つしまシャロームチャペル
〒700-0086 岡山市北区津島西坂2-5-31(п@086-255-2096) 
 






















*当教会は2013年4月にオープンしたキリスト教プロテスタントの教会です 

*心の安らぎ、平安の満たし、温かいハートフルな教会へ、あなたもお出でくださいませ〜 
*シャローム・今日のみことば* 3月25日(土)

「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」Tテモテ6:6 Well, religion does make us very rich, if we are satisfied with what we have. ( 1 Timothy 6:6 )  


【キリストの席】パウロはまだ年若い教会の指導者テモテとすべての信者に向けてこの手紙を書きました。教会は絶えずにせ教師や異端という問題を抱えており、彼らの存在によって信徒は無意味な神学議論に走ったり、またキリストにではなく指導者に忠誠を尽くすようになり、彼らに従うことで聖書の真理から引き離されていく事態が引き起こされていました。  

パウロは、主イエス・キリストの健全なことばと、敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるならば、その人は高慢になっているのであり、ことばの争いをする病気にかかっているのだと言います。そして、そのような者は知性が腐ってしまった、真理を見失った人々だから、彼らの間には、絶え間のないことばの紛争が生じていると記しています。   

「満ち足りる心を伴う敬虔」とは、何でしょうか。それは、キリストにあって満ち足りることを知っている心がもたらす慎み深い態度を言うのです。キリストは、御自身を信じる者たちが真理によってことばの論争をすることを望んではおられませんし、そのようなことのためにご自分の命をお捨てになったのではありません。キリストの死と復活の意味を悟りもせず、信者の心を疑い、ことばで争う人々の中から、ねたみや、そしり、悪意の疑いが派生して、信者を絶え間ない紛争へと巻き込んで行くのです。   

真にキリストを信じる者は、主イエス・キリストの現れの時まで、キリストの命令を守り、傷のない、非難されるところのない者として生きるのです。日々の信仰の道において、私たちが熱心に求めるべきものは、「正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和」だとパウロは教えています。そのように生きることが、キリストをほめたたえて生きるということです。   

自分の正しさを主張することでなく、キリストの正しさを現して生きること。それが神をほめたたえて生きるということです。「我消えて、キリストのいのち残るなり」。自分の今日の足跡を、今晩眠りにつく前にふり返り、そこに力強いイエス様の足跡だけが残される。そのような信仰人生を残せるならば、どれほど感謝でありましょう。   

電車の席を選ぶときでさえ、私たちは座りよい場所を探すではありませんか。教会はなおそれを求めます。座り心地よい、風通しのよい、キリストの窓越しに互いが席を譲り合う者でありたいと願います。そこに聖霊の慰めと励まし、勇気や力が添えられていることを覚えます。主のいのちの豊かに現される群れでありたいと願います。   
今日の日も、傷のない、非難されることのない者として、キリストのいのちを豊かに現して生きる者でありましょう。皆さんの今日を心よりお祈りしています。

《教会案内》
礼拝   
毎週
日曜日
午前10時半
 
♪賛美タイム
10時〜

聖書教室
毎週
木曜日
午後2時〜
お祈り会
毎週
木曜日
午後4時〜

教会学校「ぽぽ」
幼児・
小学生
 毎週
土曜日午後2時〜

カウンセリング
相談の上、随時受付


     昨日のみことば>

「イエスは、みなの者に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』」ルカ9:23 And he said to them all, "If you want to come with me, you must forget yourself, take up your cross every day, and follow me. ( Luke 9:23 )

【復活のいのちを生きる】イエス様は、ご自分が必ず多くの苦しみを受け、ユダヤ人たちに捨てられ、十字架で死に、三日目によみがえることを弟子たちに明かされていました。信じる者に、罪の赦しと永遠のいのちを与えるためのイエス様の十字架と復活でありましたが、この時点での弟子たちにとっては、イエス様の十字架の意味の理解はまだ不十分であり、永遠のいのちに対する霊的な目は開かれていませんでした。   

「永遠のいのち」は、イエス様の十字架による罪の贖いにより罪が滅ぼされることと、イエス様が死んで復活なさることによって御座より注がれる聖霊によって、信じる者に与えられるものです。この罪を滅ぼすという神様の御計画のために、イエス様は十字架を負うて歩まねばならない道がありました。ですから、神の与える永遠のいのちを受けたいと願う者は誰も皆、イエス様が負うてくださった十字架の道を歩む決心が必要であります。イエス様に着いて行くためには、自分を捨て、日々自分の負うべき十字架を負うならば、神の与えてくださるいのちを生きられるということです。   

私たちクリスチャンは、イエス様に従うことを決心して信仰の道に踏み出し、それぞれの十字架の道を今歩んでいる者です。私たちの信仰の道は、聖霊の恵みによる十字架の道であります。それはイエス様の復活のいのちをいただきながら歩む十字架の道だということです。   

聖霊の助けにより「重荷負う者、わたしのもとへ来なさい。わたしがやすませてあげよう。」と言われるイエス様とともにこの道を歩むことを得させてくださっているということです。ですから、どこまでも私たちは自分で永遠のいのちを負う者ではないということです。神の与えてくださったいのちを自分で保とうとするなら、それを見失ってしまいます。   

礼拝を守ることも、教会の奉仕も、献金も、その他自分を神に捧げる行いすべてにおいても、神の永遠のいのちを保つ手段にはならないということです。自分の身に負うているすべてのものを、イエス様にゆだねて従うことでしか、このいのちは保たれないということです。それはイエス様の目的に生きる者になるということです。イエス様が目的ではなく、イエス様の目的を生きる道を行くということです。    

身体の癒しが目的で教会に導かれ、イエス様の救いにあずかり、信仰の道を行くようになったとしても、いつまでもご利益だけを見て歩むということではありません。信仰の道にあるのは、死と復活のいのちです。死とは、自分の願い求めすら失せる。自分が葬られるということです。死を目指して歩まれたイエス様のように、黙して語らず、死んだ者になる道です。しかしイエス様の死には、その先に復活の希望があります。復活のいのちは、一つ目のいのちが死んだ者だけがいただける二つ目の新しいいのちです。   

今日も復活のイエス様の御足の後を、主に習いて歩む者とならせていただいていることに感謝いたしましょう。日々、このいのちを生きるために、私たちはキリストの死を身に負うていることを感謝いたします。   皆さんの今日を心よりお祈りしています。