「何を食べるか、何を飲むか」などと心配したりしてはいけない、とおっしゃる中で言われました。しかし、主の祈りでは罪の赦しより先に「日ごとの糧を与えてください」と祈るよう教えられているのです。
  ○「日ごとの」糧とは、一日分の食料を意味しています。「日ごとに必要な私たちのパンをお与えください」ということです。パンは地上で生きるためにその日その日いるものですから、「日ごとの」パンを求めるのです。それはどうしても必要なものですから、ほかならぬ天の父にだけに求めるのです。そして、私のためにも、他の人のためにも、必要なものだから求めるのです。
  ○創造者である主は、ご自分が創造された世界に関心を持ち、ご計画によって摂理の恵みを継続されています。ですから私たちは、日ごとの糧を祈ることができます。主が私たちの食べ物を備え、私たちの生活を導かれるとき、私たちは、あらゆる善のただ一つの源である主なる神へ向き変わります。父なる神は、私たちのいのちと体の必要性をみなご存知ですから、私たちは神の国を第一にして生きるべきなのです(マタイ6:32-33)。
  ○つまり、「日ごとの糧」もむしろ主のために食べるのです。食べ物のことでも、被造物に信頼することをやめて、神である主にだけ信頼することが祈られているのです。ですから、「日ごとの糧」は創造者である主と私たちを結びつけます。見える物も見えない物も、霊的な物も物質的な物も、必要な物はすべて主に求めよということです。被造物すべてに対する信頼を捨てること、つまり、偶像崇拝を捨てることが求められているのです。食べることにも主の支配が行われることを求めるのです。つまり「日ごとの糧」を求める祈りも、神の国を求める祈りでした。
  ○神の国をもたらすために、イエス様はおいでくださいました。主ご自身が、私たちの必要に関わってくださり、私たちに必要なものを備えてくださいました。だから、私たちの日常的に必要なものも主に求めるのです。そこにも神である主のご支配がおよび、神の国が到来します。荒野の中で、ご摂理によってイスラエルを飢えから救った主は、私たちのその日その日必要な、あらゆる物をも備えてくださるはずです。

  7                                                                                                   2005.03.27.  

「わたしたちの負い目をお赦しください。」  

○イエス・キリストが私たちを罪の束縛から自由にするために、私たちの罪を負って下さいましたので、私たちにいのちと希望が与えられました。ですから、私たちは、日々主のみ言葉を生きるのです。祈りもまたみ言葉に従って祈ります。私たちはなお欠け多く、毎日罪の赦しを必要とする人間ですから、罪の赦しを祈り、感謝と悔い改めの生活を送ります。
  ○私たちが祈り求める罪の赦しは、「自分でおかす罪と今でも自分に付随している悪とのすべて」です。罪とは支払っていない負債のことです。罪を赦すということはその負債を計算しないことです。主は私たちの負い目を計算せずに赦してしまうことで解決されたのです。それは、キリストを代わりに罰し、キリストの完全な服従を、私たちの支払いとして受け取って下さることによって成し遂げられました。
  ○私たちが私たちの負い目の赦しを祈るよう命じられているのは、祈り願う者にこそ恵みが与えられるからです。また、私たちが赦された罪人であり、「自分に付随している悪」についてこれからも赦される必要があるからです。そして、絶えず祈ることによって、放蕩息子のように日々、失敗するごとに、私たちを義として下さった父の元に立ち返るためです。
  ○さらに、神の赦しを受けた私たちは、赦しなさいと命じられています。私たちが私たちに負い目のある人を赦したから私たちの負い目も赦して下さい、というのではなく、「私たちが負い目を赦された新しい人であるから、主の御心に従って私たちに負い目のある人を赦しますように」という願いです。隣人を赦すことは私たちの救いの根拠ではなく結果です。主が私たちを愛されたから私たちも隣人を愛するのです。
  ○そして「私たち」とは教会のことです。教会において実現していることが、私たち個人にも実現していくのです。私たちを支配しているのはもはや私たちに残っている罪ではなく、主の恵みです。主は私たちに赦しを決意させておられるのです。ですから、私たちを赦し、隣人を赦させようとする「自分の中にある神の恵みのこのあかしに気づいて、自分の隣人を心からはっきりと赦す」と告白できるのです。キリストによって私たちの罪を赦し、聖霊によって私たちを清めて下さる主に信頼して、主の祈りを祈りましょう。

  8                                                                                                   2005.07.24.  

「私たちを試みに会わせないで悪からお救いください。」  

○宗教改革者のマルチン・ルターは、一日の生活の最後に、罪の赦しを祈ってベッドに入り、一日の生活の始めに、悪魔の誘惑から救われるように祈って目覚めたそうです。悪の力は、信仰の戦いの中で体験します。イエス様は悪魔の誘惑に、聖霊とみ言葉とで戦われました(ルカ4章)。私たちの信仰の戦いの相手も「公然の敵である悪魔とこの世と私たちの肉」です。「まちがった信仰や絶望や大きなとがや罪悪」(ルター小教理問答)は、偶然に起こることではなく、悪魔の働きです。そして、これらの敵は「攻撃をやめない」のです(1ペテロ5:8)。試練の中にいる私たちに、主は逃れの道を備えてくださいますが(1コリント10:13)、悪魔の誘惑は私たちを神から離し、破滅へといざなうのです。
  ○私たちは「あまりにも弱くて自分自身では自分を一時も支えることができない」存在です。誘惑とは人間が神のようになろうとすることです(創世記3:5)。聖霊によって誘惑に勝ったイエス様が「試みに会わせないで、悪からお救いください」と祈るよう教えてくださいました。私たちはキリストの恵みを受けて義とされた罪人に過ぎませんから、まず試みそのものに会わせないでくださいと謙遜に祈りますが、試みられたら助けてくださいと祈ります。その時は、イエス様と同じように神の言葉で悪魔に対抗し、聖霊の力に頼るのです。
  ○そして私たちは、悪魔に対抗するだけではなく、聖霊の実を結ぶように信仰の戦いをします(ガラテヤ5:16-17)。肉は聖霊に反し、神の恵みの力に対して逆らう内なる敵です。この霊的戦いにおける聖霊の働きは、神である主が聖霊によって私たちを支配し、私たちに、善を愛し悪を憎み、神の義を求め、罪より逃れさせてくださることです。
  ○私たちはこの霊的戦いを忘れてはなりません。この第六の祈りは、私たちの地上の生涯にわたって必要な祈りです。サタンは神の言葉と聖霊の力によって敗北しています。そして最後には、私たちではなく、主ご自身が勝利されるのです。私たちは聖霊によって力強くなり、抵抗していきますが、主がイエス様を再びお送りくださることによって最後に決着をつけられます。イエス様が再び来られ決定的勝利がもたらされるのです。ここに私たちの確かな希望があります。

  9                                                                                                   2005.09.04.  

「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。」  

○主の祈りの最後にある頌栄と賛美は、私たちが祈るものを与えてくださる主に対する信頼を強めます。頌栄は神である主の力と真実さについての告白です。ダビデは全集団の前で主をほめたたえました(1歴代誌29:11)。詩篇の最後は「ハレルヤ」の頌栄で終わっています(150篇)。パウロはローマ人への手紙で頌栄を歌っています(11:36)。聖書の最後の黙示録も頌栄で満ちています(5:12-13,7:9-12)。ですから私たち自身ではなく主の「聖い名が永遠に賛美される」べきです。
  ○そして、主の祈りで六つの祈りを祈って来たのは「国と力と栄えはとこしえにあなたのもの」だからです。
  ○第六の祈りで「私たちを試みに会わせないで悪からお救いください」と祈りました。私たち自身は弱くて「私たちの公然の敵である悪魔とこの世と私たちの肉」の攻撃に持ちこたえられませんが、主が「聖霊の力によって私たちを支え強く」してくださり、私たちが「これらの敵に強く抵抗して、この霊的戦いで敗北しないようにして」くださり、「さいごに完全に勝利するまで」導いてくださるのです。天にいますわたしたちの父以外に、このような誘惑と試みから私たちを守ってくださる方はありませんから、主が賛美されるのです。
  ○私たちが六つの祈りを祈るのは、天にいます私たちの父が「すべてを支配する私たちの王として、全のすべてを与えようとしているだけでなく、与えることができる」からです。天の父は「国と力と栄え」をもっておられる全能の王であり、ご自分の民の救いと御国の完成のために必要なものは全てお与えくださるお方です。イエスさまの贖いによって「私たちの父」となってくださった全能の神は、私たちの体とたましいのすべての必要を満たすことができるお方です。ですから、体とたましいに必要なことを父に心から願います。
  ○そして御国とその栄光のために主が力を尽くされるのは、主キリストの御名が世界で賛美されるためです(ピリピ2:9-11)。主は既にキリストを高く上げて全ての名に勝る名を与え、勝利を確立されました。それに応じて全世界は膝をかがめてキリストは主であると告白します。栄光が主に永遠に返されあらゆるものがキリストの栄光をほめ称えるのです。そこにこそ御国の民とされた私たちの幸せがあるのです。

  10                                                                                                   2005.09.11.  

「アーメン。」  

○「アーメン」とは「真実で、確かである」という意味です。それは神の約束が真実であり、主が真実であるという信仰の告白です。ですから、祈りの最後の「アーメン」という言葉は、私の祈りや願いは確かな本当のことだから主が聞いてくださる、という私たちの側の確信を表しているのではありません。私たちが祈るとき、確信を持って、自分の祈りを主が聞いていてくださる、と思うよりもはるかに確実に主が既に聞いていてくださる、という事実を言い表しているのです。
  ○私たちが祈るときは、いつも不確かな思いが付きまといます。もっと確信をもって祈りたいと思います。しかし、それが問題なのではなく、自分が一生懸命求めていると確信していたとしても、その確信よりももっと確かな確実さで主は既に聞いてくださっているのです。神がイエス様をお与えくださったとき、神のほうで約束を果たし私たちを受け入れてくださいました。私たちの心をこめた祈りよりも、はるかに大きな真実で主は私たちを既に捕らえていてくださるのです。
  ○私たちがどんな心で「アーメン」と言ってもその「アーメン」は不確かなものでしかありません。「アーメン」という言葉は、私たちの中にある確信に支えられるのではなく、イエス様のお言葉に支えられて、初めて私たちのものになります。私たちは祈っていても自分の信仰の薄さや祈りの小ささを認めざるを得ません。しかし私たちは「アーメン」といえるお方を持っています。あるかないかの自分の信仰やその信仰から生まれる祈りよりも、もっと大きな確かさを持って主が捕らえていてくださることを知っています。「アーメン」という小さな言葉は、主の大きな確かさを表しているのです。
    ○私たちが主のみ心に一致して祈るとき、その祈りは、私たちが心の中で感じている以上に確かに主によって聞き届けられています。だからこそ私たちは、心から「アーメン」と言えるように主のみ心に従って祈ることを教えてくださいと祈るのです。私たちの信仰は時に揺るがされます。揺るがないのはイエス様のみです。「アーメン」といえる確かさを持っているのは主ご自身のみです。「アーメン」とは、私たちが願っていることをはるかに越えて、主ご自身が確かに聞き入れてくださるという、永遠の確かさの告白です。

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