8月3日(日)「聖徒との関係」説教要旨

           聖句
旧約
 「人の心にある計りごとは深い井戸の水のようだ、しかし、さとき人はこれをくみ出す。自分は真実だという人は多い、しかし、だれが忠信な人に会うであろうか。」   (箴言20:5-6)

新約
 「聖徒たちへの献金については、わたしはガラテヤの諸教会に命じておいたが、あなたがたもそのとおりにしなさい。一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、わたしが着いた時になって初めて集めることのないようにしなさい。わたしが到着したら、あなたがたが選んだ人々に手紙をつけ、あなたがたの贈り物を持たせて、エルサレムに送り出すことにしよう。もしわたしも行く方がよければ、一緒に行くことになろう。わたしは、マケドニヤを通過してから、あなたがたのところに行くことになろう。マケドニヤは通過するだけだが、あなたがたの所では、たぶん滞在するようになり、あるいは冬を過ごすかも知れない。そうなれば、わたしがどこへ行くにしても、あなたがたに送ってもらえるだろう。わたしは今、あなたがたに旅のついでに会うことは好まない。もし主のお許しがあれば、しばらくあなたがたの所に滞在したいと望んでいる。しかし五旬節までは、エペソに滞在するつもりだ。というのは、有力な働きの門がわたしのために大きく開かれているし、また敵対する者も多いからである。
 もしテモテが着いたら、あなたがたの所で不安なしに過ごせるようにしてあげてほしい。彼はわたしと同様に、主のご用にあたっているのだから。だれも彼を軽んじてはいけない。そして、わたしの所に来るように、どうか彼を安らかに送り出してほしい。わたしは彼が兄弟たちと一緒に来るのを待っている。兄弟アポロについては、兄弟たちと一緒にあなたがたの所に行くように、たびたび勧めてみた。しかし彼には、今行く意志は、全くない。適当な機会があれば、行くだろう。
 目をさましていなさい。信仰に立ちなさい。男らしく、強くあってほしい。いっさいのことを、愛をもって行いなさい。
 兄弟たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたが知っているように、ステパナの家はアカヤの初穂であって、彼らは身をもって聖徒に奉仕してくれた。どうか、このような人々と、またすべて彼らと共に働き共に労する人々とに、従ってほしい。わたしは、ステパナとポルトナトとアカイコとがきてくれたのを喜んでいる。彼らはあなたがたの足りない所を満たし、わたしの心とあなたがたの心とを、安らかにしてくれた。こうした人々は、重んじなければならない。
 アジヤの諸教会から、あなたがたによろしく。アクラとプリスカとその家の教会から、主にあって心からよろしく。すべての兄弟たちから、よろしく。あなたがたも互に、きよい接吻をもってあいさつをかわしなさい。
 ここでパウロが、手ずからあいさつをしるす。もし主を愛さない者があれば、のろわれよ。マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。わたしの愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがた一同と共にあるように。」   (Ⅰコリント16:1-24)

  この箇所は、パウロの手紙の最後の部分です。それは単なる挨拶ですから、ちょっと見ると、「だれだれによろしく」と言ったような決まり文句の羅列のように思えるかも知れませんが、そうではありません。丁寧によく読むと、行間に滲み出てくる、パウロの手紙の受取人に対する深い愛情や細やかな配慮を感じる文章に出会い、本文のようなキリスト教信仰や教理の叙述以上に、パウロの個人的性格や信徒との交流の姿が描き出されて、そこに本文にはない、パウロの個人的性格が読み取れて、貴重な文献でもあります。

  これまで中心的に述べてきた「復活信仰」の叙述は、単に永遠の世界に逃避することではなく、かえって逆に、「復活信仰」は、「からだのよみがえり」ですから、この地上の生に忠実で、私たちのからだの問題と係わりあうのです。当時エルサレムの教会(ほとんどユダヤ人キリスト者からなる)は経済的に困難な状況にありました。おまけに全世界的飢饉がそれに加わります。このようなエルサレムの親教会の困窮に対して、まわりの異邦人教会は、兄弟愛の実践をいたしました。異邦人教会は、募金をして、そのお金を世界中をまわって伝道しているパウロに託しました。「聖徒たちへの献金については、わたしはガラテヤの諸教会に命じておいたが、あなたがたもそのとおりにしなさい。一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、わたしが着いた時になって初めて集めることのないようにしなさい」。このように募金について細かい配慮のゆきとどいた指示をしています。信仰は抽象的になってはいけません。からだの復活を信じるキリスト者は、からだを愛し、からだのことで配慮しなくてはなりません。しかもその募金の集め方のすみずみまで細かい配慮をしています。信仰は抽象的ではなく具体的です。1 募金は週の初め(すなわち日曜日)ごとに、集める。2 めいめいがその収入に応じて募金する。3 自分のところにとっておき、パウロが来たらすぐに出せるようにする。4 パウロが着いたら、手紙をつけてすぐにエルサレムの教会に送る。5 パウロもついて行く方がよければ、一緒に行く。6 しかし、パウロは自分が主体になることを極力警戒し、「わたしが到着したら、あなたがたが選んだ人々に手紙をつけ、あなたがたの贈り物を持たせて、エルサレムに送り出すことにしよう。もしわたしも行く方がよければ、一緒に行くことになろう」。こう言っています。何と配慮の行き届いたパウロのやり方でしょう。募金運動も具体的なことですが、それについてのパウロの配慮も行き届いており、具体的です。このように信仰とは具体的行為なのであります。しかもパウロは自分は退いて小さくなっています。とかく能力ある人は、自分が前に出て、主体になりがちです。しかし、パウロは自分は消え、奉仕の内容のみが前面にでるように細かく配慮しています。信仰は抽象的ではなく、このような細かい配慮を含んでいます。学ぶべきことであります。

  「わたしは今、あなたがたに旅のついでに会うことは好まない。もし主のお許しがあれば、しばらくあなたがたの所に滞在したいと望んでいる」。ここには具体的な問題についての、パウロの具体的配慮が滲み出ています。まず「旅のついでに」よることを好まないと明言します。私たちはとかく、「ついでにやる」ことを好みます。そのほうが便利で、簡単だからです。しかし、パウロは決してそのように便利簡単を教会との交わりの主要な原則とはしませんでした。また「主のお許しあれば」と、いつも自分の意志ではなく、主のみ旨を中心として生きています。これらの手紙の末尾の挨拶の中に、不思議な信仰者の配慮と愛の導きを感じるような言葉がちりばめられています。
   


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