9月28日(日)「霊なる主」説教要旨

           聖句
旧約
 「その後、イスラエルの人々がみな近よったので、モーセは主がシナイ山で彼に語られたことを、ことごとく彼らにさとした。モーセは彼らと語り終えた時、顔おおいを顔に当てた。しかしモーセは主の前に行って主と語る時は、出るまで顔おおいを取り除いていた。そして出て来ると、その命じられた事をイスラエルの人々に告げた。イスラエルの人々はモーセの顔を見ると、モーセの顔の皮が光を放っていた。モーセは行って主と語るまで、また顔おおいを顔に当てた。」   (出エジプト34:32-35)

新約
 「こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」   (Ⅱコリント3:12-18)

  「こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り」と言っています。パウロはここでまず、「望み」と語っています。まずすべての先に「望み」があります。ただパウロがここで言う「望み」は、自分の主観的「確信、信念」ではありません。新約聖書では、「望み」という時、それは個人的、主観的な願望とは違います。もっと客観的で実態のある生きた希望の実態を示しています。したがって、次に来る「大胆さ」も、単に自分の勇敢な、また勇気のある性質ではなく、もっと客観的な希望の実態であるイエス・キリストからくる、自由に開かれた姿にほかなりません。私たちは敵を攻撃するような時にも、「大胆」という言葉を使いますが、しかし、また全く望みのもてない絶望的状態で、勇気をもってある事をする場合にも、「大胆」に事を行うと言います。したがって「大胆」とは、敵と戦う時の専用語ではなく、もっと広く信仰的な勇気の場合にも使うのです。ここではこの後者の場合です。

  後者の場合、つまり信仰的勇気の場合には、「大胆」は、別に敵に遭遇しなくても、戦いでなくても、全く望みのない絶望的状態にある際、信仰的勇気をだして、ある行動をとったり、結論を出したりする時、「大胆」に行動をすると言います。ここではパウロは、「こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、・・・そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」と言っています。パウロの大胆とは、望みなき状態の中で、主の御霊によって自由を得、さらに前進して行くことを指します。そうすると、これは私たちの普通の生活の中で、自由に用いることができます。私たちの生活には絶望的状態はつきものです。その時、大胆な行動に移ることができるには、「霊なる主の働き」が必要です。
 絶望的状態→ 霊なる主の働き→ 大胆な行動
こういうことになります。その大胆さは人間の気合を入れた自己的行動のことではありません。信仰からくる自由、そしてその自由からくる霊の働き、さらに大胆な行動となります。その大胆さは、自己の勇気ではなく、神から来る霊的力にほかなりません。この大胆さは、したがって勇気のない気の弱い人でも、子供でも、病人でもいただける神からの勇気、大胆さであります。したがってそれは個人的な主観的願いに基づく、気分的なものとは違います。そこには実態があります。神から来る生きた生活があります。

  私たちはプロテスタントは言葉の宗教といって、ふつう「神の言葉」を中心にします。しかし、神の言葉はしばしば人間の言葉を通して伝えられます。しかし、ここではそうではありません。イエスは単に教えを提供するだけではなく、御霊を送り出します。単に約束するだけでなく、豊かに与えます。そのようにして主は、しばしば私たちを、ご自身と同じ姿に変えて行きます。「主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」と言われている通りであります。

  今日、律法的信仰、知的信仰、観念的信仰が見られます。頭でっかちな信仰は、心におおいがかかっていませんか。多くの家庭で、あるいは子供の教育、経済の問題、病気や、学生の受験その他、それぞれの問題をかかえています。そこで信仰でやってゆけるかと悩むことがあります。確かにこれまでの信仰ではやってゆけなくなります。行き詰まり、狭くなり、自由がなくなります。「しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある」のであります。その自由は、いわゆる自由主義の「自由」ではありません。人間的自由とは違います。主の霊のあるところには自由があります。そこには真の自由があります。
   


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