7月6日(日)「福音の伝承」説教要旨

           聖句
旧約
 「彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。」   (イザヤ53:9-12)

新約
 「兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受け入れ、それによって立ってきたあの福音を、思い起こしてもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生まれたようなわたしにも、現れたのである。実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜った神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、そのように、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、あなたがたは信じたのである。」   (Ⅰコリント15:1-11)

  パウロは「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと」というように、イエス・キリストの十字架と復活を記すにあたって、十字架と復活の間に、私たちがふだんあまり気にしないで忘れている「葬られたこと」を記しています。福音書にもアリマタヤのヨセフがイエスの死体を引き取りにきて、葬ったことが記されています(マタイ27:57以下)。私たちはふつう「死んだなら、葬るのは当然だ、わざわざ書き記すにもおよばない」と思うでしょう。 しかし、聖書では必ずこの「葬り」のことがでてきます。しかも引き取りに来て、葬るその人の名前まで、アリマタヤのヨセフと記しています。確かに葬る人がいて、丁重に葬ったことがうかがえます。というのは、それほど、聖書の記者にとって、このイエスの死体を葬ることが大切なことだったのです。私たちは死んだなら葬るのは当たり前で、わざわざ書き記すこともないと考えるかも知れません。しかし、聖書の記者にとって、この葬りは大事な出来事だったのです。使徒信条にも「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」と、葬りのことが記されています。この「葬られた」は、次の復活に続く、大切なことばなのです。葬りを強調したのは、イエスは確かに死んだので決して仮死なのではないことを明かにするためです。当時、復活を否定する不信仰者がいて、あれは仮死だったのだ、こういう主張をする者に対して、イエスの死は確かな完全な死であって、そこから復活したのは、全く神のなさったことで、それは真の奇跡であったことを明かにするのであります。

  そしてこの「葬り」は、また「無」を表します。ふつう仏教では「無」が言われても、キリスト教では、あまり「無」は言わないのではないかと考えます。しかし、そうではありません。ピリピ書に「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで従順でした」(2:7-9)とあります。イエス・キリストはまさに「無」にまでさがってゆき、そこで死なれたのです。

  するとキリストの復活とは、無にまでちぢんでゆかれたイエスが、その無、すなわち「空の墓」を無にして(まさに「無」を無にして)よみがえったのです。すなわちキリストのよみがえりとは、無の無、死の死、マイナスのマイナス、すなわち本当の生きたプラスとなられたのです。つまり復活とは無を無にして真の生としたこと、マイナスをマイナスとかけて、真のプラスとしたことなのです。つまり「虚無」を乗り越えて復活の勝利につながったのです。したがって、この「葬られ」という言葉は、「無」を表す意味で大変大切な言葉にほかなりません。

  そこで復活にまいりましょう。復活というと、あれは弟子たちが、イエスのことを思い続けていたために、イエスの幻想を描いたのだという人がいます。しかし、幻想は長く続きません、すぐ消えてしまいます。したがってそのようなものでありません。それどころか聖書には、キリスト復活の教会的伝承が客観的に描かれています。

  「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生まれたようなわたしにも、現れたのである」。決してパウロは自分の主観を書いていません。その証拠に、自分のダマスコ途上の出来事はきわめて消極的に描いています。パウロにとって聖書の伝承の方が大切です。まず「聖書に書いてあるとおり」という言葉が、二度繰り返されています。そしえ「三日目によみがえったこと」、1.「ケパに現れ」、2.次いで「十二弟子に現れたこと」、3.さらに「五百人に現れたこと」、4.その後「ヤコブ(主の兄弟)に現れたこと」、5.「すべての弟子たちに現れたこと」、この五段階をへています。 

  そのように丁寧に教会の伝承を記して、その客観的根拠を示したのです。私たちは「復活」というと何を考えますか、おそらくまず第一には、「イエス・キリストの三日目の復活(墓をからにしてのよみがえり)」が考えられます。しかし、それだけではありません。その「復活の現れ」が次々と記されています。出来事として現れた復活です。そしてさらに、今日の私たちのその記事を読んでの信仰的復活の出来事です。それは私たちの「復活経験」とも言えましょう。このように復活は、1.イエス・キリストの三日目の復活の出来事、2.弟子たち、婦人たち、その他、3.そして最後にパウロへのダマスコ途上での現れ、4.世々の教会の復活の伝承、5.そして今日の私たちの復活経験です。復活の出来事は、このように五段階をへて、私たちのものとなります。
   


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