11月9日(日)「和解の務め」説教要旨

           聖句
旧約
 「主を仰ぎ見て、光を得よ、そうすれば、あなたがたは、恥じて顔を赤くすることはない。この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された。主の使いは主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助けられる。主の恵み深きことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。」   (詩編34:5-9)

新約
 「それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務めをわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代わって願う、神の和解を受けなさい。神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」   (Ⅱコリント5:16-21)

  パウロは「今後」と言います、また「今はもう」とも言います。それはキリスト・イエスを知る、その知り方についてです。そこには古いかつての、つまり回心前の知り方と、対比して新しい回心後の知り方とがあります。私たちも同じではないでしょうか。回心以前は、キリストと言えば、高校の歴史の教科書に書いてあるような知り方です。紀元の初めにパレスチナで生まれ、紀元三十年ごろ十字架につけられて死んだキリスト教の開祖で、これによって西欧世界のキリスト教化が始まったというのがその大略でしょう。あるいは復活をつけくわえる教科書もあるかも知れません。十字架の後、弟子たちは意気阻喪していたのに、だれ言うとなくキリストは生きている、死んでふたたびよみがえったのだ、この復活信仰が、弟子たちを勇気づけ、キリスト教は西欧世界にひろまってゆきました。こんな筋書きが歴史教科書の書くキリスト像でしょう。そこには史実だけで、信仰はありません。したがってパウロの言うような、「以前」と「今後」はありません。しかし、信仰者、パウロを初め世々のキリスト者は、すべて回心以前と回心以後とがあります。以前はイエス・キリストをただ歴史の教科書のように見ていました、しかし、以後があります。回心の以後は、そのような見方とは全く新しい見方、つまり信仰の対象として、「われ信ず」という立場からのみ、イエス・キリストを見るのであります。

  それは、私の罪のために十字架において死に、私の罪のあがないをしてくださり、それが本当である証拠に死人の中からよみがえって、私たちの罪はあがなわれた、あなたは救われた。この生ける救いの見地からのみ以外、このお方を見ることはできません。皆さんにお聞きします。皆さんの生涯に、このお方を境として、回心前と回心後と区別がありますか。それがパウロの言う、「以前」と「今後」です。パウロのいう「今後」、「今はもう」の今です。全く変えられた人間の出現です。

  「それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。しかし、すべてこれらの事は、神から出ている」。「だれでも」です。学問のあるなしではありません。無学の者でもです、身分の高い低いではありません。「救い主キリストのある、なし」であります。
   


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