4月27日(日)「霊の賜物」説教要旨

           聖句
旧約
 「主よ、栄光をわれらにではなく、われらにではなく、あなたのいつくしみと、まこととのゆえに、ただ、み名にのみ帰してください。なにゆえ、もろもろの国民は言うのでしょう。『彼らの神はどこにいるのか』と。われらの神は天にいらせられる。神はみこころにかなうすべての事を行われる。彼らの偶像はしろがねと、こがねで、人の手のわざである。それは口があっても語ることができない。目があっても見ることができない。耳があっても聞くことができない。鼻があってもかぐことができない。手があっても取ることができない。足があっても歩くことができない。また、のどから声を出すこともできない。これを造る者と、これに信頼する者とはみな、これと等しい者になる。イスラエルよ、主に信頼せよ。主は彼らの助け、また彼らの盾である。」   (詩編115:1-9)

新約
 「兄弟たちよ。霊の賜物については、次のことを知らずにいてもらいたくない。あなたがたがまだ異邦人であった時、誘われるまま、物の言えない偶像のところに引かれていったことは、あなたがたの承知しているとおりである。そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも『イエスはのろわれよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことはできない。霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。務は種々あるが、主は同じである。働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。各自が御霊の現れを賜っているのは、全体の益になるためである。すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊の思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。」  (Ⅰコリント12:1-11)

  今日は「霊」つまり「聖霊」について語ります。ただし6月8日(日)がペンテコステ(聖霊降臨日)ですから、その日が「聖霊」について主として語る日です。けれどもペンテコステには、聖霊そのもの、三位一体の神の父・子・聖霊の「聖霊」について語ります。今ここでは、「聖霊」そのものでなく、「聖霊の賜物」について語ります。たとえば教会において、長老とか執事とかいろいろ役職がありますが、それにつくことも、聖霊の賜物によるのです。しかし、こう言うかも知れません。牧師さんの場合なら、一人一人が神の召しを受けて、神学校にゆくのですから、召命があると言えるかもしれないが、長老や執事の場合、だれも自分でなりたくてなるのでなく、教会の総会の選挙で選ばれるのだからと言うかも知れません。しかし、その選挙の中に神の召しがあると見ることはできないでしょうか。そして選挙は私たちに自分の召しを自覚させるものです。

  そこで今日の聖書の御言葉にもどりましょう。第一に「霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである」。同じようなことが、「務は種々あるが、主は同じである」。「働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである」。ならべて見ると
   種々ある  同じ
 1 霊の賜物  御霊
 2 務め    主
 3 働き    神
私たちは御霊なる神、主からいろいろな賜物をいただいている。その賜物とは
 1 知恵の言葉  2 知識の言葉  3 信仰  4 いやしの賜物  5 力ある業  6 預言  7 霊を見分ける力  8 種々の異言  9 異言を解く力
となっています。

  しかし、「霊の賜物」は、自分の能力や財産ではありません。あくまでも「賜物」で、「賜わるもの」です、神からいただくものです。とすれば、それは与える神がいるはずです。そこでは問題は私自身の力や能力ではありません。ですから他人や隣人と比較して、どちらが偉いとか、どちらが多いといっていばったり、卑下したりする種類のものではありません。与え主である神が第一であり、中心です。

  「各自が御霊の現れを賜っているのは、全体の益になるためである」とあります。つまり自分が誇るためや、自分の益のためにあるのではありません。そこで与え主である神のみがたたえられるべきです。また全体の益が考えられねばなりません。こうして初めて、各自に与えられた賜物は生かされ、生きるのです。自分だけにという賜物は、もはや「賜物」ではありません。それはただの物質であって、自分の利益のための道具です。

  近ごろよく「カリスマ美容師」などと言って、特別な才能のある人を「カリスマ」と呼びます。これは本来聖書的ギリシア語で「カリス」は「恵み」で、「カリスマ」は「恵みによって与えられたもの」を意味します。本来人間のもつ能力のことでなく、「賜物」のことを意味しています。もし私たちが信仰をもって、すべての能力、才能を自分の特技や有能さではなく、「神から賜ったもの」と理解しているなら、自分を誇ることなどできないでしょう。すべては神からそして神へです。神の栄光のためにあるものが、「カリスマ」にほかなりません。
   


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