5月4日(日)「からだは一つ」説教要旨

           聖句
旧約
 「わたしは常に主をほめまつる、そのさんびはわたしの口に絶えない。わが魂は主によって誇る。苦しむ者はこれを聞いて喜ぶであろう。わたしと共に主をあがめよ、われらは共にみ名をほめたたえよう。わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、すべての恐れからわたしを助け出された。主を仰ぎ見て、光を得よ。そうすれば、あなたがたは、恥じて顔を赤くすることはない。この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された。主の使は主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助けられる。」   (詩編34:1-7)

新約
 「からだは一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。目は手にむかって、『おまえはいらない』とは言えず、また頭は足にむかって、『おまえはいらない』とも言えない。そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。」   (Ⅰコリント12:12-25)

  「からだは一つであっても肢体は多くあり」とあるように、教会には「一つ」の面と「多く」の面とがあります。もしこの二つがなければ、それはこの地上に存在するものではないでしょう。それは現実に存在するキリストの教会の姿を表しています。教会というからだは一つ、教派の中でまとまって一つだけではなく、全教派まとまってエキュメニカルに一つとも考えられます。たとえ教派は違っても、イエス・キリストのからだなる教会という意味では、全体が一つであります。しかし、個々の教会の存在もまた決して否定されません。聖書においても、ガラテヤの教会、コリントの教会、エペソの教会など、個々の教会が存在します。では個々の教会は全体教会の部分でしょうか、あるいは派出所か支店のようなものでしょうか。決してそうではありません。個々の教会がそれだけで存立している独立の教会であります。しかし、同時に、全体教会もまた教会であります。

  一つ一つが独立したイエス・キリストの教会であると共に、また全体教会も一個の教会であります。「からだは一つであっても肢体は多くあり」ということは、全体が一つ教会であると共に、個々の教会も一つ一つ独立した教会であるという意味です。「からだは一つである」から、全体教会が一つのまとまった教会です。しかし、その個々の成員である一個教会は、またそれぞれ一つの独立した教会であります。この点、この世の諸団体とは、全く違います。そのことは、次のことに表れています。人間は個々人がそれぞれ独立した人間です。しかし、全人類もそれは人間に違いありません。個々の物質と違って、有機体はすべて、個と全体が、それぞれ有機的につながっています。この有機的つながりが、すなわち個々の教会が独立した教会であると共に、全体教会がまた同時に独立した教会であるという、一見矛盾した表現になるのです。たとえば個々の人間が独立した一個の完全な人間でありますが、同時に全人類もまた完全な人間であります。生きた有機体は、このように全体と個々のものが、生きたつながりをもっています。しかし、教会は不思議で、どんな弱い枝に対しても、「おまえはいらない」とは言えません。からだでたとえれば、足の裏は汚い、それは地面に直接触れる場所です。けれどもからだのそのほかきれいな部分、たとえば目とか耳が。足の裏は汚いからいらないとは言えません。その汚い足の裏が地面にふれていなければ、人は歩行することができません。したがってどの部分でも他の部分に対して、「おまえはいらない」とは決して言えません。世の中には、汚い仕事をする人も必要どころか不可欠です。かけることのできない大切なものです。からだは全体と個との関係で、互いに有機的につながっています。だれひとつ、どこの箇所も、いらないというものは一つもありません。

  キリスト教会の成員もそうです。一人としていらない人はありません。いやそれどころか、どの人も教会にとって重要な一員です。教会員はお互いに、「あなたはかけがいののない人です」と言わなくていい人はありません。これはこう訳すことができます。「わたしたちはからだのうち最もいやしいと思われるところ、このものになおまされる尊さをまとわせます。こうしてわたしたちのみにくいところには、なおまさった美しさがあります」。弱さのなかの美しさとは、十字架のキリストの愛の姿ではないでしょうか。十字架は愛の調和なのです。ですから、「もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、もし一つの肢体が貴ばれるとほかの肢体もみな共に喜ぶ」というようになるのです。教会の役職は、すべて聖霊の賜物です。どれが尊く、どれが卑しいということは一切ありません。たの悩みが伝わらないような組織は病んでいます。やたらに会議や委員会にあけくれる組織もどうかしています。大切なのは聖霊と愛です。
   


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