「聖霊による新しい生活-十戒」
ハイデルベルク教理問答講解
横浜上野町教会牧師 柴田 智悦

  1                                                                                                  2005.11.6.  

問86「聖霊による新しい生活-十戒」  

○聖書は、私たちの人生における危機管理マニュアルだと言われます。私たちが失敗したとき、そこで立ち止まり、罪を告白し、キリストの血潮によってきよめられ、再び立ち上がり回復することができる恵みの福音が記されているからです。そして、主の恵みによって私たちが救われ、聖められるのは、十戒に示されている生き方に立ち返るためです。
  ○私たちは恵みにり、キリストによる贖いによって、何の功績もなく無償で救われています(ローマ3:23,24)。そして、真の信仰によってキリストに接ぎ木された者は感謝の実を結びます。信仰のみによって義とされた者は、キリストの血による贖いと聖霊によって、キリストに似た聖い者に造り変えられ、善い行いをするのです。その善い行いとは、私たちが正しいと考えるものではなく、真の信仰からだけ行われ、主の律法に一致し、主の栄光のためにだけ行われるものです。
  ○それはまず、感謝の生活です。キリストによって贖われたクリスチャンは、洗礼を受けてから、み言葉と聖霊に導かれて善い実を結ぶ生活を始めます。私たちの生活の全てで、主の恵みに対して感謝を表して行きます(エペソ2:8-10)。次に、主を讃美する生活です。感謝と讃美は、教会を建てて行く信仰の働きです(1ペテロ2:5)。第三に、み言葉に従う教会生活は聖霊によって善い行いの実を結ばせ(ガラテヤ5:22,23)、そのことによって私たちの信仰の確信が深められます(マタイ7:16-20)。最後に、感謝と讃美と自分の信仰の確信は、まだ信じていない人々をキリストへ向けさせる伝道へと進みます。主に感謝し、主を賛美し続け、聖霊の働きによって善い行いの実が結ばれ信仰の確信が強められる生活は、主を知らない人が見ても、主に向かって生きている人だと分かるのです。こうして私たちの回りの信じていない人々に対しても福音の香りが放たれるのです (1ペテロ2:12)。
  ○主に向かって生きることこそクリスチャンでの印です。私たちが礼拝の民として集められるたびごとに、悔い改めの祈りによって再出発し、主のみ言葉を聞き続け、聖霊の照明を求め続けます。神である主に向き変わることは、一度で完成することではなく、生涯にわたって向き変わり続けることなのです。キリストによって神の家族に加えられた恵みに感謝し、讃美を捧げ、信仰を確信し、聖霊の結実を祈りましょう。

  2                                                                                                  2005.12.18.  

問94-95「第一戒」
「あなたは、わたしの前でほかの神をもってはならない。」  

○「神が求めていることは、すべての偶像礼拝、すべての呪文、すべての迷信、聖人その他の被造物への呼びかけを避けて・逃れなければならないことです」。イエス様がサタンの誘惑を受けたときも、神である主だけを拝むか、サタンを拝むかという戦いでした(マタイ4:8-10)。主にだけ期待すべきものを、主以外のものに期待することが偶像礼拝です。
  ○主以外のものを考えることによって、人間の中に偶像礼拝が始まっています。また主を否定しなくとも、主に並べて他の神を立てたり、聖霊の働きにゆだねるよりより自分の活動を中心にしたりすることも偶像になるのです。そして「そのようなことは、私の救いそのものを失う危険」があります。私たちがもし真の神以外のものを神のように持つなら、その神である主の救いの目的からそれてしまうことになります。
  ○偶像礼拝をするのは、謙遜と忍耐を失っているからです。この神だけを信じるのは頼りないと思い「神だけから来る善いもののすべてを待ち望む」ことができなくなっているのです。そのとき偶像礼拝に走り、呪文、迷信、おまじない、占い、星占い、トランプ占いなどにも心が動揺してしまいます。しかし、救いを期待できる相手は真の神である主のみです。忍耐とは踏みとどまるということです。敵が押し寄せて来ても後に引かないことです。つまり「へりくだって、忍耐して待ち望む」ということは、真の神にのみより頼んで生きようとする、私たちの信仰の姿勢のことです。
  ○ですから「心のそこから、この神を愛し・畏れ・あがめなければなりません」。主をおそれることは、神の民のしるしです(詩篇111:9-10)。キリストの贖いによってキリストのものとなり、聖霊によって新しくされた者は「わたしが神のみ心にさからってなにかをするくらいならば、かえって、一切を捨てる」という信仰の服従を表すのです。それは神を取るか、被造物に頼るかという戦いにおいて、自分を迷わせてしまう一切の被造物を捨てる覚悟を持つ、という決意です。ひたすら主を信頼し主を愛して生きるために、へりくだり、忍耐する心が必要です。それは、ますます主により頼むことです。主にのみ拠り頼んで生きていくならば、他のものを神の代わりに呼ぶ必要がなくなります。それが復活し、新しい人として生まれ変わった私たちに求められていることです。

  3                                                                                                  2006.4.2.  

問96-98「第二戒」
「あなたは、みずから刻んだ像を造ってはならない。」  

○第一戒が礼拝の対象を教えているとするならば、第二戒は礼拝の方法を教えています。第一戒は偶像を礼拝することを禁止し、第二戒は神のイメージを具体的な形に表して礼拝することを禁止しています。第一戒で主はご自分だけが神であり他にどんな神を考えることも持つこともならないと言われ、第二戒では主がいかなるお方であってどのような礼拝がご自身を崇めるものであるかを明らかに示しておられます。
  ○み言葉によって命じられている方法で神を礼拝することこそ聖書の教えですから、み言葉の指示を待たずに神礼拝の方法を自分で考え出すことが罪なのです。出エジプトの時、アロンは他の神を礼拝するために金の子牛を造ったのではなく「これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と宣言しました (出32:4)。それが一番良い手で触れるほどの主なる神の臨在の姿だと自分で考え出したのです。
  ○パウロの福音宣教も偶像礼拝との戦いでした。福音を語ることは真の礼拝を教えることだからです。福音の説教を聞くことは人間の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れることです(1テサロニケ2:13)。教会の第一の使命は、キリストの福音の説教によって真の神礼拝を教えることです。
  ○キリストはアダムの罪と人間の罪の全てを十字架で負われ、復活によって罪と死の力を滅ぼされました。そして天に昇りご聖霊を派遣して下さいました。ご聖霊は説教を聞いてキリストを信じる人々に罪の赦しと永遠の生命をもたらします。ご聖霊が礼拝の説教を用いられるので、説教によって信仰が生じ、聖餐にあずかることによって信仰が確証され続けます(2テモテ3:13-16)。アロンの子牛はすぐにそれ自体が拝まれる偶像になりました。イエス・キリストという真の神の姿が現れたからには、全ての像は否定されます。ご自身を私たちにお与えになった仲保者の中にのみ、神を見、知り、賛美しなければなりません。信仰は神の言葉を聞くことによってのみ起こるからです。主はみ言葉の生きた説教によってだけ私たちを礼拝の民として形作られるのです。
  ○更に主は激しい愛をもって「ねたむ神」ですから子供たちが父と同じ罪を選び取っている限りそれに報い、神を愛するならば恵みを施されます(出20:5)。その神の激しい愛が、イエス・キリストにおいて私たちに対する救いとなりました。

  4                                                                                                  2006.5.28.  

問99-102「第三戒」
「あなたの神である主の名を、みだりに唱えてはならない。」  

「主の御名を、みだりに唱えてはならない」
○第三戒では、主の御名を冒涜してはならないということと、主の御名を冒涜する者を主は必ず罰するということが言われています。積極的には、主の御名を崇め讃美せよということですが、人間が罪に傾いているため主の御名が冒涜されているのです。主はそれを最大の罪であり最も神を怒らせる問題だとされています。なぜなら、主の御名があるところに主ご自身がおられ、そこに主ご自身が働いておられるからです。
  ○私たちは主の御名を「畏れ・うやまうことによってのみ、となえるべき」です。それは神を正しく告白し(信仰)、正しく祈り(礼拝)、言葉と行ないで讃美することです(生活)。
  ○「神を正しく告白」することは、信仰を告白することです。正しい聖書の教えを告白することが主の御名を崇めることです。聖書が唯一の誤りなき神の言葉であるからこそ、教会は信条を産み出し教理を告白してきました。
  ○「神を正しく祈り求める」ことは、礼拝を聖く敬虔に守ることです。礼拝は、恵の手段であるみ言葉と聖礼典と祈りを正しく敬虔に用い、聖霊のご臨在の下に行なわれる、主と主の民との公の会見です。神である主は「霊とまことによって礼拝」されなければなりません(ヨハネ4:24)。
  ○「神を自分の行いと言葉のすべてで讃美する」ことは、主の日の礼拝だけでなく、み言葉に従う毎日の生活も礼拝だからです(ローマ12:1,1コリント10:31)。私たちは、日常生活においても主を正しく祈り求め、私たちのすべての行いと言葉において主の栄光を現し、主を讃美するのです(コロサイ3:16,17)。それこそ私たちの人生の主な目的です。
  ○そのような主の御名を汚すことは最大の罪です。第一戒、第二戒を守っていても第三戒を守らなければ全てを否定したことになります。自ら主の御名を汚さなくても、他人が汚していることを止めさせないなら、最大の罪を犯しているのです。「御霊に逆らう冒涜は赦されません。・・聖霊に逆らうことを言う者は・・赦されません」(マタイ12:31,32)。「イエスは主です」と告白させてくださり、私たちに救いをもたらしてくださる聖霊に逆らうことは、自ら救いの全てを放棄することです。主の御名をあがめるとは、主のなさった救いの御業全体によって主をあがめるということだからです。

  5                                                                                                  2006.9.2.  

問103「第四戒」
「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」  

○旧約時代の安息日は、イエス様の十字架と死と復活によって終わりました。安息日は週の終わりで、神である主が一週間の創造の業を終えられて休まれたことを記念するために守るべき日でした。しかし主の日は週の第一日で、イエス様が死からよみがえり、永遠に生き、それゆえ今もなおここに私たちと共にいてくださるということを思い起こす日です。ですから私たちに問われているのは、どうやって安息日を守るかではなく、主の日をいかに過ごすかということです。
  ○主の日はまず、教えの日です。つまり、説教の務めと教育の務めを保つ日です。また、集まりの日です。礼拝につつしみをもって集まり、招き集められた主の民が神の言葉を聞き、み言葉に従って主の晩餐を正しく行い、教会の秩序が立てられ、公にこの世に姿を現す日です。さらに、愛の捧げ物である献金がなされます(1コリント16:2)。私たちは、こうして、讃美と奉仕の業をもって主の安息に参加しているのです。
  ○主の日の礼拝において働かれるご聖霊は、私たちの全生涯にわたって働かれます。つまりみ言葉から自分自身の不従順な業をやめる(休む)べきだと悟らせ、ご聖霊ご自身の働きを祈らせるのです(ピリピ2:13)。それは、主の日を聖別することを期待してそれ以前の六日間を過ごすということであり、全生涯に亘ってご聖霊の働きに従うということです。キリストとご聖霊によって新しく造り変えられた私たちは、み言葉によって主の日ごとに新しく生かされ、み言葉とご聖霊によって永遠の安息を目差す生活をする者となるのです。
  ○つまり、永遠の命に生きる救いが永遠の安息日ということです(イザヤ66:22,23)。それはこの世の生涯の中で、ご聖霊ご自身がこの私の中で働き始めてくださることにおいて始まるのです。私たちは礼拝において、主ご自身が私の中で働いてくださることを味わい、安息日が喜びの日であることを知ります。その喜びが毎日のことになっていくのです。つまり、安息日は、休まなければいけない、何をしてはいけない、ということではなく、生き生きと主の恵みの中に生き、主のみ言葉を聞くことを喜びとし、み言葉に基づいて愛の業をすることを喜びとする日なのです。み言葉を聞き、教え、主ご自身と共に憩う主の日と毎日こそ私たちの安息日です。

  6                                                                                                  2006.10.22.  

問104「第五戒」
「あなたの父と母を敬え。」  

○人間関係の中で一番難しい親子関係も、み言葉と祈りによって維持される必要があります。主はイスラエルの民に、神である主が彼らをエジプトの奴隷状態から救い出し、行うべき戒めを与えられたことを、彼らの子どもたちに教えるよう命じられました(申5:6,6:20-25)。パウロも第五戒に基づいて「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい」(エペソ6:1)と教えています。つまり第二の板の戒めも人間関係の問題ではなく、やはり神と人との問題なのです。私たちは、自分自身を基準にせずに、主のみ言葉に従うことが必要です。
  ○つまり親と子の関係は、生まれながらの血縁関係としてではなく、主にあって「敬い・愛し・真実を表す」関係として考えられます。ですから、厳しすぎることなく、甘えさせすぎることもなく、主のみ言葉に聞き祈る家族を目差すのです。従って、親子が共に礼拝を守ることによって、第五戒を実践することが大切です。これは、親が自分の信仰を反省しつつ子どもにみ言葉を実践する戒めでもあります。私たちは「能力の弱さと道徳上の弱点」を持つ罪人であることを痛感し、み言葉に従って親子関係を立て上げるように祈らされます。
  ○また、主を礼拝してみ言葉に聞き従おうとするとき、自分の上にある権威といわれている人々に対する態度をみ言葉によって考えます(ローマ13:1-2)。しかし、第五戒では、人間賛美や家族礼賛といったことは言われていません。個人崇拝や政治上の権威をたたえるものではないからです(使徒5:29、マルコ3:35)。つまり、どのような思想や因習や社会現象であっても、その中で私たちは主のみ言葉に従うという自由な道を進むのです。律法主義にも自由放任主義にも陥らず、ただ主のみ言葉によって生きる道を進ませるのがこの戒めです。ここに家族の人間関係が表れています (箴言1:7-9)。
  ○ただし、学校や国家は秩序によって治めるためのものにすぎず、霊的なものではありません。この世の法によって服従を求めますが、この世の法によっては主に従うことはできません。国家や学校が求める服従に対して私たちは、「敬い・愛し・真実を表す」ために従うことはできないのです。ただ、学校や国家には良心のために従い、相手の弱い立場を思いやって協力すればいいのです (ローマ13:5)。

  7                                                                                                  2006.11.3.  

問105-107「第六戒」
「殺してはならない」  

○イエス様は「隣人あるいは兄弟である隣人を殺してはならない」と教えておられます(マタイ5:21〜26)。単に生命を尊重するということではなく「隣人という具体的な存在に対して良い態度と行動をとるように」ということです。
  ○人間の心には「殺人の根源」があります(問106)。「ねたみ、憎しみ、怒り、執念深さ」こそ、神である主の嫌われる隠れた殺人です。キリストに罪のすべてを贖われ赦された私たちが、キリストにある愛からではなくアダムの罪から出発するとき、聖徒の交わりが壊されます。み言葉を受け入れず従わないならば、聖霊の実は結ばれません。
  ○第六戒が命じているのは隣人愛です(問105)。イエス様は、殺人者だけでなく、兄弟に対して腹を立てる者、ののしる者、和解しないまま主の前に出る者たちも同じ裁きを受けると言われました。殺さなくとも、憎み、仲直りせず、赦さないならば主は裁かれるのです。また、自分を傷つけたり危険を冒したりすることすらも主の戒めにそむくことになります。
  ○主は私たちに、むしろ隣人を自分自身のように愛し、敵に対しても善を行うことを望んでおられます。しかし、ねたみ、憎しみ、怒り、執念深さを制御し、忍耐、親睦、おだやかさ、あわれみ、友愛を自分の心にもつことは誰にもできません。ですから、私たちの心の内から出る悪い思いを断ち切るためにみ言葉を求め、聖霊の力を祈るならば良い実を結ぶ良い木になるという主の約束に信頼するのです(マタイ7:15-20)。
  ○イエス様の十字架と復活による罪の贖いと赦しを受け入れている人は、聖霊によって新しくされています。それゆえ、自分の全ての業を休んでみ言葉に従いたいと望みます。み言葉の教えと命令は、兄弟姉妹だけでなく、隣人、そして教会の敵にまで及びます。殺さないばかりか、殺し合うかもしれない敵にさえ愛を覚えさせるのです。神の敵であった私たちのためにイエス様の愛が生きて働いてくださったので、私にも敵を愛する愛が与えられていると信じることができます。
  ○私たちはキリストによって新しくされ、聖霊の実を結ぶ生活を始めることができるようになりました。教会こそ偽りのない愛が実現するところです。神に由来する、聖霊の実である愛を教会の中で求めていきましょう(1コリント13章)。

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