7月20日(日)「肉の復活」説教要旨

           聖句
旧約
 「あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。人の子よ、あなたの民の人々に言え、義人の義は、彼が罪を犯す時には、彼を救わない。悪人の悪は、彼がその悪を離れる時、その悪のために倒れることはない。義人は彼が罪を犯す時、その義のために生きることはできない。わたしが義人に、彼は必ず生きると言っても、もし彼が自分の義をたのんで、罪を犯すなら、彼のすべての義は覚えられない。彼はみずから犯した罪のために死ぬ。また、わたしが悪人に『あなたは必ず死ぬ』と言っても、もし彼がその罪を離れ、公道と正義とを行うならば、すなわちその悪人が質物を返し、奪った物をもどし、命の定めに歩み、悪を行わないならば、彼は必ず生きる。決して死なない。彼の犯したすべての罪は彼に対して覚えられない。彼は公道と正義とを行ったのであるから、必ず生きる。」   (エゼキエル33:11-16)

新約
 「そうでないとすれば、死者のためにバプテスマを受ける人々は、なぜそれをするのだろうか。もし死者が全くよみがえらないとすれば、なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか。また、なんのために、わたしたちはいつも危険を冒しているのか。兄弟たちよ。わたしたちの主キリスト・イエスにあって、わたしがあなたがたにつき持っている誇にかけて言うが、わたしは日々死んでいるのである。もし、わたしが人間の考えによってエペソで獣と戦ったとすれば、それはなんの役に立つのか。もし死人がよみがえらないのなら、『わたしたちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ』。まちがってはいけない。『悪い交わりは、良いならわしをそこなう』。目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ。
 しかし、ある人は言うだろう。『どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか』。おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。すべての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。」   (Ⅰコリント15:29-41)

  「そうでないとすれば、死者のためにバプテスマを受ける人々は、なぜそれをするのだろうか。もし死者が全くよみがえらないとすれば、なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか。また、なんのために、わたしたちはいつも危険を冒しているのか。兄弟たちよ、わたしたちの主キリスト・イエスにあって、わたしがあなたがたにつき持っている誇にかけて言うが、わたしは日々死んでいるのである。もし、わたしが人間の考えによってエペソで獣と戦ったとすれば、それはなんの役に立つのか」。ここで「死者のためにバプテスマを受ける」とは、何をすることでしょうか。確かにパウロ後の時代に、異教的傾向のある者の中には、死者に代わって、それこそ死者の供養のためにバプテスマを受ける者はありました。しかし、まさかそのような異教的習慣を、ほかでもなくパウロ自身が、ここで例としてあげることはありえません。むしろ、死んだキリスト者の友人が、自分の洗礼を望んでいたことを思い、悔い改めて自ら洗礼を受けると考えた方がよいでしょう。一体私たちの信仰において、死者のためにする行為はむなしいのでしょうか。決してそうではありません。 ローマ書には、「キリストは死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである」(ローマ14:9)とあります。よみがえりの主は、生者だけではなく、徳に死んだ者の主となられるために、死んでよみがえられたのであります。とかく日本では過ぎ去ったことを、「それはもう過ぎ去ったのだから」とか、「水に流そう」とか言います。しかし、死んだ者の生き返る復活信仰においては、そうではありません。死者は忘れられたのではありません。「死人に口なし」ではありません。「死人に口がある」のが復活信仰であります。アウシュヴィッツ、ヒロシマの死者は、今なお叫んでいるのではないでしょうか。キリストの復活があるゆえに、死人は大切にされなくてはならないのです。もし私たちが死者を忘れるとしたら、それは現在ある自分を否定することになります。なぜなら、私たちは、すでに死んだ人びとのおかげで今日あるのですから。キリストの復活は、すでに死んだ人びと、無残に殺された人びと、殉教者、しいたげられて死んだ人びとのためにも生があることを証しているのです。これら不幸な死者のためにこそ、キリストは死んで、葬られ、三日目によみがえられたのです。

  また過去だけではありません。キリストの復活は、私たちの将来に目を向けさせます。どんな不幸な生涯にも、希望があることを、十字架で死なれ、三日目によみがえられた復活の主は示しているのです。「あなたにも希望がある」と。「私たちは飲み食いしようではないか。明日死ぬのだから」ということは、どうせ死ぬなら、一切は虚無にすぎないという、ニヒリズムです。しかし、キリストの復活は、このようなニヒリズムの克服であります。死にすら希望があることを表しているからです。死を乗り越えての希望、これをキリストの復活は明かにしています。
   


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