| 「わたしたちの主の祈り」 | |||
| 「ハイデルベルグ教理問答」講解 | |||
| 横浜上野町教会牧師 柴田 智悦 |
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1 2003.09.21. |
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○主の祈りは「私たちの父よ」で始まっています。これが、主がお教えになった祈りの始まりで、神への呼びかけです。神は、キリストによって私たちの父となってくださり、私たちは恵みによって神の家族の養子とされました(ヨハネ1:12)。キリストを、罪を贖われた方として見上げ、キリストを通して神の御許へ行く者が、子として神を敬い、信頼する特権を持ちます。父としての神に祈れるのはクリスチャンだけです。 |
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3 2003.11.30. |
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○神の御名をあがめることは「神を正しく知る」ことです。 この第一の祈りは、全ての祈りの目的です(マタイ6:33)。神の御名とは神ご自身のことです。また、イエス・キリストとは、神の御子の名ですから、このお方を唯一の永遠なる主と知ることは、永遠の命を受けることです。そのように神を正しく知ることは、みことばにより、イエス・キリストと聖霊による以外にありません。それは神を父として知ることです。そして、イエス・キリストによって神の子とされ、とりなされ、保証として聖霊を頂き、神との関係を正しくすることです。 |
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4 2004.02.15. |
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○福音書は神の国が主題となっています(マルコ1:14,15)。神の国を求める祈りこそ教会の祈りとしてふさわしいものです。また神の国は、永遠の命と等しく語られています。イエス様ご自身が神の国そのものであり永遠の命の源です。そして、神の国は、父なる神が御子イエス・キリストによってご支配なさることです。さらに、地上の教会にとって神の国とは聖霊の働きのことです(ローマ14:17)。神の国は「天の父が私たちに聖霊を与えて、私たちが、主の恵みによって、聖なるみ言葉を信じ、この世においても、永遠の世においても、信仰ある生活をするときに実現します。」(ルター小教理問答) |
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5 2004.03.28. |
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○クリスチャンになると、主のみ心に従う生活を学ぶようになります。信じることと、心から従うこととは一つです。天地を創造された主なる神がキリストを地上に送られた目的は、キリストの救いの業によって信じる人々を教会に集めて、主を礼拝する民をつくることです。主は礼拝する者に「神だけがもっている善い御心」を示してくださいます。 |
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6 2004.09.05. |
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○イエス様は「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」と教えられました(マタイ6:33)。それも「何を食べるか、何を飲むか」などと心配したりしてはいけない、とおっしゃる中で言われました。しかし、主の祈りでは罪の赦しより先に「日ごとの糧を与えてください」と祈るよう教えられているのです。 |
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7 2005.03.27. |
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○イエス・キリストが私たちを罪の束縛から自由にするために、私たちの罪を負って下さいましたので、私たちにいのちと希望が与えられました。ですから、私たちは、日々主のみ言葉を生きるのです。祈りもまたみ言葉に従って祈ります。私たちはなお欠け多く、毎日罪の赦しを必要とする人間ですから、罪の赦しを祈り、感謝と悔い改めの生活を送ります。 |
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8 2005.07.24. |
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○宗教改革者のマルチン・ルターは、一日の生活の最後に、罪の赦しを祈ってベッドに入り、一日の生活の始めに、悪魔の誘惑から救われるように祈って目覚めたそうです。悪の力は、信仰の戦いの中で体験します。イエス様は悪魔の誘惑に、聖霊とみ言葉とで戦われました(ルカ4章)。私たちの信仰の戦いの相手も「公然の敵である悪魔とこの世と私たちの肉」です。「まちがった信仰や絶望や大きなとがや罪悪」(ルター小教理問答)は、偶然に起こることではなく、悪魔の働きです。そして、これらの敵は「攻撃をやめない」のです(1ペテロ5:8)。試練の中にいる私たちに、主は逃れの道を備えてくださいますが(1コリント10:13)、悪魔の誘惑は私たちを神から離し、破滅へといざなうのです。 |
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9 2005.09.04. |
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○主の祈りの最後にある頌栄と賛美は、私たちが祈るものを与えてくださる主に対する信頼を強めます。頌栄は神である主の力と真実さについての告白です。ダビデは全集団の前で主をほめたたえました(1歴代誌29:11)。詩篇の最後は「ハレルヤ」の頌栄で終わっています(150篇)。パウロはローマ人への手紙で頌栄を歌っています(11:36)。聖書の最後の黙示録も頌栄で満ちています(5:12-13,7:9-12)。ですから私たち自身ではなく主の「聖い名が永遠に賛美される」べきです。 |
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10 2005.09.11. |
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○「アーメン」とは「真実で、確かである」という意味です。それは神の約束が真実であり、主が真実であるという信仰の告白です。ですから、祈りの最後の「アーメン」という言葉は、私の祈りや願いは確かな本当のことだから主が聞いてくださる、という私たちの側の確信を表しているのではありません。私たちが祈るとき、確信を持って、自分の祈りを主が聞いていてくださる、と思うよりもはるかに確実に主が既に聞いていてくださる、という事実を言い表しているのです。 |