10月12日(日)「土の器」説教要旨

           聖句
旧約
 「主に祝福された者は国を継ぎ、主にのろわれた者は断ち滅ぼされる。人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。たといその人が倒れても、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。」   (詩編37:22-24)

新約
 「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。『わたしは信じた。それゆえに語った』としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。それは、主イエスをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共にみまえに立たせて下さることを、知っているからである。すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。」   (Ⅱコリント4:7-15)

  「わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている」。この宝とは福音の真理、キリストの十字架・復活の事実です。この世にこれほど大きな事実があるでしょうか。それは決して物質的すばらしさではなく、それは天から、神から贈与として与えられたすばらしい賜物です。罪深いあなたが、無償で救われるという偉大な福音の事実です。このすばらしい事実は、新約聖書に記されていて、今日まで数限りない人びとを励まし、勇気を与え、救ってきたのです。こんな偉大な事実がこれまで世界にあったでしょうか。当時のローマ皇帝アウグストスも、その時代の人は知っていたでしょうが、二千年もの間に色あせてしまいました。しかし、イエス・キリストの事実は、時代を越え世界のいずれの場所でも、数限りない多くの人を救いに導き、人類をひとつに結び、新しいいのちによみがえらせました。この御名によって洗礼を受けた人の数は測り知れません。

  その偉大な救いの事実が、「この宝」であります。しかし、普通なら宝物は頑丈な鉄や石の器に隠され、保存されているのに、何とこの宝は、土の器にもられています。事実ひとり子は、王の家ではなく、貧しい庶民の片隅の馬小屋に生まれたのです。この救いの宝は実に、その当時めだたないベツレヘムの村に生まれ、ナザレの寒村に育ったのです。だれが一体このような所に全世界をゆるがす出来事を予想したでしょうか。そのようにこの全世界をゆるがす偉大な宝は、土の器に起こったのです。パウロは「キリストの顔にある輝き」と申しました。するとパウロの反対者たちは言います。「何だ、栄光に輝くと言いながら、実際のパウロは各地を回り歩きしばしば困窮し、貧しく、弱り果てていたではないか」と。「きよめられた姿」が問題になると、そこには逆に「きよくない姿」が出て参ります。それでパウロは、この関係を次のように説明します。「私たちはこの尊い宝(キリストによってきよめられた栄光)」を、「きよくない姿(土の器)」の下にもっていると。つまりそれは中身と器との関係です。聖化とは、とは土の器(きよくない人間)が急に一点のくもりもないきよらかな人間に変わるというのではありません。聖化とは、土の器は依然として土の器でありながら、その中に入ってくるものが変わるのです。それまでは器の中に泥水ばかりはいっていたものが、今はその土の器に宝石が入っているという違いです。つまり罪深い人間は変わりないが、その中に主キリストが入るのです。そのように「私たちはこの尊い宝を土の器にもっています」「それはすぐれて大きな力が、神のものであって、私たちから出たものでないことが明かになるためです」。それは決して私たちの道徳的向上ではありません。その源は神にあります。ここでパウロは言います、「あなたの力、それはもう十分見ました。もっと大きな力が見たいのです」と。神から出る力は「すぐれて大きい」のです。神はそのように大きな力が出てくるとは思えないような、弱い器をお用いになります。私たちに襲いかかってくる困難は、あらゆる方面からきます。しかし、「あらゆる困難にあっても、私たちは行き詰まりません。せんかた尽きても、望みを失いません。・・・たえずイエスの死をこの身にまとっています。それはイエスのいのちが、私たちのからだに現れるためにほかなりません」。苦しい時は、まるで四方八方から困難が襲いかかってくるようです。しかし、安心しなさい。よく見ると、神は一方を明けておられます。また内的困難もあります。「せんかた尽きても、望みを失いません」。私たちは内的にせんかた尽きることもあります。しかし、望みはイエス・キリストから来ます。ここでは「信じれば、一切困難や艱難は来ない」と言っているのではありません。むしろパウロという人は、人一倍艱難に会いました。

  「私たちがアジアで受けた艱難を知らずにいてもらいたくありません。私たちは極度に自分の力の及ばないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。いやそれどころか、自分自身死を覚悟しました。そこで自分自身を頼みとせず、ただ死人をよみがえらせる生ける神を頼みとしました。実に神は、これほどの死の危険から、私たちを救い出してくださいました」(Ⅱコリント1:8-9)。神は八方塞がりにはしません。必ず一方を明けておられます。それは天からの道です。祈り神により頼む者は、この一筋の細い道を必ず見いだすでしょう。ある教育者が言いました、「登校拒否する子供の親御さんには二通りある。一人は、『あなたはこのことの本質をじっと見つめ、自分に死にきって、お子さんの言うことに耳を傾けなさい。原因はあなた自身にあるのですよ』と言われると、自分の忘れていた虚を突かれた思いで反省し、問題を解決します。しかし、もう一人は、自分に原因があるとは決して思わず、自分は正しいと思い続ける人です。このあとの人は、問題の解決にいたりません」。「人その友のために命を捨てる、これより大いなる愛はない」(ヨハネ15:13)。

  「身を捨ててこそ浮かぶ瀬はあれ」。問題は相手の変化ではなく、あなた自身の変化でした。あなた自身が変わるその時、まわりも変わります。あなた自身が変わらないかぎり、まわりは決して変わりません。昔「無」を発見したのはインド人でした。そのインドで初めて数学上の「ゼロ」(零)が発見されました。もし「ゼロ」がなければ、数学はほとんど前進しなかったでしょう。この「ゼロ」の発見は偉大なことでした。私たちも自分の「無」に到着する、その時、大きな前進と変化を来たらすでしょう。「死ぬことなくば、生きることなからん」。
   


Copyright(c)2014 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.