8月31日(日)「苦難の中の手紙」説教要旨

           聖句
旧約
 「多くの日を経て、エジプトの王は死んだ。イスラエルの人々は、その苦役の務のゆえにうめき、また叫んだが、その苦役のゆえの叫びは神に届いた。神は彼らのうめきを聞き、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らをしろしめされた。」   (出エジプト2:23-25)

新約
 「そこでわたしは、あなたがたの所に再び悲しみをもって行くことはすまいと、決心したのである。もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませているその人以外に、だれがわたしを喜ばせてくれるのか。このような事を書いたのは、わたしが行く時、わたしを喜ばせてくれるはずの人々から、悲しい思いをさせられたくないためである。わたし自身の喜びはあなたがた全体の喜びであることを、あなたがたすべてについて確信しているからである。わたしは大きな患難と心の憂いの中から、多くの涙をもってあなたがたに書きおくった。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、あなたがたに対してあふれるばかりにいだいているわたしの愛を、知ってもらうためであった。
 しかし、もしだれかが人を悲しませたとすれば、それはわたしを悲しませたのではなく、控え目に言うが、ある程度、あなたがた一同を悲しませたのである。その人にとっては、多数の者から受けたあの処罰でもう十分なのだから。あなたがたはむしろ彼をゆるし、また慰めてやるべきである。そうしないと、その人はますます深い悲しみに沈むかもしれない。そこでわたしは、彼に対して愛を示すように、あなたがたに勧める。わたしが書きおくったのも、あなたがたがすべての事について従順であるかどうかを、ためすためにほかならなかった。もしあなたがたが、何かのことについて人をゆるすなら、わたしもまたゆるそう。そして、もしわたしが何かのことでゆるしたとすれば、それは、あなたがたのためにキリストのみまえでゆるしたのである。そうするのは、サタンに欺かれることのないためである。わたしたちは、彼の策略を知らないわけではない。 」   (Ⅱコリント2:1-11)

  パウロはコリントの教会が争乱でゴタゴタし、教会の中に派閥ができ、分争している状態を指摘し、それを改めるよう求めています。「その人にとっては、多数の者から受けたあの処罰で十分なのだから。あなたがたはむしろ彼をゆるし、また慰めてやるべきである。そうしないと、その人はますます深い悲しみに沈むかもしれない。そこでわたしは、彼に対して愛を示すように、あなたがたに勧める」。分争で必要なのは、「愛」であります。私たちの争いの中で、一番欠けているもの、それは「愛」にほかなりません。いやどんな場合でも多くの争いで欠けているのは「愛」ではないでしょうか。愛から出てくる態度は「ゆるし」です。イエス・キリストの福音の中心も「愛」である「ゆるし」でありました。私たちに問題が起こる場合、たいていの場合に欠けているのは愛にほかなりません。イエス・キリストの福音の中心も「愛」でした。

  イエス・キリストは律法学者が来て、「どの戒めが一番か」聞いた時、「神を愛する」ことと並んで、「自分を愛するように、隣人を愛する」ことをあげました。イエス・キリストの教えの中心は愛であり、また「愛する者たちよ、わたしたちは互いに愛しあおうではないか。愛は神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。愛さない者は神を知らない。神は愛である」(Ⅰヨハネ4:7-8)。すると私たちにとって、その日常生活の倫理、規範は、いろいろの細かい規則ではなく、ただ「愛」の一言につきるようです。たとい、そのほかのさまざまな正義や道徳がととのっていても、もし愛がなければ、それはむなしいことではないでしょうか。パウロはⅠコリント13章の愛の章の初めに、「たといわたしが、人々の言葉や御使の言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や鐃鉢と同じである」と言っています。またそれに続いて、「たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、また山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい」、さらに「たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。」こう述べています。第一は奥義と知識、第二は強い信仰、第三に全財産を施し、自分のからだまで渡しても、そこに愛がなければ、いっさいは無益であるというのです。これは非常に強い言葉で書かれています。あらゆる倫理、道徳、行為の根底に、利己心や計算づくや私心があったなら、そのいわゆる世間での善行は、何の意味もないと言うのです。愛を失った行為はすべて、むなしいと言うのです。

  そしてパウロは最後にサタンの悪巧みを持ち出して警告しています。サタンというのは、ただ悪い行為のためにいるのではなく、かえって善行の中にひそむ場合もままあるのです。よく「サタンは天使の様相をしてやって来る」と言います。人は外見から見て、天使と勘違いします。しかし、実際は悪魔であったという結果になることはあるのです。信仰者は注意しなくてはなりません。

  さて次に先ほど述べた「ゆるし」について語らないではいられません。愛は罪に出会った場合、しばしば「怒り」に変わります。「こんなに愛情をもって親切にしたのに、恩を仇で返すのか」と腹を立てることは、しばしばあります。俗に「可愛さあまって憎さ百倍」と言います。人はあまり愛していない赤の他人を憎むことは、あまりありません。愛情のあるところ、その熱烈な愛が裏切られた時、怒りは百倍するのです。それほど愛情、愛というものは、かえって正反対のものに変わることがあるのです。そこで大切なことは「ゆるし」であります。パウロは次のように言っています、「もしあなたがたが、何かのことについて人をゆるすなら、わたしもまたゆるそう。そして、もしわたしが何かのことでゆるしたとすれば、それは、あなたがたのためにキリストのみまえでゆるしたのである。そうするのは、サタンに欺かれることのないためである」。「ゆるし」と言うのは、イエス・キリストが十字架の上で、「父よ、彼らをゆるしてやってください、そのやっていることが分からないでいるのですから」と人びとの無知について祈られたように、私たちも、人の無知を責める前に、その人のために祈り、その人に対してゆるしをすることが重要になってくるのです。

  ただそこで注意しなくてはならないのは、「わたしが何かのことでゆるしたとすれば、それは、あなたがたのためにキリストのみまえでゆるしたのである」。このイエス・キリストの御前で、ということが大切なのです。「そうするのは、サタンに欺かれることのないためである」。「ゆるし」には危険が伴います。なぜなら「ゆるし」はいい加減と紙一重だからです。「まあいいよ、まあいいよ」と言ってゆるしてばかりいると、それはいつの間にか「いい加減、適当」ということになりかねません。そこには「神の義」がなくてはなりません。「キリストの御前で」ということは、この神の義が貫かれることを目指しています。しかもパウロは「あなたがたのために」と言っています。少しも相手のためにならない「ゆるし」があります。いやそれどころか、「自分のためでしかない」ような「ゆるし」もあります。そこには「キリストの御前」はありません。自分と相手しかいません。信仰者は「ゆるす」時、つねにそれは「キリストの御前」でなければなりません。商売と同じような「取引」でしかない「ゆるし」がしばしばあります。信仰者の行為はつねにキリストの御前で「神の義」が貫かれるものでなくてはなりません。
   


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