11月30日(日)「キリストとベリアル」説教要旨

           聖句
旧約
 「わたしはあなたがたのうちに歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となるであろう。」
  (レビ26:12)

新約
 「コリントの人々よ。あなたがたに向かってわたしたちの口は開かれており、わたしたちの心は広くなっている。あなたがたは、わたしたちに心をせばめられていたのではなく、自分で心をせばめていたのだ。わたしは子供たちに対するように言うが、どうかあなたがたの方でも心を広くして、わたしに応じてほしい。
 不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、
 『わたしは彼らの間に住み、
 かつ出入りをするであろう。
 そして、わたしは彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となるであろう』。
 だから、『彼らの間から出て行き、
 彼らと分離せよ、と主は言われる。
 そして、汚れたものに触れてはならない。
 触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
 そしてわたしは、あなたがたの父となり、
 あなたがたは、
 わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる』。」
   (Ⅱコリント6:11-18)

  「コリントの人びとよ、わたしたちの口は、あなたがたに対して開かれています。わたしたちの心は広くなっています。わたしたちの中に、あなたがたのための場所が狭くなっているのではありません。反対に、あなたがたの心が狭くなっているのです」と、パウロはここでコリント教会の人々に言っています。パウロがその旅行計画を変えたり、またきびしくコリントの不品行や不道徳の者を問いただしたりするので、コリントの人の中には、「パウロの心は狭い、あれでは心を広くして、忌憚なく話あうことはできない」、こういう批判があったのだと思います。パウロはここで、そのような態度に対して反駁して申します。「それは反対だ、彼らの心が狭くなって、こちらの広い心を受け入れないのだ」と。わたしたちの間にも、よくそうした言い争いがあります。わたしたちの心が広い時には、相手を受け入れます。しかし、わたしたちの心が狭い時、相手を受け入れられなくなっています。

  心の「狭さ」とは、他人や周囲の者が作っているのではなく、たいがいは自分自身でこしらえているものなのです。よく日本は島国だから、狭い、国土が狭いように、そこに住む住人の心もまた狭くなっている、こう考える人は案外多くいるのではないでしょうか。しかし、日本にも山田長政などのように海外に雄飛した人物は、数少ないでしょうがいます。外国に行くと、思わないところで、活躍している日本人に出会って驚きます。島国であることは、不利な条件ではありません。むしろ、島国は周り中、海ですからどこへでも飛んで行ける有利な条件も備えているのではないでしょうか。ものはそれに対する見方によって違ってきます。そして案外、その違いは、(場合によっては、その対象の中にあることもありますが)、自分自身の心の中にあるのではないでしょうか。「狭さ」とは、他人が作ったものではなく、また周囲がこしらえたものでもなく、自分がこしらえたものなのです。島国でも心の広い人はいます。まわりの不利な条件を、有利なものに変える力のある人ほど、生き生きとした人はいないでしょう。

  しかコリント人の愛は、パウロの愛と歩調があいません。この相互の関係が乱れ、混乱したのです。この混乱を取り除く唯一の方法は、彼らコリント人の側でも、心を広くもって、パウロに対して心を開き、一切の疑念を吹き払って、パウロが彼らに示すのと、同じ信頼をもって接することです。パウロは、「あなたがたすべてを包み込むほど、わたしたちは心を大きく開いています」と言っているのです。教師の心と口は、弟子たちの進歩のために大きく開いています。親であり教師である人にとって、一番必要なことは、心の広さではないでしょうか。

  愛は相互に同じように大きいことはまれであります。愛の大きい方が、損をします。その損を愛の大きい方が負って、しかもあまりがあります。それが愛の大きさです。「こんなに愛しているのに、相手は・・・」と言った言葉が、口から出てきたとたん、愛はその人から逃げ行きます。愛は、「損して得を取る」のであります。仏教学者で西田幾多郎の影響を受けた阿部正雄氏は、早くアメリカに渡り、ティリッヒという世界有数の神学者のもとで、キリスト教神学を学んだ人です。キリスト者が仏教を学ぶ必要はあり、また反対に仏教徒がキリスト教を学ぶ必要もあるが、その場合、必ずしも、仏教徒がキリスト教になる必要はなく、反対も同じだといいました。しかし、自分の信仰に真実である時、不思議と他宗の人と心がかようことがよくあります。パウロはこう言っています、「律法をもたない異邦人が、おのずから律法の内容を行うなら、そのような人は、おのずから自分自身に対して律法となるのです。このような異邦人は、律法の業がその心に記されていることを表しています。こうして彼らの良心も共に証しして、その思考も一緒になって、自分の行為を互いに訴えたり、弁明したりします。わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人間の隠れた事柄をさばかれる、かの日(神の国到来の日)に、そのことは明かになってきます」(ローマ2:14-16)。

  しかし、ここでパウロは、むしろ教会内の混乱、分争について語っているようです。「義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか」と。ここで「ベリアル」とは、「邪悪」を意味するヘブル語で「よこしまな、悪い者」を指します。信仰とは、「悪に対する戦い」をも意味しています。悪魔を戦わない信仰はないでしょう。悪い者と戦って最後に勝利するのが、真の信仰であります。
   


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